第3話
「お姉ちゃん、こんな時間にどこ行くん?俺らと遊ばへん?なぁ」
深夜0時を回った頃、ジーパンにTシャツ、パーカー姿の千夏は花見小路を北から南へと抜け、四条道りへと来ていた。
別にコンビニに来たわけでも、お酒を飲みに出たわけでも、夜の散歩という訳でも無い。
声をかけてきた二人組の男性を無視し、祇園さん(八坂神社)の方へと歩き始める。
「無視すんなや!」
怒号にも似た言葉が飛ぶが、そのまま黙って歩き出す。
最寄りの交番までは少し距離がある。ここからでは見えないだろうし、男たちの声も聞こえないだろう。交番の近くまで急いでいけば諦めてくれるか?等と普段数百メートルであってもタクシーで移動している千夏の考えは甘かった。
「なにシカトこいとんねん!なんか言えや!」
肩を掴まれ引き戻された。
怖い――。
「千夏!」
恐怖を感じ、声を出して助けを呼ぼうとするが、声すら出ずに引きつった顔を男達へと向けた時、呼ばれ慣れない名前を呼ばれ大きな手が背中に回された。
「ごめん、遅なった!」
声と共に、がっしりと太い腕に抱き寄せられた。
「うちのんになんか用なんか?」
低く野太い声が頭の上から落ちてくる。
「なっなんやねん」
明らかに動揺している二人の声。
「去ねや」
さらに怒りが増した声が頭の上から降り注ぎ、千夏は泣きそうになりながら恐々見上げると、怒った顔の源が居た。
「源ちゃん……」
恐怖のあまり羞恥すら忘れ、その胸に顔を埋める様にしがみつく。
頭をポンポンと撫でられ「もう行ったで」と何時とは似ても似つかない怒った声。
「おおきに…」
体温を直に感じられない程度に離れると、夏の夜風が隙間を吹いた。
まるで二人の間にある溝の様に……。
花見小路の少し北にある自宅マンションまで送ってもらい、怒った表情のままの源との今後の気まずさが嫌で、部屋で事情を説明する羽目になった。
何をどうして良いのか解らず、とりあえず缶ビールと乾き物を出してみたが、源に座るように促された。
「あのぉ…こんな時間にあんな所で何しとったんですか?旦那さん所とかやったらタクシー使こたらえぇんちゃいますん?コンビニやったら家の前にあるやん?こんな時間に一人で出歩くとか、危ないやんか!女の子やねんで、解っとるん?自前になったら自由な分、誰も守ってくれへんねんで!」
「………………」
いつもとは違う、怒っている源。
何時もは温かな言葉使いの源から発せられる棘のある言葉、一つ一つ言葉は荒いが間違ってはいない、源の言いたい事は痛い程に解る。
言い訳できない悔しさと、源に迷惑をかけた事と、先程の怖い思いと、いつもと違う源に驚き、源に嫌われる怖さよりも、源に「旦那さんの所」と言われたその言葉が胸に突き刺さる。
「わっ!ごめん!言い過ぎた!すんません!またやってもた…俺、ガラ悪いから怖いてよう言われるねん。ごめん、たぶん俺、怖かったんよな…多分…否、絶対」
ふと我に返ると、自分がはらはらと泣いていることに気付いた。
「うち…うちには…わざわざお花以外で逢いに行く旦那さんなんか居てまへん…」
顔を背け、唇を噛みしめながら精いっぱいの反論。
「ごめん…プライベートな事までとやかく言う義理無いよな」
源がバツの悪そうな顔をして謝る。
「でも、こんな時間に一人で出歩くんは危ないから、もう二度としたらあかん!」
付け加えられたその言葉が、重く重く伸し掛かった。
「心配してくれてうれしおす。おおきに…」
本当に心からのありがとうだ。
暫く無言のまま、ただ座り続けるだけの気まずい時間だけが流れた。
「差支え無いなら教えてくれません?何しに出てたんか…まさかとは思うけど“無言参り”とかちゃいますよね?」
はははっっと笑いながら源が缶ビールを開け、一緒に出したコップには注がず缶のまま飲みながら聞く。
「…………」
―――答えられない。その通りだから…
祇園祭―――。
七月一日、祇園祭の始まりの日だ。これからまる一カ月もの時をかけ“祇園祭”と呼ばれる祭りが行われる。貞観の初め頃、疫病を沈める為牛頭天王を祀り、御霊会を行い無病息災を祈願したのが始まりと言われ、少しずつ形を変えても今尚続く祭りである。
三基ある御神輿が八坂神社を出、それぞれに八坂神社と同等の祭神(主神の素盞鳴尊が中御座、お妃の櫛稲田姫命が少将井の神として東御座、八柱の御子が八王子として西御座)がお移りになり、十日に神輿洗が行われ八坂神社拝殿に奉られたのち、十五日の宵宮にて神霊が拝殿から御神輿へと移られ、十七日の神輿迎えから二十四日の祇園御霊会の間、四条御旅所と呼ばれる場所にお渡りになられる。
“無言参り”とは、その七日間の間に“七度”八坂神社から御旅所を往復し、最期に八坂神社に戻ってくるお参りの事で、正確には八坂神社に戻ってきて“七度半”となる。
自宅を出て七度半往復し自宅に戻るまでの間、決して誰とも話してはいけない。
その為“無言参り”と言われ、真夜中に行われる事が多い。
無言で行って七度半お参りをして、無言のまま帰宅する。
そうすれば、一心に七度半願った願いが叶うと言われているのである。
昔は、無言参りを知ったお客さんが待ち伏せをして驚かせ、口を開かせてしまうなんて悪戯や、一緒に無言参りをしたお客さんも中には居た。
そんな無言参りを、千夏は一人しようとしていたのだ。
「涼夏さん……………七日七晩やるつもりやったんですか?」
呆れ口調の源と俯いたままの千夏。
もう源ちゃんは『千夏』て呼んでくらはらへんねんな……。
寂しさ半分気まずさ半分。
―――どう言い訳しよ………。
こんな時間に出歩いていた言い訳も思いつかず、口ごもる。
「ち・な・つ・さん?やるんかって聞いとるねんけど、無言参り」
息がかかる程に近づけられた源の顔と呼ばれたその名に驚いて、後ろに身を引いた。
「えっ?あっ…えと…うちの……名前?」
「なんで疑問形!」
自分の名前忘れとる!とゲラゲラと笑い出す源に、先程までの怒りの表情は無い。
「ほら、質問に答えて。七日七晩、毎日やるつもりなんですか?」
スッと真顔に戻り聞かれた。
「七日七晩やおへん…七回半どす!多分……」
少し頼りなげに俯きながら、言葉を続ける。
「おねえはんらぁは七日七晩言うてはりましたけど、おおきいおかあはんらぁはみんな、戦前は七回半のお参りやて言うてはったんどす。知らへん間に七日七晩に変わった言うてはりました。どっちがほんまかは知らしまへんけど、うちはおおきいおかあはんの方を信じてみよかなと思て………。その…今日、お花9時までどしたから、行ったんどす。せやけど、こんな事なって…ほんますんまへん。」
―――もう、止めときます。悲しそうに千夏は言った。
「七日七晩やのぉて、七回半?」
初めて聞いた。と、源が不思議そうに話を聞いてきた。
「へぇ…ネットもテレビも無い時代は、七回半お参りしとったて大きいおねえはんは言うてはりました。一日目があかんかったら翌日に、七日間御神輿さんがいたはる間に、七回挑戦出来るけど、失敗する日が何日も続いたら寝不足で困ったて…一日に何遍も挑戦して、気が付いたら朝やったて笑ろてはるおねえさんも居たはりました。せやから……」
今まで源が知っていた無言参りは、七日七晩をかけて無言で参る事だった。しかし、本当にやったと言う人の話を聞いた事が無かった。おおきいおねえさんや、おかあさん達が「うっとこのおねえはんがしてはった」等と、第三者がしていたと話す事はあったが、自分がやったと話した人物や、「やる!」と宣言した人物は、今目の前に居る千夏が初めて。
―――そんな、思い詰めてはるんやろか?
千夏が冗談半分で「ちょっとやってくる!」等とする様なタイプにも思えない、源は心底千夏という女性の無謀ともいえる行動を心配した。
「七回半…一晩で七回半…」
源の反復する言葉に、コクンと頷く。
どこかの誰かが七日間置いてある御神輿へ七度参る事を、お百度参りの様に毎日通うのだと勘違いし、“七日七晩”と言った事が、昔と違い本が全国に素早く出回り、それらの情報を元にネットやテレビで多く拡散されてしまい、そちらが正しいかのように変わって行ったのだと、大きいおねえさん達は笑いながら言った事も説明した。
「どっちも間違いやおへん。もしかしたら、うち等が間違おとるかもしれまへんしなぁ。参らはるお人が信じはる方で、一生懸命神さんに参らはったらよろし。同じ事どす」
大らかに笑い、時の流れを解釈している。
―――自分は昔の風習を信じただけだ。
「誰とも喋らんかったらえぇんですね?次、お花早ぉ終わる予定の日か、お花無いん何時です?岡崎の旦那さん、毎年祇園祭りの終わり頃、いっぺんどっかで抜けさしてくれたりましたよね?」
―――えっ…えっと二十日にお花買うてもろたんで、一日お休みどす。
「おっ、丁度えぇわ。俺二十一日が休みですねん、付き合います。仕事終わってマンションの近く来たら、メールするから降りて来てください。黙って一緒について行くんもあかんとか、そんな決まり無いですよね?」
ニッコリと微笑ながら、源はどんどん話を進めている。千夏は内心オロオロとしつつも、その申し出を断る事も、口を挟んで意見する事も出来ない程に驚いていた。
「このくらいの時間には来れる思いますから、用意しといてください。一応、見られてもすぐに涼夏さんやて解らへん様にだけしてくださいね」
源からの一方的な提案により、深夜のデートが決定した。
※
―――どないしよ!
正直な気持ちだった。源に付き添って貰えるのは、先刻の酔っぱらいの件もあり心強くもあり、源と共に居れる事が嬉しく思う反面、恥ずかしくも思えた。
千夏の心の中は、“てんやわんや”と言う表現が最もしっくりと来る状態だ。何をどうすれば良いのか解らず、オタオタと部屋を歩き回る。眠ろうと思っても、眼が冴えてしまって眠る事すら出来ない。明日も朝から女紅場で稽古がある。明日もお花がある。明日の起床予定時間まで後六時間と少しだ。
どうやって変装するか?あからさまな変装は、かえって目立ちそうだと思った時、あの日源と共に居た女子高生を思い出した。今時の髪型に、今時のメイク、ピアスにネイルに短いスカート…。
―――普通の女の子…………。
深夜の無言デート、約束の日までは三日ある。
翌日から千夏は女紅場から帰ると、ファッション誌を読み漁った。
一見芸妓とは解らないラフな服装をして河原町通のOPAへと繰出し、今流行の、それでいて自分好みな服や靴、鞄を買い込む。
ショップ店員の髪型や化粧を研究し、百貨店の化粧品には心が全くときめかなかったので、雑誌に出ていた入れ物の可愛いプチプラコスメとやらを買込み、人生初の白塗り以外のメイクの練習。
お三味の稽古は何処へ行った?舞の稽古は何処へ行った?朝一番に女紅場へ行き、お茶屋さんへの挨拶回りもそこそこに、自宅へ帰ると研究に没頭。
今どきの二十三歳の女の子を目指していると、あっという間に男衆さんを呼んだ時間が迫り、慌てて風呂に入り、化粧をし、着物を着つけて貰いお花へ出る。
約束の日――。
【十分位で着きます 源】
昼間【少し早く上がれる】と連絡があった。
きっと深夜に千夏を連れて出歩く事を考え、店と話を付けてくれたんだろう。申し訳ない気持ちでいっぱいになった。当初の約束よりも一時間近く早い連絡に、また申し訳ないと思う気持ちと、源に会えると言う嬉しい気持ちとで千夏の心に複雑な思いが募る。
今日の為に買った、ふんわりとした淡い色合いのシフォンのリゾートワンピース。
中学を卒業してからちゃんとブラなんて測って買った事が無かったが、OPAの近くで見つけた可愛い下着屋で測ってもらい、この際だからと何セットか購入もした結果、自分の胸がこんなにも露わになるのが恥ずかしいので午後から買に走ったキャミソールを合わせる。
カーディガンを羽織り、歩き易い様にハイカットスニーカー、斜め掛けのポシェット。
長い黒髪は片方に流して緩めの三つ編み。
ショップ店員は「とてもお似合いですよ」なんて買ってもらう為に言うけれど、本当の所どうなんだろう?自分はやっぱりダサいオバハンなのか、とあの日のあの子の言葉が頭をよぎる。
あの日出会ったあの子の様に、あの子の足元にも及ばない薄い薄い千夏のメイクは、ファンデーション変わりのパウダーを軽く着け、淡いサーモンピンクのチークをし、マスカラを付け、はちみつ色のグロスを少し付け、普段は決してかけない眼鏡をかける。
雑誌に書いてある通りの手順で自分の顔に過度の化粧を施した時、千夏は自分が自分で無くなってしまったような気がした。
そんなり姿での化粧は、髪型も化粧も着物に合う物であり、今千夏が目指している化粧とも髪型とも全く違う。白塗りで艶やかな芸妓になっていく自分とも違う。
今どきの化粧をした自分自身に戸惑った結果、どんどん要らない物を省いて行った。
自分を自分で驚かない程度になるまでに。
玄関ホールを抜け、マンションの前で待っていた源の前まで行くと、恥ずかしさが込み上げてくる。思わず顔を下げると、源が顔を覗き込んてきた。
目を丸くして驚いた様子の源と目があいまた顔を伏せた。顔を覗かれている気配だけを頭の先に感じ続け、居たたまれなくなり眼だけを上げると源と目が合い、源はニッっと笑って顔を離すとそのまま千夏の手を取り歩き出した。
―――えっ!ちょっと!源ちゃん!
驚きの余り思わず声をあげそうになるが、今無 言参りは始まったばかり。声を出す訳にもいかず、かといってこの手を振りほどく事も出来ない。
黙々と歩く源をチラリと仰ぎ見ると、仕事帰りの疲れが少し見え隠れする横顔に、薄っすらと笑みを浮かべていた。
―――まぁ…えぇか。誰もうちやと思わはらへん…やんね…。
恥ずかしさで俯き加減のまま、源に手を引かれ歩いた。
一言も話さず祇園さんへお参りをし、四条寺町の御旅所へお参りする。
これで一回目が終了。
普通に歩いて片道十五分程、往復で三十分程度の七回と半分。
約束通り急ぎ足でのお参りは一言も話さず、ずっと繋いでいた手はお参りの時だけ離し、また源から繋がれる。その度に千夏は恥ずかしさでいっぱいになる。七回×往復+半分の計十五回、そんなやり取りに慣れる事も無く、お参りでお願いする事すらあやふやになりそうになった。
―――お願い事!お願い事!お願い事!
お願い事をする為に本殿の前で離された手。
―――着かへなんだらええのに……。
その手の温もりが消えた事に、少し寂しい気持ちでぼうっとその手を見つめてしまう。
源の視線を感じ慌てて『ちゃんとお参りせな!』と心を切り替え、賽銭箱に百円玉をそっと入れ、二拝二拍手。お願い事をちゃんと真剣にして、一拝。
真夜中の誰も居ない祇園さんを出て、人通りの少ない四条通りを手を繋いで歩き、知っている人に出くわさない事を祈りながら御旅所へと向かう。御旅所の少し手前で繋がれた手が離され、少し寂しいと感じながらも、もしも御旅所付近で知っている人に出会った時に、なるべく穿った勘繰りをされないように源が気を配ってくれている事が解る。
御旅所の見張りの人は、毎年数人は無言参りへとやってくるのだろう、二人がやってくると、もう慣れた様子でそっと姿を消した。
七回半のお参りを終え、マンションの前へと帰ってきた頃には、午前二時を半分近く回っていた。
もしも休みの日で無かったら、お花が通常通りの時間に終わり、化粧を落とし着替えていたら、やっとこの時間に四条通りへと出れた頃だろう。
確実に決行させてくれた源に感謝する。
「おおきに、明日源ちゃんお休みやし、もしかまへんねやったらお酒でもどないどす?」
「あっもぉ話してえぇんや…こんな時間から男が部屋行ったら誤解されますよ」
「源ちゃん、晩御飯まだどしゃろ?うちの所為で遅なってもた」
一般的な料理屋や割烹は店が終わった後、ざっと片づけを終えてから揃ってまかないを食べる。源は今日、片づけが終わった時点で早々と千夏の無言参りに付き合ってくれていた。源が来てくれた時間を考えると、店が終わり片付いた時点で来てくれたのだと解る。その親切が解っていたから、あえて先に其のことには触れずにいた。その代わり、お寿司の仕出しを頼んでおいた。良く知った店への注文は二人前ではなく、あえて四人前の寿司を取っておいた。源なら軽く平らげてくれるだろうし、残っても明日の朝食べればよい。
「大丈夫やと思うえ。うち、こんな格好やし……あの………それと、この前実家のおとうはんから瀧鯉大吟醸の原酒もろてんけど、一人で飲むには多いからよかったら……一緒に……今、冷えとるえ」
グッと何かを堪え「頂きます」と頭を下げる源をクスクスと笑う。
部屋に入るとひんやりと心地よい空気が二人を包んだ。
「あっまたクーラーつけっぱなしや…」
そんな千夏のご帰還に、源は声を殺して笑う。
用意していた寿司とつまみを二人味わい、よく冷えた大吟醸鯉滝を一口飲むと、源は大きく目を見開いた。
「すげぇ美味!」
目をキラキラさせている源を見て嬉しく思う。
「涼夏さんは、何を一生懸命お願いしたはっんですか?」
聞かれ「ほな、そういう源ちゃんは?」と笑って聞き返した。
「早よぉ一人前の板前になって、お店が出せますように。とか?」
「あっ……それがあったわ。頭になかった………」
ほな、何お願いしはったん?―。
それ以上大事な事があったのかとクスクスと千夏は笑うが、源は分の悪そうな顔でまた酒を飲む。
千夏のお願いは一つだけ。
―――源ちゃんを諦められますように。
怖い目にまであい、腹をくくって挑んだ無言参りの切ない願いとは、全くの裏腹参りとなった。
願いと真逆、諦めきれないやるせない想いだけを更に植え付けた。
面倒見の良い源の性格を考えると、相手が妹舞妓の若涼であっても、今日の千夏へと同じ事を申し出てくれただろう。
「よぉ考えたら…祇園の売れっ子芸妓の涼夏さんにお酌してもろてるて…すごいな、俺。しかも涼夏さんの部屋で、私服の涼夏さんに………」
自分の姿を思い出し、顔を背けると「かいらしなぁ」大きな手が頭を撫でる。
「源ちゃん、酔うてはる…」
「大丈夫。一升やそこらの酒で正体無くす程に酔っぱらった事無いし」
満面の笑みで答える源。
―――どんなけ飲まはんの?
驚愕の表情を浮かべる千夏へ、源が笑顔で答える。
「高知で『少々酒を飲みます』ってのは、升升で二升は飲むってよぉ言うやん。そんな感じやなぁ」
「源ちゃん所、ご両親高知のお人どすか?」
「ちゃうちゃう、二人とも京都や。これ言うてんのは、俺が昔から習いに行っとった剣道場の師範の仲間内の人等ぁやな。師範は生粋の京都人やけど、居合も教えてはってその居合の流派の流れが高知やから、高知の人と仲えぇねん。みんなザルや」
初めて二人きりで食事に行ったあの日、千夏ばかりが話していた。
源はそれを楽しそうに聞いてはくれたが、源の事は殆ど知らないまま。少しだけ源の事が知れ嬉しく思う。
―――今もやってはるん?聞く。
「ううん、剣道は小学校の二年生までやなぁ。その後は居合のが面白うて転向。同じ道場で同じ師範やけどな。今も休みが合うたら武徳殿の方で練習出来るから、たまにな」
「かっこえぇんやろなぁ源ちゃん。そんなけかっこえぇと女の子にモテはるん解るわ」
何気なく出たその言葉に、源があからさまにムッとした表情をしてそっぽを向き「別れた」と言い放つ「すんまへん……」慌てて謝るが時すでに遅し。
「俺と話しとる時、お花と同じようにせんでえぇから。別に俺の事、上げんでえぇし」
職業病――?
という表現が正しいのかどうなのか。
褒め所があれば褒める、聞きどころがあれば話を引き出す。そしてたまには落として上げて、喜ばせる。
黙って唯酒を楽しみたいだけのお客には黙って酌をし、企業の商談等で呼ばれれば、お酌に呼ばれるまでは耳なし芳一。聞かず見ざる言わざる一輪の壁の花となり、おどけて遊びたい気分のお客とはチャリ舞で遊ぶ。
祇園に来ては八年目、舞妓になり芸妓になり、お座敷に出てもう七年になる。まだまだおおきいおねえさん達には及ばないが、七年分、身に染着いた言葉と所作と会話術。
「やっぱあかんわ。好きでもないのに付き合うから、どーでもよぉなって別れんねんな、俺。『私と料理どっちが大事なん?』て聞かれたら料理に決まっとるやろ!どあほ!て言うてまうねんよなぁ…言わんとこ思たら『別れてくれ』て言うてるし、俺やっぱりあかんわ」
「好きでもないおなごと、付き合ぅたはったん!」
目に見えて幻滅した表情を露わにする千夏。
「見た目が悪くなかったら、付き合ぅてみたら好きになるかもしれんやろ」
慌てて付け足すが、千夏には理解出来ない。
―――見栄えが良かったら、誰でもかまへんねやろか?…せやけど………好きにはなれへなんだんや。
何故か心がホッとした。
ホッとしたそんな自分の感情を意地が悪いと思い、本当は諦めたくなど無い事も、自分を好きになってはくれまいか、と思う気持ちも痛いほど理解する。
そんな自分をまた一つ嫌いになった。
綺麗ごとばかり並べ奉って『源ちゃんを諦められますように』、なんて綺麗な言葉で神さんにお願いした所で、本心とは裏腹なんやな……。
自分が傷つかない為の綺麗ごと以外の何物でもない。
気付いてまた自分を嫌いになる。
どないしたん?――。
ぼうぅっとしていた千夏に源が声をかけた。
「ううん、なんでもおへん。彼女さんらぁは、みんな源ちゃんの事好きおしたんどすね。せやけど、源ちゃんの一番を間違わはった。源ちゃんの一番を解ってくらはるお人はきっと居てはりますさかい、そんななげやりにならんといとくれやす。うちが悲しなる…」
源ちゃんはいっつも元気でおって!――。
ちゃらけてみせ、酒を進める。
そのまま日本酒、ワインと立て続けに飲み干し、源は空がはねず色に染まりきった頃、しっかりとした足取りで帰って行った。
楽しかったなぁ―――。
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