千野さんは定時で帰りたい
アジのフライ
第1話 彼女は定時で帰りたい。
「んじゃ、先帰るわ」
「「お疲れ様でした〜」」
「おう。二人とも早く帰れよ」
二十三時を少し過ぎた頃。
俺の直属の上司に当たる部長の高木がようやく退社した。早くとは一体なんなのだろう。あいつの一日は五十八時間くらいあるのだろうか。俺が真顔でそんなことを思いつつ隣を見やると、愛嬌たっぷりの
千野さんと俺は同期だ。
入社してまだ二年目のペーペーの俺たち二人だけがフロアには残っている。
扉が締まり、足音が聞こえなくなって。
――代わりに、隣の席の彼女の舌打ちが聞こえた。
先程までの愛嬌いっぱいの笑顔はそこにはない。
今日も始まる。
スーパー愚痴愚痴タイムだ。
「……矢野くん。今何時? ねえ。何時?」
「二十三時七分だね」
「ちっ。はぁ。ふざけんなよ! なんであいつ帰らないの? まだ小さい子供さんいるんだよね? 早く帰って遊んであげるとか、家事手伝うとかあるんじゃない? ちっ」
「すごい。舌打ちのサンドイッチだ」
「舌打ちのサンドイッチだじゃなくて。思わない?」
「それは、俺もそう思うよ」
「絶対あれだよ。子供の面倒見るのが嫌だから残ってるんだよ」
「最低だ」
「ねえ見た? あいつの十九時からの行動。新聞を読み、ネットニュースを見て、戯れにいくらかのタイピング。いや仕事手伝えよ。もしくは帰れよ。早く帰れやてめえはと思うの私は」
「時間潰してる感はあったね」
「上が帰らないと下が帰れない。そんなことは無いと思ってる時代が私にもあったわ。だって勝手に帰ればいいんだからと」
「俺こないだお先に失礼しますって部長に言ったら、『全員に手伝えること無いか聞いて回ったんか!? お!?』って怒鳴られたよ」
「見た。矢野くんが全員に聞いて回ってたのも見た」
「最後に部長から仕事押し付けられて、確かあの日は終電だったな……」
「あれ見て帰れる? 私は帰れない」
「もう面倒だからあいつが帰るの待とうってなるんだよ」
「矢野くん。その思考がダメなの。うう、染まってる。染まってしまってるのよ私たち。くそ、アホ木だかボケ木だか知らないけどさ」
「悪口が小学生と同レベル」
「腹立つ。……腹立つ、からさ」
「うん」
「私、明日定時で帰ってやろうと思うの」
俺は思わず席を立つ。
「まさか! そんな無謀な!」
先輩方ですら帰れていないのに、そんなことが可能なのか!?
そもそもこの千野さんはというと、めちゃめちゃ愚痴は言うが上司に刃向かえるようなタイプでは無い。いつもにこにこと愛嬌たっぷりの偽物の笑顔で高木部長の攻撃に耐えているのだ。そんな千野さんが定時で帰ると言い出したら、高木部長はどんな顔をするのだろう。
いや、もしかすると千野さんなら――。
「仕事は緩急よ。やるべきところはきっちりやり、抜くべきところは抜く」
「入社以来まだ抜いてないよね」
「……矢野くん? なんかいやらしい言い方に聞こえるんだけど、それ」
「千野さんの頭がおかしいんだよきっと」
「矢野くん。今日もこの時間。残業代は?」
「出ません」
「定時よ。私は定時を勝ち取るわ」
千野さんは決意に満ち満ちた目でこぶしを握る。
「これからの世代のために、私が道を作る」
「……成功したら酒奢るよ」
「言ったわね。見てて頂戴」
――翌日。
「んじゃ、先帰るわ」
「「お疲れさまでした〜」」
「おう。早く帰れよ」
遠ざかる高木部長の足音。
「………………」
「…………あの」
「なに? 帰れなかった私を笑うの?」
俯いたままの千野さん。
そのまま視線を上げる。時刻は二十二時四十分。千野さんの定時退社は失敗。仕事の粗をぐちぐち突かれるとともに、『皆に手伝うことないか聞いて回れや!』と部長に怒鳴られた千野さんはぐるぐると皆の席を周り、あろうことか俺にまで悲しそうに聞いてきた。いや俺には聞かなくても良いだろう。
「週末、酒でも奢るよ」
「…………負けてない」
「う、うん」
「私は負けてないから」
きっ、とこちらを見つめる千野さん。
涙目なのか、その大きな瞳は無機質な会社のライトに照らされてきらきらと輝いていて。
「割り勘で、飲みに行きましょう」
そして週末。
俺は千野さんと二人で飲みにいった。
盛り上がった。楽しかった。
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