9-2 モモちゃん悲しみと喜び 2
「で」
こっちを見ないまま、声が続いた。
「本当は、何の用だ」
ゆっくりさくさく噛みながら、僕は首を傾けた。
「クッキーたかりにという用は、まずかったですか」
「それだけというなら別に構わんが。しかしあるんだろう、別用が」
「はあ……」
「何だ」
「昨日は先生、お休みだったんですね」
「土曜だからな」
「今日は、いらしてたんですね」
「活動している部があるからな」
「はあ……」
「………」
「えーと」もう一口、クッキーをかじって。「お訊きしたかったんですけど」
「何だ」
「オンモというのは、猫の名前ですか」
少しの間、静かな呼吸だけが聞こえていた。
「何だ、それは」
もう数呼吸の後、さらに静かな声が返った。
「これ」ぼくは、ポケットから出したものを机に置いた。「河原で、拾いました」
赤い色が薄汚れた、小さな首輪。表面にOMMOと刻印がされている。
「……何だ、これは」
その前の言葉をそのまま音声コピーしたような、無機質な声が返った。
「宮緒先生が以前猫を飼っていたらしいとは、うちの担任に聞きました。本人は実物を見たことはないそうですが。最近はいなくなったようだと」
「そうか」
「先生のお宅は、あの太陽公園の近くということでしたよね」
「―――」
「あそこで最近頻発していた、犬猫虐待犯の餌食になったということは、ないでしょうか」
「―――」
「―――」
「――だとしたら、どういうことになるんだ」
「先生は――今回の事件、詳しいことをお聞きになっていますか」
「――いや」
「説明します。聞いてください」
「面倒だが」先生は、首を回した。「我が校のヒーローの頼みとあらば、しかたないな」
さっき教室で級友たちに話したのとほとんど同様の内容を、ぼくは順に説明した。
「ふうん」聞き終わって、宮緒先生は軽くうなずいた。「一通り、筋が通っているじゃないか」
「……通っていませんよ」
「どこがだ」
「クラスの連中とも話しましたが、裏庭で発火させた方法が分かりません。後の行動を考えると、時限発火装置という感じのものでは難しいですよ。飛び降りとタイミングを合わせなければならないんだから」
「方法が分からないのは、しかたないだろう。犯人に訊きでもしなけりゃ」
「それに、幽霊落下の件、ぼくならそんな方法は試しません。絶対、ひもを見られてしまう危険が先に頭に浮かびます。一瞬のこととは言え、万が一にも見られたら、間抜けなことこの上ない」
「間抜けなことに鈍感な奴はいくらでもいるな」
「それに、犯人が二日続けて窓も屋上も鍵がかかっていないと確信して侵入する、そんなことあり得ません。もし一日目に偶然うまくいっても、二日目にまたうまく開いている確信なんて、絶対に持てない。毎日戸締まり確認されているのは当然なわけですからね」
「楽観的な犯人だったんだな。小説の中にはいくらでもいるぞ、何でも自分に都合よく物事が働くと確信して犯行に及ぶ犯人」
「楽観的な作者の小説の中のことは、置いといてください」
「はーい、分かりました、先生」
無言で見返すと、養護教諭は戯けて舌を出した。
「これらの疑問を解消する、一番の仮説があります」
「何だろう、分からない」
「校内に、共犯者がいることです」
「安易な共犯者の設定は、読者に嫌われるぞ」
「―――」
「ごめんなさい、先生」
「幽霊落下の件ですが」
「はい」
「あのタイミングで落下と消失を実現するには、おそらく絶対、ひもが必要です。そのひもを一番確実に、人目に触れないようにするには」
「何だろう」
「窓と窓の間の外壁の部分に、確実にひもを伝わせることです」
「なら、そうしたんだろうな、犯人は」
「しかし、上や横からの操作では、それを確実にやることは無理です。横はもちろんですが、上からの場合でもまず左右に揺れてひもは人目につく危険がありますよね。落下の後でも少しの間ひもは残ることになって、なおさら危険度は高いです。まず絶対に確実なのは――」
「―――」
「人形を屋上の柵に仮固定して、ひもを壁の部分に伝わせて、それを下から引っ張ることです」
「――ほう」眼鏡の奥で、小さな目が細まった。「じゃあ犯人は、下の裏庭に立って、ひもを引っ張った」
「裏庭に立っていたら窓から見られる可能性が高すぎます。それに落下のあとを回収してすぐ身を隠す時間が間に合う保障はありません」
「じゃあ、どうする」
「考えられるのは」ぼくは顔を上げて、外を見た。「この窓から、という可能性だけです」
「ふーん」宮緒先生は深くうなずいた。「ここかあ」
「はい」
「しかしここの主は、その時上の階にいたぞ。その留守を狙って忍び込むか?」
「この学校の人ならみんな、保健室が短時間でない留守の場合は鍵がかけられることを知っています。ということは、鍵がかかっていないこの部屋で、そんな作業をする人はいない。すぐに先生が戻ってきて見つかる可能性が高すぎます」
「そうだな」
「さらに、うちの担任の話では、実際その時この部屋には鍵がかけられていなかったそうです。ということは、宮緒先生は長時間留守のつもりで部屋を出ていないはずだということです」
「ふむ」
「実際起きた時の状況で、ものが落下してからそれを窓の中に回収して、そのベッドの下あたりに隠して、すぐ部屋を出て階段を昇れば、教室の中が騒ぎ出して誰かが廊下に顔を出すまでに、三階くらいまでは昇れたと思います」
「さっきからお前がさかんに口にしていた言い方だが」ゆっくり、先生は言った。「それが確実に実現できると計画できたか?」
「この階段を昇るという行為は、別に三階四階までを実現できなくても、計画は破綻しません。二階でも、別にそこまで昇れなくても、あとは演技で何とでも繕えます」
「演技に自信があれば、だな」
「自信ないんですか、先生だったら」
「自分のことは、分からんな」
「はあ」
溜息をついて、続けた。
「それにこの件の金曜六時間目終わり頃というタイミング。なるべく授業妨害を最小限に収めようという意図が働いているみたいで、いかにも学校職員という感じ、しませんか」
「別に。偶然だろ」
「そうですか」もう一度、溜息。「そうです、よね」
クッキーの入っていた小さな袋を、無意識のうちにぼくはさらに小さく折りたたんでいた。少し考えて、ぼくはそばのゴミ箱にそれを捨てた。
ふ、と先生が小さく笑い声を漏らした。
「サービスだ」
もう一つ、小袋クッキーを放ってきた。ぼくはあわてて両手で受けとった。
「大サービスで、チョコチップ入りだ」
「それはどうも。ありがとうございます」
遠慮なく封を切って、一口かじった。甘みの中に、確かにビターチョコ味。ことさらに少しずつかじって、ぼくはゆっくり時間をかけてそれを喉に通した。
宮緒先生は。その間、しばらく黙って机の方に向かっていた。
「助言しておくがな」
静かに声がかかったのは、クッキーの最後のカケラを口に入れた時だった。
「お前が思うほど、人は理性的に考えて行動するわけじゃないぞ。いい年した大人でも、な」
「はあ」考えながら、ぼくは最後の一口を飲み込んだ。「分かっている、つもりです」
「お前が考える以上にだ、たぶん。その人形を落とすのに、ひもなど見えても構わんと開き直ったかも知れん。姿を見られるのも構わず裏庭を歩いてたかもしれん」
「――はあ」
「養護教諭がすぐ戻ってくる危険があるからと言って、そんなの気にせずに空いていた保健室を使う奴はいるかも知れん。鍵がかかっていなかったのだから、その可能性は残っている」
「そうなんですよねえ」
また無意識のうちに、ぼくの手はクッキーの袋をたたんでいた。
「話は変わるんですが」
「何だ」
「この犯人の意図したところと言うか目的なんですけど、犬の死体を燃やして脅かすところまでだとしたら、自分の身の危険を賭けてまでやるにはあっけない。かといって、昨日の人質騒ぎまで予測していたとはさすがに思えない」
「まあ、そうだな」
「今回実現したことの中で言えば、ぼくはあの、モモちゃんが校長に進言したところだと思うんです、犯人の計画の行き着くところは」
「ほう」
「月曜夜の騒ぎがあの三人によるものだと、教師たちに知らしめること、ですね。それではっきり三人に指導がされるようにする」
「ふうん」
「そう考えると、ですね。何となく、モモちゃんとぼくを合わせて、犯人の掌の上で踊らされていたという気が、どうしてもしてしまうんです」
「ほう」
「昨日の騒ぎの結果も、たぶん予想外かも知れないけれど予想以上に、犯人の目的に適う形に収まったんでしょうしね。思い返してみると、かなり前から妙にぼくに対して、他の人よりも情報が集まるようにできていました。玉子騒動に遭遇したとか、ブルーシートの発見者になったとかあたりは特に、偶然にしてはできすぎですよ。どうも、ぼくの詮索好きの癖と、モモちゃんがそれを取り上げやすい立ち位置にいることを、知っている人が仕組んだんじゃないかと」
「考えすぎ、じゃないかね」
「そうでしょうか」
もう何度目とも知れない溜息を、ぼくは吐き出した。
思い出して、手の中に握り込んでいた袋を、ゴミ箱に捨てた。
「で」
数呼吸間を置いて、宮緒先生が訊いてきた。
「あとまだ、話は続くのか」
「はあ……どうしましょう」
「結局何がしたいんだ、お前は」
「何、なんでしょうねえ……」
「おい」
無理に苦笑を作って、ぼくは掌で額を擦った。
「別に共犯者がいるかいないかとか、あの人がどこへ行ったかとか、どうでもいいんですよ。たいした法に触れることをしたわけでもなさそうで、正直ぼくとしても、むしろあの人を応援するって言うか、そんな気持ちの方が強いくらいで」
「なら、いいじゃないか、もう」
「ええ、そうなんです」
下を向いて、ぼくは両手で顔を擦った。
「あと残るのは何て言うか――できればせめて、うちの担任と扇田さんが悲しむようなことが起きなければいいなっていう、それだけで」
「何だ、それは」
上目で見ると、養護教諭は机の前から首だけ横向けて、にらむような顔になっていた。
「扇田さんのお父さんは、どこかで落ち着いてくれるでしょうか」
「そりゃあ、目的さえ果たせば、もう――」
言いかけて、先生は言葉を切った。
数呼吸。
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