第2話

「源ちゃん、来月から割烹の方行かはんの?」

「はい、やっと行けます。でもやっぱり最初はお燗と皿洗いやて。せやけど、賄い作らせて貰えるんで頑張ります!仕出しも俺が出るから、また会うたらよろしくお願いします」

 お祝いせななぁ――。

 何がえぇやろ?と考えていると

「涼夏さんも五月に衿替えって聞きましたよ。おめでとうございます」

 おおきに――。


 来月の末には舞妓最後の一か月となる。

 衿替え当日から三週間前には【奴】という髪型に結い、色紋付を着る。

 次の二週間は【先笄】に結い、黒紋付きを着、鉄漿をする。

 そして衿替えの前後にのみ【黒髪】という舞を舞う事が出来る。

 たった一ヶ月の御髪。

 たった一ヶ月の舞。

 一か月の時をかけ、四年間の蛹が蝶へと羽化する。


「その前に、湿布と栄養ドリンクのお世話になるんやけどね」

 都をどりか――。

 源が笑いながら、熱々に燗されたお銚子を千夏へと手渡す。

「ほな、なんか元気でるもん屋形の方へ差し入れしますわ」

「おおきに。せやけど、うちは源ちゃんに話し相手になってもらうんが一番元気出るんえ。あっち行っても会うた時は、また話し相手になっとくれやす」

 チクチクと胸を刺す思いを抱き、台所を後にする。






     ※




三年後――

「おかあはん、おねえはん、長い事お世話になりました。ほんまに感謝しとります。」

 未だ梅雨まっただ中の六月終わり。

 七年間の年季を終え二十三歳になった千夏は、明日から自前芸妓として同じ祇園の少し外れ(とは言っても徒歩十分程度)にマンションを借り、新生活の第一歩を踏み出す事になっていた。

「お花ある時はうっとこのお茶屋にも上がるんやし、困ったら遠慮のおいでやっしゃ」

おおきに――。

 三つ指をつき頭を下げる。

 自前になってもおかあさんはおかあさん、おねえさんはおねえさんのままだ。

 屋形も屋形でそのままで、所属事務所が変わる事は無い。

 しかし所属事務所である屋形が今までしてくれていた事を、自分の力でやらなければならない。唯、それだけの事だがそれがどれだけの事だったのかを、これから嫌と言うほど身に沁みて解る事になるのだ。


「それより、あんた。えぇ加減意地張っとらんとお郷も帰りよし」

「へぇ…前にも言いましたけど…芸妓に衿替えしたら、お正月には帰ろう思てました…。せやけどうち、家帰った後に此処に戻ってきて、芸妓続けて行けるかほんまに不安やったんどす。家がまた恋しゅうなってしまうんやないやろか?て心配やったんどす。お父はんもお母はんも、うちが祇園に帰りとぉない言うたら帰さへん思います。せやからうち、絶対に 大丈夫や思えるまで帰るん止めたんどす。それはお父はんにもお母はんにも毎年年賀状に書いて、うちの考えを言うてますから、解ってくれたはる思います。今年のお盆は会いに帰ります。おかあはん、長い事心配かけてすんまへん」

 千夏は深々と頭を下げた。


 数日間は引っ越しの為、お座敷はお休みにした。

 明日からは一人の生活が始まる。おかあさんも居ない、姉芸妓も居ない、妹芸妓も妹舞妓も、仕込みの娘も居ない。

 たった一人料理も、洗濯も、掃除も、仕事のスケジュール管理も、金銭管理も、着付けを頼む男衆を呼ぶ資金、裾引きの着物を買う資金、からげの着物を買う資金、帯を買う資金、鬘の結い直しの資金、その他諸々すべてを自分でやって行かなくてはならない。

 芸妓になってから新しく作ってくれた着物や帯は「もって行きよし」と屋形のおかあさんが言ってくれた。

「おかあはん、おおきに」

 自前芸妓の駆け出しとしてはとても有難かった。

 毎日同じ着物を着る訳にはいかない。

 四季折々、細かい衣替えのあるこの街の芸妓としての戦闘服は、一つでも多いに越したことはないのだ。


 着物は戦闘服

 芸は武器

 化粧は鎧

 笑顔は薬

 言葉は魔法



「涼夏さんねえさん、遊びに行ってもかまへん?」

 四つ年下の若涼が心配そうに聞く。強情で、負けん気が強くて、泣き虫で、誰にも負けない努力家で、寂しがり屋の可愛い妹舞妓だ。

「もちろん遊びに来とくれやす。遊びに来て、うちのお料理の味見係になっとくれやす」

「それ、味見やのぉて毒味やおへん?」

 姉芸妓の綾涼の一言にドッと笑いがおきる。

―――酷!

 反論したくとも料理など、中学の調理実習程度でしかしたことの無い千夏には、全く反論する事ができない。

「源ちゃんに教えてもろたどないどす?割烹涼白からの派遣講師どっせ」

 おかあさんの一言に「わぁそれがえぇわ!」等と皆がはしゃぎ、話が盛り上がる。

「ほんなら、源ちゃんに講師料払わなあきまへんな」

「源さん、先生にならはるんどすか」

「そうでもせな、涼夏さんは料理しはりまへんからなぁ。どないどす?」

 千夏は顔を真っ赤に高揚させ、精一杯拒否する。

「それだけはかんにんしとくれやす!」

「何赤こぉなってはんのぉ?」

 意地悪く綾涼が聞く。

「せやかて、うちほんまに何にも出来へんのに…知っとる人に習うんは恥ずかし過ぎまっさかい、かんにんしとくれやす」

 源に料理を習うなど、料理の出来ない千夏にとって羞恥でしかない。

 今や源は、割烹涼白の(まだまだ修行中だが)ある程度の事を任せてもらっている板前で、―――今も千夏の想い人。

 想い人で無かったとしても、自分の料理の出来なさを知り合いに披露する事は、普通ならば羞恥の沙汰である。

―――それに……。

 この一年程、源とは以前の様には話をしていない。


 会えば挨拶はするし、多少の会話もする。

 しかし以前の様に話していて楽しいと思える話では無く、当たり障りの無い会話。

 以前の様には、心から笑って話せなくなってしまった。




■■■



 丁度去年の二月、休みの日に偶然本屋で源と会った。

 その際、源がチョイスしていた作者の本を幾つかを千夏が持っていて、源に貸してやると約束した。そしてその本を貸りる為、二人は屋形へと向かう。

 同じ方向へと二人共に向かっても、千夏は祇園の芸妓で源は板前。一般的な友人や同僚の様に並んで歩く事は出来ない、どこからお客や他の芸舞妓に見られているか解らない為、何もなくとも在らぬ誤解を生むことは避けねばならないのだ。火の無い所に煙は立たない、無駄な煙を経てない為にも、タカガの事に注意するのは花街のルールでもあある。

 千夏が屋形へと向かい、少し時を空け源が向かう。屋形の数件先にある割烹涼白の中で源は待ち、千夏は本を開店前の店の勝手口から持ち込み手渡した。

 丁度時期はヴァレンタイン。

 千夏もお客様へお渡しする義理チョコがあり、その一つを源にも渡した。

 屋形のみんなから、割烹涼白の板前の皆さんへと渡してはいたが、その日はもうヴァレンタインも終わって数日が経ち、余っていた物だ。

「源ちゃん、これ余りもんで悪いけど」

 小声でこっそりと本を入れた紙袋の中に入れた、チョコレート。高級ブランドの物でもない、某大手菓子メーカーから出ている義理丸出しのペンシルチョコ。そのペンシルチョコの包み紙に、丁寧な文字で【感謝】と書かれた千夏お手製の札が付いている。全てのお客様へ【感謝】の気持ちを込めて――という意味である。勘違いすら出来ない。

 ニッっと口角を上げ「おおきに」と、屈託なく笑い貰ってくれた。


 たったそれだけの事を、翌日女紅場であれやこれやと騒ぐ人物が居た。

 千夏と同じ年に舞妓になった菊まりだ。

 菊まりは、中学を卒業してすぐに仕込みとして祇園にやってきた。正しくは、卒業式の前にはもう仕込みとして祇園に入り、卒業式の日だけ郷へと帰ったのだ。

 舞妓と言えは、戦前頃までは今の中学生や高校生程度の少女の事だった。今でも京都以外の花街では中卒で舞妓に志願する事は、法律で禁止されている。十八歳になるまでは、花街で働くことは出来ないのだ。一日でも早く“舞妓”になりたければ、京都に来るしか道は無い。菊まりは住んで居た関東では、“半玉(はんぎょく)”として働くには十八歳まで待たなければならない、その数年が耐えられず西へとやって来たのだ。

 千夏よりも一つ年下なだけなのに、相当頑張ったのだろうたった五年で年季が明け、今年の初めから自前芸妓として一本立ちし、故郷に残していた母と祖母を呼び寄せて一緒に生活している。

「涼夏さん、源さんと昨日本屋デートしてはったんどすか?昼間から堂々と…。先に涼夏さん帰らはった様に見せたはったみたいどすけど、源さんすぐに同じ方向歩いて行かはって、源さんもなんやニコニコしたはりましたなぁ。そういう事どしたん?」

 昨日本屋で偶然会った所を見られていたらしい。

(本屋位、誰でも行きまっしゃろ)

(どこの世界に知り合いに会うて、あからさまに嫌な顔するお人が居たはるんどすか、挨拶位しはるし、社交辞令でも笑いまっしゃろ)

(またかいな、よぉ飽きもせんと)

 誰となし、小さな声で毒づいているが誰も顔には出さない。

 周りの芸舞妓達からは、何の気にも留めない我関せずと言った雰囲気で居ながらも、何かを心に抱きながら、全身を耳にして話を聞いているのが解る。

 その空気を感じ取っているのか、菊まりはグッと腹の底に力を入れ、奥歯を一度噛み締める様な表情を作り、一旦呼吸を整えるとまた千夏へと向かい合う。

「源さんも源さんどすけど、涼夏さんも涼夏さんどすなぁ。まだ年季も明けてはらへん身ぃやのに、見習いの板さんと…どすか。えぇ御身分どすなぁ、うちなんかお客はんだけで手一杯どすのに、涼夏さんは器用どすなぁ。あっちもこっちもつまみ食いどすか」

 言い返した所で喧嘩になる。喧嘩になり大事になっては、たかが本で源に迷惑をかけてしまう。千夏は黙って菊まりの言葉を聞くしか無かった。

「偶然会わはっただけや思てたんどすけど、その後うちが家帰るんに割烹涼白の裏通っとったら、源さん割烹のお勝手回りはってね、やぁどないしはったんやろ?て思たら、涼夏さんもその後すぐに慌てて割烹入って行かはって、えらいもん見てもたなぁて思たんどす。昼間からコソコソと、何したはったんどす?」

 菊まりが家族と暮らしている小さな借家は、割烹涼白の裏手を通った更に一本裏手の通りにある。菊まりが偶然そこに居たとしても、おかしくはない場所なのだ。

 どうすれば、源に迷惑がかからず納得して貰えるか…理解して貰えるか…。

「二人っきりで、昼間からコソコソと、何したはったんどすか?」

「菊まりさんねえさん、人に本貸すんは、なんや悪い事なんどすか⁈うち、初めて聞きました!」

 あっけらかんとした明るい言葉と表情で、若涼がすっと入って来た。

「涼夏さんねえさんがお部屋戻って来はって、源さんに本貸したげるて言うてたんはおかあはんも知ったはるし、一緒に探してくれてはったから、うちてっきりかまへん事や思てました。ほんならうちも、男衆さん等ぁに漫画借りてるんあきまへんな!早よ読んで、早よ返そ!菊まりさんねえさん、おおきに!教えてくらはってありがとうございます!」

 満面の笑みで菊まりに礼を言う若涼。

「あっそれと菊まりさんねえさん。割烹涼白はお昼過ぎたら仕込みしはるから、誰かしらいたはりますえ。うちよぉ裏から入っておやつ貰うんどす。昨日も、赤かぶの漬物で包んだおにぎり貰いましてん、美味しかったぁ」

 唖然とした表情で若涼を見つめるのは、涼夏と菊まりだけでなく、周りで聞き耳を立てていた芸舞妓達の視線も一斉に集めた。

「あれ?うち、変な事言うてまいました?」

 ポカンとした表情を浮かべる若涼に、(おおきに)心で礼を言う。

「ちゃいます。菊まりさんの言うてはるんは、何ぼ他に人がおったかて知らん人が見はったら勘違いしはるから、その辺気を付けなあきまへん。て言うてくれたはるんどす。菊まりさんやから、こうやって言うてくらはりますけど、知らん人や意地悪なお人が有もせぇへん悪い噂作って、勝手に流さはったらうちも源ちゃんも困りまっしゃろ。それ以上におかあはんや、涼白屋のおとうはんにも、お客はんにも迷惑かかるんどす」

 滑らかな口調で、菊まりをなるべく持ち上げながら、全てを理解した上で言っているのであろう若涼へ説明する。

―――ほんま、頭のえぇ子や。助かったわ…

「菊まりさん、おおきに。おかあはんもおとうはんも一緒に居てはって、相手が源ちゃんやったさかい、うちも何の気のぉしとりました。言うてくらはって、おおきに」

 深々と菊まりへ頭を下げた。

 若涼も涼夏を真似、「おおきに、菊まりさんねえさん」深々とこれ見よがしに頭を下げた。

 周りからはクスクスと女性特有の小さな笑い声と、囁くような会話と、面白がっている眼差しが三人へ向けられた。

 菊まりは、こめかみに青筋が浮き出る程に憤怒している。

 面白くないのだ。


 同じ年に舞妓になった一つ年上の舞妓涼夏、菊まりの方が数か月早く店出しをしていた。

 菊まりは自分と同じように実家に帰らない涼夏に、初めのうちはとても親近感を覚えていた。しかし涼夏には比較的裕福な両親と兄弟がちゃんと居て、帰る家も待っている家族もあるのに、我儘で帰っていない事を知り腹立たしく思った。

―――うちは必死やのに…。

 菊まりは周りの心配の声すら疎ましく思ってしまう程、毎日毎日休みなく必死に、月にたった二日しかない公休日でさえも休まず、舞妓として働いていた。

 菊まりの出身は関東、関東では十八歳になるまで京都の舞妓と同じように働くことが出来ない。関東の“半玉(はんぎょく)”は十八歳以上二十歳程度の間なのだ。その為に菊まりは中学卒業を待たずして、ツテを探し祇園へとやって来た。理由はそれ以外にも“半玉”の名の通り、京都で舞妓と呼ばれる間は“お花”(関東では“玉(ぎょく)”と呼ばれる給料)が半分になってしまう事が耐えられなかったのだ。

 年季の期間はその妓の頑張りによって異なるが、昨日今日店出ししたばかりの新米の舞妓だろうと、芸妓暦数十年のベテランの芸妓だろうと京都の花街は、お花一本の金額はみな同じ。

 元々お花一本は御線香の長さで決まり、その街によってさまざまだ。一本が五分の街も有れば、それ以上の街もあり今も名残で一本二本とお花を数える。

 菊まりは、少しでも多くのお花に呼んで貰う為、自分をお茶屋の女将達へと絶え間なく売り込み、いつだってどこへだって、自分の身体が空いていれば二つ返事で出向き顔と名前を売った。

 おねえさん達やお客に、身軽にテキパキと動きどこへだって出向く自分が、良く気の付く腰の軽い人だと言う意味の「おいどの軽い妓」と言われる事に誇りを持っていた。

 お花に出れば、ほっこりとほほ笑む笑顔の下の緊張を、白粉と紅に隠し毛穴を眼にするかの様に神経を張りつめた。お酒やビールが空きそうになれば追加し、お客の飲みたい物が変わってないか顔色を伺い、灰皿の中味が増えればサッと変え、次にお客やおねえさん達が何を望むかに常に神経を注いだ。

 『欲しいと思った時には用意されている』そんな風に使い勝手が良い妓となれば、おねえさん達からの声かかりも良い、勿論長い付き合いのお客からのウケも良い。舞妓としての当たり前の仕事を、一つでも多くこなし、少しでも他の舞妓と差を付けようと、したたか努力した。

 今日のお客がいつか自分を指名してくれる事があるやもしれない、そのお客が連れてきたお客が自分を気に入ってくれるやもしれない。出張等のイベント等で出向いた先の人がお客となり、自分を指名してくれるやもしれない。

 菊まりは普段花街で遊び慣れて居ない観光客や、外国からのお客が『花街と言えば舞妓!』とイコールで括ってくれ、芸妓よりも色彩鮮やかで見た目の派手な舞妓が、あちらこちらのイベント等に呼んで貰えたり、一見さん専門で営業している飲食店のお客が、舞妓を好んで呼んでくれるのを見越し、そして期待したのだ。

「ライバルが少ない舞妓のうちに、一本でも多くお花に出るんや!」

 いつだってそう思い、菊まりは毎日毎日お花に出続けたのだ。

 その期待通り、舞妓菊まりは毎日毎日忙しくお花を駆け回る事が出来た。

 舞妓の期間は限られている、二十歳を越えればもう舞妓で居る事は難しい。芸妓になれば、舞妓時代の数倍数十倍という数のおねえさん達と芸を競わなければならない。そうなれば、まだ若い自分が芸で敵う訳が無いと悟ったのだ。

 そして休みも取らず、舞妓の日々を働き詰め芸妓へと衿替えしても、自前になった今でも呼んで貰える限り休む事はしない。

 自分は他人が実家へ帰って休んでいる間にも、一日でも一座敷でも多くお花に出、お花が無ければお花を拾いに、お花を付けてくれるクラブやバーを回る事もした。

 舞妓になり、芸妓になり、自前芸妓になった今でも毎年一月七日に発表される売り上げ順位の一位を、一度も誰かに譲った事も譲る気も無い。

 一日も早く年季を明けて、母親と祖母を祇園へ呼ぼうと必死だった。

 ほんの数十年前までは、母子家庭で育った芸舞妓は自前芸妓となった折、故郷に残した母親を呼び寄せ一緒に暮らす事が“誉れ”であった。

 菊まりもその一人だったのだ。母と祖母を呼び寄せ一緒に不自由なく暮らす事、それが芸妓菊まりの目標であり、意地であり、夢であり、生き方だった。

 それなのに、涼夏は長期の休みですら実家に帰る訳でも無く、休みは休みとして京都での休日を楽しんでいた。

 そして昨日、洋服姿で源と楽しげに笑う涼夏を見た。舞妓の頃から今までにも、休みの日の涼香を見かける事はあった。何度か洋服姿の涼香を見かけた事もある。

 今までは思う事などあまりなかった。否、毎日毎日スケジュールに追われ、ゆっくりと休む間もなくお花に出続けていた。

―――思う暇すら無かった…。

 という方が正しかったのかもしれない。それなのに、昨日の情景に今までの思いが全部一気に降り注いだような気がした。

 本屋で見たのだ。

 同じように偶然源を見つけ、挨拶しようと近づくと源は自分には気づかず、源の視線の先には自分よりも遠くに居た涼夏を見ていた。人気のないエリアで、何かの小説を選んでいる涼夏に源の方から近づき、挨拶をしていた。偶然同じ本屋に買い物に来ていて挨拶をした、唯それだけの事だと解っていた。何やら笑顔で言葉を交わしている中、近くのラック裏にまでコッソリと近づき、コソコソと話していた声が聞こえた。

「ほんまに!やった!ほな、返す時はおかあさん経由で構いませんか」

―――涼夏さんの持ってはる、【何か】を源さんに貸さはるんや…

 源が嬉しそうにそう言っていた声が聞こえた。源のそんな声と表情が一度も自分に向かられた事が無い事に気付き、一気に流れ込んだ涼夏への妬みの気持ちが勝ったのだ。


 仲が良かったのも年少舞妓の時まで。

 髪型が割れしのぶからおふくへと変わり、衿替えをする頃になると涼夏に対する菊まりの言葉は、周りから見ていてもあけすけに刺々しい物へと変わっていた。

涼夏と同じお花に出た時には、この街で最も舞妓期間の長くなった菊まりが、として皆を纏めなければならない筈なのに、誰の目から見ても一方的に涼夏と張り合っているのが見て取れ、自分が前へ前へ出ようとして調和を乱す。

 そんな事をしてしまうものだから徐々に信用を失い、あんなに良かったおねえさん達からの心象も、どんどんと良く無い物へと変わって行った。

 芯の強さは残しつつほっこりとしいていた表情も、明らかにキツイだけの顔付きへと変わり、お客さんからも「根性ありそうなキッツイ顔しとるなぁ」と皮肉交じりのネタにされる程にまでなっていた。それも笑いのネタだと、菊まりは一切気にすることは無く菊まりはあははっと笑い飛ばす。

 見るに見かねて、その事をそっと注意した同期の舞妓の言葉にカっとして、心にも無かったきつい言葉までも、口から吐いて出てしまう程だった。

「何言うたはるんどすか、女々さんみたいな事したはる方がおかしいんどす。あんたもそんな甘っちょろい考えやったら、この先やっていけまへんえ。さっさと荷物まとめてお郷帰った方がよろしいんちゃいますのん?」

―――もう、引くに引けない。

 菊まりが何かある毎に、涼夏へ因縁をつけてくるのはそんな心情もあるのだろう。

 おかあさんや綾涼とそう話した事があった。

 誰かに注意されれば、おかあさんへ報告。誰かに着物や髪を直して貰ったら、おかあさんに報告。何かして貰えばそれだけ自分を気にかけてくれているのだと、感謝の気持ちを持ち、其のことをちゃんと報告する。よそ様でお世話になって、おかあさんが知らないと言う事は屋形の恥でもある、それは一般家庭と同じなのだ。

 菊まりの因縁としか取れない言葉でさえも、千夏の心情では因縁でも他の目で見れば何かの注意であるのかもしれない。そんな願いを込めて千夏は報告していたが、千夏以外の舞妓にさえも心無い言葉を吐く様になっている菊まりの話は、波風を立てない程度に知れ渡っていた。

「菊まりはんの所のおかあはんも、手ぇ焼いたはるらしいえ」

 すでに周りも承知の事故(ことゆえ)、要らぬ喧嘩は買わぬ様にしよう。そう決めて、今まで何を言われても「そうどすなぁ」とやんわりかわしてきた。

 今日だけは「そうどすなぁ」では済まされない気がし、其れ以外の言葉を探していると、負けん気の強い若涼が割って入ったのだ。


「若ちゃん、おおきに。せやけどちょっとヒヤヒヤしたえ」

「おねえはんは、悔やしゅうないんどすか?菊まりさんねえさん、いっつもおねえはん目の敵にして。『坊主憎けりゃ袈裟まで憎い』て此の事どっせ!」

「そうどすなぁ」

「菊まりさんねえさん、源さんが絡んだらスッポンみたいにしつこいお人にならはる」

 その言葉に、千夏はグッと胸を締め付けられる様な気分になった。



■■■




 そんな一件があり、源との距離が少し遠くなっていたのだ。



 未だ焦りからか羞恥からか「それだけは、かんにんしとくれやす」と、料理講師派遣を拒否する千夏を見て若涼は思う。


―――涼夏さんねえさん…やっぱり歯切れ悪おすなぁ…菊まりさんねえさんなんか、気にせなんだらえぇのに…。


 ちょっと料理を教えて貰う事すら、周りの目を気にしなければならないのかと、まだ若い若涼は口に吐いて出てしまいそうになる言葉を、グッと心に留めた。


―――なぜならば…。




■■■



 若涼が舞妓になった二年程前、同じように菊まりは涼夏へと因縁をつけていた。

「涼夏さんて、旦那さん何人いてはるの?岡崎の旦那さん等ぁも高橋せんせぇも、みんな涼夏さんの旦那さんどすの?ぎょうさん居てはってよろしゅおすなぁ」

「うちにお花以外での旦那さんは居てまへん。岡崎さんも高橋せんせぇも、個人的な旦那さんやおへん。ご夫婦でも来てくらはるし、そういう関係やおへんなぁ。他のお客はんもみんなそうどす。お花の付いて回る関係どっさかい、菊まりさんの言うてはる旦那さんとは、ちょっと違う思いますえ」

 にこやかに、ゆったりと会話を交わす涼夏。

―――お花の付いて回る関係。

 それはその芸舞妓をお花に呼ぶ時間以外にも、お花代と呼ばれる金銭が発生する花街暗黙のルールの一つである。

 道であって話をすれば、それもちゃんとお花が着く。付けられたくなければ、Uターンするか無視するか…。そんなしみったれた渋ちんは、花街で芸舞妓と顔なじみになって遊ぶような人物には居ない。双方了承済みなのだ。

 何時だって豪快に…というのもとまた違い、すいに遊ぶ。ケチでは無いが、アラブの大富豪の様に豪遊する訳では無く、長く長く何年も何世代もに渡り、ゆったりと関係を続ける。それが花街での遊び方であり、長く花街に出入りするコツだと言ったお客も居る。

『お花を一日分出してあげるから、その日一日休日にして自分の好きな事をしなさい』と言ってお花を一日分買ってくれる人も居る。

 外に食事に行こうと“ご飯食べ”に誘い出せば、その芸舞妓一人ではなくもう一人、おかあさんや姉芸妓等が着いて来るのが花街のルール。唯の“ご飯食べ”を、それ以上だと勘違いされてはいけない為、決して男性のお客と二人きりにはさせないのだ。

 無論、そちらのお花も発生する。

 全ての事柄に金銭が発生するのが、お花の付いて回る関係の“旦那さん”。

菊まりが言っている“旦那さん”とは、個人的な恋人としての“旦那さん”の事である。

(菊まりさんねえさん、何で誰でも知ったはる事を態々聞かはるん⁈)

 その様子を妹舞妓の若涼はオロオロしながら見ていた。

「そのうち、うちにも菊まりさんみたいにえぇ旦那さん出来たらよろしゅおすなぁ。神さんにゆっくり、急がんとえぇ人連れて来てくらはるように、お祈りしときますわ」

 ニッコリと笑った涼夏の言葉を聞き、目じりを鬼の様に吊り上げ、無言のまま菊まりは踵を返して去って行った。

「お…おねえはん……」

「どないしはったんやろねぇ?気にしたらあかんえ」

 

 それから数日後、若涼は一人昼間のお花へと呼ばれ控えの間で待たされていた。

 忙しなく、あちこちのお花を駆け回る夜のお花とは違い、ゆったりと一席だけの昼間のお花。おのずと地方のおねえさんとの会話も弾む。

「若ちゃん、この前菊まりさんがまた涼夏さんに何や言うてはったみたいやけど、気にしたらあかんえ。菊まりさんは涼夏さんが羨ましいだけなんどっさかい」

―――羨ましい???羨ましかったら、この前みたいな意地悪言うてえぇんどすか!

 まだ四十に手が届くかどうかとうい若い地方のおねえさん言葉に疑問を持ち、憤怒した若涼を、還暦をとうに過ぎたおおきい地方のおねえさんが、ふんわりと笑い言葉を繋げた。

「涼夏さんは出来た妓(こ)やさかい、心配せんでも大丈夫」

 とても安心できる笑顔で、ゆったりとおおきいおねえさんは話してくれた。

「涼夏さん、昔から割烹涼白の源ちゃんと仲よろしゅおすやろ?源ちゃんがまだ涼白屋の方でお燗番したはった頃、あんな風に色々笑いながら気さくに話したはる妓は、涼夏さんだけどしたんどす」

―――せやから、羨ましいんどすか?

 首をかしげて若涼が問う。

―――うちにも笑ろてくらはるし、お八もちょこちょこ貰いますえ。

「若ちゃんは妹みたいなもんどっしゃろ」

 おねえさんが笑う。

「菊まりさんは、源ちゃんの事が好きなんどす。せやけど源ちゃんは、菊まりさんには涼夏さんみたいに話したはらへんかった。いっぺん源ちゃん茶化して聞いてみた事あるんどす。『涼夏さんの事好きなんか?』て、そしたら源ちゃん『唯のファンです』て真っ赤になって言わはるんやもん。かいらしおしたえ」

―――源さん、涼夏さんねえさんの事好きなんどすか?せやけど彼女さん居てはりますえ。

 中学を卒業し、すぐに仕込みに入り舞妓になった若涼にはその言葉が解らず、ちんぷんかんぷんだとおねえさんに訴える。

 カラカラと、おおきいおねえさんは笑う。隣でおねえさんも笑っている。

「涼夏さんのファンが多いのは、舞妓になる前からどす。あの負けん気の強さ、一人前の芸妓になるまでは、お郷に帰らへんていうあの根性。うちら芸妓の間でも、あの子には一目置いてますんや。その根性でどこまで伸びてくらはるんやろ?て。それも嫌なんちゃいまっしゃろか?同じ境遇や思たら、涼夏さんは根性のお人。菊まりさんとはちょっと違ごた。せやけど、源ちゃんは中学卒業前に板前にないりたいて、高校行かへん言うて一悶着あった様な子どっさかい、同じように根性でやってきたはる涼夏さんを応援したいて、ファンにならはったんやおへんやろか」

 隣で聞いていたおねえさんも、ほっこりとした笑顔で頷いている。

―――やっぱり、好きなんどすね。

「ちゃいますがな。わて等が茶化して聞いた質問の答えは、『好き』やとも『嫌いや』とも答えられへん問いどすねや。『ファンです』いうのは一番えぇ答えどしたなぁ」

―――『友達』いう答えはあかんのどすか?

「そら違います。涼夏さんは舞妓、源ちゃんはまだまだ見習いの板前どすえ。友達とはちょっとちゃいますえ。同じ屋形が経営したはるさかい気易う出来ても、表に出てお仕事したはる涼夏さんと、お燗番したはった源ちゃんとでは天と地程差がありまっさかい、まだまだ友達とは言えへん仲どすなぁ。」

―――そうどすかぁ。『嫌い』言うたらあかんのは解りますけど、『好き』なんと『ファン』なんは似たようなもんやと思いますねやけど…違うんどすか?

 涼香がジョニー・デップが好きだと公言しているのと同様、ファンとして好きならば好きと言う言葉を使っても良いのではないか?と若涼は疑問をぶつけた。

「そうどすなぁ………。ちょっと言い方は悪いんどすけど……」

 そう前置きをして、大きいお姉さんが噛み砕いて教えてくれた。

「涼白屋にとって、芸舞妓である涼夏さんは商品どす。まだ年季も明けてはらへんし、何年かして年季が明けて、自前にならはったとしても、涼白屋の看板背負たはる商品である事に変わりはおへん。源ちゃんは割烹涼白の板さん、しかも今もまだ修行中の身どす。これは、解りますな。」

―――へぇ。

「これはあくまでも勝手な仮定の話どっせ。絶対に他で話さんといとくれやっしゃ」

おおきいおねえさんの、念押しの様な言葉に頷く。

「その大事な商品に、まだ一人前にもなってはらへん源ちゃんが傷を着けたら、どないなります?涼白屋は大事な商品である涼夏さんを失のうてしもたら、どないなります?半人前の板さんと恋仲になって、傷物になった妓やて話だけが独り歩きしたら困りまっしゃろ。源ちゃんは、半人前の癖に芸妓に手ぇ出したて、もう祇園には居難ろぉなりますやろなぁ。」

―――ファンとして好きや言うただけでもですか?

「噂言うのは怖いんどっせ。本人さんの知らん所で、悪い様にはすぐに回ります。源ちゃんはその辺律儀なお人やさかい、ちゃんと対応したはるんどす」

―――難しおすなぁ…ほな板前と芸妓が恋仲になったらあかんのどすか?

「そら、板さんが一人前にならはって落籍いてくらはるだけの実力と信用があったら、話は別どすけど。なかなか難しおすなぁ。その前に旦那さん出来ますわ」

―――菊まりさんねえさんみたいに、どすか?

 菊まりはすでに“旦那さん”が居る。無理に沿わされた訳でも無く、自らその“旦那さん”と恋仲になり、その仲は当然街の中では知った仲となっていた。

「……そうどすなぁ」

 おねえさんが、何か少し言いにくそうに加えた。

 おおきいおねえさんは、十六になったばかりの若涼にもちゃんと解るように、花街の恋のいろはを教えてくれた。

 花街にお客以外で出入りする男性は全て顔見知りで、出所もちゃんとしている人物ばからりだ。それは花街が女性社会で、無用な男性関係を詮索されて他のお客や、他の芸舞妓に迷惑がかからぬ様にとの配慮。

 唯一、男(おとこ)衆(し)と呼ばれる芸舞妓の着付けをする男性が出入りするが、恋愛は御法度というのが花街のルールである。今では男衆の人数も減り、一人であちらの芸舞妓、こちらの芸舞妓と走り歩いて分刻みのスケジュールで着付けをする男衆。そんな色恋をする暇も無い、というのが現実だ。



 それは、板前である源も同じだとおねえさん達は教えてくれたのだ。



■■■




 源に「料理の出来なさを見られるのが恥ずかしい」と未だ言い続ける涼夏を見ていると、どうしても以前の菊まりと涼夏のやり取りが頭を過り、グッと堪えて飲み込んだはずの言葉が、沸々と胃の奥から湧き上がりとうとう口を吐いてしまう。

「他の芸妓のおねえはん等ぁが、菊まりさんんねえさんが涼夏さんねえさんに意地悪するんは、源さんが涼夏さんねえさんと仲よしやからやて、ただの嫉妬やさかい気にしたらあかんて、言うてはりましたえ。同じ屋形の経営してるお店の板さんなんやし、顔見知りやったら話もするしお互い仲悪うはせえへん。ておおきいおねえはん等ぁが、うちが舞妓になりたての時に教えてくらはりましたえ」

 あの日、地方のおねえさん達に言われた事を思いだしながら若涼は怒る。

「やぁ、よぉ見てはるんやねぇ」

「おねえはん、意地悪されてるのみんな知ったはるんどっせ。解ってはります?」

「どっちが姉さんか解らしまへんな!」

 クスクスと姉芸妓である綾涼が二人の会話を聞き、側で笑っている。

 ここまで砕けた会話の出来る花街の姉妹もそうそう居ない。これは上下関係をあまり気にしない涼夏と、その涼夏の姉芸妓である綾涼のお蔭である。

 それも全て自分が上下関係で無用な意地悪をされたり、白を黒だと言ったが為に摂関された過去がある屋形のおかあさんの、先代おかあさんの経験だ。

 この屋形の先代のおかあさんは、舞妓としての経験が無い。

 昭和二十年を境とした戦前戦後の数年間、舞妓時代を過ごす事無く芸妓となる妓が幾人も居た。先代おかあさんもその一人だった。物の無い時代、修業時代である舞妓時代の衣装や装飾品を省くために即芸妓となったのだ。その為、通常通りに仕込み時代、舞妓時代を過ごし芸妓となった先輩芸妓からの風当たりが幾分強かったのだろうし、女性社会の上下関係が今よりも色濃い、そういう時代だったのだ。

 自分がされて嫌だった事は、後輩の芸舞妓には絶対にさせてはなるものか!と、この屋形の中でだけは必要最低限の上下関係で良いとした。その緩いルールで果たして外で大丈夫か?と心配したのは最初だけ、この屋形の芸舞妓は皆おかあさんの心遣いを理解し、外は外、屋形は屋形のルールを守っている。

 其の為これだけ姉芸妓である涼夏に、若涼が物申しても許されてしまう。

 若涼の言葉は涼夏を心配しての事。

 誰かに意地悪をしているのでも、白を黒だと主張しているのでもない。

「うち、菊まりさんねえさん嫌いどす。自分が一番偉ぉて一番可哀想で、自分は悲劇のヒロインや!みたいに思てはるんどっせ。あんな性悪な悲劇のヒロイン居てへん、居てへん」

「ちょっと、口が過ぎますえ!」

 但し、度が過ぎれば叱られるのに変わりは無い。

 綾涼に一喝され、「はーい、すんまへーん」と悪びれる様子も無く笑う。

「色んなお人が居たはるさかい。いちいち気にして怒っとったら持ちまへんえ」

 のんびりと涼夏が言うと「お人よし過ぎます!」と二人が声を揃えた。




 菊まりが源の事を好きな事は、感じていた。

 源と仲良く話す自分に「源さん、うちとは全然そんな風に話してくらはらへんのに」と愚痴の様に言った事もあった。

「仲よろしゅおすなぁ」と笑ったその時の目が、怖かった日の事も覚えて居る。

その時はまだ自分の気持ちに気付いておらず、源は話しやすい相手として認識していた。

 そして自分の気持ちに気付き、菊まりに初めての“旦那さん”が出来た頃から、更に言葉の棘がきつくなった様にもどこかで感じていた。

 菊まりには今も“旦那さん”と呼ばれる男性がちゃんと居る。

 今現在の“旦那さん”と、昔の風潮で言われる“旦那さん”は決定的に違い、現在では好きでも無い男性とお金の為に沿わされるとこは無い。

 今現在は“旦那さん”イコール“恋人”という事になり、そのまま結婚に至るというパターンも珍しくは無い。唯出会った場所がお花であり、同じ年頃の男女が経験しているコンパや飲み会等では無い辺りが、一般のカップルと違う所である。

 恋愛として、“旦那さん”を何人か持っていた芸舞妓は、一般女性の“元彼氏”と同じ様に存在する。恋愛抜きの“旦那さん”も存在するが、それは自分を応援してくれる“スポンサー”。“スポンサー”と“旦那さん”は違う。恋人としてではなく、その芸妓を応援してくれるファンであり、その芸妓を盛り立ててくれるお客様である。

 それは、芸能人を応援しグッズを買ったりCDを買ったり、コンサートのチケットを取り「頑張れー!」と応援する。そんなファンと同じなのだ。

 贔屓の芸舞妓をお花に呼び、都をどり等のをどりのチケットを買ってくれ、をどりの会に足を運んで贔屓の芸舞妓の舞台を見てくれる。そういったファンとしてのスポンサーである。


 しかし菊まりの“旦那さん”は違う。菊まりはお金の為に“旦那さん”を持った。

 無論、生理的に嫌な相手では無かったことだけは確かだ。だがしかし、全てにおいて【菊まりをどれだけ金銭面においてサポートしてくれるか】が重視され、相手の男性にとって菊まりは、常に一番の女性では無かったが、金銭面のサポートはしてくれた。

 そんな男性を一人二人と渡り歩き、自分の為にお金を出してくれる“旦那さん”を常に作っている。


 それでもやはり、未だに源を想っているのだと若涼の言葉で改めて知る事となり、深い溜息を一つ吐く。


「そういえば、源さんまた彼女さんと別れはったんやて。これで何人目やろ?」

 プリプリと菊まりへの怒りを露わにしていた筈なのに、コロコロと話題を替えるカラリとした若涼の言葉に、涼夏は我に返った。

「あんた、そんな情報どっから仕入れてきはんの?」

 若涼の情報に綾涼が聞く。

「源ちゃん自分からはなんも言わへんしなぁ」

 おかあさんまでが会話に入っている。

 千夏はその会話の中には入りたくない、聞きたくも無い、出来る事ならこの場で終ってほしかった。

「へぇ、この前のお休みに山科の家に帰った時、同級生が言うてました。うちが源さんの事知ってるのは知らんと言うてはったんどすけど……。同級生のお姉はんのお友達が、源さんの元彼女さんどして、お話色々聞かはったいうてはりましたわ。」

 同級生のお姉はんのお友達て、また遠いんか近いんか――。綾涼が笑う。

 若涼は京都山科の出、公休日の度に実家に帰ったり、同級生とお茶をしたりしている。

「へぇ、せやけどうちが聞いた限りでは源さん悪ぅおへん。彼女さんが源さんのお仕事知ってはるのに、お休み少のぉてなかなか会うてくらはらへんとか、夜に電話しても繋がらへんとか、一緒に旅行にも行ってくらはらへん言うて、それを浮気したはるからやて怒ったはったんどす。せやから源さん、なんの反論もしはらへんで『そう思うんやったら別れてくれ』て言わはったんやて。源さん悪ぅおへんやろ?」

 そのおなご、何考えたはるんやろ?アホちゃうやろか――。綾涼が毒を吐く。

「どっしゃろ!お休み殆どのぉて、毎日夜中まで働いてはる男はんの、どこに浮気する時間がある思てはるんどっしゃろ!」

 プリプリと、先程菊まりへ向けた怒りとは全く違う怒りを見せる。まるで自分の事の様に怒っている若涼に、なぜか笑いが込み上げてくる。

「せやけど、うちの同級生もそのお姉はんも『自分勝手な浮気男や!』言うて怒ったはったんどす。うちムナクソ悪ぅなってそのまま帰ってきましてん!一生懸命お仕事したはる男はんに、そんな無理言わはるはんおかしい!源さんは悪ぅおへん!ほんまムナクソ悪ぅて悪ぅて!」

「若ちゃん、また鼻がじょろむいとりまっせ」

 思わず若涼が両手で鼻を隠す。若涼は興奮すると鼻の穴が開くのだ。そのよくある光景におかあさんも、綾涼も他の芸妓も舞妓も仕込みの娘までが笑っている。

 その笑いと共に、千夏の胸をチクチクと針が刺す。


 源に彼女が出来、幸せになってくれれば、その幸せが長く続いてくれれば、源が幸せな結婚をしてくれれば、きっと源を諦められるだろう。

 そう千夏は思って見守っていた。

 今も源が幸せになるその日を、指折り数えて待っている。

 今回も無理だった――。

「あの子頑張ったはるからねぇ……涼夏さん。明日、どっか連れてったりよし」

おかあさんが笑顔でそう言い、思い出した。

 明日の引っ越しは割烹涼白が休みの為、源が手伝ってくれるのだ。

 料理の勉強は実践だけではない、様々な店の味を知る事もまた勉強の一つ。まだまだ駆け出しの源に高級店の味を知る機会は難しい。こんな機会だから、連れて行ってやりなさい。と割烹涼白の経営者の妻でもあるおかあさんは言っているのだ。

「おおきに」そう言ったものの、千夏は源との外食など予想外。嬉しさの反面、緊張で行きたくないというプレッシャーも伸し掛かる。


 結局、朝一番で引っ越しをし、お昼はピザを取り、おかあさんが店を予約してくれている事を告げた。

「お、俺なんかと一緒に行って、変な誤解されたらどないするんですか!あきませんて」

「おかあさんがお席取ってくれたはります。屋形の名前で予約入れてまっさかいあんじょうしてくらはるよって、かましまへん」

 恐縮していたが『おかあさん』を出すことで丸く収まり、おかあさんが昨日のうちに予約してくれていた店に行く事になった。

 源は一旦家に帰って着替えを済ませ、千夏も先日両親に買ってもらった上品なからげの単衣に着替え、連れ立って食事に出かけた。

 何を話して良いのかも解らず、この前マンション選びに両親が京都へ来てくれた時、数年ぶりに『千夏』と本名で呼ばれたが、誰の事だか解らなかったとか。

 母は真っ白でメルヘンなお姫様みたいな家具を選びたがり、父と二人却下するのに苦労したとか、鮎の骨をつるんっと抜いたら両親が有り得ない程驚いたとか、父が伏見の酒蔵で飲んだくれ、挙句の果てに一升瓶をホテルに持ち帰って更に飲み、翌日二日酔いで買い物に行けなかった等、本当にどうでも良い話をした。

 どちらからともなく普段の堅苦しい言葉使いを止め、笑いながら他愛のない話を主に千夏が延々とし、源はそれを楽しそうに聞いていた。

 初めて二人きりで食事に出かけた千夏にとって、最高の思い出の日となる筈だった。


―――数週間後の七月十七日までは…。



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