エピローグ

 木漏れ日落ちる中庭に涼やかな初夏の風が吹き抜けてゆく。中央の噴水が太陽を反射して小さな虹を作る。

 諒子は膝から落ちそうになったブランケットをゆっくりと引き上げる。

「ずいぶん手が動くようになりましたね、鳴瀬さん」

「リハビリのおかげです」

 車椅子に座る諒子は背後を振り返り、ぎこちなく微笑む。


 諒子が自宅マンションで襲撃され、市民病院に運ばれて一ヶ月が経った。入院して一週間後に意識が回復したが、軽度の半身麻痺と記憶障害が残った。

 基本的な生活動作はできるものの、過去の記憶がすっぽりと抜け落ちていた。

 リハビリで少しずつ歩けるようになり、感情も出せるようになってきたが、記憶は今も戻らぬままだ。


 諒子は夫と息子がいたことを知らされて、会いたいと願った。五歳になる息子の京平の顔を見ても頭の中に霧がかかったように思い出せない。京平はそれでも諒子を慕っており、諒子はこの子を育てる決意をした。


 夫の史郎は行方不明だと聞いた。史郎の写真を見てもやはり思い出すことができない。影のある真面目そうな男性だ。その憂いある面影を見つめると何故か胸が微かに痛んだ。

 史郎は諒子の名前で当面の生活に困らないほどの貯金を残してくれていた。きっと家族思いの優しい夫だったに違いない、と思う。


 献身的にリハビリをしてくれた理学療法士の西山徹は、回復に意欲を見せる諒子に想いを寄せていた。

 諒子も西山の気持ちを知り、嬉しく思った。

「少し時間をください」

「もちろんです。諒子さんの気持ちが固まるまで待ちます」

 諒子にはまだ気持ちの整理が必要だ。西山はそれが理解できる誠実で思いやりのある男性だった。

 ときどき見舞いにくる京平も西山に懐き始めていた。

 

 手塚は実家から一冊の絵本を取り寄せた。他の本は捨ててしまったが、この本だけは大切にとっておいたのだ。

 施設で過ごす京平に会いにいき、『きつねとおおかみとさいはてのもり』を手渡した。京平はお気に入りの絵本を手にして喜んだ。


「ありがとう、きつねさん。ぼくたちを助けてくれて」

「いいや、僕はお父さんを助けられなかったよ」

 手塚は憂いを帯びた笑みを浮かべる。

 あの時、吾妻を振り切って暗い海に飛び込んでいたら鳴瀬を助けられたかもしれない。

 力尽きて冷たい海の底に沈んだとしても、きっと後悔は無かった。


***


 諒子は日常生活を送ることに不自由がないほどに回復し、退院することになった。事件のあったマンションは二人には広すぎるし、記憶が蘇るのも怖くて近くのアパートに移り住んだ。


 京平は元の幼稚園に通えることになり、諒子もパートの仕事に復帰した。コーラスグループも継続している。

 西山がやってきて過ごす週末を諒子も京平も楽しみにしている。


 幼稚園の発表会の日、諒子と西山は連れ立って見学にやってきた。歌も演劇も大きな声で頑張る京平の姿を諒子は頼もしく思った。

 発表会を終えて、京平が諒子に抱きつく。京平は諒子にこっそり耳打ちする。


「あのね、おおかみさんがきてくれたの」

「そう、良かったわね」

 京平が気に入って読んでいる絵本に登場する狼のロイは彼のヒーローらしい。子供らしい発想に諒子は微笑む。


***


「手塚さん、最近覇気が無いよね」

 昴がカウンターに分厚い本を返却する。論文を書くために大学図書館に足繁く通うようになり、手塚を慕って相談するようになっていた。

「余計なお世話だよ」

 手塚は本のバーコードを読み取り、返却処理をする。

「たまには飲もうよ」

 昴は手塚に論文の相談を持ちかけており、それを口実にいつも飲みに誘う。


「今日は行くところがある」

「池袋の喫茶店だろ、じゃあ俺も行く」

 手塚の行動パターンを把握している昴は、閉館後に職員通用口で待ってる、と無理矢理約束を取り付けた。

 

***


 レトロ喫茶九番街のカウンターに手塚と昴は並んで座る。

「今日のオリジナルブレンドはグアテマラ産です」

「じゃあ、それでお願いします」

 マスターの吾妻はサイフォンでコーヒーを淹れ始める。手塚はブラック、昴はミルク付きだ。二人はよく連れ立って来るので、客の好みは頭の中に入っている。


「あ、サボテンに花が咲いてる」

 昴がカウンターに置かれたサボテンを見つける。サボテンのてっぺんに素朴な白い花が咲いていた。

「ずいぶん大きくなったね」

 手塚が通い始めたころはまだ丸い形だったが、今はメキシコの砂漠に生えているサボテンの形そのものだ。

「ええ、大事に育てています」

 吾妻は穏やかな笑みを浮かべる。


 ドアベルが鳴り、新しい客が入ってきた。長身で黒いオーダーメイドのスーツを着込んだ男だ。男はカウンターに置かれたサボテンを見て一瞬足を止め口元を緩めた。手塚と昴の背後を通り過ぎ、一番奥のカウンターに座る。

 男は一番奥のカウンターに座る。吾妻は男の姿を見て、口髭の下で微笑む。

「ルイボスティーでよろしいですか」

「ああ、頼む」

「自家製プリンもいかがでしょう」

 マスターの提案に男は少し考えて是と頷いた。


 昴と談笑していた手塚は三つ離れた席の男の姿に気づき、目を見張る。心臓が大きく跳ねて一瞬呼吸が止まった。そして堪えきれず肩を揺らして笑う。

 昴は挙動不審な手塚を心配そうに見つめる。


「この店でコーヒーを飲まないなんて、ずいぶん野暮だね」

 手塚は奥の客に聞こえよがしに言ってやる。吾妻は白いカップにルイボスティーを注ぎ、カウンターに置いた。

「カフェインは取らないことにしている」

 男はムッとした表情でルイボスティーを口に含む。

「ルールを破るのも案外悪くないよ、鳴瀬さん」

 手塚は満面の笑みでコーヒーを口に含んだ。





制作メモを書きました。

『悪党たちに捧げる挽歌』制作メモ

創作活動よもやま話−昭和のヲタ話から創作小説の心得まで/神崎あきら - カクヨム https://kakuyomu.jp/works/16817139558935650997/episodes/16817330661190697556

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悪党たちに捧げる挽歌 神崎あきら @akatuki_kz

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