最終話

 がたん、と電車が大きく揺れた。掴む人のいない吊り革が跳ねる。

 夢から醒めるように僕は頭を上げた。

 電車が駅に着いたようだ。ここは町の主要駅で電車に乗っていた人々が大勢降りていく。確か彼女もこの駅で降りていた。車両にいた半数以上の人が降りてから、さらにその半数くらいの人が乗り込んでくる。

 乗客の入れ替えが済んで扉が閉まった。

 僕はその間、閉まっていく扉の向こうを自分がじっと見つめていたことに気付く。

 何も無いのに。

 扉の窓ガラスの向こうで一度振り返って、小さく手を振る彼女はもういないのに。

「あ」

 そこで僕は唐突に理解した。

 この空洞が何なのか。なぜ空いたのか。いつ空いたのか。何が入っていたのか。

 伏上さんの言っていた意味がようやくわかった。そして、なぜ僕が駅に着くまで忘れていたのか気が付いた。

 忘れるというのは、防衛本能だったんだ。

「うあ、あ、」

 彼女はもういない。そんな当たり前のことを今更思い出した。

 教室にも、ファミレスにも、駅のホームにも、昨日とまるで同じ景色の中に今日から彼女はいない。

 その事実を認めてしまった途端、僕の全身から力が抜け、今まで知り得ない痛みに襲われた。脱力した喉の奥に込み上げてくるものを必死で拒む。

 失恋なんて大したことないと思っていた。

 当然だ。辛いのはこれからなんだから。


 僕はあと何度、彼女が頼んでないパンケーキを運ぶのだろうか。

 僕はあと何度、彼女からの連絡がないスマホを開くのだろうか。

 僕はあと何度、彼女を見かけても黙って素通りするのだろうか。


 明日から僕は、彼女が隣にいないだけの世界を昨日までと同じように過ごす。彼女の喪失を何度も何度も突き付けられながら僕は歩いていく。

 自分の中に穿たれた『点』に目をやった。

 ハッピーエンドに打たれたピリオドはどこまでも暗く、深く、重く、痛い。

 その心に空いた黒い穴は血液が滲むようにじわじわと広がり続けて、幸せな結末の先を生きる僕をこれからも蝕んでいくのだろう。

「……なんだよ」

 口ではああ言っておきながら、優しさを少し馬鹿にしたりして、馬鹿なのは僕だった。

 ひとつだけ空いた座席に自分が座っただけで覚える違和感。回想の端々に混ざる彼女との記憶。それでも決して思い返さないようにしていた彼女の名前。

 あんなに余裕ぶっておきながら、無様なほど必死にしがみついていた。あの人には全部わかっていたのかもしれない。

 結局のところ、僕は。

「ちゃんと傷ついてんじゃん」

 がたん、と電車が大きく揺れた。そのまま僕の身体は座席からぐらりと投げ出され、どこまでも転がっていってしまいそうだった。

 繋ぎとめるように、ぎゅっとリュックサックを抱きしめる。

 紙袋がくしゃりと音を立てた。



(了)

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ホール・イン・ハッピーエンド 池田春哉 @ikedaharukana

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