オオカミと煙

伊草

オオカミと煙

 ひと筋の煙が立ち昇っていた。ゆらゆらと揺らめいて、鈍色の曇天に吸い込まれるようにして昇っていく。やがてそれは肥大化していき、住宅街のなかにあって物騒な様相を呈すようになる。それでも街は静かで、見ぬふりを決め込むように静かで、例えば火災が起きているんじゃないかなんて想像は誰ひとりしていないのかもしれなかった。

 俺は立ち止まり、煙を見上げて、また歩き出す。

 そうして辿り着いたのは大きな和風家屋だった。高い生垣に囲まれた、鱗のような瓦屋根の家だ。その格式の高そうな外見とは裏腹に、どこか退廃的とさえいえる空気が漂っていた。

 躊躇なく門戸を開いて、俺は敷地のなかへ入っていった。

 右手に広がる庭、案の定、彼女は縁側に座っている。

 いつものように黒いワンピースを着て、物憂げな表情を浮かべている。艶やかな黒髪は背中まで流れ、細い首元から華奢な鎖骨までの、むしろ不健康なほど白い肌が晒されていた。

 長い睫毛を伏せ、彼女はある一点を見つめている。

 そこには一斗缶がひとつ置かれていた。そのなかからは絶え間なく黒々とした煙が上がっている。

なにが燃えているかは既に知っていた。

 細い足をふらふらと揺らし、不意に彼女は、縁側に平積みされている本のなかから一冊を掴んだ。そのまま表紙を一瞥もせず、自然な動作で放り投げる。カバーの取り外された文庫本サイズの小説がひらひらと宙を舞った。次に瞬きをしたときにはもう、小説は一斗缶へ消えていた。

 炎はいっそう激しくなる。

「那主奈(なずな)」

 俺は近寄りながら彼女の名前を呼ぶ。

 那主奈はわずかに首を回し、その瞳を向けてきた。すっと目が細められ、笑みのようなものを浮かべる。

「あら、いたのね秀治(しゅうじ)」

 おかえりなさい、と続けた。

 俺を見つめる那主奈のそばで、黒い煙が上がっている。先ほど投げ込まれた小説は既に読むこともできない状態にあるだろう。どんな話だったのかを知る術はない。燃やしたくなるほど駄作だったという線は薄いだろう。どんな小説であれ、本であれ、彼女は例外なく燃やしてしまうのだから。

「本を燃やすときに生じる、この罪悪感のようなものは何なのかしら?」

 譫言のように呟く彼女の姿を見て、ずきりと胸の内側に痛みが走る。

 生暖かい風が六月の湿気を孕んで肌にこびりつく。俺たちはまだ十六歳だった。



 半年前のことだった。那主奈の両親が、車同士の衝突事故で亡くなってしまったという凶報があったのは。

 俺はそれを母さんの口から聞いた。晩飯のカレーが酷く辛かったのが記憶にある。そして水を飲み干した後、同乗していた那主奈の安否について聞き出した。

 病院に運ばれた俺の幼馴染は、命に別状はなかったようだった。それでも体を強く打ち付けたらしく、入院は免れない状態だったそうだ。俺は彼女が生きていたことに深く安堵した。

 ただ事故のことについて本人に質すのは憚られた。彼女の悲劇の全容を明らかにしたところで、俺が得することもなければ、ましてや当事者である彼女が得することもないだろう。嫌なことを思い出させるだけだ。そう思った。

 もちろん見舞いには行った。大体はひとりではなく家族と一緒に。病室を訪れた俺たち家族の姿を見て、那主奈が何を思ったのかは想像できない。いつもと同じような態度で、いつもと同じように冗談を口にする姿が逆に不安を煽った。

 退院してからも、那主奈はあの大きな家で一人暮らしている。まるで何事もなかったように。

 そしてある日から、急に彼女は本を燃やすようになったのだ。


「じゃあ前回の続きからやるぞ。まず……」

 世界史の教師が、かつかつと黒板にチョークを打ち付ける音がする。その片手に開かれた教科書の向こうで、ぱらぱらと白粉が舞っていた。

 昼休み後ということもあり毎週この時間は静かだった。皆が集中している緊張感のある空気、というよりは、ただ眠たげな雰囲気が漂っている。窓際の席で、俺も頬杖をつきながら瞼が重くなるのを感じていた。

 ちなみに俺と那主奈は別の高校に進学している。俺が偏差値もそこそこの共学なのに対し、あっちは優秀な生徒が集まる女子高だ。幼馴染とは言うものの互いに同じ学校に通ったことはない。家が隣同士ということと歳が同じということで、なんだかんだ仲良くやってきたのだ。

「ところで、授業には直接関係はないんだが」

 そう前置きをしてから教師がチョークを振るう。黒板には白い文字で『ユダヤ』と書かれていた。

「お前らは知らないだろうが、こんな言葉がある」

 またぞろ、うんちく好きな教師のありがたいご高説が始まるのだろう。興味が失せた俺は窓外に目を転じた。眼下に広がるグラウンドは、未だぬかるんでいて、激しい戦いでもあったかのように足跡で荒されている。そういえば今日、一年生は体育だったか。

 顎を支える腕の位置を調整して、欠伸を噛み殺す。その際に、肘がシャーペンに触れて机から落ちていってしまった。カラカラと床を転がるそれに慌てて手を伸ばす。その瞬間、不意にそれは聞こえた。

「本を焼く者は、やがて人間も焼くようになる」

 伸ばした手が、まるで空間に縫い付けられたように止まる。シャーペンは隣の椅子に当たり、遠くまで転がることはなかった。俺は目を見開いたまま、屈んだ体勢から動けなくなる。

「これをハイネの警句という。焚書(ふんしょ)を表した言葉だな」

「焚書ってなんすかー?」

 間延びした生徒の声が聞こえる。その声にハッとすると、いつのまにか隣席の男子がシャーペンを俺の眼前に差し出してくれていた。「あぁ、すまん」とそれを受け取った後、わけもなく息を吐く。

「驚かすなよ……」

 呟いて、憎らしそうな視線を教師にくれてやった。

 いつのまにか眠気はなくなっていた。指先でペンを弄びながら、仕方なく授業に耳を傾けることにする。漫然とノートに文字を書きこみ始めるうち、先ほどの教師の言葉は思考の隅に追いやられていった。



 制服を着た少女が立っている。妙におどおどした様子で、青色のノートを両手に抱きしめていた。大きな和風家屋に気後れしているのか、それとも何か他の理由があるのか。まるで途方に暮れたように立ち尽くし、ましてやインターホンを押す気配すらない。

 当然だが俺に関係があることではなかった。明らかに挙動不審な人物に誰が進んで話しかけたいというのか。できれば無視したい相手だ。

 だがそうはできない理由があった。生垣の向こうで煙が昇っていたのだ。あれを見てしまったからには彼女のもとへ行かなくてはならない。

 心底うんざりしながらも、驚かさないよう距離をとりつつ、

「あの」

 と少女に声をかけた。 

 それでもタイミングが悪かったのか少女はわずかに肩を弾ませた。縮こまるように、とまではいかないまでも体を小さくしながら上目遣いに見上げてくる。

「那主奈になんか用、すか」

 年上かもしれない可能性を考慮した結果の口調である。少女の童顔と小柄な体格を加味すれば可能性の低い話ではあったが。

「あ、えっと……」

「あー、隣に住んでる、鍵山(かぎやま)です」

「……も、もしかして、那主奈ちゃんの彼氏?」

「いや、ただの友人っつーか、幼馴染」

 何故か分からないが、俺が幼馴染と口にした瞬間、少女は驚いたように目を開いた。そしてその言葉を咀嚼するように、唇に指をあてて思案顔になる。

「大丈夫っすか?」

「えっ。あ、うん。じゃなくて、そ、そうだ!」

 あれ、と少女は遠慮がちに家を指差す。どうやら庭から立ち昇る煙を指差しているようだった。

 ――あぁ、なるほど。

「あれは心配ないっすよ。少なくとも火事とかじゃない」

「そ、そうなの?」

 俺が頷いてみせると、少女は安堵したように胸を撫で下ろす。どうしてあんなに落ち着かない様子だったのか答えが出たところで、俺は門戸に近寄った。少し後ずさった少女に見えるようにして引手に手を伸ばす。

「多分だけど、開いてると思いますよ。ほら」

 案の定、鍵はかかっていなかった。すんなりと開けてみせてから、俺は少女のほうに振り返る。

 その瞬間、目の前に青色のノートが差し出された。

「え? なに?」

「こ、これ、那主奈ちゃんに、お願いします。そ、それじゃ」

 一方的に捲し立て強引にノートを押し付けると、すぐに踵を返す。「おい!」と手を伸ばそうとするが取りつく島もない。

 足早に去っていく背中は、角を曲がったところで見えなくなった。

「お願いしますって……」

 何故俺にお願いするんだ。そもそもこのノートは何なのか。もう何が何やら。

 まぁ那主奈に渡せということなら本人の忘れ物なのかもしれない。何の変哲もない大学ノートをためつすがめつした後、何の気なしに最初のページを開く。そこには丁寧な字で、数学の公式や法則の説明がまとめられていた。

 まさか、と思い、俺はぱたりとノートを閉じた。



 勢いをつけて青いバケツを振るう。一斗缶に向かって降り注いだ水は、わずかに俺の靴を濡らした。煙は収まり、鎮火作業は簡単に終わった。

 蒸気から逃げるように俺は後ずさり、額の汗を拭う。

「いつもご苦労様ね」

 そう言ったのは縁側に座る那主奈だった。膝のうえで丸くなっている白猫――アランという――の美しい毛並みを撫でながら他人事のような感想をこぼす。

 そばには平積みされた本の山がある。上等なハードカバーの上に文庫本サイズの小説が数冊、重なっているかたちだ。今日燃やされずに済んだ本たちは装丁も綺麗で新品のようだ。考えたくないが新しく購入したのだろう。もちろん燃やすためだけに。

「そう思ってんのならもうやめてくれ。ただでさえ危ねぇし、近所迷惑にもなる」

 うんざりとした気持ちを隠しもせず言ってやるが、那主奈は意に介した様子もなかった。

「どうせ、みんな気味悪がって話しかけてこないでしょう? ならいいじゃない」

「俺が困るっての。毎回毎回、いい加減に」

「秀治もやってみればいいじゃない。きっとこの魅力に気づくわ」

「御免こうむる」

 こんな調子で話を聞かない。いつものことだ。

 那主奈は顎にかかった髪を耳にかけながら、愉快そうに喉を鳴らすアランに微笑みかける。貴婦人のような白猫――雄だが――と一見して深窓の令嬢然とした那主奈が仲睦まじくしている様子は、額縁に飾られても違和感のないぐらい絵になる。

「私のことを分かってくれるのはあなただけね、アラン」

「猫は人の気持ちなんて分からないと思うぞ」

「そんなことないわ。現にこうして私を慰めてくれているもの。本当にいい子よ。きっと飼い主に似たのね」

「勘弁してくれ……」

 頭が痛くなって額に手をやる。そして、ちらりと縁側の隅に目をやった。

「猫もいいが、な……ちょっとは友達に目を向けてもいいんじゃないか」

 那主奈は小首を傾げる。

「どういうことかしら?」

「それ」

 俺の指差す先には、さきほど少女に渡された大学ノートが置かれていた。那主奈のために書かれたのだろう。授業内容が記されたものだ。

「さっきお前のクラスメイトに会ってな。渡してほしいって」

 言いながら再びそれを手に取ると、那主奈の前に突き出した。

 しばらくつまらなそうな表情を浮かべる那主奈だったが、やがて両手で受け取った。おもむろに表紙を捲り、しなやかな指先で紙面に触れる。

「なあ、もしかして学校行ってないのか?」

 返答はない。

 が、否定しないということはそういうことなのだろう。

「なんで行かないんだよ。面倒でも行ったほうが有意義だろ。ここで本を燃やしてるよりは、よっぽど」

 那主奈は静かにページを捲り始めた。

 頷く素振りもなく、視線は手元から動かない。何を思考しているのだろうかと、俺がノートを覗きこもうとした時だった。

「ねぇ、その子ってどんな子だった?」

 不意にそんなことを尋ねてきた。

 タイミングや態度こそ不審に思いはしたが、尋ねられた内容については疑問に思わなかった。そういえば伝えていなかったか、と思い、さきほどの少女を脳裏に浮かべる。

「ちっこくて、なんかおどおどした、変な女子だ」

 答えてから自分でも流石にどうかと思ったが、那主奈は納得したようだった。

「なるほどね」

 と、そこで少しばかり間があいて、

「ほかには、何か言われたかしら?」

「え? いや、べつになんも言われてないけど」

「そう」

「そうって……」

 いったい何なんだ。

 昔からどこか達観していて大人びていて、そのせいで何を考えているのか分からないきらいがあった。ミステリアスと言えば聞こえはいいが、多くの場合においてそれはマイナス面に働く。こうして不安な気持ちにさせられたりすることもしばしばあって。

「大丈夫、なのか?」

 おもわず口に出していた。とはいえ漠然とした言葉すぎて、これじゃあ何を指しているのかも伝わらないだろうけど。そもそも俺は何に不安を覚えているのか。自分でもよく分からなった。

「……ふふ」

 果たして那主奈は、妖しげに笑う。

「心配いらないわ。何が起きても、家族がいなくなる以上のことなんてないもの。今日はただなんとなく休みたかったら、休んだだけよ。そういう日って、秀治にもあるでしょ?」

「……大丈夫、なんだな?」

「ええ」

 そういって目を細める那主奈の表情はぞっとするほど美しくて、やはり胸騒ぎが消えることはなかった。

 とはいえ、こういう漠然とした不安は、なにも今に始まったことじゃなかった。

 ずっと心のなかに潜んでいるのだ。

 あの日から。

 初めて那主奈が本を燃やした時からずっと。



 いきなり隣の家から煙が立ち昇っているのを見て、すぐに那主奈のもとへ走ったのを覚えている。それで庭を覗いてみれば、妙なことをしている那主奈を発見した。無表情、というよりは冷徹な印象を受ける表情で、炎に向けて本を投げ込む姿がそこにあった。

「本を燃やすと妙な罪悪感が生じるの。著者の努力を踏みにじるものとはまた違う、もっと背徳的な感情ね。上手く言語化できないところが心苦しいけれど、そこが魅力でもあるわ」

 初めは、何を言っているのか理解できなかった。だから俺なりに噛み砕いて解釈しようとして、やはりままならなかった。ただ何かに取り憑かれたように本を燃やし続ける姿を見て、俺は得体の知れない不穏な気持ちを抱いた。

 だが那主奈はその行為を高尚なものとみているらしく、

「いつか知りたいわね。この感情の本当の名前を」

 さも楽しそうな口調で、灰塵と化してゆく本を見つめていた。

 当時は今と違って、燃やすためにわざわざ購入してきたりはせず、家にあるものを用いていた。那主奈はもともと読書家で部屋では様々な本が棚に収められていたのだが、じきにそれらは一冊残らず彼女の奇行の犠牲となった。空になった棚を見て、複雑な思いが胸に去来したのを覚えている。



 ――ふと。

 妙に引っかかったことがあった。

 那主奈が燃やすために取り出した本の種類は多岐にわたる。小説や漫画はもちろん、雑誌や啓発本まで、本と呼べるものなら無差別に燃やしまくった。バリエーションを増やす意味についてはさっぱりだけど、おおむね本と呼ばれるものは対象になるのだろう。

 じゃああのとき、初めて那主奈が燃やしたものは、何だっただろうか。ノートにしては厚みがあったように思う。だったらハードカバーか、と思えば大きさや形が違う気がする。かといって絵本や雑誌ほど大判でもなかったはずだ。ただ表紙に、那主奈が何か文字を書きこんでいたのだけは覚えているが……。

「あっ」

 俺が思考の海に沈んでいると、那主奈の膝上で寝ていたアランが不意に跳び上がった。そのまま軽やかに縁側に着地したアランだったが、体のどこかを平積みの本にぶつけたようだった。元々バランス悪く積みあがっていたこともあって、本の山は簡単に崩れてしまった。

 アランはそれを歯牙にもかけず、白い尾を揺らしながら廊下の向こうに消えていく。

「しゃーない」

 呟いて、縁側に広がった本を集め始めた。

 その時だった。

 カチッ、と音が鳴った。

 同時に、煙っぽい臭いが鼻をかすめる。

 那主奈がライターで、青い大学ノートに火をつけていた。

「な、なにやってんだっ⁉」

 おもわず大声を出す。

 大学ノートはみるみる燃え始めた。ノートを摘まんでいた那主奈は、それを庭に放り投げる。ゆっくりと、小さな煙が立ち昇った。

 那主奈はその光景をじっと見つめていた。公式や法則が丁寧にまとめられていた数ページが無駄になっていくその過程に、何かを見出そうとするかのごとく。

 俺は那主奈を見ながら、いつも以上に胸がざわめくのを感じていた。



 ビニール傘を雨粒が打ち付ける。何度も何度も。

 六月も中旬に差し掛かった。梅雨入りにはまだ早いだろうが、それでも降る日は降る。天気とはままならないものだと思いながら、それでもどこかに安堵の気持ちがあった。

 なんせ雨の日は、あの煙を見ることがないのだから。真っすぐに家に帰り、自分の部屋でやりたいことをやれるのだ。

 そして家を目前にした時だった。後ろから声をかけられたのは。

 振り向くと、黒い傘を差した女性が道の真ん中に立っていた。吊り上がった細い目は、心底から軽蔑するような色に染まっていた。

 おもわず苦い表情になりそうになるのをぐっとこらえて口を開く。

「……どうも」

「どうも。ご無沙汰ね」

 ふん、と鼻を鳴らし、ちらりと横に視線をやる。丁度そこには那主奈の家があった。

「昨日、一昨日と、性懲りもなく燃やしていたようだけど」

「まぁ、そうっすね」

「あなた、ちゃんと頼まれたこと覚えてるの?」

 責めるような口調で、眼光を鋭くさせる。

「妙なことをやめさせるようにって、言ったはずよね」

 俺はアスファルトに目を落とした。

 那主奈の悪癖はすでに周囲の知るところであった。当然と言えば当然だった。

「近所迷惑なのよ。あの嫌な臭いが漂ってきたり、洗濯物に付いたり。私だけじゃないわ。近くの家からも同じような苦情が何件か届いてるの。分かる?」

「はい、すみません」

「あなたに謝ってもらっても意味ないのよ。いいから、早くなんとかしてちょうだい」

 敵意にも似た眼差しを向けられて、俺は俯くしかなかった。

 この手の話は一度だけではない。特にこの人は以前から鷺宮家を毛嫌いしている節があった。

「もともと気味が悪いと思ってたのよ、あの子。近所の私たちにはまるで関心がないみたい」

「そんなこと、ないと思いますけど」

「じゃあ、あなたの前でも猫被ってたんじゃない? あぁ、気持ち悪い」

「そんな言い方……」

 流石に酷いと思った。確かにあいつは不器用なところがある。でもそれだけだ。

「あの親が死んでからは拍車がかかったみたいね。犯罪でも起こされたら、かなわないし、そうなる前にどこかに出て行ってくれないかしら」

 その言葉を聞いた瞬間、気づけば足を強く踏み込んでいた。何か言ってやろうと唇を開く。

 だが一瞬の衝動は、すぐに冷や水を浴びせられたように消えてしまう。ここで何かを言ったって、なんの意味があるというのか。

 結局喉まで出かかった何かが、ついに言葉になることはなかった。代わりに生まれたのは、幼馴染のために怒りさえできない自分への情けなさだった。

「……近々、引っ越すみたいですよ、あいつ」

「あら、そうなの? それは、良かったわね」

 誰にとっての「良かった」なのか。

 俺の言葉に機嫌を直したおばさんは、言いたいことを言い終えて、すっきりした様子で去っていった。那主奈が引っ越すまでにはまだ三ヵ月ほど間がある。それまでに、あと何回あの人の愚痴を聞くはめになるのか。

 ふと那主奈の家を見上げる。すると二階の部屋のカーテンが揺れた。一瞬だけ視界に入った黒髪が、胸中に漠然とした不安を抱かせた。



「いただきます」

 那主奈はそう言いながら手を合わせた。スプーンでカレーをすくい上げると、前髪を耳にかけながら口に含む。

「……どうだ?」

「うん、美味しいわ。さすが郁美さんの料理ね」

 コップでお茶を飲み、そう感想をこぼす。料理長に挨拶したいとでも言いそうな感じだ。

 一見して舌が肥えていそうな那主奈だが、実は庶民的な料理を好んでいたりする。ポテトチップスやジャンクフードなども大好物だ。満足げに舌鼓を打つ那主奈の姿には、先日のノートを燃やした時のような冷たさは見受けられない。

 おすそわけ、という大役を母さんから任命された俺は、カレーの入った鍋を両手に鷺宮家を訪れていた。那主奈の両親が生きていたときも、時折こうやっておすそわけをしたものだ。彼女がひとり残されてからはその頻度もだんだん増えている。

「今回は俺も手伝ったから、ちょっと違う味になってるだろうな」

「そういって、本当はルーを混ぜていただけではないの?」

「聡いな」

 そう言って俺もカレーを頬張る。少しスパイスが効きすぎている、と思うのは、母さんがもとより那主奈に向けて料理をしているからに他ならない。「道弥も一緒に食べてきなさい」という言葉に従い、俺の晩飯もこっちで取ることになった。

「静かだな。テレビでもつけるか?」

「行儀の悪いことはダメよ。お父さんに叱られてしまうわ」

 もういないけれど、と那主奈は付け足す。俺は何を言っていいか分からなくなる。

 不意に彼女はスプーンを皿に置いた。

「私の親、けっこう厳しかったのよ。特にマナーにはうるさかったわ」

「そうなのか?」

「えぇ。ここだけの話、叩かれたこともあるの」

 それは、非常に驚くべき話だった。傍から見ている分にはそんな印象は受けなかったが。

「小さい頃の話よ」

 那主奈は昔のことを懐かしむように目を細めた。

 そこでしばらく静かな間があったが、

「ねぇ秀治。どうして私がここにいるのか、分かる?」

 突然、妙なことを聞いてきた。

「どうしてもなにも、晩飯だからだろ」

「いえ、そうではなくて」

 那主奈は真正面から俺を見つめ、

「どうして私が、生き残れたのか」

 と言った。

 俺はどきりとして固まってしまった。彼女が言っているのは十中八九、半年前の事故のことだろう。だが分からない。なぜ今になって、それを引き合いに出すのか。

 やや間を空けて、かろうじて口を開く。

「……知らない。知らないし、知りたいとも思わない」

「嘘ね。気になっている顔よ」

 何故だか那主奈の声は弾んでいるように聞こえる。

「いいわ、教えてあげる」

 いつのまにか、カレーのスパイスは薄くなっていた。

「あの時、車がぶつかってきたあの時、とっさに私、車のドアを開けたの」

「……」

「その瞬間、車が横殴りに突っ込んできた。その衝撃で私は運よく、車から外に投げ出された」

 運よく、の部分だけ那主奈は強調した。

 彼女が生き残った理由を聞いても、やはり俺は安堵しかなかった。何がどうあれ奇跡的に生きていてくれたことを心の底から感謝していた。

 だから俺は那主奈に笑って話しかけようとする。

 だが、彼女の話は終わっていなかった。

「全てが曖昧な記憶。断片的に思い出せることはあっても、本当に正しいのか分からない。でもね……」

 那主奈が顔を上げる。その瞳の奥に、鈍い光が溜まっている。

「でも、ひとつだけ、はっきり覚えていることがあるの」

 俺はその瞳から、目が離せない。

「歩道に投げ出されたあと、朧げな視界のなかで、見たのよ」

 黒い瞳の向こうに、得体の知れない何かが宿っていた。

「父さんと母さんが、ゆっくり、ゆっくりと炎に包まれて、焼かれていくところを」

「やめろ!」

 勢いよく椅子から立ち上がり、テーブルを強く叩いた。呼吸が乱れ、息を吸うたびに喉が震える。

 頭の中には、あの優しい那主奈の両親が並んで立っていた。いつも俺を褒めてくれたあの母親と、よく遊んでくれた父親。だが次の瞬間、二人は激しい炎に襲われる。だんだんと肌が爛れ、鼻がぼとりと落ち、目玉が溶けていく。ずっと何事か叫んでいるが、その声すら割れて、壊れて、獣じみた悲鳴にしか聞こえなくなる。そしてその一部始終を、たったひとりの娘が目に焼き付けていた。

 俺はかぶりを振って今しがた浮かんだ想像を消し去ろうとする。脳裏にこびりついた光景を、早く取り去ってしまいたかった。

「そ、そうだ。アランはどこだ? 今日は見ないが」

 悪あがきに話題を逸らす。

 那主奈は「あそこ」と言い、縁側のほうを指差した。

 確かにそこには、丸くなって眠っているのだろう白猫の姿がある。

「あんなところにいたのか、気づかなかった」

 障子は閉め切られ庭の様子は窺えないが、嵌め込まれた擦り硝子から、外が相当暗くなっていることが見受けられる。蒸し暑さの残る時分だが、今は何故か、冷やりとしたものを感じた。。

 アランのもとに歩み寄る。眠りが深いのか、俺に気づく様子はない。

 俺はアランの体に両手を伸ばした。だが、

「え」

 その体は氷のように冷たくなっていた。筋肉が凍り付いたように硬くなり、力を入れても、無機質な感触が返ってくるだけだった。

「アランなら、昨日死んだわよ」

 あっけからんとした声音で、那主奈が言う。死んだ?

 現実に頭が追い付かなかった。小さい頃から気づけばそこにいて、一緒に成長してきたアランが急に、そんな……。

 無造作に放置された亡骸は空虚で、何故か俺の脳裏に燃やされた後の本を想像させた。

 俺はいったん家に戻り、スコップを持って那主奈の家に戻ってきた。庭に穴を掘り、アランの冷たくなった体をそこに埋めた。不格好だが小さな墓をつくり、花を添えた。

 那主奈とは、話さなかった。



 それから一週間、俺は鷺宮の家に行かなかった。もちろん那主奈とも会っていない。母親には何度か様子を見てきて欲しいと言われたり、例のおすそわけを頼まれたりしたが、全部断った。

 こんな気持ちは初めてだった。幼い頃から一緒だった那主奈は、俺にとって日常の一部で、いることが当たり前の存在だったから。彼女を拒否しようとする自分がいることに恐怖のような感情が湧いた。

 だが後から思えば、一度くらい会っておくべきだったのだ。会って色んなことを腹を割って話しておくべきだったのだ。だというのに俺は彼女から逃げ続けて、見ない振りをしてしまった。だから事件は起こってしまったのだろう。

「あっちいな……」

 俺がそう呟いたのは、体育の授業がもう少しで終わるという時だった。俺はグローブをはめている方とは違う手で汗を拭った。空は相変わらず曇り模様で、いつ雨が降ってもおかしくない表情をしている。

 教師の指示で級友とキャッチボールを始めてから、どれくらい経っただろうか。

 突然、耳をつんざくようなサイレンが耳に届いた。

「な、なんだ」

 警鐘付きのサイレンだった。グラウンドにいた全員が一斉に手を止め、きょろきょろと視線を彷徨わせる。

 白いフェンスの向こうを一台の消防車が走り抜けていった。すぐにサイレンの音は遠ざかっていき、また別のサイレンの音が近づいてくる。一台、また一台と、学校の前を通り過ぎていく。

「火事かー?」

 という生徒の声が聞こえてきた。それを皮切りにグラウンドはざわざわとした空気に満ちていく。

 掌から落ちたボールが、視界の端でころころとグラウンドを転がっていった。

 言い知れない不安に駆られた俺は、すぐさま教師に早退を申し出た。教室に走って支度を整えると、学校を飛び出したのだった。



 目の前に、全焼した家があった。帰り道の途中に軒を連ねる民家の一つだった。道路にはさっきの消防車が何台か停まっている。消火作業を終えた直後らしい。

 火の手は隣家にも届いていたらしく、その住人らしき男が警察に大きな声で何事か騒ぎ立てている。他にも大勢の野次馬が集まっていた。

 俺は全焼した二階建ての家を見やり、茫然と立ち尽くしていた。日常が非日常に変わっていく気配を感じていた。いつも通っている道で、こんなことが起こってしまったから、ではない。

 なぜならこの家は――

「嫌よねぇ、近くでこういうこと」

 後ろに立っていた女性たちの声が聞こえてきた。

「ほんとよねぇ」

「さっき担架で運ばれた人がいたわよ。名前は……」

「阿形さんよ。いつも苦情ばっかり言ってくるあの」

「あぁ、あの人ね」

 それは、那主奈に対しての苦情を言っていた、あの人の名前だった。

「真っ黒な腕がちょっと見えちゃったのよねぇ。あぁ、思い出したくない」

「それは気の毒ねぇ」

「嫌なもの見ちゃったわ~」

 胸騒ぎが、する。

「……っ!」

 唐突に、あの雨の日が脳裏にフラッシュバックする。眉間に皺を寄せながら、阿形さんは鷺宮家を睨みつける。早くどっかへ行ってくれればいいのに、と続ける阿形さんに俺は何も言い返せなくて、押し黙ったまま拳を握りしめた。阿形さんは俺に背を向けて、家に帰っていく。俺は鷺宮家を見上げる。

 そこで一瞬だけ見えた、カーテンの向こうに消える長い黒髪。

 もう一度俺は、真っ黒に焼けた家を見上げた。

『本を燃やす者は、やがて人間も焼くようになる』

 忘れていたはずの言葉が、嘲笑うように顔を覗かせた。



 その後、気づけば鷺宮家の前まで来ていた。厳かな雰囲気を放つこの家を俺は幾度となく見上げてきたはずだったが、今はただ異質なものに見える。

 俺がインターホンに手を伸ばした時、

「あら、どうしたの?」

 と近くで声がした。

 横を振り向くと、黒いワンピースを着た少女が立っていた。

「那主奈……」

「久しぶりね、秀治」

 両手を後ろで組んで、那主奈は笑みを浮かべる。俺は彼女と向かい合いながら、しばらく言葉が見つからなかった。なぜなら外で彼女と出会うのは数週間ぶりだったからだ。

「おまえ、今までどこにいたんだ」

「そっちこそ、随分と久しぶりに思えるけれど」

「いいから、俺の質問に答えろよ」

「どうしたの? そんなに怖い顔をして」

 那主奈は首を傾げる。表情はひとつも変えずに。その一挙一動はどこか作り物めいていて、何かを誤魔化そうとしているのは明白だった。

「阿形さんって、覚えてるだろ」

「知らないわ。誰かしら?」

「嘘つくなよ。何度も会ってるし、この前だって俺と話してるの見てただろ」

「そう、だったかしらね。ふふ、冗談よ。そんなに怒らなくてもいいじゃない」

 で、その人がどうしたの? と続ける。

 俺は沸き上がる苛立ちを抑えながら、ついさっき目の当たりにしたことを話す。

「家が、全焼してた」

「……へぇ、そうだったの」

 だが、那主奈の反応は淡泊だった。

「それは、不幸なことね」

 と言って、それっきり何の感想もないようだった。

「それだけ、か?」

「他に何を言えばいいのかしら?」

「おかしいだろ。阿形さんも重傷なんだぞ」

「どうでもいい人じゃない。それに秀治だって、あの人のことは迷惑だと思ってたんでしょう?」

「っ‼」

 無意識に俺は拳を握りしめ、もう一度だけ那主奈の顔を正面から見た。

 そこに立っているのは、もう以前の那主奈ではなかった。大切な何かが欠けてしまったような、冷たさだけが残ったような、別の誰かだった。

 予感が確信に変わる音がして、気づけば俺は口を開いていた。

「お前、なんだろ」

 容赦などはなかった。

「え?」

「しらばっくれんなよ! お前がやったんだろ!」

 那主奈が目を丸くしている。白々しい演技だ。このまま嘘を貫き通せるとでも思っていたのだろうか? 

「もう終わりにしろよ、全部。こんなことになっちまったんじゃ、もう引き返せない。さっさと自首して、頭を冷やしてくれ」

「……」

 那主奈は黙ったまま俺を見つめていたが、俺の言葉を聞き終わると、その長い睫毛をゆっくりと閉じていった。それはまるで何かを諦めるような仕草に思えた。そしてようやく観念したのか、次に目を開けたとき、彼女の表情には力のない笑みが貼りついていた。

 もう彼女はこっちを見ようとはせず、

「分かったわ」

 と一言だけ言うと、俺の横を通り過ぎて家の中に入っていった。




 これが俺たち幼馴染が行きついた結末だ。最後まで分かり合えず、すれ違ったまま終わってしまった。救いもなければ残るものもない。きっとあの事件の日から、こうなることは決まっていたのだろう。

 気がつくと俺は学校の教室で授業を受けていた。あれから二日が経ったが、その間、何をやっていたのかは覚えていない。ただふとした瞬間に思い出すのは那主奈のことばかりだった。

 意識の遠くのほうでチャイムが鳴った気配がする。流されるまま俺は足を動かして教室を出た。しばらくすると下駄箱に辿り着いて、体に刻まれた習慣のまま靴を履き替えていた。身体は機械的に動き、頭のなかは靄がかかったように晴れない。

 どうすれば良かったんだろう?

 どこかで決定的に間違ってしまったのか、それとも小さな積み重ねが悲劇を招いてしまったのか。それとも両方か。結局のところ、何をどうすれば回避できたのか分からなかった。

 俺は那主奈と出会った頃を思い出す。

 小学生のとき、隣の家に新しい住人が引っ越してきた。それは三人家族の裕福な家庭で、最初の挨拶のときに貰った果物がとても甘かったのを覚えている。玄関前で俺の親と話し込んでいる両親の後ろで、つまらなそうな表情を浮かべていたのが那主奈だった。

 サラサラの黒髪と大人っぽい雰囲気の彼女に俺はすぐに目を奪われた。やがて那主奈もじっと見つめる俺の視線に気づいて、目を合わせてきた。そうして俺たちはしばらく見つめ合っていたが、突然那主奈がふっと笑った。俺はどうして笑われたのか分からず、困惑と恥ずかしさで居間に引っ込んでしまったのだ。

 お互いの両親の仲がよくなってからはよく家で遊んだ。俺の家ではゲームをやって、那主奈の家では色んなご馳走を食べさせてもらった。

 中学に上がってからは、以前ほど頻繁に会わなくなった。高校になってからは、あまり喋らなくなった。

 那主奈は俺のことをどう思ってたんだろうか?

 分からないし、きっとこの先も分かることはないのだろう。

「あっ」

 校門を通り過ぎたところで小さな声が聞こえた。見やると校門の傍で誰かを待つようにして立っている女生徒の姿があった。制服を見るに他の高校の生徒だ。

 普通なら気にせず帰っていたところだったが、彼女の視線は俺から離れずにいる。

「え、あぁ、あの……」

「なんだよ」

 俺が不審な眼差しを向けると、女生徒は肩を弾ませて視線を逸らした。そのおどおどした態度には見覚えがある。

「あぁ。たしか、前にノートを持ってきてくれた」

「は、はい、そうです」

「那主奈の友達か」

「べ、べつに友達じゃないです。私なんて」

「いや、どっちでもいいけど」

 す、すみません、と小動物のように少女は縮こまり、そのまま黙り込んでしまう。

 俺は苛立ちが募るのを感じていた。

「俺になんか用かよ」

「あ、いやその」

「さっさとしてくれ」

「あぁ、そ、その……すみません」

「謝られても分かんねぇんだよ」

「す、すみません。えっと、その、那主奈ちゃんのことで」

 俺はため息を吐く。

「すまん、今はあいつのこと考えたくねぇんだ。他を当たってくれ」

 頭を掻きながら俺は踵を返そうとした。だが、

「待ってください!」

 伸びてきた手に、制服の裾を掴まれる。

「他なんて、ないんです。那主奈ちゃんの味方なんて、もう」

「……なんの話だよ?」

 背後から聞こえる声は弱弱しかった。振り向くと、少女は俯いたまま肩を震わせている。涙が頬を伝い、道路にぽつりと落ちていった。

 俺が困惑していると、少女は消え入りそうな声で言った。

「虐めを、受けてるんです」

 何を言われたか、すぐには理解できなかった、

「は?」

 いじめ? いじめと言ったのか?

「なに言ってんだよ、おまえ」

「だから! 那主奈ちゃんが虐められてるって言ってるの!」

 突然響いた大きな声に、歩いていた数人の生徒たちがぎょっとした顔をする。だが俺にはそんなことを気にする余裕はなかった。

「んなわけないだろ。あいつが、そんなの」

 戯言だと笑い飛ばそうとする俺を遮るように少女は続ける。

「最初は私が虐められてたんです。テストでカンニングの協力をさせられてて。それに那主奈ちゃんは気づいて、裏で先生に報告してくれたの……」

「そしたら、先生が皆の前でそれを注意しちゃって、私がチクったんだって思われちゃって……」

「那主奈ちゃんはそれも分かってたから、私に被害が及ばないように、自分が先生に知らせたんだって、すごく煽るみたいに言って……」

 途切れ途切れに話す少女の瞳には、深い後悔が色濃く存在していた。

「その日から嫌がらせが始まったんです」

「最初は教科書に悪口を書いたり、無視したりするだけでした。でもどんどんエスカレートしていって、学校中に那主奈ちゃんの酷い噂を流したり、みんなで無視したり、直接暴力を振るわれているのも何回も見ました。先生も、見ているはずなのに何もしてくれないし……」

「私は怖くて、傍で見ていることしかできなくて……!」

 少女は道路に座り込んでしまう。

 俺は目を見開いたまま動けなかった。

 考えれば考えるほど、彼女の話す内容と最近の那主奈の行動がリンクしていく。俺が帰るときに那主奈がいつも家にいたのは、ずっと学校を休んでいたからなのでは。あの日渡した大学ノートをすぐに燃やしたのも、ただ学校のことを思い出したくなかったから。

 気持ち悪いほどの速度で真実のピースがはまっていく。

 そして最後に、俺は少女が口にした一言が引っかかった。

「待て。あんた、さっきなんて言ったんだ?」

「え?」

「だ、だからさっき」

 見上げてくる顔には困惑が浮かんでいる。俺は声が震えるのも構わずに聞いた。

「教科書に悪口って」

「はい、言いました、けど」

「その教科書、那主奈はずっと使ってたのか?」

 なんでそんなことを聞くのか、という表情を少女は浮かべたが、やがて記憶を探るように視線を落とした。

「使って、ませんでした。たぶん嫌がらせで盗られたんだと思います。那主奈ちゃん、途中から教科書とかノートとか、ほぼ持ってきてませんでしたから」

 その答えを聞いたとたん、俺は駆けだしていた。

「ちょ、ちょっと!」

 追いすがる声が手を伸ばしてくるが構う暇などない。

 思い出したのだ。あいつが最初に燃やしたものがなんだったのか。

 あれは教科書だった。俺の学校で使われているものとは違っていただろうが、厚みや外側の光沢は頭のなかにある教科書のイメージどおり。表紙に手書きで何事か書かれていたと思ったのは半分勘違いで、実際に書いたのは那主奈ではなく、きっと虐めを行っていた奴らだったのだ。想像だが、俺が一瞬見たのは非情な暴言の数々だったのでは。

「くそ!」

 自らの間違いと、それに気づけなかったことへの強い憤りがせり上がってくる。それと同時に那主奈に対しても漠然とした怒りを覚えていた。

 彼女が本を燃やし続ける理由はまだ定かではないにしろ、その原因には確実に虐めが関与していることは分かった。今まで全くそんな素振りは見せなかったが、那主奈は密かに苦しんでいたに違いない。

 これで何もかもが理解できたわけじゃない。知りたいこと、聞きたいことは山ほどある。許されるならば、謝りたいことも。

 とにかく俺は那主奈に会いに行くことに決めた。

 長く伸びたアスファルトの先、空を覆い尽くす暗雲が街に影を落としていた。



 那主奈の家までもうすぐといったところで、思わず顔を顰めたくなるような臭いがした。

「これって」

 那主奈が本を燃やしていた時の煙の臭いに似ている。だが、いつもとは違う感じもする。まだ家に到達もしていないのに何故、こんなに臭いがやってくるのだろうか。

 不吉な予感が鎌首をもたげ始める。警鐘を鳴らすように心臓が強く脈打っていた。妙な焦りに駆られ、切れ切れに息を乱しながら走った。

 そして目的地の前まで来た時、俺は立ち止まって、おもわず息を呑んだ。

「うそ、だろ」

 煙が出ているのは、いつも通りだった。違ったのは、煙が出ている場所だけ。

 二階の窓から、モクモクと煙が上がっていたのだ。

 最後に会った時の、悟ったような那主奈の表情が、脳裏に過ぎった。

「那主奈!」

 気づけば敷地に飛び込んでいた。

 庭を見やると、そこには一斗缶が置きっぱなしになっていた。さっきまで本を燃やしていたのだろうか。

 きっと那主奈はなかにいる。

 そんな確信に背中を押され、俺は力いっぱい入口の戸を開け放っていた。

 視界が真っ黒に包まれた。

「っ!」

 とっさに手で口を隠す。

 腕に焼けるような痛みが走った。

「くそっ!」

 熱気がすごくて、前に進めない。

 仕方なく俺は、庭の方に向かった。

 縁側の戸は開いていて、幸い煙の勢いも小さい。――こっちなら。

 俺は靴のまま家に上がると、手前にあった和室の障子を引いた。

 先ほどと同じように、黒煙が噴き出す。

「ごほっ」

 喉が焼かれたみたいだった。その場で蹲り、何度も咳き込む。

 横目に室内を覗きこむと、白い足が見えた。

「な、ずな!」

 鋭く叫ぶと転がり込むように部屋のなかへ飛び込んだ。

 那主奈は箪笥に背中を預けるようにして倒れている。

 俺は彼女のもとに駆け寄り、名前を呼びながら肩を揺らす。だが返ってくるはずの反応はなかった。気を失っているのか、それとも――。

「いや」

 今はそれどころじゃない。

 背中と膝裏に手を差し込み、お姫様抱っこの要領で一気に身体を持ち上げる。

 立ち上がると同時に黒い煙が視界を覆い尽くす。さらに肌を焼くような熱気が襲ってきた。俺は固く目を閉じ、平衡感覚も覚束ないまま一気に駆け抜けることにした。両足と両手に意識を集中させなければ、襲い来る熱気に挫けそうだった。

 障子に肩をぶつける感触がしたが構わずに走り抜ける。直後、俺たちは縁側から庭に投げ出された。

 気づけば、近くでサイレンの音が響いている。

 打ち付けたところが痛むが、どうでもよかった。

 意識がはっきりしない。思考がぼやけて、まとまらない。

「しゅう、じ」

 不意に、隣から声が聞こえた。

「ぁ……、な、ず」

 返事をしようとするが、呼吸が上手くできずそれどころではない。

「なんで、助けちゃうのよ」

「な、ぁ……ぅあ」

「こんな私を、なんで……」

 涙で滲んだような声だった。

 俺は、胸が締め付けられて、何でもいいから、返事をしてあげたくて。

「大丈夫ですか⁉」

 その時、駆け込んできた数人の人物の影が見えた。次いで、体がすごい力で持ち上げられた。そのせいで伸ばしかけた腕は那主奈に届かず、俺たちは二人別々に抱えられた。ぷつり、と電源が切れるように、意識が途絶えた。



 目覚めると病室にいた。どれくらい寝ていたのかは分からない。

 数日後、厳めしい顔つきの警官が訪ねてきた。事情聴取を目的とした来訪だったが、実にあっさりと終わってしまった。その後、ひとりの女子高生が自殺を図ったためと簡単に結論づけられた。

 阿形さんの家を放火した犯人は、俺の入院中に捕まったらしい。今回の事件との関与は流石に疑われただろうけれど、じきに繋がりはないと判断されたようだった。

 長期入院を免れなかった俺は病室で、水だけしか飲めないような生活をしつつ、その間、ずっと那主奈のことを考えていた。一緒の病院には、いるはずだった。けれど何故か気が進まなくて、会いに行くことはなかった。

 でも後で、俺は深く後悔することになる。

 那主奈は何も告げず、俺より先に退院し、いつのまにか親戚の家に引き取られていたのだった。



 さらに数日後。

 俺はパイプ椅子に座っていた。目の前には一斗缶を置いてある。

 懐ろからライターを取り出し、少しばかり手間取られながらも缶のなかに火をつけ、準備を整える。

 手にはハードカバーの小説を掴んでいた。去年ベストセラーを取った本格ミステリーである。一応目を通しておいたほうが感じ方も変わるかと思い、全部読んでみた。内容は申し分ない面白さで、エンターテイメント性に富んでいた。素晴らしい作品だった。

 俺はその素晴らしい作品を一斗缶のなかへ放った。当たり前だが本は炎に勝てない。次第に炎に包まれていき、強い熱を受けたところから焼け焦げていく。黒煙が立ち昇り、ゆらゆらと曖昧なかたちで空へ吸い込まれていった。

 こうすれば、何かが分かると考えたのだが。

「もったいないな」

 つまらない感想しか出てこなかった。

 特段ひどく徳に背いているような気持ちにはならないし、感慨も湧かない。ただ一読の価値があり、誰かの手に渡れば誰かの記憶に残ることができたものが、あえなく消えていくことに関しては罪を犯しているような気分にはなった。

 ――ふと。

 脳裏に彼女の姿が思い浮かぶ。もちろん、同じことをしている彼女の姿だ。

 本であれば何でも節操なしに燃やして、その度にそれらしい高尚なことを述べていた俺の幼馴染。罪悪感や背徳感、言葉にできない魅力など、いまいち要領の得ない内容ばかりで辟易したものだが、今ならあれが多分に詭弁だったのだと分かる。

 もしかしたら、あれは一種のSOSだったのではないだろうか。目立つ行為を続けたのは、何かを主張したかったからとも解釈できる。本を燃やすことが目的だったのではなくて、むしろそれは手段に過ぎなかったのではないだろうか。

 だったら本当の目的は、それによって発生する煙にあった……?

「……那主奈」

 もっと早く、気づいていたら。

 そんなことを思っても、もう今更かもしれないけど。それでも。

 何より大切な家族を奪われ、あげく学校では虐めを受けて、友人だって助けてくれなかったに違いない。それなのに、孤独を癒してくれた最愛のペットさえ失って。

 唯一の頼りは、幼馴染の俺だけだったのだろう。

 だが俺は那主奈に不審の目を向け、疑った。変わってしまったのだと決めつけた。変わってしまったのは俺の方なのに。

 那主奈はどう思っていたんだろう。心を蝕むような孤独と戦いながら、それでも気丈に振る舞おうとする彼女の心境は、推し量れたものじゃない。

 俺だけは変わっちゃいけなかったのだ。もっと前から那主奈のことを理解してやっていれば、こんなことにはならなかったはずだ。

「ごめんな」

 と呟いた時。

 乾いた風が頬を撫でていった。季節の移ろいを感じさせる、冷たい風だった。

 ゆらゆらと揺れながら、上へ向けて、煙が昇っていく。

 どのくらい高いところまで行けるのだろうか。俺は煙の先を見上げた。

「あ……」

 視界に広がったのは、暗澹たる曇り空だった。

 あの夏、いつも俺たちの上にあった灰色の空だ。

 でもよく見ると、その雲間からは、うっすらと光が差し込んでいて――。

「……」

 その時、俺は胸に決意を固めた。



 見慣れない町に、俺は一人で訪れていた。

 溶けかけの雪を踏みつけるたびに、ざくざくと音が鳴るのが好きで、わざと白い部分を選んで歩いていた。アスファルトの両端に積もった雪が、日光を反射して、眩いばかりに輝いている。

「こんにちは」

 道中、腰の曲がったおばあさんが話しかけてきた。

「こんにちは」

「すいぶん厚着だねぇ」

「はい。この町、けっこう寒いって聞いてたので」

「あら、初めてなのかい」

「実は」

「珍しいねぇ。観光でもないんだろ?」

「はい」

 そこで一拍置いて、

「人に、会いに来たんです」

「あぁ、そうかい」

 おばあさんは俺の表情から何を読み取ったのか、笑顔を浮かべた。

「引き留めて悪かったねぇ。ほら、いっておいで」

「はい」

 会釈すると、おばあさんは手を振ってくれた。

 小さく息を吸い込むと、冷たい空気が肺に溜まったのを感じた。厚着の隙間からも冷たい空気は侵入してくる。俺の町の冬は、こんなに寒くない。もしかしたら彼女も、慣れない寒さに悩んでいるかもしれない。

 俺は歩みを再開した。

 道すがら、町の住民とすれ違うたびに、「大丈夫?」と話しかけられる。スマホのマップをちくいち確認していたのを、迷っていると捉えられたのだ。俺の目的地を話すと、住民の人々は親切に道順を教えてくれる。「良かったら案内しようか?」なんて言ってくれる人もいて、本当に良い町だな、と俺は嬉しくなってしまった。

 そしてようやく目的地の前に到着すると、俺は立ち止まる。

 あの和風家屋とは全く雰囲気の違う、一般的な二階建ての家だ。屋根には雪が積もっていて、長い氷柱が下に向かって伸びている。庭からは煙が上がっていた、なんてことはない。ただ、なんとなく温かい感じの家だと思った。――ここが。

 俺は手を伸ばし、インターホンに指先を触れさせたところで、ぴたりと止める。

 一度、小さく深呼吸をした。

「ふぅ」

 白い息が風に運ばれて、消えていく。

 俺は指を一気に押し込んだ。

 家のなかで、チャイムの音が響いたのが分かった。しばらくして、わずかな物音。

 やがてインターホンから、くぐもった声が聞こえた。

 それは彼女の声だった。


「——はい。どちらさまですか?」


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オオカミと煙 伊草 @IguSa_992B

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