二人の人生


「これが、私の思い出のすべてです」

 オルゴールにも似た心地好い声が終わりを告げ、ミスターを回想から引き戻す。夢を見ているようだった。ぼうとする頭を二、三度振り、ミスターはわずかに震える声で「マダム」と言った。マダムはしっかりと頷いた。いつかと違い、目を合わせながら。

「ひとつだけ、いいですか。ご家業があると言われた。店頭で商品を売られていた。貴女はそこの娘さんなのですね。食べ物屋の娘さんだ。そして」

 ついに言葉が震え出す。先程の涙を思い出す。ミスターは胸が一杯になった。しかしそれはマダムも同じだ。

「貴女は」

「私は」

「──和菓子屋の娘」

 周囲のざわめきは消え、二人の声が揃った。それ以上の確認は必要なかった。何十年もの間掛け違い続けていた互いの心は今、丁寧に答え合わせをされたばかりなのだから。

「マダム、なんてことだ……」

「ええ、ミスター。本当に……本当に、奇遇ですこと」

 誤解への申し訳なさがあった。淡い恋への懐かしさがあった。しかし、向かい合う二人の瞳に再燃の炎は見られない。離れてから今日までの歩み、それぞれに築いた生き方に満足していたからだ。二人の人生に“もしも”などと思う余地もない、それが答えであり、同時に彼らを幸せな気持ちにさせた。自分だけでなく相手も同じであることが、嬉しかった。

「ああ、しまった。お喋りに夢中でせっかくのデザートがそのままになっていましたね。どうぞ気にせず召し上がってください、マダム」

「あら、それならスコーンをおひとついかが? これなら甘くなくってよ。……ふふ。ようやく貴方とお茶が出来ましたわね、ミスター」

 マダム、ミスター。茶化すように呼び方はそのままで。ここに居るのはかつて恋心を寄せ合った絹子と隆次ではなく、偶然思い出を共有するだけの“マダム”と“ミスター”なのだ。二人は顔を見合わせて笑った。

 楽しそうにスコーンとあんこを仲良く分け合う。甘い方はマダムへ、甘くない方はミスターへ。あの日実現しなかったお茶会は、たいへん穏やかな時間であった。

「ねえミスター。私達、きっと素敵なお友達になれるわ。本当に素敵。ああ……私まるで、一本の映画を観ている心地ですのよ」

 上映中だけの魔法より、シンデレラの奇跡より、ずっと確かな友情がそこにあった。やがて彼らは大切な人のもとへと帰る。改めて伴侶への愛を想う。そして語って聞かせるのだろう。映画にまつわる、古く新しい友人の話を。


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友愛ロマンティック 藤咲 沙久 @saku_fujisaki

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