第15話

 温かい春の風が吹きぬけたところで、エヴィはロバに荷物を載せ、その背にまたがった。


 頭上からやわらかい日射しが降りそそぐ。昨日から急激に日射しが強まり、外套を着ていると汗ばむぐらいになった。灰色の大地もしっとりと湿って、春の気配を感じさせる。畑に出る農民の姿も増えていた。


 厳しい季節が過ぎて、ゴ・サミュは人も物も大きく動いている。戦乱が足を引っぱるようなことがなかったのは幸いだった。


「帰るのか」


 トゥクラスに声をかけられて、エヴィは振り向いた。ためらった末に、ロバから降りる。


「ああ。私の役目は終わった。あとは細かい交渉だけだから、王都の外交官にまかせてよかろう」

「事の次第を伝えたら、急ぎ派遣すると言ってきたよ。まさか、私が交渉を成立させるとは思わなかったらしい。できれば、君にも留まってほしいのだが」

「必要ない。私設外交官は王都の連中ににらまれていて、いるだけで騒動が起きるよ。ああ、そういえば、入れ替わりの件はうまくごまかせたかい」

「何とかね。サミトンは気にしていたが、グアントは金勘定で頭がいっぱいさ。鉱山のおかげでね」

「それは、なにより」


 入れ替わり件は、交渉の最終段階で明らかにするようにトゥクラスに伝えていた。条約締結後に露見すると、それを言い訳にして、破棄を訴えてくる可能性がある。暗殺防止は理由としては苦しいが、押し切ることはできるとエヴィは見ていた。


「まあ、文句を言ってきたとしても、打つ手はあったが。入れ替わりは向こうが得意技だ」

「ヤマニト会議の時か」


 独立をめぐって、サクノストの国王がヤマニトの地に赴いた時、暗殺を怖れて身代わりを立てていたのは有名な話だ。


 会議中に三回も入れ替わりをおこなって他国の顰蹙を買ったが、実際の偽物の一人が暗殺されたという事実があっては文句をつけることもできなかった。以来、国際会議で、サクノストの代表者が身分を隠すことは珍しいことではない。


「向こうの準備がずさんで助かった」

「専門の外交官が一人でもいれば、こんなことにはならなかった。運がよかったな」


 エヴィはロバに乗った。手綱を握ったところで、さらにトゥクラスが声をかける。


「確かに戦いは終わったが、この先が大変だ。賠償金に国境線問題、それが終わって条約の骨子が固まったら、それを王都に持っていて、国王の認可を受けねばならない。下手な条約を持っていけば、文句をつけられる。できることならば、事の次第に詳しい者に手を貸してほしいところだが」

「私はやらないよ。そろそろ本業に戻りたい」


 エヴィはロバを前に出したが、すぐに止めた。大きく息を吐く。


「だが、話を聞くだけなら聞く。店に顔を出してくれ」

「やってくれるのか」

「話を聞くだけだ。こう見えても私は忙しい」

「そうかい。だったら、今のうちに、一つ聞いておこう」

「何だ」

「会議の終盤で、向こうの魔術具が壊れたね。あれは、どういうわけだい」

「知らないよ。脆くなって勝手に割れたんだろう」

「同時に全部がかい。そんなことあるはずがない。それに、私には君が手を振った直後に壊れたように見えたよ」


 エヴィは答えない。


「神正暦元年、増えすぎた魔女を駆逐するため、光の神の使者が現れて、大戦争となった。いわゆる魔女大戦だ。三年で魔女は駆逐され、魔術は魔術具にわずかに留まるだけの存在となった。人間の世紀はそこからはじまるわけだが、それがすべてではないという者もいる。実は魔女は細々と生き残っていて……」

 そこでトゥクラスは言葉を切った。エヴィが手で制したからだ。

「それ以上は言わないでほしい。嘘はつきたくない」

「沈黙でかわすこともできるが」

「同じことだよ。答えたくないから、放っておいてくれ」

 エヴィが手綱を振ると、ロバは歩きはじめた。ゆっくり御用邸から離れて、やがて道の彼方に消える。

 それをゴ・サミュの王子は身じろぎもせず、じっと見つめていた。



 ヤマニト丘陵をめぐる戦いはここで終わり、交渉の結果、ゴ・サミュに有利な形で条約が結ばれることとなった。締結直後、グアント伯爵が暗殺されてしまったこともあり、戦闘に至るまでの経緯はわからずじまいであったが、その点を深く探ろうする者はいなかった。


 本来なら、この歴史の彼方に消える交渉が後々まで語られることになったのは、私設外交官としてエヴィがはじめて交渉の舞台に立ったためだ。


 最後の魔女にして、六つの大国を敵に回して一歩も退かなかった外交官。後に世界大同盟を作りあげ、人類を滅ぼす神々と交渉をおこなった娘。


 『たけき舌鋒』のエヴィ。彼女の物語はここからはじまる。

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私設外交官エヴィは負けをしらない ~魔女は鋭き舌鋒で大国をなぎはらう~ 中岡潤一郎/加賀美優 @nakaoka2016

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