後編


 * * *



「夜中に子供が出歩いちゃあ、まずいよ」


 狐面はコンビニを出てすぐのベンチに腰を下ろした。隣に袋を置いて、自分のお酒を取り出す。レモンの絵が描いてある。プシュッ、と音がして缶が開けられる。それを狐面は、その狐面を外すことなく、飲む。まるでお面が顔そのものみたいに。


「特に今日は特別な日で、あちらとこちらが混ざり気味だからなぁ」


 狐面は空を指さす。今になって僕は気付いたものの、空は真っ黒だった。月も星もない。


「お財布返して」


 僕はすぐにそう言った。狐面は「そうだったわ」とお財布を投げて返してくれた。


「酒代は、さっき助けてやったんだから、怒んなよ。ほら、帰った帰った」

「……あちらとこちらって?」


 僕はまだ、帰る気になれなかった。なんとなく、狐面と同じくベンチに座った。コンビニで買ってきたものを挟んで並ぶ。


「あちら」


 狐面は僕を指さす。それから自分自身を指さして、


「こちら――いや、お前から見れば『こちら』が『あちら』で、『あちら』が『こちら』かねぇ」


 狐面の言うことはよくわからない。これが「酔ってる」ってことなのだろうか。


「まあとにかく……もう夜中なんだし、子供はお家でねんねしなさい。学校、明日もあるだろう?」


 そんな風に言うものだから。


「僕、学校行ってない」

「あらま! 不良! 見た目真面目そうなのに。なんで学校行ってないのよ?」


 その質問に、僕は少し困ってしまった。

 正直、僕自身、わかっていない。


「……ごめん。聞いちゃいけないことだったみたいね」


 僕が黙り続けていたせいか、狐面が不意に謝った。でも、そんなわけじゃなかったし、たとえ狐面が僕を泣かしても、この深夜の町に人影は一つもないから、誰も狐面を怒らないだろう。


「なんとなく」


 ちょっと狐面がかわいそうになってきたので、僕は素直に答えることにした。


「なんとなく……めんどくさくなった、みたいな……」

「はーん、なんかしょーもない奴がいたり?」

「……しょーもない点数をテストで取った」


 きっかけは、見たこともないくらい低い点数をテストで取ってしまったことなんだと、思う。

 思えば小学校まで変なことは一つも起こらなかったし、勉強も難しいなんて思わなかった。


 でも中学に入ってから、なんだかずっと勉強がうまくいかなくて。

 それで一か月前のテストで、どうしようもない点数を取った。


 考えてみればそれだけのことかもしれないけど。

 ……なんとなく、学校に行きたくなくなった。めんどくさくなった。


 ひいひい! と声が聞こえた。隣を見れば、狐面はお腹を押さえて笑っていた。


「そ、それだけで? それだけで、学校行くのやめたのか! はー! は~ん!」


 別に、僕は苛立ったりはしなかった。だって、狐面の言うとおりだ。

 それだけで。それだけのことで。

 それだけのことが発端で、僕は悩んでいる。


「どうやって休んだのよ? 親になんか言われたりしたでしょうに」

「お腹痛いって、嘘ついたら、休んでいいよって言われた……それからずっと、休んでる」

「『そろそろ学校行ったら?』とか言われんの?」

「言われない。好きなだけ休んでいいって……」

「優しいねぇ」


 会話しながらも、狐面はひいひい笑っていた。いつの間にか、僕が食べたくて買ったポテトチップスを開けておつまみにしていた。


「――でも、いまがよくないって、わかってはいるんだな?」


 不意に狐面が笑うのをやめた。そのとたん、かわいくも思えた狐のお面が、急に怖くなって僕には見えた。


「つい、ずるずる休み続けちゃって、どうしたらいいかわからなくなったんだな?」


 そんな風に言ってくれた人は初めてだった。親も、時々様子を見に来た先生も、ただ「気が向いたら」としか言わなかったから。


「いやあ、あるよね。一回やっちゃうと、抜け出せなくなっちゃう奴。例えば酒とか」

「それとは……ちょっと違うと思う」

「とにかく! ……学校行ってみたらどうよ」


 学校行ってみたらどうよ。

 それで行けたのなら、楽だった。僕だって、行った方がいいことはわかっている。

 でも、どうしてか、わからない。僕が欲しいのは、そんな、突き放すような言葉ではないのだと思う――。


 そこまで思ったところで。


「……なんて言っても、はいそうですかって、行ける状態じゃあ、ないってことよな?」


 いつの間にか僕にのしかかっていたものが、急に消えて、なんだか軽くなったような気がした。


「そういう『行ってこい』は、なんか嫌なんだろ、わかるねぇ……でも、ただきっかけがあれば、お前は学校に行けるんだと思うよ。本当に、ちょっとしたきっかけでいいと思うんだよね」


 顔を上げれば、狐面は何やらごそごそ、服を漁っていた。そうして握りこぶしを僕の前に突き出す。最初、僕はどうしたらわからなかったものの、少し考えて、そのこぶしの下に、両手で器を作った。


 手の中にパラパラと降ってきたのは、氷みたいに冷たい何かで、見れば小銭だった。どうしてか、どれも汚い。


「ほい。これ、この酒代と、今食べちったポテチ代、返すぜ……これで、さっきお前を助けた貸し借りは、お前が俺に借りている状態に戻ったわけだ」


 手の中には、確かにさっきのお酒の代金と、いま食べられてしまったポテトチップスの代金があるような気がした。十円玉なんて、緑になりすぎて本当に十円玉なのかわからないけれど。


「そんじゃ、改めて、お前、俺が助けてやったんだし、一つ約束してみようか」


 狐面はぐぐ、と身をかがめて、僕に顔を近づける。お酒を持っていない片手は、狐の形を作っていた。


「今日助けてやったんだから、明日……いやもう明日じゃなくて今日か。今日! 学校に行く。そう約束してみ?」


 不意にきゅっと胸が締め付けられたような気がして、僕はどうしてか、泣きそうになった。

 約束をするのが嫌なんじゃない。

 どうしてか、すごく安心した。

 約束しちゃったのなら、僕は学校に行かなくちゃいけない。なんとなく嫌だからとか、めんどくさいからとかで、休んじゃいけない。

 僕は学校に行かなくちゃいけない。


「……わかった」


 僕も片手で狐を作って見せた。約束なんだから、指切りげんまんなんじゃないかなと思ったけれど、狐面は狐のお面をつけているから、それが正しいんだと思った。



 * * *



「それじゃあ、気をつけてなー」


 その後、僕は家の近くまで狐面に送ってもらった。


「もうふらふら歩くなよー、本当に帰れなくなるぞー、でぇ、約束守れよー」


 僕は振り返らなかった。家はすぐそこで、扉を開けたのなら、見慣れた玄関があった。形だけが見慣れたものじゃなくて、全部、僕の知っているもの。

 お父さんとお母さんの寝室を覗けば、二人ともまだ寝ていた。


 僕は買ってきたお菓子やジュースに手を付けず、そのままベッドに横になった。

 学校に行く。

 約束したし。

 だから寝ないといけない。


 ……いい日だったな、と思う。

 もしかすると僕は、深夜のコンビニに行くことで、今を変えられるような非日常が欲しかったのかもしれない。


 ……本当に変なところに迷い込んじゃったみたいだけど。


 ――学校に行く。

 ここで約束を破ったら、まただらだらずるずる生活だ。

 布団の中、手で狐の形を作る。



 * * *



 朝になって、僕が学校に行くと行ったのなら、お父さんとお母さんは一瞬すごくびっくりしたような顔をして、でも普段通りに戻ってくれた。あんまり騒ぐと悪いかもと、僕を心配してのことだったみたいだ。


 久しぶりの登校は、深夜に町を歩く時よりも、少しどきどきした。みんなになんて言われるだろうか。勉強できないのに一か月も休んで、追いつけるだろうか、なんて考えてしまう。


 そんな中、あのコンビニの前を通る。中を覗けば、働いているのは普通の人だった。一つ目の店員は、いない。


 変な夢を見たんじゃないかと思ったけれど、朝起きた時、お菓子やジュースがあったから夢じゃないんだと思う。

 狐面に食べられたポテトチップスも、それだけなかった。お財布を開けたら、汚い小銭が入っていた。


 でも、本当に昨晩は何だったんだろうか、と考えて。


「……今日か」


 気付く。日付が変わった後に、僕はコンビニに向かったのだ。全部はまだ、今日の出来事だ。


 今日は僕が不登校になって一か月になる予定だった日。

 今日は僕が深夜にコンビニに向かった日。

 やっと、動き出せた日。


「――いてっ」


 ぼうっと立っていると、頭に何かがぶつかってきた。「いてっ」なんて言ってしまったけれど、実際は不思議と痛くなかった。


 からんと音がして、振り返れば空き缶が転がっていた。これが飛んできたらしいが……お酒の空き缶だ。

 狐面が飲んでいたお酒だ。


 空き缶が転がった先には、路地の隙間で縮こまるように、小さなお稲荷様があった。その前には、きっと、近所の人がお供えしたのだろう小銭がある。お供えした時はきれいな小銭だっただろうけれども、長いこと雨や風にさらされているのか、どの小銭も汚くなっていた。



【終】

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深夜のコンビニ、狐面と ひゐ(宵々屋) @yoiyoiya

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