9-3 モモちゃん悲しみと喜び 3

 もう一度視線を上げると、怒ったように見返した眼鏡の目が、ふと窓外に向き戻った。

 失言。

 ――とは言ってもまだ、どんな風にも言いつくろえるレベル、だけれど。

 いい加減、先生も軽口で誤魔化すのにも疲れてきている頃だ。


「ご存じでしたか、扇田さんのお父さんのこと」

「どこで、聞いたんだったかな」

「さっきからの話では、ぼくは言っていませんが」

「そうだったかな」

「この件、他に知っているのは生徒会の二人と、あとうちの担任だけのはずなんですけどね。うちの担任も、たぶん口を滑らすことはないと思うんです。秘密を守ることが、ハリーちゃんバッグの条件になってますから。他のことはよく分かりませんけど、この条件では慎重になっているんじゃないかと」

「そうか、ハリーちゃんが絡んでたか」宮緒先生の横顔が、苦笑した。「それじゃあ、確かに慎重になるな、あいつは」

「ではないかと」


 横目でにらんで、また外へと視線が戻って。

 ふん、と鼻を鳴らす音が聞こえた。

 室内はほどよい冷房が効いているけれど、九月半ばになったというのに外は、まだ真夏のような陽射しの輝きだ。

 ふう、と今度は深い息を吐く音がした。


「うちの、ある職員から聞いた話だ」

「はい」

「街中で偶然知り合った人が、うちの副会長の父親だったと」

「……はい」

「職を失って、ぽっかり空いた時間ができて、娘の顔を見に来たと。それに加えて、気になることがあったんだそうだ」

「何でしょう」

「その父親自身も、ここの中学出身でな。少し前にテレビを観ていたら、昔の同級生が有名人になって里帰りする特集をやっていたと」

「―――」

「その父親、昔その不良監督にさんざんひどい目に会っていたそうで、テレビ観ていても不快な思いしかなかったそうだ。それが頭にあって、ようやく見つけた娘の様子を陰から見ていたところ、そこにちょっかいかけてきた素行の悪そうな生徒が、その監督の息子だと知った」

「ああ」

「ここの中学では昔の不良をもてはやすことはできても、今の生徒をしっかり指導することはできないのかと、その父親に問われてな。その職員は、返す言葉がなかったそうだ」

「は……あ」

「その父親が言い捨てた言葉が、それならはっきり法に触れた行為をした生徒なら、指導できますね、と」

「………」

「その職員がそれでどう考えたかは――」窓の方を向いたまま、横顔の唇が持ち上がった。「生徒には言えんがな」

「……でしょう、ね」

「しかしその男、まだ人生に絶望したわけではない。目的を果たしたらまたどこかで仕切り直しをして、娘を安心させる気はあると思うぞ」

「それをうかがって、安心しました」

「担任が心配というのは、何のことを言ってるのか分からんが」

「ああ、はい――」


 首を傾げながら、ぼくは視線を落として床を見た。


「いえ、自分でも具体的に何を気にしているか分からないと言うか、ぼくなんかが気にすることじゃないって言うか、とんでもない勘違いしてる――かとも思うんですが」

「何似合わない、煮え切らんこと言ってる」

「ぼく個人としては、まったくこのままでいいと思うわけですが。まさかと言うか、もしも、なんですが――その職員の人――自分の行動をどう考え――生徒の指導として、許せないみたいな考え――もししていたらと」

「――バカ」


 いつになく力ない罵倒が返ってきた。


「それこそ本当に、お前が気にすることじゃない」

「ですよね――しかし……」

「しつこいな、何だ」

「もしその人に何かあったら、一番悲しむのは、うちの担任じゃないかと」

「……バカ」


 吐き捨てて、後に溜息が続いた。


「一度言ってやらにゃと思っていたが、お前はもっと、身の丈に合った、中学生らしい考え方をしろ」

「――すみません」

「若いうちに脳みそ腐っても知らんぞ」


 それは――嫌だ。


「もうクッキーはやらんぞ。私も貴重な休日、そんな制服着たオヤジ相手に暇つぶしに来てるわけじゃない」


 そんなあしざまに言わんでも――。ぼくは密かに溜息をついて、椅子から腰を上げた。


「すみません、お邪魔しました」


 頭を下げても、相手から返事はなかった。

 丸い白衣の背を向けて、そのまま窓の外を見つめている。

 戸口のところで、もう一度頭を下げた。ところへ。


「その職員――」

 どこから発せられたか分からないこもり具合で、声が聞こえた。

「は」

「そのうち、寿退職、するかも知れん」

「え……と、何ですか、それ?」

「知らんか。とにかくめでたい退職のことを言う。他人がどう考えようが、とにかく自分がめでたければ、理由は何でも構わない」

「そうなんですか」

「それでも、もちろんあとに迷惑は残さん、だろう、たぶん」

「はあ」


 それで、言いたいことは終わったらしい。白い背中は動かない。

 少し考えて、ぼくはもう一声かけた。


「あの」

「――何だ」

「猫の名前のことは、担任に言わない方がいいんでしょうか」


 少しの間、背中に力が入ったように見えた。


「前に言われてなかったか」

「はい?」

「口の軽い男は、長生きできんぞ」

「はあ」

「この後お前の頭がどうなっても、私は保障できない」

「……肝に銘じます」


 何となくなりゆき上三回目のおじぎをして、今度こそぼくは保健室を出た。

 首輪に刻印されたアルファベット、最初の順序を変えると『モモ』になる。その意味合いは想像しても分からないし、追求する気もなかった。

 ただ、我が担任に知らせる気がないということは、本人をからかう意図でないのだけは確かなようだ。


 今度こそ本当に用がなくなったはずなので、生徒玄関を出た。

 傾きかけてはきたけれど、やっぱりまだ陽射しは強い。

 考えてみると、ぼくが転校してきてからずっと雨もなく、暑い日が続いている。そろそろ降ってもいいよな、と空を仰いでのんびり考えながら、歩き出した。

 もう特別用はなくなったはずだけれど何となく気が惹かれて、また太陽公園の方へ足を向けてしまった。住宅街の建物の陰から、もう見慣れた広い敷地がすぐに見えてきた。

 真夏の香りを残した、まぶしいほどの草の緑。でもやっぱり、最初に見た時よりもいっそうアキアカネの飛び交う姿が増えている。

 変わらず、中央付近に人の影はない――と思っていると、隅の方から高い喚声が聞こえてきた。

 きゃきゃきゃきゃ、とわけの分からない声を上げながら、小さな制服姿の女の子が走ってくる。よく見るとその前に、薄茶色のごく小さな滑走物。

 何だ? 目を凝らすと、あまり短距離走向きでないフォームで必死に近づいてくるのは、一杉さんだ。前を逃げている薄茶色のものは、猫か?

 ふと気がつかなかった横手から、もう一人制服姿が駆け出してきた。こちらは、扇田さんだ。


「こら逃げるな、観念しろ」


 猫の行く手をさえぎるように、両手を広げて前に飛び出す。逃走者はとっさに迷うことなく、直角に進路を変えた。公園中央の、小山の方へ。いっさんに山裾の草むらに突入して、逃げ足が鈍った。ところへ。


「こら!」

 陰からピンクの固まりが飛び出して、それへおおいかぶさった。

「やった、捕獲」


 ピンクの上衣に、黄色いキャスケット。何か悪い夢を思い起こさせる服装のその人物は、両手で猫を抱えて草むらを転がった。


「でかした、モモちゃん!」


 笑顔で、扇田さんが駆け寄っていった。

 ちょうど猫が進路を変えたあたりの土の上に、へたへたと一杉さんは膝をついた。

 大きく息を弾ませながらふと上げた顔が、ぼくの方を見た。


「おや、先輩ではありませんか」

「何の捕り物なの?」


 大股で、ぼくはそちらへ寄っていった。


「ああ、はい。怪我をしている子猫を見つけたので、三人で保護していたです」

「怪我?」


 ぼくは、小山の方からこちらへ向かってくる小さな人影に目を転じた。

 クリーム色のコットンパンツの膝が、見事に土色にまみれている。


「おお、おぬし」まぎれもない我が担任が、両手で獲物をかかげて見せた。「前足に傷を負っているのだ。例の虐待犯の被害者かも知れん」

「ああ、なるほど」


 モモちゃんの両手にほとんど収まってしまいそうな小さな動物の、確かに前足の中途が赤黒く見えている。


「でも怪我してるくせに、すごい元気な走り、す」


 扇田さんが横からそれを覗き込んで笑った。


「ここで会った縁だ、動物病院に連れていってやろう。アパートはペット禁止だから、飼ってやることはできんが」

 モモちゃんは言って、足速に公園の出口を目指して歩き出す。


「飼い主がいないなら、わたくしが飼ってやるです」

 一杉さんが、叔母の横に並んでいった。

「そうか」

 モモちゃんは軽くうなずいた。

「しかし、ちゃんと責任を持って親と相談するのだぞ」

「分かっているです、そんなこと」


 ぷいと横を向いて口を尖らす、よく似た顔の女の子。ああして並んでいると、やっぱり一杉さんの方が少し背が高いのが分かる。


「よくなるといいね、そいつ」


 ぼくが言うと、扇田さんが振り返って大きくうなずいた。


「大丈夫、す、きっと。これだけ元気なんだから」

「おう、心配いらん」


 モモちゃんが大きくうなずく。

 一杉さんが横から手を伸ばして、小さな薄茶の頭を撫でていた。


「じゃあぼくは、夕食の買い物だから」


 並んだ三人の背に、手を上げた。


「今日はカレーライスにしようと思うんだ」


 きゃきゃと女の子たちが笑い、教師が力強く両手を揺すり上げた。そのまま三人絡まり合うようにして、小走りになっていた。


「あ、モモちゃんだ」

「ほんとだ、おーい」


 公園の出口前を通りかかったらしい、女子生徒の集団から声がかかった。


「おう。悪い、先を急ぐからな」


 その脇を、足どりを緩めずに三人は抜けていった。小さな後ろ姿が、たちまち見えなくなった。

 何となく笑いがこぼれて。傾きかけの陽をさえぎるトンボの群れに向かって、ぼくも足を急がせ始めていた。

 ルウを二種類買うのを、忘れないようにしないと。


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