隆次という青年


 嫁いだ矢先に主人が事業を立ち上げましてね、最初のうちは何度も挫けそうでした。ですが二人で苦労を重ね、周囲の方々にも助けられ、ありがたいことに今では会社も大きくなりましたわ。私が社交的になれたのも、そういった経緯があってのことでしたの。それでも時折、恥ずかしがり屋な性分が覗いてしまうのですけどね。

 娘時代の私が今の私を見たら、きっと衝撃を受けるでしょう。本当に内気で気弱で、自分の想いを口にするのが不得手な子でした。近所に住む同い年の男の子を好いているだなんて、本人どころか誰にも明かせるわけがなかったのです。

 実家には家業がありましたが、仕事は兄が継ぐと決まっておりました。姉も良い縁談があって早々にお嫁へ行きました。跡継ぎも、良家とのご縁も、もう心配がありませんでした。私は学校を出た後何をしたらいいんだろう、何を求められているだろう、そう漠然とした不安を抱えていた十八の冬です。彼から映画に誘われました。私は心の底から驚きました。

「僕は地元で冬過ごすんも最後やで、せっかくやし観たい。けんど一人は格好つかん。お前、行かんか」

 流行の作品でしたので観てみたいとは思っておりました。でも、どうして私と? 彼とは幼馴染みと名乗るのが精一杯の関係です。恥ずかしさと戸惑いで俯くと、店の手伝いの為に着ていた割烹着が格好悪く感じました。私は体を小さくして、赤い顔を隠しながら、一生懸命答えましたわ。

「……明日なら、ええよ」

 彼はどう思ったのか、アアともウンともつかない返事をして帰ってしまいました。下を向いたままでは背の高い彼の表情を確認することも出来ませんでした。ただ知人が目に入ったから声を掛けた、彼にとってはその程度のことだったのかしら? 私は燻る胸をそっと押えました。

 翌日、彼は朝早くウチに寄ると、噂になるのは嫌だからと言って劇場内での待ち合わせを提案してきましたのよ。ああやっぱり。私だから誘ったわけではなかったのねと落胆しました。だというのに、私も女性ですから、お洒落をしない選択肢はありません。私にとってだけは、彼とのデートでしたもの。

「どないしたん。私、なんか変?」

「……別に。いつも通りや」

 悲しいものですわね。あまりに視線を感じたので聞いてみたのに、お気にいりの一番可愛らしい上着も、彼にとってはいつもと変わらないんですって。でも、彼は寡黙な人でしたから。褒め言葉なんて口にする質ではなかったんですけどね。

 そこから映画が終わるまで会話はありませんでした。ただ私、上映中にこっそり隣を窺い見たんですよ。忘れもしませんわ、あの気難しい横顔。普段よりずっと険しいんですの。恋愛映画でしたから、結局彼の趣味には合わなかったのかもしれません。だんだんと申し訳ない気持ちになりました。

 すぐ近所に住んでいるのに、別れたのも劇場前でした。その間際に私は傍にあった甘味処に目を奪われまして、彼もそれに気づいたようなんです。

「食べていくか」

 本音としては、ええ、と答えたかった。けれどミスター、わかるでしょう? どうして彼が誘ってくれたのかもわからないまま、これ以上時間を割いてもらう勇気がなかったんですの。それに、彼が甘い味を好まないことを私は知っていました。私のために付き合わせるなんて出来ません。

 季節が変わり、彼は就職で東京へ行きました。私が結婚したのはその数年後のことですわ。ウチの商品が美味しいからと言って、いつも買いに来てくださっていた方。私の胸に他の男性がいると知っても、優しく寄り添い続けてくださったの。その想いに心動かされて、手を取る決意をしました。


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