空の上の象
七迦寧巴
第1話 空の上の象
コーヒーメーカーから良い香りが漂ってきて、無意識に深く息を吸う。
お気に入りの喫茶店で焙煎してもらった豆はグァテマラ。お店でマスターが淹れてくれるコーヒーの方がもちろん美味しいが、コーヒーメーカーもそれなりに頑張ってくれる。
食器棚からマグカップを二個取りだして、淹れたてのコーヒーを注いだ。
マグカップは、オリエンタルな象が描かれたデザイン。深い赤と金で描かれた象は神秘的だ。もう二十年以上使っているお気に入りのマグカップ。
もともとは一個だけ持っていた。
当時バイトしていたお店は海外の雑貨を輸入していて、仕入れカタログに載っていたのだった。
一目惚れしてしまい、仕入れる商品に混ぜてもらって個人で購入した。
イギリスの雑貨店のカタログは、かなり好みの商品が多くて、マグカップ以外にもペンダントやスカーフなど、いろいろ購入した記憶がある。
人に贈ったり、古くなって処分したり、買ったものはどんどんなくなっていったが、マグカップはずっと手元にあった。
白磁のそれは頑丈で、洗っているときに手が滑ってシンクに落ちても割れることはなかった。
就職後しばらくして彼が出来た。
家に遊びにきたとき、はじめのうちは気取って来客用のカップを出していたが、そのうちマグカップで飲み物を出すようになった。
象のマグカップは一個しかない。あの頃もうひとつ同じものを買っておけば良かったと思いながら、デザインの違うマグカップを出していた。
そんなある日、彼がイギリスに出張に行くという話を聞いた。十日間くらい滞在するらしい。
「中学からの友達がちょうどイギリスに留学しててさ、休みの日はロンドン市内を案内してもらうことにしたよ。お土産買ってくるね」
ロンドンと聞いたときに雑貨店を思い出した。あの店はたしかロンドンだったはず。
「買ってきてほしいものがあるの」
「ん? なに?」
私は食器棚から象のマグカップを出して彼に見せた。
「このマグカップ、ロンドンの雑貨屋さんで買ったものなんだ。これと同じものがあったら、もう一個欲しいの」
「ああ、それお気に入りのやつだろ。じゃあお店の名前を教えて」
パソコンを立ち上げて雑貨店のホームページを開くと、彼はそのURLを自分のメアドに送った。
このマグカップを買ってからすでに数年が経っている。もしかしたらもうこの商品はないかもしれないけれど、もしもあったら嬉しい……そう思いながら彼が出張から帰ってくるのを待っていた。
帰国後、象のマグカップは私の手元にやってきた。
「友達に前もって店の名前を教えていたから、すぐに案内してもらえたよ。ロングセラー商品みたいでさ、ちゃんとあったよ」
「ありがとう! これでペアのマグカップになった」
その日から、彼が遊びに来たときに出すマグカップはお揃いになった。
二年後、私たちは結婚した。
結婚式には雑貨店に案内してくれた彼の友達も出席してくれて、楽しいスピーチを披露してくれた。
あれから二十年の月日が流れた。マグカップは今も健在。
「コーヒー入ったよ」と、仕事部屋に居る彼に声を掛けると
「オッケー」と言ってリビングにやってきた。
ソファーに腰掛け、香りを楽しんだ彼は美味しそうにコーヒーを飲む。
「今日は何時に出るの?」
「んー。昼過ぎかな」
マグカップを眺めて彼は言った。
「これ、あいつと買いに行ったんだよなぁ」
「そうだね」
その友達はもうこの世にいない。
十年ほど前に、自ら命を絶った。
家族宛の遺書には淡々と連絡事項が綴られていただけだと言う。
連絡を受けたとき、彼の動揺は見ていて胸が締め付けられるようだった。友人の異変に何故気づかなかったのか、しばらく自分を責めていた。
就職して職場も違い、会う機会は減っていた。たまに会って飲むときはいつも陽気だったという。自ら死を選ぶほど、何かに悩んでいるようには見えなかったそうだ。
ただ、一回だけ。残業中に携帯電話に着信があったそうだ。
「会って話がしたいんだけど」と言われたが、ちょうど決算時期だったこともあり
「今はちょっと無理だから、来月なら」と答えたらしい。
「いやいや、ごめん。大丈夫だよ」
そう言ったその言葉が、会話をした最後の言葉だった。
あのときすぐにでも会って話をしていたら、悩みを打ち明けてくれたのではないだろうか。彼はずっとそれを後悔していた。
死は残された人たちに大きな傷を残す。そのことが少しでも心の何処かにあれば、死を思いとどまることが出来たのだろうか。
いや、もうそういうことすら思い浮かばないくらい追い詰められていたのかもしれない。今となっては知る術はない。
今日は雨。
お墓参りに行く日は、なぜかいつも雨。
せっかく咲いた桜の花も散ってしまいそうだ。それでも今日は風がないから花は耐えてくれるだろうか。
彼はお線香を鞄に入れる。
あれから毎年、彼はこの季節に友達の墓参りに行く。春のお彼岸に墓石の前に立ち、手を合わせて友達に話しかけてくる。
「マグカップ、まだちゃんと使ってるよって伝えてきて」
私が言うと彼は笑った。
「分かった。ちゃんと言ってくる」
「行ってらっしゃい。気をつけて」
「夕方には帰るよ」
彼は傘をさして家を出た。
これから先も、マグカップが割れませんように。
毎年ちゃんと「まだ使ってるよ」って報告出来ますように。そう思いながらカップを洗い、食器棚にしまった。
<了>
空の上の象 七迦寧巴 @yasuha
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