第6話

 きっちり一週間し、少しマシな病院食を食べれるようになった頃、ようやく退院の許可が下りた。

 退院の日は朝から屋形のおかあさんが来てくれ、昼過ぎには退院の手続きが終わった。

 病院からタクシーに乗り、千夏のマンションへ行き荷物を降ろす。病院へと来る前に、おかあさんが玄関脇の受取ロッカーへ入れてくれていた幾つもの紙袋に入った見舞いの品を、何度か往復して部屋へと入れてくれた。

「ヘルペス治ったし、お盆明けるまでに身体ちゃんと治しよし」

 ピシャリと一言だけそう言って帰って行った。

 あの日以来、おかあさんのお説教も小言も一切聞いていない。あれが全部、一度注意したのだから、これ以上は千夏自身の問題だと言う事だ。

―――迷惑かけてもたなぁ。

 一度の失敗は、お説教や小言で済む。その後、同じ失敗をしない様に己の心がけ次第でその失敗は帳消しにも、笑い話にも出来てしまうのだ。しかし、同じ失敗を二度も三度もする人間を、世の中の人は【アホ】と呼ぶ。ハッキリと「あの子はアホや」と、本人の居ない場所で言われてしまう。説教する時間も言葉も、愛情すら無駄だと判断されてしまうのだ。これは花街だけの話では無く、一般社会全てにおいて同じ事。

 そうなれば、もう誰もお説教も小言も言ってはくれなくなってしまう。現代社会においても、花街においても、世の中これ以上恐ろしいことは無い。小言やお説教をされなくなってラッキー等ではなく、自分の属している社会から永遠に見捨てられてしまうのだ。

 千夏に二度目の“同じ失敗”は許されない、これ以上は自分自身で解決し、しっかりと管理していかなくてはならないのだ。

 改めて気を引き締めた。


 浴衣から部屋着へと着替えようとクローゼットを開けると、去年源にだけ見せたあのワンピースが目に入った。

 浴衣を脱ぎ、下着を付け替えてあのワンピースを着てみると、そこにはあの日見た倉田千夏ではなく、やせ細り骨と皮だけになった何かが居た。

 サイズを測ってもらって買ったはずのブラはスカスカ。

 カップ付のキャミソールですら胸が余ってしまう。

 ワンピースの肩も緩く、すぐに肩から落ちてきそうだ。

 脇も胸元も布が余ってしまっている。


―――気持ち悪。


 それ以外の表現が出来なかった。

 ずっと着物を着て居た為か、頬がこけ落ちる程に顔や首筋がやせ細らなかった為か、見て見ぬふりをしていたのか、これ程までに自分がやせ細っていることに気付かなかった。

「ねぇさん痩せたな」

 男衆さんに言われても、都をどりに総をどり、祇園祭は一カ月続いてるし、京都の夏は暑い。どれだけ食べても痩せる時期だ。そこまで不振がられることも無ければ、わざわざプライベートにまで口出しはしてこない。

 「気ぃつけや」と栄養ドリンクをくれる程度なのである。

 関わり過ぎずに関わってくれる、この街で働く人間はみんなそうだ。関わり過ぎない程度に関わり、押しつけがましくない程度に押し付けてくれる。

―――これ、戻るんやろか?

 ガリガリに痩せ細った自分の身体を見て、改めて不安がよぎる。

 入院していた一週間。この一週間は体を元の太さに戻す為の入院では無く、食べ物を受け付けなくなっていた身体を回復させる為。なんとか食べ物を口に入れ、嚥下出来るまでになってはいたが、まだまだその体は折れそうな程に細い。

 早く身体を元に戻し、一日も早くお花に出なければと心は焦るが、こんなにも痩せ細った体でお客様の前に出る事なんて出来ない。とも冷静な自分が語る。

 お花に出なければ、それだけ芸妓涼夏としての売り上げは少なくなり、自分自身の収入も減る。もしも今までの半分しかお花に出なかったとしても、暮らしていけない訳ではないが、着物に帯、鬘に鬘の結い直し、お稽古の費用や日々様々な勉強をする為の費用も必要だ。お花に出ない、仕事をしない日があると言う事は、そのまま自分の芸妓としての生活に直結するのである。ギリギリの生活という訳でも、貧困に陥るという訳でも無いが、もしも働けない時期が出来た時、蓄えが多ければ多いほど安心もある。

 その蓄えとは、貯金でも株券でも現金に換えられる宝石でも無い。

信用―――。

 お金で買う事の出来ないモノ。信用の貯蓄こそ最も大切な蓄えなのだ。

 それが今の千夏にはまだ少ない。

 信用という名の財産が多ければ多いほど、お花へ名指しで呼ばれる日数も増え、必然的に芸妓としての売り上げも多くなる。

 毎年一月七日は売り上げ順位が発表される。

 売り上げ順位があるのは、他の客商売の世界と同じだが、誰かを引き上げる事はあっても、誰かの足を引っ張る事も、誰かを蹴落とす事もそうそう無い。昔はあったであろう女の競争や、女特有の意地悪も今は皆無と言ってよいだろう、もしもそんな事をすれば後継者達は即座にこの街を去り、悪い風評がネットに晒される。

 匿名で、はけ口の様に悪評をかかれてしまえば、閉ざされた世界でもある花街の信用問題になりかねない。

全て信用―――。

 世の中はどんどん変化し、花街にもその波は少なからず押し寄せる。


 金で買えない信用という財産を得る為に、芸舞妓は日々精進するのだ。

 芸事が上達しない若い舞妓に「もう止めろ」と叱った所で、昔ならば歯を食いしばってでも喰らい付いてきた来た少女達は、「はいそうですか」と髪を切る。

 堪える事を今の若い芸舞妓は未だ人生で知る事無く花街に来、堪える事を放棄する。

 親が子供様だと甘やかし、世間が子供様様と甘やかし、天狗になり自分を神だと、何でも出来る賢者だと勘違いして育っていく。

 自分だけがで、自分は何でも素晴らしく出来、漫画の主人公の様に皆にチヤホヤされて才能を開花し、どんどん有名になって人が羨むな存在となる。そんな狂妄的な理想が、当たり前のように自分自身の身に起こると、自分をそういった人間であるとしている子供達。

 漫画の主人公は、ビルの屋上から飛び降りても元気に生きている。だから自分も平気なのだ、何故なら自分はだとしているから。

飛び降りた―――。

 親が、社会が、の意味を間違って教えた結果、子供たちは脆く危うく育ち、自分がでは無いと、扱いされないと、されていないと不満を抱く。

 も自分で勝ち得る物、努力の先にしかな自分なんて待っていないのだ。

 しかし若い仕込みの少女たちは、昔からは想像出来ない程に甘い(親元に居続けるよりはずっとずっと厳しい)花街教育を受けるのである。その為、姉芸妓達も昔の様になんでも叱りつける事は無く、しっかりと言って聞かせ、それでも繰り返すのであればしっかりと叱りつける。結果、信用されているから、自分はまだ叱って貰えるのだと理解出来る少女だけが残るのだ。

 昔以上に甘い甘い花街教育の末の信用は、女特有の摂関ともいえる嫌がらせをしたり、お客を横取りしたりする風潮を少なからずは淘汰した。

 菊まりとの様な事も無いとは言えないが、それでもお客を巻き添えにしてのいざこざを起こすことは、二人は決してしな無かった。菊まりとて因縁を付けて来たのは、芸妓涼夏の個人的な事ばかり。お客の名前が挙がっても、それをお花にまで持ち出すアホはこの花街には居ない。お花はお花、プライベートはプライベートだ。

 それが花街―――。


―――取り戻さなな………。

 この大失敗を振り返り、再び心に誓う。

 一週間入院し、そのまま夏休みとして自宅療養に入る。次にお花に出るのは九月一日とおかあさんが決定した。その間、千夏は自分の身体を見つめ直し、しっかりと療養して元に戻す他にやるべきことは無い。

 少し落ち着いたら買い物に出かけよう。そう思いながら部屋へと運び込まれた見舞いの品を開けると、おかあさんからレトルトのお粥、割烹涼白自家製の梅干し、永楽屋のひと口椎茸が見舞いの品として入っていた。

―――おおきに……

 心の中で呟いた。

 隣の紙袋には涼と若涼からの品。前日お客さんとご飯食べに行った神戸土産にアラカンパーニュのお菓子と、一番館のポール・ダムール。梅由からは真空パックの鯉の甘露煮。

 最期の大きな紙袋には他の芸舞妓からの品。多種多様な栄養ドリンク、すっぽんコラーゲン等の健康食品の数々。暇つぶしにとDVD、どうやって手に入れたのか、千夏の好きなジョニー・デップの次の最新映画のパンフレットまでもが入っていた。

 千夏の胃腸が万全で無い事を知り、口当たりの良い物や日持ちする物、年単位で保存の効く物や楽しめる物を選んでくれている心遣いが有難い。

―――おおきに…ほんまに、おおきに……

 皆の心遣いに、思わず涙ぐんだ。




ピンポーン―――。

 涙ぐみ鼻がツンとしたその時、玄関ロビーからの呼び出し音がなった。鼻を啜り、泣いていた事を悟られない様気持ちを切り替える。誰か来たのかとインターホンを確認すると、宅配業者が其処に写った。

「宅配BOXに入れといてください」

 不用意に玄関先まで上げることは無く、千夏は全てを宅配BOXで済ませる。

「クールなんですけど……」

「直ぐに取りに行きますから、其処でかまいません」

 千夏の住んで居るマンションに、クール便を保管してくれる宅配BOXは無い。

「あの…一応クールBOX無いと手渡しさせて貰わないと、私の責任になるんで…その…」

―――要領悪……。

 いつもの女性の宅配員なら、適当にしてくれる。今日は新しく入ったのかバイトなのか、まだ幼い顔をした女性だった。普段ならば、それはそうだと納得しちゃんと受け取りに行くのに、その余裕が今の千夏の心には無かった。

 インターホンを置き、はぁっと大きくため息を一つ吐く。まだ鈍い体を引きずってワンピースの上にパーカーを羽織り荷物を取りに行くと、それは菊まりからの品だった。

 部屋に帰って小さな段ボールの包みを開くと、中には保冷袋とたっぷりの保冷材に包まれた【舟和の芋羊羹】と一通の手紙が入っていた。


【栄養失調で倒れるなんてありえない!あんたは芸妓失格です。艶やかな芸妓は、ちゃんと自分の体調管理も出来る者でしょう?芋女は芋でも食べて、自分の芋女っぷりを見直すべきだと思います。

 追伸  舟和の芋羊羹は本当に美味しいのよ!   西の芋女へ 東の芋女より】


 一筆箋にサラリと書かれたその言葉に、思わず笑いが込み上げた。

「西の芋女へ…東の芋女より…か……菊まりさん、あんじょうやってはるんやろか?」

 自分たちの事を【芋女】と揶揄して笑い合ったのは、もう遙か昔の事。

 お互い都心から遠い田舎育ちで、人が沢山居る京都の街は毎日祭りでもあるのかと驚いた。そんな街にもいつしか慣れ、そして菊まりは関東へとお嫁に行った。生まれ育った関東の田舎ではなく、もう少し都会に近い郊外の高級住宅地で、菊まりは今何を思ってどんな暮らしをしているのだろう?と思うと同時に、菊まりにまで自分の体調不良が伝わり、退院の日まで知られていたのかと恥ずかしくなった。


 一保堂の煎り番茶を入れ、ほっこりとその香りと湯気に包まれながら、菊まりが送ってくれた舟和の芋羊羹を一口食べる。サラリとした甘い甘い芋の味、それなのにしっかりと芋の味を残した芋羊羹。よくある芋羊羹ではなく、芋その物を型に入れ押し固めた、まるでスイートポテトを食べているかのようなその芋羊羹を堪能する。

 一週間の入院で、胃は多少の食べ物を受け付けてくれるまでになった。それでも味の濃い物や、油っこい物や刺激の強い物は当分避けるようにと医者から言われている。

 たった一週間、されど一週間の入院生活を思い起こす。

「なるべく胃に負担をかけない食事を心がけ、カフェインも控える事、酒は論外!」

 派手な女医だった、それでも腕は確からしい。三十代後半といった所だろうか、忙しくしている割には疲れた表情も、不規則な生活が露わになるような肉体でもなく、イキイキと輝いて見えた。きちんと手入れされた髪、化粧っ気の無い顔だが長い睫とキツメのアイラインが特徴的な女性だった。

 一般的な日本人よりも濃く長い睫を羨ましく思い、素敵だと言うと彼女は豪快に笑った。

「あっこれ?睫はクスリで伸ばしてんの、アイラインは刺青、眉もよ。秘密ね」

 教えてくれた秘密は、きっと彼女にとっては秘密では無いのだろう。今時の女性というに相応しい容姿と、明るさを持ち合わせた人だった。

 今の自分には精気がまるで見当たらない――。鏡を覗く度そう思い、悲しくて悔しくて、後悔と懺悔の念ばかりが込み上げた。

「泣いてもタイムマシンは出て来ぉへんよ」

 源の母は笑いながらそう言った。何でもいいから、気が向いたら口に入れてみればいい。何時も優しく微笑みかけくれた。

「食べないとモテないよ!かくゆう私は昨日フラれたのぉ~次探すぞ!」

 忙しい筈なのに、担当医である彼女は気さくに自分のプライベートまで明かし、色々な話をしてくれるこの女医は千夏の側にいままで居なかったタイプだが、人懐っこいその性格には少し親しみを覚えた。

「倉田さんも、早く元気にならないとフラちゃうんじゃないの。紅野さん所の息子さんがめっちゃ心配してるらしいじゃん。紅野さん、なんかちょっと不謹慎だけど嬉しそうなのよねぇ」

 ニヤリと笑いながら、担当医は興味津々で聞いてきた。源とは同じ経営者がやっている店と屋形で世話になっているというだけの関係で、顔見知りではあるし此処に来た日にもとても迷惑をかけてしまった相手ではあるが、それ以上では無いと慌てて付け足した。

「じゃぁ、迷惑かけたって思ってるなら元気になって安心させてあげたら良いよ。うん、それが一番手っ取り早くて一番良い方法!はい!ご飯をしっかり食べる!」

―――それとも、フォアグラみたいに入れちゃおっか!

「出来るよ!簡単だから!」

 目を輝かせながら最後の一言を加えられ、手を付けられていなかった昼食を「ちゃんと食べます!」と言い切って初めて全部平らげた。

―――こぉいうお人を、ドSって言うんやな………。

 入院三日目に見せられた、彼女の目の輝きを今でも忘れられない。

―――フォアグラみたいに!

 あの瞬間の爛々と輝いた瞳にゾッとして、このままではイケないと心の底から思う事が出来た。そのお蔭で、三分粥に茶碗蒸し、煮魚、冬瓜、デザートまでその日の夜も平らげて、翌朝も、昼もずっと食べられてどんどん普通の食事に近づいた。

―――あのせんせぇのお蔭…どすな。

 今思い出してもクスリと笑える。あっけらかんとしたあの女医は、千夏にとってとても良い刺激になった。



 ピンポーン―――。

 芋羊羹を食べながら、あの刺激的な女医とのやりとりを思いだしていると、またチャイムが鳴った。また何か宅配便なのかと溜息を吐き、一回で終わらせてよ!とムッとしながらインターホンで確認すると、玄関ホールに源が居た。

―――なんで⁉

 慌ててオートロックを解除し、部屋へとたどり着くまでの間に髪を整え、軽く化粧をして慌ただしくしていると源はもう玄関へとたどり着いてしまった。

「おかえりなさい。これ差し入れです」

 玄関先でひょいと包を出した。

「晩に食べてな。まだちゃんとしたもんキツイやろ」

 千夏に手渡し、「ほな」と言って帰ろうとした源を、思わず呼び止めた。

「源ちゃん…あの…お茶でも…菊まりさんから舟和の芋羊羹届いてん……」

 どうして源を呼び止め、お茶に誘ったのか。自分でもそんな言葉が口から出てきたことに驚いた。

「あっヘルペス治ってんな。良かったなぁ!」

 母親に聞いたのだろう、源は素直に夏バテからくるヘルペスが治って良かったと喜んでくれる。少し気まずい様な、後ろめたい気持ちを押し殺し笑顔を作り招き入れた。

「これ、冷蔵庫入れますね」

 そう言ってキッチンへ行き、冷蔵庫へと包を入れた。

 冷蔵庫へと持って来てくれた包を入れるだけの筈なのに、何故か源は冷蔵庫、野菜室、冷凍庫、戸棚、引出、天袋、流しの下の戸袋まで開けて何かを確認する。

 一通りの確認を終え、無愛想にムスッっとした表情を崩さないまま、見舞いの品を片づけていた千夏へ「ちょっとそこ座り」と促した。

―――どうしたん…………やろ………。

 ムッとして眉間に深く皺を寄せ、不機嫌さを隠そうともしていない。黙りこみ、口をへの字に曲げて視線を逸らし何か考えている。身体の大きな源は、千夏の前に座っているだけでかなりの威圧感があった。そうやって黙り込み不機嫌な態度で座られると、更にその威圧感は増している。


 背中にはソファ、右手には見舞いの品が散乱したテーブル、左側は出窓と観葉植物を挟んでベランダ、そして向かい側には膝を突き合わす程の距離で源。

「あの…何?うち・・・なんかした?」

「………………………」

 恐る恐る聞く千夏の目には、恐怖と不安が入り混じる。源は、はぁっと大きくため息を吐き乾いた言葉を繋いだ。

「何、食べとったん?何、飲んどったん?」

 温度の無い言葉と、呆れている事を隠しもしない表情に居た堪れなさを感じ、ドクンッと心臓が脈打った。

「喉乾いたら酒かジュース飲んで、腹減ったらアイスクリーム食ってなかった?他に何かこの部屋で作って食べたもんある?買って来てでも食べたもん覚えとる?一年も一人暮らしで包丁箱から出てないってなんやねん」

―――その通りだ。

 俯いて何も言えなくなる千夏。一度撥ね始めた心臓はドクドクと脈打ち、次第に体全部が心臓になっているのではないかと錯覚する程に撥ねながら、脈打つ鼓動の度に身体から体温を奪い、どんどん自分の身体が冷たくなっていくのを感じた。

 一人暮らしを始めた当初は、料理が出来ない事もあり、錦市場の惣菜屋へと何日かに一度は買い物に出かけたり、インターネットで温めるだけで食べられる物を注文したりしていた。

 芸舞妓がしっかりとした食事を取るのは昼食程度。他の時間は忙しく、軽い物程度しか食べる事が無い事は源も知っていたが、余りにも酷い。

「料理出来へんのはおかあさんからも聞いとったし、『あの子惣菜屋通うやろなぁ』て笑ろてはったけど…こら無いで。惣菜すら買って来て無いやん、人間食べな死ぬねんで。何時から食べられへんようなったん?」

沈黙―――。

 嘘で取り繕う事も、言葉を選ぶことも出来ない。

 千夏が、自分の頭の中が真っ白になっている事に気付くまで、どのくらい沈黙していただろう。ポツリポツリと言葉を漏らす。

「都をどりが終わって…気が付いたら此処で何か食べるたんびに、喉につっかえ出して…」

 その言葉で、四月五月頃からおかしかったのだと気付き、源は目を見張った。

―――こんな長い間……なんで…なんで誰も気づかへんねん。

 去年の無言参りの時の様に長い時間話す事は無かったが、源とて全く千夏と顔を合わさなかった訳では無い。道ですれ違えば挨拶もしたし、割烹涼白にお客さんとのご飯食べで来たこともあった。涼夏が贔屓にしている三味線屋の店主とは飲みに行く仲だが、一切そんなことには触れてこなかった。五月頃から一度も行っていないと言う事だろうか?そうそう壊れる物でも、皮が破ける物でも無い。

―――三カ月程やったら有り得る…か…。

 源はこの三カ月ほどの間、何故千夏の変化に誰も気づかず、誰も注意をしなかったのかと己に問う。

―――この街の人間やったら、匂わすだけで踏み込まへん…か……。

 自分自身が気が付かなかった事に、悔しさにも情けなさにも似た思いが込み上げ、グッと奥歯を噛みしめる。

―――気づけたかすら…危うい。

 偶然でも必然でも、もっと密に会う機会が有れば気づけたのか。もしも毎日会えたとして、自分自身が千夏の変化に気付き、ちゃんと千夏の重荷にならないよう言葉をかける事が出来ただろうか。きっと自分が気づいたとしても、何かしら声をかける程度にとどまり、それ以上踏み込むことはしなかった、否出来なかっただろう。

 源は黙ったまま、どうすれば気づけたのかと考える。

―――無理…やろな……。

 自分の今までを思い返した。彼女が髪型を変えても、前髪を切っても、髪色を多少変えても、全く気付いたことなど無かった。それが原因で喧嘩になったことも数知れず。

 きっと毎日千夏にあったとしても気づきは出来なかっただろう。

 何しろ、相手は芸妓の涼香なのだから。

 きっと徐々に徐々に体を蝕み、体力を奪っていったのだろう。それでも千夏は一人の涼夏という芸妓でもある。そんな体調不良はサッと奥に隠し芸妓涼夏が顔をだす。

 お客の前で疲れた表情も、体調不良も見せることなど無いのが当たり前、どんなに体調が悪かろうと、それすら錯覚なのだと自分に思い込ませていたのかもしれない。

女は皆女優だと人は言ったが、芸舞妓は更にその色が濃く出るのかもしれない。否、責任感の強い千夏だからこそ、その色は濃く自分をも騙し続けていたのかもしれないと、源は緊張の色を隠せず瞳が揺れ動き、指先を弄びながら目の前に座る千夏の細い細い体と手首を見て思った。


「でも、お客さんとのご飯食べは美味しゅうに頂けたんどす!」

 関を切った様に、取り繕いの言葉を吐き出す。

「せやからきっとお惣菜とか、レトルトとかの味に飽きてもたんやなぁって思てたんどす。自分の好きなもんばっかり買うて来てましたから、そら…ねぇ…外に食べに出たりもしてみたんどすけど、結局は同じで。それでもお客さんとやったら、この間高橋せんせぇのお花の前の日ぃもご飯食べ行きましたけど、ご飯食べれたんどす。芸妓の涼夏はご飯食べれるんどすけど、うちは…千夏はご飯食べてくれはらしまへん。そんなんしてて、アイスクリームは食べれるん解って……ジュースもお酒も飲めるし…多分祇園祭りの頃からどす。そういう生活になってしもたんは………」

―――なんでこんな事に。

 済まなさそうに俯く。

 溢れだした取り繕いの言葉は、千夏の心と体の不安定さを露わにした。今にも泣き出しそうに目を真っ赤にし、潤んだ瞳と開いた瞳孔が乱れた心を象徴する。これ以上責め立てる事はしてはいけない、心に深く止め置き一度呼吸を深く吸って微笑みかけた。

「野菜ジュースは頑張って飲んどったんやな、偉い偉い」

 怒られると覚悟していた千夏の頭を、源が優しく撫でる。千夏はその微笑みを貰える資格が自分には無いと心苦しく思い、真っ直ぐに見る事が出来ず目を逸らした。

「都をどりが終わってからやと、五月頃か…よぉ身体持ったなぁ、お客さんに感謝せな。その頃に何かあったん?ストレスやろ、食べられへんとか。芸妓の涼夏さんには無ぉて、千夏さんに何かあったん?」

 あっ―――。

 想い当たる節は一つだけ、でもまさか。まさか、今更……。

―――恋煩い?

 捻じ曲がった恋煩い。

 何年も思い続けた相手に、自分以外の誰かと幸せになってほしいと願う恋煩い。

 本心を殺し続けた恋煩い。

 そんな片思いの相手との深夜のデート、捻じ曲がった願い事を叶えてほしいと祈り、数か月後に叶った望みはその数か月後にまた破られた。

 他の事を考える余裕が無い程忙しい時期ならいざ知らず。忙しい時期を終え、少しの余裕が出来た頃に破られた祈り。そしてまたその心を持ったまま忙しくなり、自分が原因で理不尽なお客との一悶着に巻き込み、そして言われた言葉にそこはかとなく期待した。

「また勝手に結婚やなんやて騒ぐ奴おったら、今度は即シバキ上げたる」

 その言葉にあらぬ期待をする千夏と、冷静に理不尽なお客に怒っているだけだと諭す千夏が入り乱れ、叶わぬ祈りと本心とが喧嘩をした。

 嘘の願いは見事敗れ去り、本心だけが千夏の心に深く残った結果の恋煩い。



「思い当たる事あるん?俺で良かったら聞くけど」

―――おへん。

 言える訳おへん…本人に…。心の中で付け加える。

 俯いたまま、顔を上げることの出来ない千夏と、はぁっと溜息を吐き、俯いたまま今にも泣きそうな千夏の目を隠す様に覆う長い睫を唯見つめるだけの源。 

「かんにんえ………」

 その一言を絞り出すと同時に、千夏の瞳から大粒の涙が零れ落ちる。

「かんにんえ、うちほんまに迷惑ばっかりかけて……。かんにんえ」

 謝りながら、あの人気芸妓の涼夏とは思えない程に顔をクシャクシャにし、涙をボロボロと流しながら、洟を啜って泣きじゃくる。

 涙は女の武器とは良く言った物だと、源はこの瞬間までそう思っていた。

 付き合えないと言えば泣かれ、仕事が忙しいと言えば泣かれ、別れ話で泣かれ、何時も源の側に居た女たちは源に涙を見せてきた。源は女たちのその涙を見て、正直『ムナクソ悪い』としか感じる事が出来なかった。

 泣いても化粧は崩れない、取り乱し泣きながら暴力に打ったえかける女は居ても、心の底から泣きじゃくる様な事は無い。暴力に訴えていても、泣きじゃくっていても、どこか彼女たちはまだ冷静で、それはまるでドラマや映画の中で女優が泣いているかのように、計算ずくで泣く女たちの姿だった。

 それなのに、今目の前に居る千夏には普段の凛とした美しさも、冷静さも何もない。今まで目の前でどれだけ泣かれても、どこか他人事のようにしか感じる事が出来なかった涙。それが今目の前で泣いている千夏の姿にだけは、戸惑いを隠せなくなっていた。

―――どないしたらえぇねん………。

 オロオロと動揺する心を落ち着かせ、側にあったティッシュの箱を渡す事しか源には出来なかった。

「おおきに」

 少し落ち着きを取り戻した千夏が、それでも色々な事を含めてまだ謝り続けている。ボロボロになるまで泣いた顔は、それでも尚綺麗だと思えた。

 綺麗だと思う反面、細く薄っぺらい体と今にも折れそうな手首に儚さを感じ、思わずその手を取った。

 驚いて泣き腫らした目で見上げる千夏と目を合わせる事が出来ず、千夏の手をギュッと握ったまま、心の底から湧き上がる言葉を言い放った。

「俺、今の千夏さんは嫌いや」

 自分でもこんな言葉が何故出たのか、一瞬解らず戸惑った。こんな言葉を言ってしまい、千夏はどんな顔をしているのだろうと、恐る恐る千夏へと目を向けるとポカンと源を見つめる千夏と目が合い、納得した。

 ガリガリに痩せ細り、握ったままの手は骨と筋の感触しかない。それでも、それでも千夏を綺麗だと思う自分がそこには居たのだ。

―――やっぱり、俺。今の千夏さん、嫌いやわ………。

 心の中でもう一度自分の言葉を噛みしめた。



 源から放たれた言葉を聞いて、不思議と皮肉なくらいにホッとした。

 あぁそっか、源ちゃんが他の人とどうこう成らんでも、うちが嫌われても同じなんやね…………せやけど…嫌われとうは無かったなぁ…五年も片思いして………。

―――終わるんは一瞬やったなぁ。

 涙すらもう出ない、粉々に砕かれた心に代わり微笑みが浮かんでいる。

―――おおきに。

 心の中で呟いた。

 一番欲しくなかった言葉を源から貰い、五年間の片思いと言うがんじがらめの呪縛から解放され、ずっと望み続けていた祈りが叶った気がした。

―――叶のたなぁ。

 拍子抜けした様に、五年間背負い続けた思いが消え、悲しい筈なのに一気に心が軽くなった気がした。皮肉な物だと自傷的な喜びにも似た不思議な気持ちが溢れる。今までずっと張りつめていた糸がプツンッと切れ、心が自由になった。そんな風に感じる事も出来る、不思議な感覚が千夏を襲っていた。

 それと同時に、「嫌いだ」と言った源の悲痛な表情が気にかかり、源が今後気にするのではないかと、そんな事ばかりが頭を過る。

―――嗚呼…うち、女にはなれへんねやなぁ…。結局骨の髄まで芸妓なんや……。

 心の奥で苦笑する。

 片思いの相手に「嫌いだ」と言われ、長い片思いが終わったとホッとするのはまだ解る。それなのに、相手と自分の今後の仕事上の関係を気にするなんて……どこまでも芸妓涼夏で生きているんだと改めて思い、ふんわりと笑みが零れた。

 微笑みを浮かべたまま、源を見上げる。

 源は首を折り、真下を向き口を一文字に閉じたまま表情をうかがい知ることは出来ない、左手も千夏の右手を掴んだまま放そうとはせず、より一層力が込められている。

「源ちゃん…痛い…源ちゃん」

 怒っているとも、先程の言葉に困っているとも、後悔しているとも取れない苦痛にも似た源の顔。小面の面の様に表情の無い源の顔、能面と同じように上を向けば憂いを露わし、下を向けば悲しみや怒りを表すのか、源は下を向いたまま口を一文字に結び表情は今も無い。

 敢えて言うなら、悲しみを纏った表情が其処にはあった。

 下を向いているからそう見えてしまうのか、それとも自分の所為でこんなにも苦しげに、苦悩させてしまったのかと不安で心が乱れた。

―――源ちゃん………。

 空いている左手で源の肩を揺さぶると、握られていた右手が自由になり、ふっと手首から熱が奪われヒヤリとした空気が流れ込んだ。自由になった源のその左手は、千夏の背中へと回され、自由になった千夏の右手の代わりに千夏の身体の自由が奪われた。

 咄嗟の事に何の抵抗も出来ず、一瞬息を呑んだ。

―――源ちゃん⁉

 驚きのあまり途切れそうになる意識を戻し、必死に思考を巡らせ冷静さを取り戻そうと息をする。深くすったその先には、香水もコロンも付けて居ないのにどこか心の底をくすぐる、源特有の香りが鼻腔をくすぐり心臓が大きく飛びはねた。

 稀にお花で出会う側に寄るのも嫌な臭いとは違う、包まれていたい様な香り。心臓は大きく飛びはね、鼓動が源に聞こえてしうのではないかと思う程なのに、ゆっくりと頭は冷静さと落ち着きを取り戻そうとしている。

 羞恥はあれど、恐怖も嫌悪も何もない。もう一度、ゆっくり呼吸を整え、源の香りを吸い込み自分をもう少し、もう少しだけ落ち着かせようと千夏ではなく、芸妓の涼夏として源を見る。

 子供の様に自分の首筋へと顔を埋める源。

 芸妓の涼夏として対応しようと試みても、やはり羞恥と困惑が入り乱れる思考。

 どうしたものかと思案する千夏の痩せ細った体は、源の身体の半分程も無く、その腕は源の手首程の太さしかない。

「ほんま…今の千夏さん…俺、嫌いや」

 千夏の髪に顔を埋めながらそう言い放つ源。

―――嫌いやったら………嫌いやったら、放しとくれやす。

か細く、震える声で訴える千夏は精一杯の思いで、芸妓涼夏としてそこに居た。

「細なったよなぁ…。ほんま、骨の上に皮ついとるだけみたいや」

 大きくため息を吐くように、源は言葉を吐き出した。背中に回された手はそのままに、また少し力が込められ引き寄せられる。

「可愛い舞妓の涼香さんが綺麗な芸妓の涼香さんになって、あぁどんどん綺麗な人になってくんやなぁって思てたのに………今の千夏さん……全然やで……」

―――解っとる!

 心の中でそう叫ぶが、声にはならない。どんどん口が渇いてきて言葉が出ない、金魚の様にパクパクと唇を動かす事しか、もう一人の女である倉田千夏には出来なかった。

 源の言葉が胸に刺さる。この腕から逃れたい、この胸から……。

 五年間恋い焦がれた源の腕の中、離れたいと思うのはこれ以上傷つきたくないと思う自分。離れたくないと思うのは、未だ源に恋い焦がれる自分。源の力強い腕の中で、千夏にはどちらも選ぶことは出来ないで居る。

「去年このワンピース来て俺の前に現れた千夏さんは、もっと可愛かったよな。女子高生が流行のおまじないするみたいに、一人で夜中に無言参り決行してみたり、危ないからって着いて行ったらめちゃめちゃ可愛い女の子で来るし、ほんまアレ逆にむっちゃ危なかったで。どんなけ俺が『この人は芸妓の涼香さん』って自分に言い聞かせとったか…ははっ俺、あん時必死に自分の理性を神さんに願ごたわ」

 千夏の髪に顔を埋めたまま、クツクツと笑う。

「そりゃそうやわなぁ…憧れの芸能人と同じ位置におる芸妓の涼香さんが、今まで見た事も無い可愛い服着て来てくれて、手ぇ繋いで何時間も歩いたら、そら勘違いもしそうになるわ。この服は俺の為ちゃうんか?とか、手ぇ繋いでかまへんのは俺の事好きなんちゃうんかとかな」

―――全部、源ちゃんの為どしたんよ……。

 心の中で呟く。

「終わった後で『お酒飲まへん?』やもん…勘違いしたらあかん思てもしてまいそうになるやん。やっぱり男や、あかんわ。アワヨクバとかモシカシタラって下心アリアリで行ってもて……せやけど、ガード硬かったぁ。その辺は流石、芸妓の涼香さんやったなぁ…」

 耳の側で囁くように語った源の吐息がくすぐったくて身をよじると、背中に回された手に更に力が込められる。

「でもなぁ、今の千夏さんは骨と皮だけや。俺の憧れやった涼夏さんでも、俺が惚れてもた千夏さんでも無いわ…お前、誰や?俺の好きになった千夏さん返してくれ………」

 源の言葉に驚きと、戸惑いと、困惑と、その他の様々な感情が一気に押し寄せ、一人の女である倉田千夏から心を一芸妓の涼香へと必死に置き換える。

 そうしなければ…源が――源ちゃんが……。

―――潰れる。

 この五年間、自分の想いよりも源の将来の成功を祈り、自分の感情に蓋をした。今までもこれからも、ずっと蓋をしようと心に誓いそうするべきだと、花街を知った一人の女である千夏が腹を括り続けた五年間。

 その努力を源の言葉は無駄にする、源の将来を駄目にする。源が自分よりもずっと年上で、もう一人前の板前で、店を切り盛りできるオーナーの立場であれば………そう考えた事もある、そんな立場ならもっと素直になれたのか。

――慣れる訳無い。

 そんな立場なら出会う事も関わる事ももっと少なかった筈だ。

―――現実は現実だ。

 どうしようもない現実を、受け入れそして否定する。

 必死に、源の将来だけを考えた。

―――それでえぇ……うちは、芸妓や……。

 昔堅気と言われようが、勿体ないと言われようが、自分は源の将来の成功を祈っている。その事だけは誰にも負けない自信がある。グッと女である自分を押し殺し、源の成功を祈る自分だけを前に出す。

「うちはうち。芸妓の涼香も、倉田千夏も同じおなごや…返すも返さへんも、これが今のうちどす。口軽うに惚れたなんか言うもんや無いえ。うちは芸妓どっせ!」

 ハッキリと源にNOを言えない自分に不甲斐なさを感じ、それでも精一杯の虚勢を張って拒絶する。そんな千夏の精一杯の虚勢さえも、源は真正面から突っぱね悲しみにも怒りにも似た感情をぶつけた。

「それが何やねん、千夏さんが芸妓なんは百も承知や。惚れたもんは惚れたんや、中途半端に言うとるんやない!もう腹は括っとる。迷惑やったらちゃんと振ってくれ」

 源からの乱暴な口づけを、千夏は拒否する術を持たない。拒否しようと頭で思っても、体と心は思わない。そのまま受け入れ続け、深く。

 深く―――。



「あかん…源ちゃん……あかん。うちは涼白屋の芸妓で、源ちゃんは板さんや、あかん。源ちゃん、祇園でお店持ちたいんどっしゃろ?お店持つまで、涼白屋で修行しはるんどっしゃろ…こんなん…………源ちゃん肩身狭もなって…なんにもえぇ事おへん…なんにも…何にも……………………」

 源からの夢にも思わなかった告白を受けても尚、思いのままに源の胸には飛び込めない。

 真っ先に考えてしまうのは、今もまだ源の将来。

―――自分もずっと好きだった。

 そう言って源の胸に飛び込んでしまえれば、どれだけ楽だろう。どれだけ幸せだろう。

 源が…もっと年上で、もう既に一人前の板前で、自分の店を持っていれば…………。

 源が花街で働いていなければ、源が外の人間だったら…自分が芸妓で無かったら……。

 しかし源が外の人間だったら…自分が芸妓で無かったら…出会う事も、関わる事も、好きになる事も無かっただろう。

―――飛び込めない。

 飛び込めば、今この瞬間は互いに幸せかもしれない。

 その後は…自分は、初めて出来た旦那が半人前の板前だったと言われるだけだ。

 源は………芸妓に手を出したのだ、割烹涼白では肩身が狭くなるだろう、二人の関係を聞いた客は皆が皆、良い顔をするとは限らない。

 そうなれば、祇園で店を出すのは難しくなるだろう。

 だから自分の気持ちを押し殺した、押し殺し続けた。

 だから源の想いすら拒む事を選んだ。

 綺麗事だと言われても、その方が源の為だと、互いの為だと結論付けた。

―――こんなに、こんなに好きやのに……ごめん…源ちゃん、ごめん…………。

 せっかくの源の言葉も、想いも拒む事しか出来ない。悔しさと悲しさと切なさの入り混じった思いに、嗚咽する。



「承知の上や…振るんやったら、そんな解り切っとる事理由にせんといてぇや」

 俯いたまま、ポロポロと大粒の涙を流し続けている千夏へ言葉を投げかけ、額へと唇を落す。

「そんな顔で泣かんといてぇや…ごめんな、困らせとんねんな。中途半端な気持ちで言うとんちゃうねんで、俺三十までには店持てるように頑張るから、それまで待ってて。長い事待たすけど…それまでに…それまでにもし、千夏さんにえぇ人出来たら、俺引くから。ちゃんと何も言わんと俺が引くから、せやから…千夏さんのホンマの気持ち教えて…」

 優しく囁く源の言葉が、全ての壁を脆く崩す。

―――もう、無理。

 源の首に腕を回し、声を上げて泣きじゃくった。

それが答えだ――。


 ひとしきり泣きじゃくり、涙も出尽くし、鼻を噛み、しゃくり上げながら「源ちゃんのアホ」何故か無性に悔しくて、恨みの言葉を投げつける。

 せっかくずっと耐えて来たのに、こんなにも苦しい想いで耐えて来たのに、崩された。

「うち、しつこおすえ…ずっとずっと、舞妓の頃から源ちゃんの事好いとしたんどす。絶対に他の男はんなんか行かへん、ずっと待っとります。源ちゃんが他のお人の所行ったら、恨みますえ!何するか解らしまへんえ!かまへんのどすな!ちゃんと源ちゃんがうちの事落籍いてくれはるまで、うちはずっと…ずっと………………」

「了解…ちゃんと、俺が落籍いたる」

 表には決して出せない、秘密の関係が始まった。


                ●‐●‐●‐●祇園小唄・完●‐●‐●‐●

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祇園小唄 KOFUMI @KOFUMI

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