とある夏の日のエピローグ

 入道雲立ち込める真っ青な空から、うるさいほどに大きいセミの鳴き声が聞こえる。空高くに居座る太陽が惜しげもなく日差しを送り出し、照り付けられた地面はカンカンに熱を持っていた。だが、七月の暑い気温とは裏腹に髪の間を駆けていく風はいつにもまして気持ちがいい。

 手に持つ紙袋を持ち直す。少しだけ汗でへばり付くそれはついさっきそこの書店で買った本が幾冊も入っていた。チラと中を覗き込み、本の背表紙をご機嫌に見る。

 その時、彼女を呼ぶ声が聞こえた。振り向くと彼女と同じ制服を身にまとった友人達が手を振っている。中学の寮で生活している彼女と違い、街に住まいを持っている友人達だ。何人かは笑顔で手を振って、あとの幾人かはニヤニヤと笑って彼女の事を見つめていた。彼女の行く先について明日にでもからかってやろう、そんな顔。

 少女は、ユウヒは、小さく溜息をついて、大きく手を振り返した。


――――――――――――――――――――――――――――――――――――――


 自動ドアをくぐって足を進める。セミたちの喧騒は遠くに追いやられ、冷房の吐き出す冷たい空気が満ちていた。その中に混じる消毒液の臭い。病院の臭いを鼻で感じつつ先へと進む。受付の看護師さん達はユウヒを一目見て、笑顔で手を振り、各々の仕事へと帰って行った。

 一歩ごとに鳴るローファーの足音が静かな病院内に響いている。

 歩いて、先を目指す。いつものように角を曲がり、いつものように重たい、『リハビリ室』と書かれたそのドアを開けると、そこには見覚えのある二人の姿。


「おいおいっ、相変わらず赤ちゃんみてぇに歩いてやがんなぁ?見ろよあの足ッ。プルプルして小鹿みてぇだぜ?」

「楽、やめたげなよぉ……ふ、郷二だって頑張ってんだから……ふふっ」


 フォーマルなスーツを身にまとった楽之助と高校の制服を着ている灯美がいた。

 ユウヒの来訪に気づいた灯美がパタパタと手を振るが、ユウヒの視線はただの一人、看護師さんに支えられてリハビリ用の手すりにしがみついている彼、郷二にだけ向けられていた。

 全身にはまだ包帯が幾重にも巻かれ、片方の目には眼帯が付けられている。血管の浮いた手は必死に手すりを握ってこけないように耐えており、額には大粒の汗が浮かんでいた。


「…………死ね……」


 しかし、談笑しながら茶々を入れている楽之助達を見つめる残された方の目にはあらんかぎりの憎悪が浮かび、口からは憎々し気に恨み節が漏れる。相変わらず仲がいいのか悪いのか、よくわからない三人が変わらずそこには立っていた。

 彼の瞳がユウヒを向く。互いを見つめるその瞳に喜びの花が咲く。最愛の人が映る彼らの瞳。

 そして、そこに混ざる、ほんの少しの罪悪感。その色があるのだった。


――――――――――――――――――――――――――――――――――――――


「あと一月もすれば退院できるって、今朝方、先生に言われたよ」

「本当ですか?やっとですね」


 あぁ、本当に。そう呟く郷二は病院の屋上にて二人、静かに街を見下ろしていた。

 小高い丘に作られた病院の屋上だ。視線の先には彼の故郷、落白の街が広がっている。

 遠のいていたセミの声が勢いを取り戻し、至る所でその存在を主張する。鳴き声を頼りに走り回る子供たちの声が屋上を超えていった。街を流れる市の一級河川。河の始まりに続く遠方の山々には真白な雲がかかり、雄大な日本の夏そのもののように荘厳なその姿をさらしていた。

 あの冷たい冬の出来事から既に七か月が過ぎようとしている。

 冬のあの日、洞窟の中で気絶した郷二はその後すぐさま病院に担ぎ込まれた。全身の火傷はすさまじく、治癒には長い期間を必要とした。前方に掲げられていた左腕は焼き爛れ、炭化していた。また、莫大な熱と光に晒された目はその後一定期間は見えない状態が続いたが今は回復に向かい、右目は眼帯を外して生活ができている。そして、足。こちらは紅の炎による外傷ではなく赤き泥沼に浸かった事に起因する損傷だ。現代医療では原因不明の重篤な壊死が見られたその傷も今ではなんとか少しの歩行なら可能なほどまでは回復していた。しかし、未だ一人での歩行は困難を極め、基本的には車椅子での移動を余儀なくされている。


「……その、キョージ、それで……左腕と、左目の方は……」


 酷く言いづらそうに呟く彼女に苦笑いをして郷二は首を振る。


「目の方はまだわからないけど、左腕は諦めるように言われたよ」


 動かぬ左手にチラと目線を向けてそう告げる。左腕の火傷は肉や神経を焼いて爛れており、もう二度と動かすことは叶わないらしい。その原因となった炎を作った彼女はその一言に目を伏せる。けれど、郷二はそんな彼女に向かって笑顔を作り、「いいんだ」と告げる。


「君がページをめくって、一緒に読書をする時間は楽しいよ。両目が見えなかった時に君が音読してくれた本の内容は今でもちゃんと覚えてる。ゆっくり読むのも悪くないって、また一つ新しい事に気付かせてくれたんだ。この足も、車椅子に座ってるおかげでこうして君と二人でゆっくり散歩できてる訳だしね」


 だから、そう呟いて、手を伸ばす。


「だから、泣かないで」


 涙を落とす彼女の手を取り、優しく微笑む。

 罪は二人で背負うと決めたのだ。この傷が僕の罪だと言うのなら、喜んで引き受けよう。


「そういえば、ユウヒはそろそろ夏休みだっけ。学校の友達と予定を立てたりはした?」


 夏用の制服を見つつ問いかける。彼女が涙を拭きとり、口を開いた。


「はい、クラスの友人達と、近所のお祭りに行く約束をしました。それと、明後日にはフタウと、えと、フタウ先輩と駅ビルで一緒にお買い物をする約束をしました」


 そう、彼女は今、学校に通っている。市内の私立中学で、双生と、そして波流と同じ学校だ。不登校だった双生は今年の春から復学し、ちゃんと学校に通っている。関係ないと言っていたが恐らくそれはユウヒの影響が大きいのだろう。

 戸籍のない彼女が学校に通えているのは楽之助のおかげだ。正確には彼の父親のおかげ。郷二が気を失って入院していた間、楽之助はあれほど毛嫌いしていた親の許へと赴き、頭を下げて懇願した。『一陰グループ』の力をもって、彼女を助けてほしいと頼み込んだのだ。それに加え、郷二達はあの日、高校に不法侵入し、ありとあらゆるものを破壊していた。殺すか殺されるか、窮地の最中のことだったとはいえ、ただの高校生が責任をとるにはあまりにも重い。

 一陰会長はその頼みを受け入れた。彼の持ちうる権力と財力を使って楽之助達を助けた。もちろん無償ではない。代償として楽之助はこの半年、一陰会長のすぐそばで経営のいろはを叩き込まれたらしい。事件の後始末を彼一人に押し付けてしまったようで心苦しく思ったのだが、彼としても得るものはあったと言っていたので、どうやら悪い事ばかりではなかったようだ。

 だが、郷二達が罰せられる事がなかったのは灯美の存在も大きいだろう。常日頃から警察に協力し信頼のあった彼女がいたから、警察も灯美達を捕まえる事に乗り気ではなかったようだ。

 加えて、笹花。彼女はあの後、氷に全身を侵されたまま数時間を生きて、息を引き取った。彼女の最期を看取ったのは楽之助だ。彼らの間でどんな会話があったのか、郷二は知らない。けれどそれでいいと思った。彼女は郷二の母の死に関係している。しかし、彼女の事を郷二はどこか憎めないまま、なあなあのままに今を生きていて、それでいいと思っていた。碑結家からの接触も今のところはない。魔導書が失われたあの家は恐らくこの先、緩やかに衰退していくのだろう。だが、それも郷二にとってはもうどうでもいい事だ。

 結果として、郷二達はたくさんの大人に救われて今を生きている。楽之助の父親、警察、病院の医師達、郷二の父、そして、藤巻によって救われている。

 藤巻と波流の二人は中上家の墓にて、二人で眠っている。白き氷で繋がれた彼らの腕は火葬の火などで溶かすことは叶わない。故に、こちらも一陰会長が手を回し遺骨とともに同じ骨壺に入れられたそうだ。彼らは本当に離れる事なく永劫の時を過ごす。郷二の怪我が回復してから、みんなでお墓参りに行く事になっている。郷二には、彼に話したい事がたくさんあるのだ。

 こうして、彼らは、今ここにいる。たくさんの人に救われて郷二とユウヒはここにいる。

 だが、時々、彼らの心がズキリと痛むのだ。

 遠くで、子供たちの歓声が聞こえる。眼下を歩く主婦やサラリーマン。線路を走る旧型の電車や空の青を反射する車の数々、遠く、山の彼方に見える太陽を横切る飛行機雲。

 いったいどれほどの人が、この世界に生きているのだろうか。

 彼らを見るたびに、郷二とユウヒの胸はズキリと痛む。

 何故ならそれは彼らが救わなかった景色だから。いつか来る破滅の可能性。悠久の彼方の過ぎし先で目覚める神の存在を知っているからだ。ユウヒと、郷二、二人が生きるために先延ばしにされた仮初の平和であると知っているから。

 ズキリ、ズキリと痛む胸。その痛みに耐えるように彼らは手をつなぐ。郷二はユウヒと、ユウヒは郷二と生きるため、彼らはこの痛みを受け入れると決めたのだ。

決して許されないこの重たき咎を、二人で背負っていくと決めたのだ。

 その時、ガチャリと開くドアの音。目を向けるとそこにはあの見慣れた彼女の姿があった。


「あっ!きょうくんっ、ユウヒちゃん!」


 そんなに離れた場所にいる訳ではないのに、大きな声で彼らの名前を呼んで、大袈裟に手を振る彼女。ユキがそこにいた。ニコニコしながら歩いてくる。ユウヒが慌てて彼女の方に駆けていき手を貸している。彼女のお腹は大きく膨らんでいた。ユウヒから聞いていた話だと、臨月に入って既に二週間がたっているのだという。

 もっと体を労わってください、少し厳しめに言うユウヒに、ユキは頬を掻いて小さく笑う。


「歩いたりとか、簡単な運動はしていいよって言われてるんだけどね……」


 ベンチに腰かけたユキは、優しく自分のお腹をさすっている。慈しみに溢れた母の顔。

 そうだ、そう言って顔を上げ、ユキが郷二に目を向ける。


「前に会ったのは、きょうくんの目が見えてない時だったよね?」


 優しく微笑む彼女の顔がユウヒにも向けられる。


「ちゃんと目を見て、言いたかったんだ」


 そう言う彼女は、本当に幸せそうに笑ってお腹をさする。心を籠めて彼女は言う。


「この子を助けてくれて、ありがとう。本当に、ありがとうっ」


 感謝の、言葉。ズキリと痛む。

 違う。そんな言葉を貰う資格なんて、二人にはなくて。


「この子、本当に、本当に元気でね?ほら、今も。二人とも、ほら触ってみてよ」

「い、いや……そんな」


 僕らにはそんな資格なんてなくて。わたし達は罰を受けなきゃいけなくて。

 けれど、ユキはそんな事などお構いなしに僕らの手を引き、彼女のお腹に押し付ける。僕とユウヒの小指同士がぶつかって、彼女のお腹に押し当てられる。

 たじろぐ僕らのその掌を、小さな何かがコツリと蹴った。手を離さなければ、そう思う心とは裏腹に掌は離れない。離せない。

 でも、駄目なのだ。こんな事をしてはいけない。世界を犠牲にして自分勝手に幸せになった僕らは、互いを手に入れた僕らはもう十分に幸せで、だから、こんな事をしては……


「……いいんだよ」


 ユキが呟く。


「二人も触って、いいんだよ」


 ユキはなにも知らない。彼女は僕らが何をしたのか知らないのだ。だからそんな言葉に意味はない。全てを捨ててユウヒを選んだ僕は、そんな事をしてはいけないのに……

 どうしようもないほどに、涙が溢れて仕方ないのだ。

 小さく当たったユウヒの小指のぬくもりと、ユキのお腹の暖かさ、そして、小さな、けれど確かなその胎動に、僕らの涙は止まらない。

 あぁ、なんて軽薄で、身の程知らずなことか。あれほど固く誓ったはずの罪をこうも簡単に脱ぎ捨てて、僕らは今日も生きていく。

 隣のあなたに恋をして、周りの世界に愛を向け、こうして僕らは生きていく。自分勝手に、幸せに、生きていく。

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極地の春 尾中ノオト @onakanooto

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