R.B.ブッコローの非日常
遠部右喬
第1話言霊
そのミミズクは怯えていた。
(何なのよ、もう……)
背後から、音もなく忍び寄る気配。
ほんの軽い気持ちだった。
いつもの、配信内での軽口だったのだ。
視聴者からの「もし生まれ変わって別の書店の鳥になれるなら、どこがいいですか?」の質問に、ブッコローはこう答えた。
「TSUTAYAでしょ。ツッタローになりたいです」
勿論、そんな気はない。いや、ちょっとはあるが、本気というレベルではない。今の所、他の書店での生活が思い描けない程度に、有隣堂のマスコットであることにやりがいも感じている。
だが、その日から、彼の日常は姿を変えてしまった。
***
始めは、気のせいだと思った。
人間よりも広いブッコローの視野の隅にちらつく、オレンジの「なにか」。
(ヤダァ、もう老眼? ちょっと早くない?)
最初は軽く考えていたブッコローだったが、次第に不安の種は芽を出し、むくむくと大きくなっていった。
競馬場の一角で。
休憩に立ち寄ったカフェの前の大通りで。
有隣堂伊勢崎町本店前で。
日々、そのオレンジの「なにか」が、ちらちらと視界をよぎる。慌てて振り向いても、そんなものは見当たらない。人間の百倍程もあるミミズクの視力が、毎度見逃すことなど考えられない。
(病院行った方がいいのかな……)
だが、不思議と確信があった。体調不良なんかじゃない。あれは、あのオレンジの「なにか」は、存在する。少なくとも自分にとっては。
しかも。
(あいつ、徐々に近付いてる……)
「ブッコロー、どうしたんですか? 具合が悪いなら、撮影はもう少し後に始めますか?」
己の思考に囚われていたブッコローに、優しい声が掛けられる。慌てて顔を上げると、気遣わしげにこちらを覗き込む渡辺郁と目が合った。
収録スタジオの一角で、ブッコローは、いつの間にか詰めていた息をこっそり吐いた。
(ヤバ、ボーっとしてた。
「大丈夫よ、スイマセンね、ご心配おかけしちゃって。この前、お馬さんで大外ししちゃったからさぁ、次のレースに向けてイメトレしてました……あれ、もしかして、ブッコローを労わる
「もう。ちゃんとブッコローの心配してるのに」
羽角をぴくぴくさせ、いつもの調子で揶揄うブッコローに郁は苦笑した。
「それじゃ、そろそろ始めましょうか。ブッコロー、本当に大丈夫ですか?」
「大丈夫、大丈夫」
撮影の準備の慌ただしさに紛れるように、ブッコローは頭の中の「なにか」を追い出した。
***
撮影を滞りなく終えたブッコローは、急いで伊勢崎町を後にした。早く巣に帰って、家族の顔を見て安心したかった。
紫から群青にグラデーションの掛かった空を、ブッコローは殆ど休憩を入れず飛び続けた。全力で飛び続け、流石に疲労を感じた彼は、一息入れる為に一番近い明かりを目指す。とにかく、明るく、人が居る場所が恋しかった。
空から見える、段々と大きくなる「TSUTAYA」の明かりに、これほど頼もしさを感じたことはない。ブッコローは安堵し、店の入り口に降り立った。
それにしても、一羽になると嫌でも思い出してしまう。オレンジ色の……と、そこまで考えた瞬間。
心臓が嘴から飛び出しそうになるほど跳ねた。
(居る!)
目の端で、オレンジ色の「なにか」が動く。
(振り向いちゃ駄目だ!)
振り向いたら、きっとまた消えてしまう。何事もないかのように、羽の震えを隠し、店内を窺う振りでガラス越しに背後を確認する。
自分の嘴から、ひゅっと、首を絞められたような音が聞こえた。
はっきりと見てしまった。こちらを見詰める、自分とそっくりのオレンジ色のミミズク。
束の間、二羽の視線が交わる。
(気付かれた! 気付いたことに、気付かれた!)
急いで振り向いても、もう何の気配もない。だが、カラフルな羽角も、片側のやや傾いた色の違う瞳も、ちょっとずんぐりとしたボディもブッコローそのものの「なにか」は居た。ほんの一瞬であっても、見間違える訳がない。
(あんな派手なミミズク、ブッコロー以外に居る? え、ゆーりんちーってこと? コスプレした熱烈なストーカー? ヤダヤダヤダ、助けて、おまわりさーん! それとも、ゆ、幽れ……ヒィ!)
同時に、強烈な違和感が残っていた。一瞬で見分けがつく、自分とあいつを分ける、小さいけど決定的な違いが確かにあった気がしたのだ。
(どこだ、どこだ、思い出せ……そうだ、お腹の模様だ!)
ブッコローのチャームポイントの一つ、お腹にある逆三角が三つ並んだ模様が、あいつは違っていた。
(何か見覚えのある、直線的な模様だった気がする。横棒の途中から縦棒が下に伸びて、そう……すごく見覚えのあるロゴ、みたい、な……あ)
答えは、文字通りブッコローの目の前にあった。
視聴者の質問に答えたあの日から現れた、Tカードのロゴにそっくりな模様を持つあいつ。
(あいつ、ツッタローだ!)
何故そうなったのかは分からない。だが、現実世界にツッタローは現れたのだ。
(あの収録で何て言ったんだっけ……確か……)
「ツッタローになりたいです」
ぞわりと背中が毛羽立った。
ツッタローは、ブッコローとなり代わるつもりに違いない。
(そもそもが違うのよ、ツッタローの立場になりたいんであって、ブッコローをやめたい訳じゃないの。ツッタローに立場を代わって欲しい訳じゃないのよ)
愛する家族、共に働く仲間、応援してくれるゆーりんちー達、それらは簡単に諦めていいものではない。
猛禽類としての本能が囁く。自分の身は自分で守れ。翼も、嘴も、爪もある。テリトリーを手放すな、と。
(まー、ちょっと嘴と爪の手入れさぼってるけど、何とかなるでしょ。どうせ向こうも似たようなも体型なんだし。諦めたら試合終了って、安西先生も言ってるじゃん。いける、いける)
ブッコローは覚悟を決め、TSUTAYAを後にした。
(腹が据わったら喉乾いたな。何か飲み物買おっと)
自動販売機の前に降り立ったブッコローの脇腹を、鋭い痛みが襲った。
振り向いたブッコローのすぐ後ろに、ツッタローが音もなく舞い降りる。ツッタローの爪は、ブッコローの血でぬらりと光っていた。
痛みを堪え、ブッコローも反撃に転じる。
互いの身体を突き、羽を毟る。ツッタローの攻撃を、ブッコローは抱えている本でガードする。ツッタローの爪が、その本を弾き飛ばす。
人知れず、静かに、激しく二羽が舞う。
どれほど戦いが続いただろうか。ぼろぼろになったブッコローが叫んだ。
「ブッコローは、ブッコローのままでいいんだ! 消えろ、偽物!」
その言葉を合図に、二羽のミミズクは空に舞い、激しくぶつかった。
***
「あ、郁さん、おはようございまーす!」
「おはようございます。良かった、今日は元気ですね」
郁は、ご機嫌で鼻歌を歌うミミズクににこにこと挨拶を返し、すぐに「あれ?」と呟いた。
「ブッコロー、そのお腹どうしたんですか? 柄が隠れちゃってますよ」
「……あーこれ? 実は、ちょっと羽がむしれちゃってさぁ。配信された動画って一生残るじゃん。恥ずかしいから、絆創膏貼ってんのよ」
目の前で右の脇腹をぽりぽりとかく彼に、郁は噴き出した。
「でもそれ、絆創膏はがす時にもっと羽むしれちゃいません?」
「あーそっか、ヤバいヤバい。ねーザキさん、おススメのシール剥がしとかない? お肌に優しいヤツがいいなぁ」
和気あいあいとした空気の中、撮影の準備が始まる。郁はヘッドマイクを手にし、隣に声を掛けた。
「そろそろ始まりますね。よろしくお願いします。今日は生放送ですから、いつも以上に、お互いに発言に注意しましょうね」
お喋りなミミズクは頷いた。
「そうね、迂闊なこと言うと、消されちゃったりとかするかもしれないもんねぇ……怖い、怖い」
そう呟き、小脇に抱えた、少し赤黒い染みの付いた本を撫でた。
R.B.ブッコローの非日常 遠部右喬 @SnowChildA
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