第5話
「去年の無言参りも効かへなんだなぁ……」
鬘を取り、化粧を落し一人呟く。
「どないせぇっちゅうねん! 」
クッションをベッドに投げつけ自分もダイブし、深い、深い眠りの底へと落ちて行った。
「きゃぁ間にあわん!」
慌てて飛び起き、顔を洗って着物を着て、急いでいませんよぉという空気を出しつつ急いで女紅場へと駆け込む。
舞を習い、鳴り物を習い、茶道を習い、三味線を習い。
千夏は自分を贔屓にしてくれているお客さんに合わせ、能楽や長唄も習っている、何一つ芸妓でいる間は疎かに出来ない。
疎かになれば今までのお客さんは離れていくだろう。今の世の中、芸妓よりも見た目華やかな舞妓の方がもてはやされ、お花へと呼ばれることが多い。
芸妓を好んで呼ぶのは玄人肌のお客が多いのだ。玄人肌のお客になればなるほど、芸に磨きをかけねば名指しではお花には呼んで貰え無い。
人数さえ居れば良いという、宴会専門の“さんざい芸妓”になる事は千夏のプライドが許さない。
芸妓になれば二十歳を超えている。仕事上、進められればお付き合いとして少しの酒は口にする。それは“お付き合い”であり“さんざい”ではない。
“さんざい”とは“散財”と書くのだ。
“さんざい芸妓”の様に、酒をたらふく飲みまくり、「お客に酒代“さんざい”させる様な芸妓に、涼夏は絶対になるんや無いで!」と舞妓になりたての時に長年花街へ通っていたお客に言われた事がある。
その時のお客の言葉と、そのお客が実際に若い頃に本当に居たという“さんざい芸妓”の話を聞き、「なりたくない」と、「そんな芸妓にしかなれないのならば、芸妓を辞めよう」と心に誓った。
無論時には大きな宴会の席に呼ばれ、そんな大勢の中の一人にならなければならない事もある。しかしそれでも「酒よりも話術で、芸で、お客に楽しんでもらおう」そう心に思い、仕事をしてきた。
名指しでお客からお花へと呼ばれないという事は、芸妓涼夏として終わりという事だ。
逆に、芸に磨きをかけ、その芸を認められ続ければ、その舞を見たいと、その芸妓と自分の芸を競いたいと名指しで呼んでもらえるのである。
芸妓冥利に尽きる――。とは此の事。
※
慌ただしく毎日を過ごし、午前中は女紅場へ、女紅場が終われば、帰る道すがらお茶屋への挨拶回り、午後からはお花、終われば深夜。
春には都をどりに総をどり、一カ月間みっちりとある練習を経て昼間の一日四公演をこなし、休む暇なく夜にはお花へと急ぐ。
総をどりでは芸舞妓双方が地毛で日本髪を結う為、お花へと急ぐ姿をちらっと見ただけではどちらか区別がすぐにはつかないが、その顔をは見ればその妓が芸妓なのか舞妓なのかすぐに解る。
―――芸妓の方が年齢が上だから。
今年やっと芸妓になった妓であれば、数か月後に衿替えを控えている舞妓と同い年という事も多々ある。
顔。舞妓のうちは舞台に上がった白塗りのままでお花へ急ぐ、しかし芸妓になると首筋の白塗りはそのままに、顔だけ白塗りを落してお花へ急ぐ。
千夏もそうやって毎日顔だけ白塗りを落してお花を駆け巡った。
自前になり、自由にスケジュールを組めるとは言っても、一人になれば源を思い出す。
去年の夏に源と二人で歩いた無言参り、その後二人で飲んだ酒。菊まりの言葉に、三味線屋での源の様子が重なり心の中が幾何学模様に交差する。
「あんな事、せなんだらよかった・・・」
楽しかった思い出すら、ズキズキと胸に疼く。
彼女が出来ようとも、別れようとも、以前と変わらず同じように千夏と接してくれる源。
―――勝手に結婚やなんやて騒ぐ奴おったら、今度は即シバキ上げたる。
源がポロリと零した言葉を思い出すたび、胸が締め付けれらる。
あの日よりは心なしか遠い距離で、あの日以前と同じ丁寧な言葉で、あの日の様にちゃらける事も無く。源はちゃんと一定の距離を保って側に居てくれる。
―――なんで?
一人になると、疑問と希望と絶望が目まぐるしく入り混じり、絶望がいつだって勝利して心の中が混沌としてまう。
―――一人になりたない。
千夏は毎日お花に出、祇園祭りが始まり、みやび会があり、ゆかた会があり、祇園祭りが終わりを告げ、八朔を迎えた。
「おめでとうさんどす、よろしゅうおたの申します。」
絽の黒紋付きを着、熱中症で倒れるのではないか?と思う程暑い八月一日の日差しの中を、忙しく駆け巡った。
「今日は高橋せんせぇのお花かぁ、何舞おかなぁ」
『高橋せんせぇ』とは、千夏がまだ舞妓の時、お花で舞った舞で大目玉を喰らった能楽の師範であり、その後の千夏の成長と努力に、現在では千夏の舞を高く買ってくれている。
今も時折アドバイスもしてくれ、『をどり』の切符も毎年かなりの枚数を買ってくれる人物だ。
お客としても、能楽の仕舞を加味した井上流を舞う上で良きアドバイスをくれる先生としても切っても切れない、とても良い千夏のお客様の一人なのである。
「でも珍しなぁ、早い時間に割烹涼白の方でやなんて」
日課となっているビエネッタのアイスクリームをほおばりながら、風呂上がりの汗が引くのを待つ。
「パリパリのチョコレートがたまらんなぁ」
今日も一人ほくそ笑む。
アイスクリームを堪能し、化粧をして鬘を被り、男衆に着物を着つけて貰い、いざ出陣。
夜八時お花が始まる――。
高橋せんせぇは、同伴者と共に七時頃から割烹涼白で食事を取っていたらしい。
控えの間代わりに数件先の屋形に寄ると「息子さんの二十歳の誕生日祝いや、言うてはりましたえ」今日一緒に高橋せんせぇのお花に出る若涼が教えてくれた。
「今日は全部、源さんが一人で作ってはるんやてぇ。せんせぇの息子さんと源さん仲良しさんで『源さんの料理が食べたい』て言わはって、割烹の方へ来はったそうどす。」
「へぇぇ、源ちゃんが一人で。こらまたえらいえぇ経験させて貰ろて」
源の名を聞いた途端、ズキリと胃が痛む。
「涼夏さんねえさんどないしはったん?なんかちょっと会わへん間ぁに痩せはった?」
若涼が心配そうに尋ねてくれたが「大丈夫」とだけ言い、割烹涼白の敷居を跨いだ。
奥の厨房では源が食材と格闘しているだろう、高橋せんせぇとそのご子息は、源の料理を満足してくれたのだろうか?
心配が胸を過る――。
襖をあけ、扇子を前に正座をし、頭を下げる。
芸妓・涼夏。
舞妓・若涼。
地方・梅由。
「おたのもうします」
挨拶もそこそこに、千夏の舞を見せてほしいと言われ、『東山』『六段くずし』を舞う。
「初心も舞うてみ」
笑いながら時折言われる“初心”。
初めて千夏が高橋せんせぇの前で舞い、大目玉を喰らった舞『祇園小唄』だ。
梅由との目配せで梅由が三味線を調弦し始める。
今日は千夏一人が舞うのではない、若涼と共に『祇園小唄』を舞う事になった。
【祇園小唄】
月はおぼろに東山
霞む夜毎のかがり火に
夢もいざよう紅桜
しのぶ思いを振袖に
祇園恋しや だらりの帯よ
夏は河原の夕涼み
白い襟あしぼんぼりに
かくす涙の口紅も
燃えて身をやく大文字)
祇園恋しや だらりの帯よ
鴨の河原の水やせて
咽ぶ瀬音に鐘の声
枯れた柳に秋風が
泣くよ今宵も夜もすがら
祇園恋しや だらりの帯よ
雪はしとしとまる窓に
つもる逢うせの差向い
灯影つめたく小夜ふけて
もやい枕に川千鳥
祇園恋しや だらりの帯よ
作家・長田幹彦が京都に滞在していた折に作った歌に、昭和五年に製作された映画『絵日傘』の主題歌として、佐々紅華が曲を作った。
当時は未だ無声映画の時代、映画と同時に曲が流れることは無くスクリーン脇で女優が唄っていたそうだ。そうして全国で愛唱されるまでの曲となり、京舞井上流四世・井上八千代が振付け京都で最も有名な舞となった。
満足そうに拍手をしてくれ、ようやく高橋せんせぇのご子息を紹介され、お酌へと回る。
「高橋総悟です」
緊張は伺えない、ゆったりとした物言い。
「源さんとは小さい頃から居合の道場が一緒で、金魚の糞みたいに後ろくっついてって、色々遊んで貰とったんです。昔から源さん、色々作って俺等に食べさせてくれててね。最近源さんの料理食ってへんなぁて言うたら、父さんが二十歳の祝いじゃ言うて連れて来てくれましてん。こんな綺麗な芸妓さんにいっつもお酌して貰とんやなぁ、父さんは……」
ブスッっとむくれてみせて、父親を見る総悟。
背は高い方の様だが線が細く、綺麗な顔をした『美少年』という言葉がぴったりと当てはまる青年だ。総悟と同じ年の若涼が恥ずかしそうに酌をしている。
「べっぴんさんなだけちゃうぞ、涼夏は。お前どこみとった?顔ばっかりみとったんちゃうやろな?わしが此処に連れてきた意味解っとぉか?源の料理だけで来たんやないんやで、涼夏の舞も見せたろ思たんやぞ」
おおきに――。
高橋せんせぇとは叱り飛ばされた御縁、そんなせんせぇの褒め言葉に千夏は恥ずかし半分、嬉し半分。後者が少し勝ってきっと今夜は部屋でスキップだ。
「初めて涼夏の舞見た時は『お前何しとんじゃ!』て俺、叱り飛ばしたなぁ。あの頃とは比べもんならん程や」
「あの時、せんせぇが叱ってくらはったお蔭どす。せんせぇが叱ってくらはらへなんだら、うち今芸妓できてまへん、ほんまおおきに――」
膝で後ろへと下がり、三つ指を突いて深く頭を下げる。
習い若涼も頭を下げる。
「えぇ根性してはりますねぇ。この師匠に叱り飛ばされたら俺、いっつも稽古から逃げて、毎回源さん所転がり込んでたのに……。最初、隣の居合道場の息子さんの歳さんって人の所逃げ込んだら、「去ね」って速攻つまみ出されましてねぇ。でも源さんはいっつも笑いながら匿ってくらはりますから、いっつも猛ダッシュで源さん家まで逃げてましてん。小学生位までやったかなぁ」
「芸妓はお前みたいなんと、ちゃうんや」
自分と一緒にするなと、高橋せんせぇは息子に御立腹で酒を飲む。
「梅由ねえさんは、昔っから人の倍も三味と唄の稽古したはるし、涼夏もワシが怒ったら『見返したる!』て根性入れて来よったんやぞ、お前ももっと性根入れてせぇ!性根入れて!ちょっとは源や歳を見習ろうたらどないや?せや、お前今すぐ源の爪の垢煎じて飲まして貰え」
父親らしく高橋せんせぇが怒ると「最近は逃げてませんやん」と総悟が笑う。
その光景が可笑しくて若涼と二人クスクス笑うと、高橋せんせぇも総悟もカラカラと笑い、和やかな雰囲気となり、料理も最後の水菓子が出された。
「涼夏、そろそろ源を呼んで来てくれへんか」
高橋せんせぇの言葉に「へぇ」と立ち上がった瞬間、千夏の世界が揺らぎ膝をつく。
―――!!!!
「おねえはん!」
驚いて声を上げた若涼に目配せして、大丈夫だと伝える。
「すんまへん、足痺れてもとったみたいどす。いややわぁ恥ずかし」
そう答え、笑いを残し部屋を出た。
―――なんやろ?悪酔いしたんやろか?
ゆるゆると手すりに捕まり階段を降り、壁を支えに調理場へと続く暖簾開けて源に声をかけた。
「源ちゃん、上で呼んだはるから、上がっとくれやす」
精一杯いつも通りの声で源を呼ぶと、「はい!」と元気な声が帰ってくる。
源の声を聞き、ホッとするとまた千夏の世界が回り始めてしまった。
「ちょっ、涼夏さん!誰かバケツ、それとすぐに屋形に連絡したって」
他の客へ聞こえない様、配慮した声で支持を出す。
―――今、此処で吐かんといてな。
源はさらに小さくそう言い、千夏を抱き上げ奥の開いている座敷へと運び入れた。
今年見習いに入ったばかりの少年が、バケツにビニール袋を被せ、中にキッチンペーパーを大量に突っ込んだ物を持ってきてくれた。
―――ほら、ここ吐き。
片手でバケツを持ち、片腕で千夏を支えてくれている源に精一杯の声を絞り出した。
「あかん…源ちゃん上……せんんせぇ待ったはるさかい。うちは大丈夫、うちも上行って…お花、最後まで………お見送りまではするさかい、大丈夫やから…………」
「どこが大丈夫やねん!白塗りの化粧、今青白ぅて化けもんみたいやで。そんなんで上行ったらあかん、ここはお化け屋敷やないんやで」
声を潜めながらも、涼夏の胸にグサリと刺さる現実を源が突き付けた。その言葉に、今の自分の有様を理解することが出来ず、テレビで見た“幽霊”の姿を思い起こし、自分がそんな幽霊の様な有様なのかと怖くなって思わず源の割烹着の袖を握りしめた。
「何とでも言うとくから、見送りまでは此処に居り。高橋先生も総悟も、今の涼香さん見て心配はしても、喜ばん。お客に心配させるんが芸妓の仕事やないやろ」
「その通りやで、涼夏。源ちゃん、先に上にご挨拶行って来て、ここはうちがやりまっさかい」
取るものもとりあえず、裏通りを通り屋形から駆け付けたおかさんが源から千夏を受け取り、上へ一句様に促した。源は千夏を預け、足早に階段を駆け上がり高橋せんせぇの下へと向かう。
「源ちゃんの言う通りやで」
改めておかあさんに言われ、グッと唇を噛んだ。
※
「失礼します。紅野源です」
平静を装い挨拶をし、部屋へと入る。
「わぁ源さんひっさしぶりぃ。次、何時暇?飲もうやぁ、どうせ今彼女居てへんやろ」
先ほどまでよりも軽い口調の総悟に若涼は目を丸くして驚き、高橋せんせぇは「お前ちょっと黙っとけ!」と注意を促し、源はギロリと総悟を見据える。
若涼は、自分の息子に迷惑そうな顔の高橋せんせぇに少し驚き、総悟を睨む源の眼差しにビクリと背筋が寒くなった。
―――源さん…怖い…。
「源さん!若涼ちゃん怖がっとるから、そんな怖い顔せんときぃってぇ」
「えっ!へっ!?えっ?えっ?」
心を読まれたのかと、思わず慌てて素っ頓狂な声が出る。
「あれ?ほんまに怖かったん?」
適当に言った言葉だった事に気付き、変な声を出してしまった事と、源に対して申し訳ない思いと、失敗した恥ずかしさで顔が熱くなる。
「かいらしなぁ」
総悟がカラカラと笑い出すと、高橋せんせぇと源もクツクツと笑い始めどこか心がホッとした。
「すまんなぁ、こんなんに未だに付きまとわれてもて。お前の爪の垢でも煎じて飲ましたらちょっとはマシになるか思うんやけど。どないやろ?このお茶にでも混ぜて」
真剣な顔つきで提案する高橋せんせぇ。
「そんなん汚い!」
抗議する総悟。
「煎じる程、爪に垢無いですわ、今度瓶にでも溜めときましょか」
自分の短く切りそろえられた爪をしげしげと見る源。
三人のやり取りにクスクスと笑う若涼と梅由が居た。
アレが美味かった、ナニは美味いが好みじゃない、コレは食った事が無かった。等 色々な意見を貰い、総合的に「大変美味かった」と好評化を頂いた。
―――総悟も残さんと、全部綺麗に食べたしな。
加えられる。
「それは良かった、ありがとうございます。では、これは一人の友人として言わせて貰います。総悟……」
真面目くさった顔で総悟へと向き直し、
「お前ちゃんとピーマン残さんと食べれたやん。偉い偉い」
満面の笑みを投げかけると、言われた総悟は青くなり金魚の様に口をパクパクと指せている。
「ピーマン!ピーマン入れたん!源さん!父さんもグルやったん!!」
毒でも盛られたかのように慌てだし、「殺菌せな!」と酒を煽る。
「俺は毒は入れてへんぞ、入れたんはピーマンや」
「毒もピーマンも同じや、河豚の毒のがマシかもしれん!」
「否、それ確実に死んでまいますえ」
思わず若涼が口を吐くと、やられたとばかりに総悟は不貞腐れた。
その光景が可笑しくて、仕掛けた二人は笑いが止まらなくなっている。
茶目っ気たっぷりに高橋せんせぇと二人グルになり、総悟の大嫌いなピーマンを料理の一品として混入させたらしい、上手く味と形を変え、ピーマン特有の風味を消し、見事二十年間嫌い嫌いと食べなかったピーマンを食べさせていた。
「もぉえぇ俺帰る!源さんも父さんも酷い、俺にピーマン食べさせたぁ酷いわ!」
お前はガキか――。
思わず源が口走りそうになる言葉を飲み込むと、高橋せんせぇが同じ言葉を代わりに言ってくれていた。
「ほな、そろそろ帰るか」腰を上げ「そういや涼夏は?」高橋せんせぇが聞く。
このまま下に降りるまで気づかないでくれ、と願っていた源の思いは通じない。
「あっ足痺れとったみたいで、痺れ治らんてまだ下居てはりますわ。もう治ってる思いますから、もう大丈夫ちゃいますかね」
「さっきも涼夏ちゃん足痺れて、膝ついてもたはったからねぇ」
何かを察知した梅由が援護する。
階段を降りた所で涼夏が待っていた。
「せんせぇすんまへん、足痺れとんのなかなか治らんで。今日は呼んでくらはっておおきに、またお花寄せとくれやす。うち、舞のお稽古もっとしまっさかい、また見とくれやす」
ほな、また今度――。
千夏、源、若涼、梅由、そして割烹涼白の板長、仲居が門前で見送る。
「次は、若涼さんの舞がもっと見てみたいなぁ」
総悟が最後に言い残す。
「ほな、次は総悟はんのお花呼んどくれやす」
若涼はニコリと返した。
後姿が見えなくなり、割烹涼白へと一同が戻る中「しんどかったら掴まりや」源がこっそりと千夏に声をかけるが、千夏は何時なら気丈に「おおきに、大事おへん」と微笑み返す筈なのに、それだけの力も無い。
とっさに源は千夏へ「草履片方貸し」と草履を片方取り上げ、腰へと手を回した。
―――花緒しっかり支えや。
「あれ?涼夏ちゃん、どないしたんや?」
カウンターで酒を飲んでいた常連客に聞かれたが、源は意味ありげにニッと笑う。
「草履の花緒一本になってもたんですわ。裾引いて片足は危ないでっしゃろ、役得貰いましてん」
おどけて見せながらも、源は片手で涼夏を地べたギリギリにまで持ち上げ、少しでも歩かなくて良い様にとの気遣いが見受けられる。
人一人、重い着物に重い帯を纏った芸妓一人を片手で持ち上げ、壁と自分の間に千夏を挟み込んで常連客に気付かれない様、ゆっくりゆっくり、草履を履いている方の足だけが辛うじて地面に着く程度に歩いてくれる。
千夏は草履が脱げない様、足の指で花緒を支える事だけで良かった。しかしそれだけの事が今は必死になっている。常連客に体調が悪い事を気づかれない様笑顔を作り、必死に草履の花緒を支え、ほんの数メートルを目指す。
五席並んだカウンター、それだけの距離が今はとてつもなく長い距離に感じる。
「お恥ずかしいこって」
千夏も笑顔で言葉を加えると、カウンターの中に居た先輩が「ラッキーやのぉ」と茶化してくれた。
長い長いカウンターを抜け、奥の間へと千夏を引き入れる。ほっとして部屋を見ると、屋形から着替えの浴衣と化粧を落とす道具一式と共に、おかあさんと仕込み中の女の子が二人待っていてくれた。
「タクシー裏に付けてもらう様にしてるさかい、早よ着替えてすぐ病院行くえ!この後のお花は全部キャンセルでかまへん」
―――おかあはん、そんなじゅんさいな事したら……。
力ない言葉に説得力はまるで無い。
「そんなしぶちん、わざわざ花街で遊んだはらへんわ。病気は病気、サボったんやおへんやろ。ほら、病院行くえ!えぇな!源ちゃん、悪いけどこの子タクシー乗せんの手伝どうて」
―――用意出来たら呼んでください。
言い残し部屋を出ると、仲居が熱いおしぼりを幾つも持って入れ替わりに入っていった。
若涼も梅由も、千夏が膝を着き一向に戻ってこなかった事で、千夏に何かやんごとない事が在ったのだと理解はしていた。それが月の物での軽い貧血や手洗いへ行かねばならない程度の事であれば、芸妓である千夏ならば何事も無かったかのように振る舞える。
しかし先の千夏を見て、それは違うと二人は確信していた。何か大変な事が起こっているのではと心配ではあったが、二人までお花に穴を開けるわけにはいかない。
「次のお花行ってきます」
気丈に言って割烹涼白を後にした。
十分程して二人の女の子が、千夏の着ていた着物や帯を風呂敷に包んだ物と、鬘箱を持って部屋を後にした。
それから五分程後、浴衣に何時もならば名古屋帯の所、反幅帯を貝ノ口に結ばれた千夏は源に抱き上げられタクシーに乗った。普段ならば「自分で歩ける」位の事を言っているであろう千夏が、意見一つ言わず、されるがままになっている様子からも、自分の意志では何一つ動けない事が解る。
「もうちょっとで病院やから、がんばりや」
源が小さく耳元で囁くと、目だけで返事をする。
白塗り化粧を落とした千夏の顔はやつれ、目に精気は無く、肌の色も悪い。
一目見ただけで素人目にも『病人』である事が解った。
※
「栄養失調と過労やね」
救急処置室で当直の医師が笑いながら話す。
「口の中にヘルペスぎょうさん出来とったんで、それが痛うて食べれて無かったんちゃうかな?夏バテの所にヘルペス出来たら食べれんわなぁ」
―――へぇ、口の中痛うて。
点滴を受けながら千夏が答える。
「一週間ほど入院して、ヘルペス治ったら食事出来るやろからちょっと様子みよか。後は自宅療養したらえぇ。あんまり無理して仕事したらあかんで」
―――へぇ。
医師の言葉に力なく答えた。
「あんたは当分お盆休みや、体が元に戻るまで大人しゅうしときなはれ。後はうちにまかしとき、あんじょうしまっさかい。あんたさんは早よ身体直しなはれ。えぇな!」
―――すんまへん。おおきに、おかあさん。
乾ききった唇と喉から声を絞り出す。
「ほな、今日はもうこれで帰りますわ。涼夏、明日また着替えやら持って来まっさかい、おきばりやっしゃ!」
「おかあはん…郷の方には黙っといとくれやす」
「しゃぁない子ぉやなぁ、まずは身体直す事だけ考えなはれ」
大きな溜息をつきながらも、おかあさんは了承してくれた。おかあさんの言葉にホッとしてベッドに体を横たえると、おかあさんから言い返すことが出来ないほどにまっとうな小言の嵐が降ってきた。
「涼夏さん。自前になったあんたさんの仕事にうちが口出すんはと控えとりましたけど、都をどりからこっち、お花出ずっぱりどっせ。お客はんがお花買うてくらはったお休み以外、全然休んだはらへんやないの。お郷のご両親に言われとぉ無いんやったら、もうちょっと身体の事考えてもよろしいん違いまっしゃろか。無理して身体壊したらお郷のご両親にも申し訳立ちまへんえ」
それと、こんな事が何遍も有ったら、それこそ信用問題どっせ――。言い残しおかあさんは屋形へと帰って行った。
点滴のおかげなのか、先程よりもずっと体が楽に動くが重い事に変わりは無い。数時間前には感じる事は無かったが、まるでインフルエンザにかかっている時の様に、着替えた病衣が触れるだけで皮膚がピリピリと刺激される。それだけ弱っているという事なのだろうか、現実を突き付けられた気がした。
入院の手続きが終わると、車いすに乗せられ三階にある二人部屋の病室へと移された。
ベッドに座り部屋を見回す。薄いピンク色のカーテンの中には、病院特有のシングルサイズより狭いベッドに幅三十センチ程のロッカー。料金カードを入れて動くテレビ、壁には酸素供給が出来る装置が埋め込まれた殺風景な空間。
ここで一週間の入院生活が始まる。
幸い同室の相手は居ない。
栄養失調―――。
過労―――――。
信用問題―――。
「そんなん、どぉでもえぇのに…………」
思わず本音が込み上げた。
―――どうでもえぇってなんやの。
絶妙のタイミングで一人の看護師がカーテンを開けて入って来た。年齢は四十代前半位、少しふっくらとした朗らかな印象の女性だ。
「今晩の担当、紅野です。よろしくねぇ千夏ちゃん」
ほんわりとした空気を纏ったまま、今晩の担当だと事務的な挨拶に少し引っかかりを覚えて、それに続いた言葉に驚いた。
「それと初めまして、源がいっつもお世話になってます。源の母です」
ニコニコと笑う看護師。一瞬何を言っているのか理解出来ず、先程の言葉の引っ掛かりを反芻する。
―――今晩の担当、紅野です。
―――紅野!!!
「えっ!あっ!うちの方こそ、いっつも源ちゃんにはお世話に、痛っっ!」
ベッドの上に正座をし、頭を下げようとした時、千夏は自分の左手首に繋がったままの留置針と点滴の事をすっかり忘れ、そのまま引っ張ってしまった。
やぁや――。と言って点滴と千夏の腕とを確認し、位置を直す源の母。
「九時半頃かなぁ?源から病院に電話あって、たぶんそっちの病院で入院になるやろから様子見に行ったって、て。ふふっ、あの子があんなん言うて来るなんか初めてやわぁ、源がねぇ……。こんな可愛い子やったらそら心配やわなぁ、あぁなんか嬉しいわ。あっごめんね、病気でここ来てはるのに嬉しいやなんて言うて」
―――かましまへん。
九時半、自分をタクシーに乗せた後すぐだ。恥ずかしさと済まなさで下を向く。
「ほら、そんな顔せんと!」
留置針のある左手をギュッと握られると、その手はとても暖かく、自然と涙がぽろぽろと零れ落ちた。
「うち、いろんな人に迷惑かけてばっかりで……………」
恥ずかしさと情けなさで胸がいっぱいになり、頭の中に靄がかかったような感覚に襲われ、何もかも生きている事さえどうでも良くなってしまいそうになった。そんな千夏の心境が手に取るように解ったのか、源の母はポンポンと千夏の手に「帰っておいで」と言わんばかりの合図をくれ、闇の底から抜け出した。
「この世の中に、誰にも迷惑かけんと生きれる人間なんかおらへんよ。生きても死んでも、人間ずぅっと誰かに迷惑かけて、かけられて生きとるんやから。気にしたらあかん。千夏ちゃんも迷惑かけた思うんやったら、その分元気になって恩返ししたらえぇやん」
―――せやろ?
源と同じ優しい笑顔がそこにはあった。
「源ちゃん、お母さん似ぃなんどすなぁ。同じやわ、えぇ笑顔くれはる所」
その笑顔に心の底からホッとした。屋形のおかあさとも違う、実家の母親とも違う笑顔には、看護師だからなのか源の母だからなのか、全てを理解して包み込んでくれるのではと錯覚してしまいそうになる。
「やぁほんまに?久しぶりに言われたわぁ、あの子年々死んだ父親に似てきとるんよ。うちの人仏頂面やったさかい、ちょうどあの子の機嫌悪い時の顔がそっくりになって来ててなぁ。もうあれから…あっ今年十三回忌や!忘れとった」
コロコロと変わる表情も源とよく似ている。その笑顔は見ていて安心できた。
「千夏ちゃんて、八重ちゃん所の涼夏ちゃん…で、えぇんよね?源が言うて来たのは倉田千夏ちゃんって女の子で、八重ちゃんがさっき来て言うたんは芸妓の涼夏ちゃんやってんけど。私が新しい担当患者さんやって貰ったカルテは千夏ちゃんやったから、千夏ちゃんって呼ばして貰ろとうけど、涼夏ちゃんの方が都合えぇんやろか?」
自分の事を芸妓だとは言わず、本名の倉田千夏で自分の母へと告げた事への驚きと、恥ずかしさが込み上げてくる。芸妓の涼夏と言ってしまった方が、全て手っ取り早かったのでは?とも思い、芸妓の涼夏ではなく、倉田千夏個人として扱ってくれた源の優しさも感じ取れる。
「あっ、あの…はい…芸妓の涼夏どす。でも本名は倉田千夏て言います。どっちでも、うちはかましまへん。あの…八重ちゃんてうっとこのおかあはん…どすか?」
「そうそう、八重ちゃん。まだ下の救急で点滴しとる妓がこの病棟になったからよろしゅうって。なんやごっつう心配しとったで、千夏ちゃんなんや誰にも言われへん悩みでもあるんちゃうかて。八重ちゃん、表には何にも出さんとどっしり構えとるけど、お腹の中はいっつもハラハラしとるんやで、アレで結構怖がりで寂しがり屋のウサギちゃんやさかい」
八重ちゃんと呼ばれた、怖がりで寂しがりでウサギちゃんな屋形のおかあさん。千夏の知らなかったおかあさんの意外な一面を、源の母は笑いながら語ってくれた。
他にも旦那さんとの馴れ初めや、旦那さんが亡くなった後、源が準夜勤で帰れば軽い夜食、深夜勤明けで帰れば朝食を、日勤ならば夕飯をちゃんと用意してくれている事。小学生だった当時から和洋折衷の創作料理が並ぶ日々は、今もずっと続いているらしい。
―――源ちゃんらしい。
千夏は微笑んだ。
「あの子、上手にやっとる?迷惑かけてない?もう子供やないから、私が口出しする事は無いんやけど、やっぱり心配やねんよ。母一人子一人やから、過保護なんかなぁ?」
心配そうに聞く源の母は、看護師ではなくすでに一人の母親の顔になっている。
「いっつも迷惑かけてもとるんは、うちなんどす。うち……いっつも源ちゃんに色々迷惑かけてもて…ほんまに申し訳のうて……。今日もせっかくの晴れ舞台やったのに、こんな事なってもて…」
―――晴れ舞台?
源の母が首をかしげた。
「今日は、源ちゃんが一人でお料理作ってお出ししたんどす。お客さんも『美味しかった』て言うてくれたはりました。なんも残さんと全部食べたはりましたんで、ほんまに美味しかったんやと思います」
「総ちゃん、ピーマン食べれたんや!」
源の母が満面の笑みを浮かべる。千夏はその言葉がいまいちピンと来ず、“総ちゃん”と源の母が呼んだその人物が“高橋総悟”だと理解するまで少し時間がかかった。
―――ピーマン?
源が割烹涼白の二階に上がった後の事を千夏は知らない。
「やったぁ!これで当分はピーマン料理から解放される!!」
子供の様に喜ぶ源の母の笑顔にほっこりとするが、その意味が全く理解出来ない。
「別にピーマン嫌いや無かったけど、毎日毎日、ピーマン料理出されたらピーマン嫌いになりそうやったわ。『これピーマンの味する?』て毎回聞くから、結局ピーマンの味せぇへんくても食べてるやん。なんや気持ち悪うてかなわんかってん。あぁこれで解放される!」
ここでようやく、高橋総悟がピーマン嫌いだったのだと理解し思わず笑いが漏れた。源の母も笑い出し、どれ程のピーマン地獄だったかを語り出した。
「ピーマンのゼリーよせにピーマンの胡麻豆腐やろ、ピーマンのおまんじゅうなんてもんまで出てきたんやから、こっちはかなわんかったわ」
―――結局何出したんやろ?
其れに関しては千夏も知らない。
どうやら今日のお客が高橋せんせぇと総悟だと言いう事を、事前に嫌という程に知らされていたらしい。ピーマン料理からの解放を心から喜んでいるらしい姿が可愛らしい。
―――源ちゃんはきっとこんな感じの女の人がえぇんやろなぁ、強うて優しゅうて、温ったこうて、他人まで元気に出来るような女の人――。思う。
四日間、ほぼ二十四時間の点滴が続いた。
「美味し無いのはよぅ知っとぉけど、ちょっとでも胃ぃ動かさなあかんで」
源の母の『美味しくない』とお墨付きの病院食は、その中でも最高に美味しくない流動食。重湯とすり潰した野菜のスープらしきものがマグカップ等で出され、それにエンシュアリキッドという冷たくないシェイクの様な物が付いてきた。
栄養補助飲料とされ、この一缶250MLで栄養は250㎉と明記されている。味はストロベリー、他にもバニラにバナナ、チョコレートや抹茶等があるというが源の母曰く、「ストロベリーかバニラが一番飲みやすい」と付け加えられた。飲む人の好みなのでこの辺りは何とも言えないが、バリウムよりは格段に飲みやすく甘くておいしい。かといってファーストフード店のシェイクの様に好んで飲みたい味か?と聞かれると、ぬるくて甘いだけのシェイクを好んで飲む人間がどれ程いるか、と言う答えにたどり着くだろう。
通常の病院食がまぁまぁ美味しい病院であっても、流動食はどこも同じ様に見た目、味共に不味いのである。どう頑張っても流動食は美味しくしようが無いというのが、栄養士、調理師の答えだろう。
四日間の入院と投薬で、口腔内に出来た大量のヘルペスも多少は緩和されたが、今まで食べていなかった分、胃も内臓も流動食ですらなかなか受け付けてはくれなかった。
そんな頃綾涼と若涼が、若涼の地元山科のローヌという店のチーズケーキを持って見舞いに来てくれた。
「涼夏さんねえさん、これやったら食べれるんちゃいまっしゃろか?」
口の中に入れた瞬間、じゅわっととろけて無くなるそのケーキは、一切れペロリと食べる事が出来た。
「やっぱり、甘いもんは別腹どすなぁ」
三人で笑い合い、他愛も無い話をする。
病室は二人部屋だが同室の人は居らず、完全な一人部屋状態。廊下の突き当たり、部屋の真向かいは壁と柱、ナースステーションからもエレベーターホールからも非常階段からも少し離れた部屋、命の危険性は低く自力で動く事に問題の無い人間が入院する為の部屋。
この部屋へ来る人間は、看護師か見舞客のみ。声のトーンは少し落すが、左程周りを気にすることなく話をする事が出来た。
その為か、若涼がモジモジしながら口を開いた。
「あのぉ…汚い話どすねんけど…若いお客はんて…どうしたはります?お花…」
「「???」」
涼夏も綾涼も話の意図が読めず首をかしげた。
「若こぉても、御年召してはっても、お客はんはお客はんどっしゃろ?同じどっせ」
「否、そうやのぉて…その……」
モジモジと言いにくそうに眼を逸らす若涼を見て、綾涼がしたり顔でニヤリと笑う。
「そういう事どすか」
「えっ?おねえはん、どういう事どすのん?」
綾涼は何か知っているらしくニヤニヤと笑い、そのしたり顔を見て若涼は挙動不審になっている。
「涼夏さんが入院しはたる四日間で、色々あったんどすよ」
ふふふっと笑いながら、どこか焦っている若涼を嗜めて綾涼が語ってくれた。
―――一昨日の話なんどす。
■■■
「若ちゃん、今日は総悟はんと二人でご飯食べなんやてねぇ。さっそく呼んで貰えて」
「えっ、若涼さんねえさんお客さんと二人て……。綾涼さんねえさん、ほんまどすか?いやぁ、そんな事もあるんどすねぇ」
目を丸くして、妹舞妓達がキャーキャーと騒ぎ出した。
お客さんと二人っきりで舞妓がご飯食べに行く事はまずない。
芸妓になったとしても、自前芸妓になったとしても、二人っきりではなく妹舞妓なり妹芸妓なり、おかあさんなりおねえさんなりが一緒に来るのが通例。
年に数回岡崎夫妻と千夏だけでご飯食べに行くが、それはお互いの信用、岡崎夫妻だからという理由もある。
千夏が三味線を教えに行くお宅では、奥様にお教えするが、必ずおかあさんか、綾涼がお客様のお宅まで一緒に来て後ろに着く。
ご飯食べは『ご飯を食べるだけですよ』という暗黙の了解なのだ。
女社会の花街で、男の影は無い方が良い。
無駄な噂や詮索をされ、お客の気分を害したり、女の園特有の被害を避ける為でもある。年季の明けていない芸舞妓ならば特に、ご両親からお預かりしている大切な娘さんだ、もしもの事があったら大変。
自前になったらハイさよなら、という訳でももちろん無い。お預かりしていた大切な娘さんが、近所に引っ越しただけ。同じく大切な娘の一人に変わりは無い。まだ成人していない舞妓が、男性と二人きりでお茶屋の外で食事等決してありえない。
其の為、若涼の妹舞妓達が騒いだのだ。
「茶化さんといておくれやす。二人でのご飯食べどすけど、場所は割烹涼白どす。その上お席はカウンターのお席。総悟はんが源さんとお話したいけど、源さんが昨日あんまり話してくらはらへんかったからて、それでうちと一緒にて………。うちは、源さんと総悟はんがお喋りしはるダシどす」
二人っきりのご飯食べ、絶対におかあさんがYESと言う訳が無いのに、何故か今回は「行っといなさい」と言われた。
何があるんだろう?もしや、これが昔はあったと言う『みられ』か??否、もう十分見られましたやん!等と、不安半分、期待半分を読み取られまいと平常心を装う。
「へぇ、行ってきます」
答えると、おかあさんはにっこり笑い総悟の要望を伝えた。
「そんなりでかましまへん、言う事どす。場所は割烹涼白。カウンターのお席で総悟さんが源ちゃんとお話ししたい、言う事やから邪魔したらあかんえ」
加えられた。
「そういう訳どっさかい、うちはおまけなんどす」
「そう口尖がらかして、河豚みたいにぷりぷり膨れて怒らんと」
若涼の様子を見、カラカラと妹舞妓達は笑い、綾涼は腹を抱えて笑い転げた。
「おかあはん、おねえはん、ただ今戻りました。今日も一日、おくたぶれさんどした」
三つ指をつき、今日の一日が無事終わったことを報告し、若涼の一日が終わった。
「若ちゃん、どないどした?二人っきりのご飯食べ」
クスクスと笑いながら綾涼が聞いた。
「どうもこうもおへん。源さんとお話ししたいて、総悟はんがおいいやった通りどした。源さんと総悟はんがお話したはって、うちはお酌係どした。淡々とお二人が話しておいやして、話の端っこにすら入られへんのどす。何の話してはるんかも解らしまへん。こんなんどしたらご飯食べやのぉても良かったんちゃいまっしゃろか?うち、総悟はんと殆ど何にもお話してまへんもん。総悟はん何がしたかったんどっしゃろ?」
「ぷっっっ……河豚みたいや……ぷぷっ」
思わず綾涼とおかあさんが、若涼のご機嫌斜めな様子を見て吹き出す。
若涼は口を尖らせ、俯き、鼻息荒く拗ねている。
「若ちゃん、そんな顔しとったら、若涼やのぉてホンマに若河豚になりまっせ…ぷぷっ」
更に綾涼が笑う。
「うちは河豚ちゃいますぅ」
「あんた、鼻の穴がまたじょろむいとりまっせ…ぷぷぷっっ」
おかあさんの言葉に、思わず若涼は両手で自分の鼻を隠す。
はぁっと溜息を吐き、おかあさんが座り直しを若涼に促した。
「若ちゃん、お客さんとお話しする事がお仕事ちゃいまっしゃろ?今までもお酌だけに呼ばれる事ありましたやろ。普段は若ちゃん若ちゃんて可愛がってくれたはるお客はんが、若ちゃん若ちゃん言うてくれはらへんて怒ったはるんどしたら間違いどっせ!」
ピシャリと若涼を叱りつける。
「総悟はんは源ちゃんとお話ししたいて、最初から言うてましたやないの。源ちゃんとお話しするだけに舞妓なんか、お花代勿体ないさかい呼ばんでよろしいんやない?て聞きましたけど、あの人はあんたさんが空いとるんどしたら若ちゃんとも話したいから、て態々言うてくらはったんどっせ。女々さんみたいやてむくれとらんと、呼んでくらはった事に感謝しなはれ」
―――すんまへん…………………。
分が悪そうに下を向く若涼を横目に、おかあさんは部屋を出て行った。
■■■
「へぇ、この四日でそんな事があったんどすか」
楽しそうに涼夏が笑う。
「それで、総悟はんの懐具合気にしてはるんどすか?」
無粋やなぁ。呆れた様に綾涼が言うと、涼夏も同じように頷いた。
「せやかておねえはん…。総悟はん、来年位に衿替えやろて……簪くれはったんどす。そんな事までしてもろて……ホンマにえぇんやろかて…………芸舞妓の仕事は、お客さんを散財させる事やおへんから……その……」
芸舞妓はお花が付かねば仕事にならない。年配のお客からお花によばれたり、プレゼントを貰う事はあっても自分と同じような年齢の、まだ二十歳になったばかりの男性からお花に呼ばれ、プレゼントを貰う経験等あまりない。それで若涼は困惑しているのだ。
「総悟はんは高橋せんせぇの息子さんどすけど、お弟子さんでもあるんどっせ」
綾涼が改めて若涼に話す。
「へぇ、知っとります」
「そうやのぉて…高橋せんせぇのお弟子さんで、あんなけ若こぉて、もぉ名取さんどすえ。その上イケメンやし、あっちゃこっちゃからお声掛かって公演やら、出稽古付けしてはるんどす。月の半分近こうは出張したはるし、ご自宅居てはってもお弟子さんのお稽古付けたり、近所に出稽古付けにいかはったり、自分のお稽古もありまっしゃろ。普段は忙しいお人なんえ、総悟はんて」
「へぇ、そうどしたん。親の脛かじってはるやないんどすね。安心しました」
―――安心て………。
姉芸妓二人は思わず口を噤む。
「おおかあさんからは、そこまで詳しく聞いてやしまへんどした。総悟さんも、お仕事の事やらは一切お話してくらはらへんし、源さんとの話にもお仕事の事は出てきまへんどしたし。若いのにお花一人で来はったし、衿替えやなんやて花街の事しったはるし、けったいなお人やなぁて思てたんどす」
―――この子は……ほんまに………………。
姉芸妓二人は苦笑しながら顔を見合わせた。
タクシーに乗って屋形まで帰り一息ついた後、若涼はおやつを買いに屋形を出た。
おやつを買いに――とは言っても、コンビニやスーパーに行くのではない。芸舞妓が芸舞妓だと解る姿で出歩く際、其処は決して出向くことは無い場所だ。芸妓になり髪を結わなくて良くなり、着物も着ずにジーパンにスニーカーなら行く事もあるが、髪を結い上げ着物を着ている若涼に近寄れる場所では無い。屋形近くの和菓子屋へ行くのだ。
―――それにしても…総悟はん、うちと年変わらへんのどっせ。そんな自由になるお金、稼いではるんどっしゃろか?
気にしていないような態度をとっても、やはり気になる総悟の懐事情。
口を尖がらしながら屋形を出、利休下駄を鳴らしながら雨の上がった花見小路を和菓子屋へと歩いていた。
「若涼さん」
振り返ると先ほどまでの話題の人物、高橋総悟がそこに居た。
「どうしたん?なんや調子悪そうやなぁ。時間ある?甘いもんでもどない?」
―――原因は総悟はんどっせ!
心の中で盛大に突っ込むが、目の前の男はニコニコと温厚な笑みを浮かべたまま。
(この人、こうやって道端で話するんも、お茶行くんも、お花つくて解ってはるんやろか?)
無粋だと言われた懐具合も心配してしまう。
(やっぱり、高橋せんせぇの御膝かじったはるんやろか?)
これが高橋せんせぇならば、何一つ気にすることなく「おおきに」と言ってお茶に連れて行ってもらい、その分のお花も付けさせてもらう。それが高橋せんせぇやそのまた先代、そのまた先代の先代が今まで花街で作り上げた信頼。
しかし若涼は、今の総悟にその信頼を見出すことが出来ない。
ある程度の『高橋総悟』に対する情報は、おかあさんから聞いている。しかしその懐具合まで探る事は無い。
芸舞妓を何人、地方を何人、料理はどの程度の物で、時間はどの位、一人如何程で楽しむか。そういったお客の懐具合の調整はおかあさんの役目であり、一芸舞妓が知る由も無い。
自分と年の変わらないお客は、何時もその他大勢の中の一人であり、総悟の様に一人でお茶屋に遊びに来る若人は若涼にとって始めてなのだ。
その上、若涼のスケジュールを聞き、若涼を指名してくれた――。
「時間、無い?無理やったらまた今度でえぇで」
「あっ、いえ…すんまへん。あの、行きます!連れて行っておくれやす!」
―――決めた。
(これはうちの好奇心。甘いもんだけ奢ってもらお、おかあはんには内緒にしょ)
元気よく「行く」と言った若涼を見て、クツクツと笑いながら
「じゃぁ、おかあさんにちゃんと連絡入れてな。今日お花は?」
(えっ―。おかあはんに連絡したらお花つきますやん!)
心の突っ込みは空しい…。
「今日のお花、何時から?」
「へっ…あっ今日六時どす」
「ん?行きますって言うてたけど、もうすぐ三時やで。無理やな、残念。お花遅れさす訳にはいかへんから、また今度にしょぉか。ほな、また」
「……………………おおきに。ほな、また今度、よろしゅうおたの申します」
(あれ…あれ…終わり?四時には帰って顔して、男衆さん五時に来てくらはるからギリギリ間に合いますけど…そうどすな…無理どすな……。普段のうちどしたら、確実にお断りする時間どしたわ…。好奇心って恐ろしわぁ……)
総悟と別れ、菓子を買う事も忘れ、元来た屋形への道を下駄を鳴らしながら歩いていく。
今度は口を尖らさず、鼻歌交じりに口角の上がった良い笑顔で―。
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