楽園より


 このような切り出し方で記録を記すからには、私は、私が読み手を前提としている事実を認めなければならない。そしてまた、当然ながらこれの読者は、今この時点より未来の人物であるはずだから、私のこの言動を訝しく思うに違いない。もうすでに、君たちは全てを知ってしまった後なのだから。

 君たちは疑問に思うだろう。何故私が、文字による記録を残すような労をわざわざ採ったのか、何故私が、読者のような存在を仮構してまで、このような語り口調でものを書き記しているのか、と。


 しかし、余計な御託はよそう。私は告白する。私の動機、それは孤独の中にこそある相互の理解であったと。他者を理解してやろうとする能動的な、肯定的な、他者受容であったと。我々は皆孤独であればこそ、永遠に届き得ぬ他者への理解の欲求は、無限の旅路を経て、自己をすら消失した無上の愛の荒野へと駆けだすのである。私はそれを求める。私は私の精神を、この機械のような金属質の硬い精神を、この愛の荒野へ開放してやりたい。そこには最早孤独さえないのだから。


 愛。愛。私はこの『愛』という言葉を自らの手で紙面に書きつけていくことに、些かの決まり悪さを感じる。なぜなら、読者諸氏よ、君たちには私の言う愛など、まるで信じられないということが分かるからだ。

 しかし、それでいい。私は私の言葉を信じ、君たちはそれを信じない、反対に私が信じないことを、君たちが信じる場合もあるだろう。そして君たちがそれについて書く場合も、君たちは君たちの誠意と確信とで以って、紙面に『愛』と記すはずなのだ。

 私はそのような関係を、君たちと築きたいと考えている。言葉のみによって結ばれた関係は実に薄弱で曖昧なものだけれど、それによって結ばれているとき、我々は孤独だろうか? いや、確かに我々は孤独だろう。しかし、その孤独を互いに埋めていこうとする努力こそが、先に私の述べた荒野への驀進であり、愛の可能にする不可能の調和なのだ。


 我々は孤独であればこそ、互いを愛しうるのである。愛は無限遠を超えて互いに通じ合う磁力なのである。


 私はこの記録の始まりを、どこまでも遡ることができるが、それを始めるに妥当な時点の選定に難儀していた。ここに於いて為される記録とは、一見無機的な叙述であるけれども、私はその無機的な叙述で以って、ある出来事を物語りたいと思っていたからだ。

 小説や戯曲の中では物語は意図され閉じられた秩序(系)を持っているが、現実世界の物語は連綿とした大洋の繋がりの中にあり、全ての悪人と聖人とが、その行動の因果を共にしている。故に、私が一度その連関を断ち切って一個の閉じた物語として再構成しようものなら、それには妥当な正当性と大胆な思い切りとが必要になることは道理だ。悪人を悪人として、聖者を聖者として書く場合に、我々は、両者に変わらぬ敬意を以ってしなければならないのだから。

 だが、これは些末な事情だ。もっと大きな問題は、我々が連綿とした歴史の流れを断つ場合に、そしてその断ち切られた歴史の一反を一つの物語として仕立てる場合に、その布端の裁断された綻びを、どうにも見立てよく繕わなければならないというところにある。これは真実に対する瞞着に繋がるし、ややもすると、私は私の当初の試みに挫け、この記録全てを反故にするやもしれぬ。これは避けたい。その点で、私は本記録、もとい物語を記すにあたって、小説家としてよりも、寧ろ科学者としての態度で望みたいと考えている。科学の最良の性質とは、人間の能う限りの平等というところにあるのだから。これは大地の女神の意思、時の女神の意思を借りた、強力な平等性である。

 そして、初めに私がここで、このように迂遠な方法をとってまで、私と諸君らに共通の認識のあることを検めようとしているのもまた、この意図に理由がある。即ち、平等性の担保。私は本物語の端と端、始まりと終わりとを、元の所有である連綿とした歴史の流れの中に毀損無く返すために、継ぎ目無い意識の繋がりを諸君らに求めたいのだ。

 では、共通の認識とは何か? それこそ『愛』なのである。


 諸君らの内のいくらか知性の発達した者の中には、愛という言葉の持つ陳腐性を恐れて、これを今の私のように躊躇い無く用いることに憚りを感じる者も少なくはないだろう。しかるに、愛とは日用に溢れる粗野で大仰な語彙でこそあれ、我々の内にはこの『愛』という語彙を以てして他に表現するに能わぬ情念というものが、確かにあるのである。我々の内に、愛はどこから生じるのか。それは矛盾からであろうか? 果たして愛は、孤独から生じうるか? いはゆる自己愛というもの、これすらも、他者の存在を仮定しているのではないか? 博愛や種族愛というものと、自己愛とを分け隔てる何らの理もないのである。愛は矛盾に満ち満ちている。何となれば、愛こそ他者と自己との存在を規定しうる唯一の手だてであるからだ。


 私は定石に則って、この物語を朝の情景から始めたいと思う。朝は生命の誕生、或いは、復活を象徴しているからだ。復活の前には必ず死がある。夜という懐疑なくして、朝という信仰はありえない。

 朝は、あらゆる物語の連続性を象徴している。


 私があそこから救い出されたのも、朝のことだった。

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サムヤプロジェクト抄 坂本忠恆 @TadatsuneSakamoto

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