第3話 彼女はタイピング速度を上げたい。

「矢野くん。私、最近よく夢を見るの」

「すごい。俺は残業のせいで疲れすぎて気づいたら朝だよ。ちなみにどんな夢?」

「定時で退社する夢よ」

「…………」


 どこか遠くを見つめる千野さんに俺は優しく微笑み返してから、パソコンに向き直る。今日は彼女の夢の話に付き合っている暇はない。珍しく二十一時半に退社した高木部長に押し付けられた雑務を終わらせなければ。


「その夢を叶えるためにはどうしたらいいのかなって、ずっと考えてたの」


 ひたすらデータを入力していく俺の横で、千野さんがそうつぶやく。


「絶対他のこと考えた方がいいと思うよ千野さん」

「それでね。私、気づいたの」

 

 千野さんもようやく気づいたか。そう、この負の連鎖を断ち切り、その夢を叶えるためには転しょ――。


「圧倒的なタイピング速度があれば、仕事の効率は爆発的に上がる」

「なっ……」


 何を言っているんだ千野さん、と言いかけてなんとか飲み込む。二度言うが、何を言っているんだ千野さん。悪いものでも食べたのだろうか。


「矢野くん。タイピングはよ」

「タイピングはタイピングだよ千野さん」

「速度は重さ、つまりパワー。一分間に百文字を打てるタイピニストと、一分間に五十文字も打てないタイピー。年間で見るとどれだけ差が出ると思う?」


 どこかで聞いたことのある言い回しだ。

 そしてタイピング初心者ってタイピーって呼ぶのか。初耳である。もちろん計算するのは面倒なのでとりあえず頷いておく。


「こういう小さなロスの積み重ねが、私たちの定時退社を阻んでるのよ」

「阻んでるのは高木部長だよ千野さん……」

「とにかく。私はタイピング速度を上げて定時退社するわ。そこでこれ」


 千野さんはキーボードを叩き、出てきたパソコンの画面を俺に見せる。あの誰もが慣れ親しんだ、みんなが好きな食べ物をひたすらタイピングしていく例のやつが表示されていた。

 絶対あとでシステム課から怒られるんだろうな千野さん……。


「これを極めれば、私もタイピニスト。矢野くん、私に付いてこれるかな?」

「いや、俺は……」

「いい? 矢野くん。メールも報告書も日報もプレゼン資料も、全ての基本はタイピング。基本を疎かにした人間はいつまで経っても定時で帰れないの」

「…………」


 こうなると千野さんは頑固だ。

 まあ定時に帰れない精神的ダメージを彼女がこれで紛らわせられるのなら良いのか。


「分かったよ。一緒に練習しよう。仕事中はさすがに無理だから、家でやろう。あとは週末とか」


 千野さんの顔にぱああっと喜びが満ちる。嬉しそうだ。ただタイピング練習するだけなのに。


「約束だからね? スコア、勝負だから!」

「うん」



 ――そして三週間後。


 カチャカチャカチャカチャ!!

 チャッチャッチャ! チャチャチャ!

 ッターン!!

 

 隣の席の千野さんのタイピング速度は驚異的な伸びを見せた。きっと彼女には才能があったのだろう。タイピングはパワー。速度は重さ、つまりパワー?

 彼女の言う通り、増していく速度と共に千野さんのタイピング音は威力を増していく。


 カチャカチャカチャカチャカチャカチャ!!

 

 俺は高木部長の方を見る。

 とんでもない顔で千野さんを睨んでいた。

 ここ数日我慢していたらしいが、潮時か。

 仕方ない。千野さん一人が怒られるのは可哀想だ。俺は千野さんに負けないようにわざとらしくタイピングを繰り出す。


 ガチャガチャガチャガチャ!

 チャッチャッチャ! チャチャチャ!

 ッタッタターン!!

 

 俺と千野さんのエンターキーの音がハーモニーを奏でると同時。高木部長が席を立つ。


「――おい千野ぉ!! あと矢野ぉ!! この野原の雑草コンビが!! てめぇらカチャカチャカチャカチャうるっせえんだよ! ちょっと来い!」


 まだまだ定時退社は遠そうだ。

 驚いた猫みたいに席から飛び上がった千野さんに続いて、俺はゆっくりと席を立った。

 




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千野さんは定時で帰りたい アジのフライ @northnorthsouth

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