細菌愛

平山芙蓉

0

 運ばれてきた料理を見て、結菜は美味しそう、と笑顔で言った。その顔に、十年前には拭えきれなかった幼さは見る影もない。ファンデーションも上手く乗せられているし、リップも場を弁えた塗り方をしている。顔だけではなく、服装に関しても同様だ。細長い四肢と、腕の良い彫刻家にでも造形してもらったみたいに引き締まったウエストを強調する、ロングの黒いタイトワンピースを着ている。胸は小ぶりだけど、彼女という存在を装飾するのには十分だろう。


 それに、このレストランだって彼女がいればアクセサリーと大差がない。テーブル以外は照明が暗めに調整されていて、音楽は薄っすらと静かに雰囲気を引き立てている。どの客も話し声は内緒話でもするようなトーンで、騒がしさを感じられない。全てが私の眼前にいる人間のために、セットされているみたいだ。


「ちょっと待ってね」


 結菜はポーチから携帯を取り出すと、プロのカメラマンよろしく様々な角度から、料理の写真を撮り始める。高そうなレストランで、マナー的にどうなのか、という考えは過った。けれど、周りをよく見回せば、彼女と似たような行為をしている人はちらほらいる。店側も特に気にしていないのだろう。私にはそんな習慣がなかったので、とりあえず彼女が写真を撮っている姿を、眺める他になかった。


 料理は暖色の照明に照らされ、ゆらゆらと熱気を放っていた。空腹が苦痛に変わりそうなくらい良い香だ。テレビでしか見たことのないような分厚いステーキで、よく分からない色をしたソースがかけられている。もちろん、ステーキ皿ではなく純白のお皿に乗せられて。私は面倒なので彼女と同じモノを頼んだ。なのに、どうしてだろう。結菜の前にある料理の方が、心なしか一段と高そうにも、美味しそうにも見えた。作り方も、作られたタイミングも、無為に溶けていくこうした時間だって、同じように過ごしているはずなのに。


「お待たせ」結菜が私の顔を見て、微笑んだ。「食べようか」そう続けて、彼女はテーブルの端っこで遠慮気味に存在を放っているカトラリーケースから、ナイフとフォークを取ってくれた。私は礼を言えずにそれを受け取る。厭味の一つでも言われるか、と瞬時に身構えたけれど、結菜の視線はすぐテーブルの上へ落とされてしまった。それほど私に興味がないのかもしれない。


 そんな私の疑念もつゆ知らず、結菜はステーキを切り分けて口にすると、美味しい、と声を漏らした。私の顔を見ては、何度も微笑みを浮かべるけれど、瞳の向けられた先にあるものが、私じゃないことは確かだ。


 普通なら多分、今の私の顔を見て微笑みなんて浮かべられないはずだから。


 私は料理に手を付けていないし、ずっと彼女の顔を見つめ続けている。それも、自分でも分かるほど、虚ろな表情を貼りつけながら。そんなふうに見られれば、気まずくて料理を食べてなどいられないはずだ。


 気付けないほどに、神経が図太くて、愚鈍なのだろうか。いや、そんなこともない。私の知る限り、沖城結菜という少女は、私から向けられる感情の機微に鋭くて、悉く全てを否定してきた。逃げようとする意思も、虐めないでほしいという哀願も。そして、私が嫌悪を抱くことでさえ。まるで、糸に絡まった虫を転がして弄ぶかのように。


 そう……。


 今日の食事だって、私に拒否権はなかった。十年ぶりに町でばったり顔を合わせ、声をかけられ……、その場で勝手にレストランの予約までされたのだ。その時も私は断ろうとしたのに、押し切られた。


 不思議だ。容姿も声も、大人っぽく変わって、ほとんど彼女じゃないみたいだし、実際にそう感じる部分が多々あるというのに……。時折、あの惨さが顔を覗かせてくる。


「でも、本当にびっくりしたよ」


 何の脈絡もなく発せられた結菜の声で、自分が茫然としていたことに気付いた。テーブルにある私のステーキは、未だに手を付けられていない。もうすっかり冷めてしまっているだろう。


「まさか、また会えるなんて思ってなかった」


「……私もよ」と、私はここにきて初めて、彼女に向かって声を出した。


「まだここに住んでるの?」


「うん」


「そう、じゃあ良かったわ」結菜は指を合わせて、あざとく笑った。お皿の中は、すっかり空になっていた。「わたしも、最近こっちに帰ってきてね。これから住むことになったの」


「そうなんだ」


「これからも、時々こうしてご飯に付き合ってくれると嬉しいな」


「考えておくわ」


 私は彼女の言葉の全てに、適当な相槌を打ち、待たせるのも悪いと思いながら料理に手を付けた。


 分からない。彼女の真意が全く見えない。私に興味がないのか、とも考えたけれど今の会話からして、そんなこともなさそうだ。だとしたら、何が目的で再び私の前に現れたのだろう?


 会話がなくなり、店の音楽が緩やかに沈黙に滲んでくる。


 食べ始めたのは良いけれど、結菜が気になって仕方なかった。彼女は私を見るでも、携帯を弄るでもない。私たちのお皿の合間にある空白をぼうっと眺めているだけだ。その虚ろな瞳にテーブルの上の光景が反射していた。ただそれは、剥製の目玉にライトが当たっているだけのようで、奥底に生気が感じられない。あの頃からの根本に何を抱えているのか分からない印象に、久々に向かい合うと輪をかけて気味の悪さを覚えてしまう。


 ……細菌。


 冷えて固まった肉を口に運びながら、私はふと昔のあだ名を思い出した。私のあだ名。彼女が付けたモノではない。けれど、クラスメイト、特に男子のグループから私はそう呼ばれていて、彼女も私をそう呼んでいた。


 きっかけは、些細なことだ。


 小学生の時、家の給湯器が壊れて、何日かお風呂に入れなかった。当時は家庭の経済状況も悪く、交換まで時間を要してしまったのだ。しかも、運悪く銭湯もない。一日、二日なら問題ないだろうけど、何日もとなれば臭う。それで男子連中が、私を揶揄い始めて、一人の子が私に対して『臭いからあっちへいけ』と突き飛ばした。多分、それくらいだったら、一月も経たないうちに、よくある事件の一つとして忘れられただろう。でも、現実は違う。その子は次の日、高熱を出して学校を欠席した。それを私に触ったせいであり、細菌だからだ、と勝手な解釈をされた挙句、あだ名となったのだ。


 今ではもう、当時のクラスメイトと顔を合わせてなどいない。そんなあだ名があったことさえ、すっかり忘れていた。彼女にさえ、出会わなければ。



 味気のない食事を何とか終えて少し経つと、彼女の方から出ようか、と声をかけてきた。私は返事もせずに立ち上がり、会計へ向かう結菜の後ろに付いて行く。約束通り、ここは出してくれるらしい。


 結菜を前に、そのまま店を出る。静かだった店の雰囲気をなかったことにするような、繁華街の喧騒が鼓膜を震わせた。春を目前としているとはいえ、夜風は冷たくて鋭い。


 彼女は背後で佇んだままの私に、店の感想を口にするでも、これからどうするかを聞くでもなく、街の人ごみに向かって歩き始めた。ついて行くべきか、離れていく背中を見て、私は迷ってしまう。胸の中で、すぐにでも帰りたい、という気持ちと彼女の目的を知りたい、という気持ちが渦巻いているからだ。


 それでも、どんどんと遠くなる背中を見つめて結局、結菜についていくと決めた。追い付いて隣に並ぶと、彼女は私を横目に見て、何故か微笑んだ。


「相変わらずね」

「何が?」そう聞いたけれど、彼女はくすくすと笑う。

「そこは変わった」

「よく分からないんだけど……」

「そうね」

 視線を前方へ遣ってから、彼女は一つ息を吐く。

「わたしのいない間、楽しかった?」

「……どういう意味?」

「そのままの意味よ」


 会話の意図をやっぱり汲み取れなくて、私は辟易してしまう。そんな私の意思だけは伝わったのか、こちらを一瞥すると呆れたような顔をした。


「ずっと、わたしの傍にいてくれると思っていたのに。でもまさか、違う高校に行っちゃうなんて、思わなかったわ」


「それは……」と口にしたところで、彼女に睨まれて、私は口を閉ざした。とても冷ややかなモノを宿した瞳だ。


「細菌」


 彼女の口から出た単語で、心臓が大きく跳ねた。その衝動を合図に、思い出したくない記憶が血液となって身体中を巡る。髪を鋏で無理矢理に切られたこと、全身を余すことなく叩かれたこと、夜中に呼び出されてプールに沈められたこと。痛むだけで済んでいた古傷は、再び傷となって赤いモノを垂らす。


 そう。


 彼女は私に最悪な初めてを、いくつもの傷として心に刻み付けてきた。


 その全てが、私の中で破裂していく。


「憶えてるんだ」

「憶えてるも、何も……」思考と言葉が纏まらず、私は狼狽を隠せていない、弱々しい声を出すしかなかった。

「わたしはね」

 そんなことを気にも留めず、彼女は続ける。

「あなたを救いたかったのよ」

「……は?」

「細菌と呼ばれて虐められていたあなたを、綺麗にしたかったの」


 結菜の言葉を聞いて、往来の真ん中であるにも関わらず私は立ち止まってしまった。サラリーマンに肩をぶつけられ、舌打ちまでされたけれど、私はそこから動けない。彼女もまた、私の前で歩みを止めて、私の方に顔を向けた。


「わたしは、あなたの為に尽くしたのに。あなたがもう、あんな名前で呼ばれないよう、綺麗にしようとしていたのに」


 ――なのに、どうしてあなたはわたしの傍から消えたの?


 そう続けた結菜の瞳は、相変わらず冷たい印象を受けた。ただ、その最中に、本当に一抹の悲しみのようなモノが垣間見えた気がした。


 加虐が愛の裏返しになるなんて、子どもの頃にはよくある話だろう。コミュニケーションの取り方が下手で、近寄りたいのに傷付けてしまう。そして、言動の全てに嫌悪感を植え付ける結果となり、最後には破綻する。後になって、間違いであったと反省するまでが一つの流れみたいなものだ。


 彼女の告白もそれに等しい。


 けれど……。


「それだけの理由で、あんなことしたの?」


「それだけなんて言わないで」結菜は首を振って答える。「わたしにとってあなたは、人生において何よりも大事な人なんだから」


 その答えを聞いて私は、結菜の頬を叩いた。乾いた音が辺りに響く。雑踏の中でもそれは、よく聞こえた。彼女の白く綺麗な肌に、赤い熱の痕が滲んだ。当の本人は、何をされたのか分かっていないような顔をしている。道の真ん中でそんなことをしていたから、周囲の人間が私たちに奇異の眼差しを向けてきた。人々も私たちを避けるようにして、進んでいく。でも、そんなことは気にならない。


「それだけのことだよ」怒鳴り散らしそうになる感情を、必死に押し殺して私は彼女に言った。「それだけの理由で、あんたは私の心に傷を負わせたんだよ」


「傷?」


「分かんないの?」


 十年もかかった忘却を、結菜は掘り返した。思い出したくもなかった、あの時代のことを。そして、その原因がたったそれだけのことだったのだ。確かに、子どもの頃にやったことだからと許せる人間もいるだろうし、そうじゃない人間もいる。恐らくは私も、自認している限りは前者寄りだ。でも、傷付けられたその理由どころか、その行為が悪いことだったと自覚のない態度を取られれば腹が立たしい。


「もう良いよ」


「待って!」


 背を向けて往来の流れに歩み出した途端、結菜が私の腕を掴んで引き止めた。

「わたしは、わたしは本当に、あなたのことが好きだったの。あなたがまだここに住んでいるって聞いて、また傍に置きたかっただけなの。そのためにわたし、今まで頑張ってきたのよ。あなたを美しく保つために、いっぱい勉強もしてきたし……。だから、戻ってきてよ」


「離して!」


 手を振り払い、私は結菜の方へ顔を向ける。綺麗に化粧の施された彼女の頬には、黒い涙の筋が伝っていた。


「自分のためだけに、無自覚に害を与えるやつのことなんか、知ったことじゃない」


 ――本当、あんたの方が細菌みたいだよ。


 そう吐き捨てて、私はまた往来の流れに溶け込んだ。

 後ろから結菜が追ってくる気配はない。

 記憶の傷はしばらくの間、血を流していた。

 菌が入り込まなければ良いのだけれど。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

細菌愛 平山芙蓉 @huyou_hirayama

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ