第2話 彼女は付いてきて欲しくない。
「矢野くん」
上司にあたる高木部長がようやく退社した二十三時のフロアで、千野さんは神妙な面持ちで俺の名を呼んだ。
「千野さん。また定時で帰ろうとか言い出すんじゃ」
「違うの。それはしばらく寝かせてるから」
「そんな、定時をぬか漬けみたいに」
「ふっ。そうよ。私たちの定時はもう微生物によって分解されて消え去ったの」
意味がわからないが適当に褒めておく。
「うまいね。ぬか漬けだけに」
「えへへ、そう? 嬉し――じゃなくて」
照れくさそうな表情をすぐに引っ込めた千野さんは、ずいと俺の方に椅子を寄せる。
「来週、高木部長と同行なの」
俺たち二人しかフロアにはいないのに、なぜひそひそ声なんだろう。
「ああ、言われてたね」
「げへへ、若い女性社員と一日同行だせいぜい楽しませてもらうぜ」
「そんなこと言われたの?」
「高木の心の声よ」
「似てるなあ」
適当に相槌を打つ。もはや高木部長を呼び捨てなことについては何も言うまい。
俺たちの仕事柄、上司同行というのは避けては通れない。ピンポイントでアポイントを取って同行ということもあるが、終日同じ車で客先を回ることもある。嫌いな上司と二人で同じ車で一日中だ。まさに苦行に他ならない。
「矢野くん。なにかいい方法はないかな」
「いい方法というと?」
「同行を無くす方法よ」
「思った以上に大胆だね千野さん」
うまく乗り切る話術とか、ぐちぐち言われない方法とかかと思ったが。
定時の時と同じで千野さんは見た目に反して思い切りの良いところがある。うまくはいってないにせよ。
「そうだな。体調を崩すとか?」
「高木が? あのゴリラが体調を崩すとは思えないけど」
「いや千野さんがだよ」
「でも、氷風呂とか絶対寒いもん」
「体調の崩し方の発想が小学生」
「もう。本気で考えてよ」
千野さんは手のひらに顎を乗せてこちらを睨む。
「千野さん。俺は本当に体調を崩せとは言ってないよ」
千野さんは一瞬怪訝そうな表情を浮かべたかと思うと、何かに気づいたように目を見開く。表情が豊かなところは彼女のいいところだと思う。
「…………まさか、矢野くん」
俺は頷く。これしかないだろう。
「でも私、無遅刻無欠席だし」
「小学生か」
「私じゃなくて、どうにか高木の体調を崩させる方法があるといいんだけどなぁ……」
他人の体調を意図的に崩すのは罪に問われないのだろうか。共犯にされたらどうしよう。
などと思いつつ、俺はまた適当に口を開く。
「腐ったものを食べさせる、とか?」
その言葉にピンと来たのか、千野さんは手をぽんとたたく。
「腐ったもの。つまり、ぬか漬け! 作戦はこう。私は手作りの腐ったぬか漬けを高木にお裾分けするの。それを食べた高木は」
「ぬか漬けは発酵だよ千野さん。というかぬか漬けから離れよう」
そもそもぬか漬けをお裾分けする女子社員がどこにいるのだろう。どうしよう、居たら好きになってしまいそうだ。
「でも他に腐ったものなんて」
「腐ったものからも離れよう。そうだな……」
俺は少し考える。千野さんのためになって、かつ実行可能で有効な策。
「……千野さん。これは逆にチャンスかもしれない」
「?」
首を傾げる千野さん。俺は続ける。
「寝かしておいた定時退社。これをここで達成させるんだ。作戦はこう。今回の高木部長との同行、ここで千野さんの成長を見せる。きっと部長は千野さんの成長した姿に感銘を受け、上機嫌のまま帰社するはずだよ。そして、その流れのまま千野さんは定時退社。ご機嫌な部長はこう言うはずさ。『おう。お疲れ!』とね」
千野さんは何も言わずにこちらを見つめている。最後のひと推しだ。
「同行を無くすんじゃなく、同行と引き換えに定時退社を掴み取るんだよ。千野さん」
ふっ、と千野さんは小さく笑った。
「矢野くん。それ、いただき」
――同行当日。十九時過ぎ。
「戻りましたぁ……」
高木のやかましい声に続き、覇気のない千野さんの声。俺は頭を抱えてキーボードを見つめる。まさか、帰社の時点で定時越えとは。
一本、取られたな。
とぼとぼと俺の隣の席に着く千野さん。
おそるおそる目を向ける。
うそつき。
声には出さなくとも、その視線だけで俺は彼女が言いたいことを理解した。
週末。俺は千野さんを飲みに誘った。
美味しそうにお酒を飲みながらぶつぶつ愚痴を言う千野さんは、なぜか楽しそうだった。
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