茜色の放課後

鬼平主水

第1話

 佐渡さどゆずるは成績優秀でスポーツ万能、それでいて真面目で、端正なルックスも相って中学内の女子生徒達からも人気が高かった。

 譲はこれまで挫折とか屈辱とかいう言葉とは無縁だった。小学生の頃から、彼は全教科の成績が常にトップであり、同級生からも一目置かれていた。教師からも、公立の中学校ではなく名門の私立校に入学した方が良いのではと言われていた。ところが彼の家庭環境には進学校へ行けるほどの経済的余裕がなかった。貧乏と言うほどではないものの、一般のサラリーマン家庭では、私立中学に通わせられる余裕はなかったであろう。事実本人も私立校への入学を考えてはいなかった。譲は気づいていたのである。学力競争の荒波に揉まれるよりも、公立の学校を選んだ方が自身への尊敬の目が離れることがないことに。

 しかし譲のこの予想を裏切った人物が現れたのである。中学生になって初めての定期試験である中間テストで、譲はクラス内一位の成績を無事に獲得した。この時点ですでに彼は学年内でも優秀な生徒として見られていたため、点数でその証明を果たすことができた。ところが学年全体の成績は違った。この学校では校内の掲示板に定期試験の成績の上位十名の名前が貼り出されるのだが、そこに書かれていた譲の名前は二位だったのである。譲はそれを見て初めて屈辱を覚えた。自分の上にある人物の名前を確認した。『真園まぞの直人なおと』――聞いたことのない名前であった。さらに譲を驚かしたのはその点数だった。全教科満点なのである。

 近くで同級生二人が話していた。


「へえ、佐渡君より勉強できる奴がいるんだなあ」


「真園ってあれだろ、運動が全然だめなやつ」


「なんか聞いたことあるな。じゃあ頭脳に全振りしてるってことか」


 直人は隣のクラスらしい。どうしても顔を見てみたいと思い、譲はホームルームが終わるとすぐに隣のクラスへ足を運んだ。

 初めて直人を見た時、彼から病弱な印象を受けた。そして譲は思い出していた。入学式の時からいやに清潔感があって美しい少年がいたことを。時折、どこか陰のある雰囲気を漂わせながら人を寄せ付けない、それでいて人に不快感をもたらさない少年とすれ違っていたことを。その美少年こそが、この直人だったのである。


「君すごいね、全部満点だったんだろ」


 読書中だった直人は本を閉じ、譲の方を振り向いた。


「君のこと知ってるよ。佐渡譲君だよね」


「そんなに俺のこと有名なの?」


「知らない人はいないんじゃないかな。掲示板見たよ。噂通り、すごい成績だね」


「君の方がすごいよ、全部満点なんて。成績で負けたのは初めてだよ」


 譲の言葉を聞いて、直人は少し微笑んだ。


「別に僕は勝ち負けとか気にしてないよ。誰が上とか下とかどうでもいいし。僕は僕、君は君さ」


 直人はそれを言いながら荷物を片付け、じゃあ、と帰ってしまった。譲は立ち尽くした。決して直人が強がっているわけではないことは譲にも伝わった。直人には誰かと切磋琢磨して能力を高めようなどという考えは毛頭なかったのである。



 それ以来、学校内では譲と直人の話題で二分された。特に定期試験の時期になると、今回はどちらが一位を取るのか、というのが学校内の議題になっていた。そのことを譲が意識しないわけがない。彼は直人にどうすれば勝てるのかということしか考えていなかった。



 第一学年最後の期末試験。ついに譲は全教科満点を獲得した。掲示板の成績順は直人と並んで堂々の一位だった。


「お疲れ、ようやく真園君と同じ満点が取れたよ」


 譲は学校の帰り道で直人を見かけると、走り寄って声をかけた。しかし直人はこう言った。


「君、僕よりもスポーツ得意なんだからさ、とっくに僕に勝ってると思うよ」


 だからそれ以上勝ち負けの話はしなくていいよ――直人の目はそう言っているように見えた。

 あの時と同じく、譲は呆然と立ち尽くすしかなかった。あれだけ毎日のように話題にされていながら、直人はこの一年間、全く譲を意識していなかったのである。

 譲に初めて嫉妬が生まれた瞬間だった。



 直人への嫉妬を沈める方法――それは嫉妬を生んだ張本人に屈辱を与えることだった。

 二年生になると、譲が仲良くしていた三人の男子と同じクラスになった。彼等はある意味で譲の言いなりになっていたと言っていい。その代わり譲はこの三人に特別授業を行うなどしてサポートしていた。この三人を利用する手はなかった。彼等は譲に指示されれば、直人が抵抗できないように押さえつけることもあるし、譲が必要とする道具があれば事前にそれを調達してきた。

 譲は直人が学校を出てどの方向へ帰っていくのかを知っていた。家がどこかまでは知らなくてもいい。学校から離れて、誰にもばれることなく直人に屈辱を与えればいいのだから。

 譲のいじめは、単純な暴力の時もあれば精神的な屈辱を与えるようなものもあった。泥パックと称して顔中に泥を塗りたくったこともあれば、動物のものまねをさせたこともあった。さすがに死の境目を彷徨さまようまでに至るようないじめはしなかったが、それでもここまで追い詰めてしまえば、常人の相手であれば自殺を考えてもおかしくなかったであろう。

 ところが直人は譲の為なすがままになっていた。譲の悪行は一切学校にばれているようなこともなかった。このことに関して、譲は全く考えを巡らすことはしなかった。正確に言えば、直人が仮に教師や他の生徒に告げ口したところで、誰も表向きは真面目な譲の悪事を信じることはないと信じ込んでいたのである。



 夏休みも明けて、二学期になっていた。前期の中間・期末試験共に直人に負けたのは言わずもがなである。

 どれだけ屈辱を与えても、直人は怯まずに常にトップの成績を出し続けている。譲はとうとう荒れるようになった。とは言っても、表向きはそのような素振りを見せないから、家族ですら彼の心情を察することができなかった。古典的だが最も早く不良に近づける方法――譲は夏休みの間に煙草を覚えたのである。煙草屋の主人が面倒くさがりで年齢確認をしないのを良いことに、彼はその店で煙草を手にしていたのである。

 夏休み中は、家の中でなければどこで吸おうが構わなかったが、二学期になればそうはいかない。けれども譲は、煙草を学校へ持ち込むようなことはしなかった。彼の帰り道からはずれたところにある岩壁に、ちょうど煙草の箱が入る大きさの隙間があった。譲はその辺りが人目につきにくいのを良いことに、そこに箱を入れておいて、帰り道に一本吸っていたのだった。



 その日も譲は直人をいじめて帰るつもりだった。いつもの仲間を引き連れて直人を探していると、すぐに彼は見つかった。仲間の一人が後ろから直人を抱き上げると、いつも彼をいじめるのに使っている、人目に付きにくい良い塩梅の広場に連れて行った。


「おい、誰かロープ」


 いつどこで手に入れたのか、仲間の一人がロープを取り出す。


「脱がせてやれよ」


 譲の一言で、残りの仲間が直人を押さえつけた。この時まで直人はじっと正座して微動だにしなかった。脱がされている間も、抵抗は一切しない。


「下は?」


「上だけで良い」


 ロープを持つ譲の格好は、悪人に拷問を与える前の獄卒のようであった。譲はロープを裸の直人に巻きつけた。病弱な印象を与える直人ではあったが、彼の裸は瘦せてこそいるが均整が充分に取れており、変に鍛え上げてしまえば彼の美しさが大きく下げられてしまうのではないかと思われた。

 直人は後ろ手に縛られた。その姿を見て、譲の仲間達はゲラゲラと笑った。


「これから一つ言うことを聞いたらすぐにほどいてやる」


 そういうと譲は片方の靴を脱ぎ、靴下も取って素足になった。


「俺の足、舐めれるよな?」


 目の前に差し出された譲の足を、直人はじっと見つめていた。そして、何の躊躇ためらいもなく、足の甲を舐め始めた。さながら皿のミルクを舐める猫のように。


「おい、こいつ男の足舐めて興奮してるぞ」


 譲達は笑いあった。


「そこばっかりじゃねえ、他のところも舐めるんだよ」


 譲はしゃがみこむと、舐められている足を少し上げた。直人は指も裏も丹念に舐め回す。


「そんなに良いのか? 気持ちわりい」


 譲は足の裏を直人の顔に擦こすり付けた。土と唾液の混ざった何かが、直人の顔にへばり付く。


「佐渡、もう良いんじゃね?  いくら人いないからって、長居は危ないぞ」


 仲間の一人の提案を譲は承知した。足をティッシュで拭いている間、仲間たちが直人の縄をほどいた。


「じゃあ、また明日な」


 譲は足を拭いたティッシュを直人に投げつけて帰った。直人は服を着ようともせず、その場に座り込んでいた。

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