第2話
「それで今日は――」
と、ノートパソコンからひょいとこちらの方に視線を向けて、そう切り出すものだから、先手必勝とばかりに少し食い気味に言ってやった。
「俺が抱く」
と。
ぐふっ、という音が聞こえた。げほげほと咳込みつつ、大祐さんが肩を震わせている。珍しいな、あんたが。
「おい、どうしたいきなり。大丈夫か」
「大丈夫じゃないですよ。太一君がおかしなことを言うからでしょう」
「はぁ? だってここ最近ずっと大祐さんが」
「そうじゃなくて。人の話は最後まで聞きなさい。私は、『今日は何時に予約してるんですか』って聞こうとしたんですよ。なのにもう夜の話ですか。待ちきれませんか? ここで一旦抜いときます?」
「――ばっ、馬鹿! ここ職場だぞ?!」
「一年前の今日もここでしたけどねぇ」
さらりとそう返す。
いや、確かにそうなのだ。
俺達の関係はこの保健室で始まったといっても過言ではない。だけれども、あれはまぁ、その、何だ。事故みたいなものだったというか。
「まぁ、そっちについては構いませんよ。それじゃ今日はよろしくお願いしますね」
「お、おう」
「それで、何時なんです?」
「七時だ。まさかこの恰好じゃ行けねぇし、着替えたり色々あると思って」
「私はどんな太一君でも構いませんけど。まさかそんなドレスコードに厳しいようなところなんですか?」
「いや、そこまでの店ってわけでもないけどさ。でも、こう、あるだろ。その……雰囲気っつぅか。だって、今日は、その。……わかれよ!」
良い年したおっさんが記念日だの何だのというのは正直恥ずかしい。お互いに、記念日をイチイチ祝うのは正直少々煩わしいと思っていたというのは、半年前に話していた。それでもなぜか、一年ごとに祝うくらいなら(とか言って半年も祝ったが)、という話になったのだ。相手が変われば価値観も変わるものらしい。
だからまぁもしかしたら、前の彼女とは単純に祝うのが面倒だったのかもしれないし、年齢を重ねて心境に変化があっただけかもしれないが、とにかくまぁ、祝っても良いかなと思ったのだ。俺も、大祐さんも。どちらも強制はしていない。それとなく話題になり、それとなく決定したのだ。来年はやっぱりもう良いか、となる可能性だってある。
じゃあ何をどうするか。
半年の時は大祐さんの家で祝ったが、今回はどうする、という話になったのが、いまから二週間くらい前のことだ。
「飯は俺に任せろ」
びしり、と挙手をして発言すると、大祐さんは目を丸くして驚いた。
「太一君、料理大丈夫なんでしたっけ? やたらと肉々しいチャーハンしかご馳走になったことないんですけど」
「いや、作れるのはアレが限界だ。さすがにアレだけじゃないが、基本的に味付けが濃いやつしか作れん」
「何ていうか、世の女性がイメージする『男の料理』そのものですね。いや、あれはあれで美味しかったですけど」
「それかもしくはブロッコリーとササミを茹でただけのやつになる」
「極端すぎますって」
「だから、食いに行こう。場所は俺に任せてくれ」
「わかりました。では、そちらはお任せします。その後はウチで過ごすでしょう? せっかくですし、良いお酒を用意しておきますよ」
「おう」
ということで、張り切って予約したのは、まぁそれなりのところだ。半個室の席もある、野郎が二人きりで行っても大丈夫そうなところである。もちろんそこの席を取った。特にドレスコードに厳しいようなところではないが、さすがに上下ジャージで行ける雰囲気ではない。
「せっかく太一君が取ってくれたお店ですしね。それじゃあ私もそれなりの恰好で臨まなければ」
「あんまり気張らなくて良いって。大祐さんが本気出したら、男でも女でも落ちるだろ。記念日が修羅場とか勘弁だぞ」
「いや、向こうが勝手に落ちる分には、私に非はありませんよね」
「そりゃそうだけどさ」
作業がひと段落着いたのか、席を立ち、軽く伸びをしてからこちらに回って来る。そして、ベッドをベンチ代わりにしている俺の隣に腰かけて顎をくすぐり、首をなぞって、唇に噛みついてきた。あんま本気で噛むな。
「でも、太一君しか見てませんから、ご安心を」
「別にそこは心配してねぇ」
「なら結構。恋人との特別な日の食事なんですから、恰好つけさせてくださいよ」
「……ほどほどにな」
こうして結局俺が折れる形になるのだ。まぁわかってたけどさ。
待ち合わせ場所に現れた大祐さんは、それはそれはもう完璧に仕上がっていた。恋人の欲目とか、そんな生易しいものでは片づけられない。おい、誰だここにモデル連れて来たやつ。バックに薔薇でも背負っているかのような優雅さで現れた細身のスーツ姿の大祐さんは、既に後ろに数人の女を従えている。やっぱりな、とそれを指摘すると、
「え? 後ろに? おや、ほんとだ。困りましたね、全く身に覚えがないです」
と涼しい顔だ。本当に身に覚えがないのだろう。というか、気付いてすらいない。これだから質が悪いのである。お連れ様も一緒にご飯でもいかがですか、と熱に浮かされたような顔で誘ってくる彼女らを、ご縁があれば来世で、と冷めた目で追い払い(本当に『追い払って』いた)、俺にだけにこりと笑って歩き出す。いやいや、先に行くな。あんた場所知らないだろ!
それで、まぁ、それなりの、それっぽいコース料理を食べて、ちょっと良い感じのワインなんか飲んで、だ。そんでタクシーで大祐さんの家に行って、だ。
せっかくだからと用意してくれたらしい小さなチョコレートのケーキを二人でつついている。一応バレンタインだしな。直径15cmくらいの、小さなホールケーキだ。
「これは聞かないんですか」
「は? 何が?」
「『何も入ってねぇんだろうな』って」
「あぁ、そういや。え、何、入ってんのか?!」
「さぁ、どうだか?」
と、愉快そうに喉を鳴らす。酒も入っているからだろう、表情がいつもより柔らかい。
「でも」
と、フォークを置き、俺の手からもそれを奪う。
「関係ないんでしょう?」
「そりゃ、まぁ……」
だって、俺ら、恋人だしな。ここ、職場でもねぇし。
そんな言葉をもごもごと並べると、口の端をティッシュで擦られた。どうやらクリームがついていたらしい。それくらい自分で出来る、とそのティッシュを奪い取って、ごしごしと拭うと、やはりくつくつと笑う。かなり機嫌が良いのだろう、今日は本当によく笑う。食事の時も、いまも。歯を見せて笑うのなんて、保健室での彼しか知らないようなやつらは見たこともないはずだ。それを、俺は知ってる。
機嫌が良い時は案外よく笑うことも。
意外とすぐに拗ねることも。
それから、これだけは絶対に俺にしか見せないであろう顔も知ってる。
どこに触れると嫌がり、どこに触れると悦ぶか。
皮膚が薄くて痕がつきやすいことも。
左の肩甲骨の下と、右の内腿、膝の裏にほくろがあることも知ってる。
「いま何考えてます?」
「大祐さんのこと」
「目の前にいる本人をほっといて?」
「あ――……、悪かった」
「今日は太一君が抱くんじゃないんですか? もたもたしてたら、こちらから仕掛けちゃいますけど」
そう言いながら、あっという間にシャツのボタンを外される。
「ちょ、おい……!」
「脱がせるくらい良いじゃないですか。太一君、案外こういうスーツも似合いますよね。なかなか機会がないから、新鮮で良いです」
「アンタの場合、脱がせるだけじゃ済まねぇだろ!」
そう指摘すると、早速胸筋に手を滑らせていた大祐さんは、「バレてましたか」と言って、俺の胸に顔を埋めた。
危ねぇ。
せっかく半年記念のリベンジを果たすべく、がっちり主導権を握ってやろうと思っていたのに、決意が揺らぐところだった。
今日はもう、どんなに急かされてもゆっくり時間をかけて愛撫するのだと決めている。ただ――、
「今日は随分意地悪なんですね」
涙目で訴えられれば、まぁ、その、何だ。応えてやらんこともないわけだけども。
すったもんだで!⑤~アラサーカップルの一年記念日~ 宇部 松清 @NiKaNa_DaDa
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
同じコレクションの次の小説
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます