何の価値もない人生

卯月

陽だまりの公園で

 あたたかい日射しにつつまれた広い公園の一角。

 なんの変哲へんてつもないベンチに座る、老紳士ろうしんしの姿があった。


 つるのようにせた体躯を、キリッとのりをきかせた背広スーツよそおっている。

 オールバックの総白髪。四角い黒縁くろぶち眼鏡めがね

 いかにも生真面目なつとにんといった風情ふぜいだ。


 勤勉きんべんそうな老紳士は、しかし今は何もしていなかった。

 ベンチにただ座り、なすこともなく風景と一体化している。


「こんにちは」


 ふいに声をかけられて老紳士は顔をあげた。

 そこには日傘ひがさをさした老婦人が笑顔を見せている。

 いつの間に近づいてきたのか、老紳士は気が付かなかった。


「……どうも」

「お隣、よろしいかしら?」


 少し横へ動いてあけた空間に、老婦人は腰をかけた。


「はあ~疲れちゃった」


 婦人は笑顔のままそんなことを言っている。

 まるでくもりのない、青空のような笑顔だった。


「あなたはここで何をしてらっしゃるの?」

「……何もしてはおりませんよ」


 婦人の青空に対し、紳士の表情はわかりやすいくもぞらだった。


「どうもよく分からなくなってしまいまして」


 青い空の彼方かなたに心が吸いこまれていくような、そんな不思議な感覚になって紳士は語りだした。

 

 彼は人生のすべてを仕事に打ち込んできた。

 その甲斐かいあって重役にまでなったが、やがて持病が悪化して身体がいうことをきかなくなったので辞職することにした。

 

 しかし仕事を辞めて自由になった途端とたん、彼は極度の虚無きょむかんさいなまれるようなったのだ。

 仕事に専念してきた彼は、仕事以外のあらゆるものに不自由する男だったのである。


 家族との仲も冷めきっている。どんな会話をしたらよいのか分からない。

 趣味もない。友人もいない。

 仕事がすべてだった男から仕事を取ったとき、そこには何もなかったのである。


「仕事をわけにして、人生をサボりすぎてしまったようでして。

 働かなくなった今、私は何の価値もない人間になってしまったように思えてならんのです」

「それは言いすぎではないかと思いますけれど」


 婦人はおだやかに言葉を返す。


「でも、あなたはそう思ってらっしゃるのね」


 紳士は恥ずかしそうに、そして苦しそうに、オールバックの白髪頭をなであげた。

 そして重いひと言をつぶやく。


「自分は一体なんのために生まれてきたのかと。

 仕事のため、家族のため、そんな言葉はただの言い訳でしかなかったのではないかと。

 そう思うと後悔しかないのです」


「その苦しみのせいで、死んだ後も・・・・・こんな場所で悩んでらっしゃるのね」


 紳士はこれまでで一番笑いじわを深くした。


「笑ってください。

 もう服を着る必要すらないというのに、いまだにこんな背広スーツを着ているのです。

 私は死んでもなお仕事から離れられないあわれな男なんです」


 70年弱にもおよぶ仕事一筋の人生。

 そして大病による最期。

 すべてから解放された彼を待っていたのは、ひたすら何もない空虚な時間だった。


「いま、あなたはとても悲しい気分かしら?」


 紳士は首を横にふった。


「案外と平気なものです。涙も出ませんでした」


 うん、と老婦人は優しくうなずいた。


「人はみないつかは神や仏と呼ばれる存在になるのです。あなたはそのための修行をひとつ終えたのですよ」

「あなたはもしかして宗教関係の方ですか」


 そんなところです。と老婦人は答える。


「たどり着く場所はひとつしかありませんが、そこへいた道筋みちすじは皆それぞれです。

 楽な道もあれば、時としてつらい道もあることでしょう。

 あなたはあなたにとって必要な道程どうていをひとつ終えたのだと、私はそう思いますよ」


「無駄ではなかったと?」


「はい。ひとつに専念することでしか得られなかった体験もあったのではありませんか。

 努力も成果も、成功も失敗も、その道でこそ学び得られたことがあったはずです」


「……そう、ですね。

 楽な道を選んでいたのでは体験できなかった出来事が、いくつもありました」


「そう。それこそあなたが今生こんじょうで得られた宝なのですよ」


「ああ……」


 老紳士の表情からくもりが晴れてゆく。

 無色透明かと思っていた人生にはちゃんと色があった。

 ただのガラクタだと思っていたものにはちゃんと価値があった。

 無駄な人生などないのだ。


「ありがとうございます。心が軽くなりました。

 何かお礼がしたいのですが、ご希望はありませんか」


 老婦人は静かに首を横にふる。


「感謝のお気持ちをいただけるのが何よりの褒美ほうびです。

 私の修行にはそれが一番うれしいのです」


「あなたも修行中なのですか?」


「もちろんですよ。

 私たちは誰もがみな、おなじ至高を目指して進む修行仲間なのですから」


 会話をつづけていると不意に、老紳士の身体がふわりと浮かび上がった。


「ああ、どうもお別れの時が来てしまったようです。

 お世話になりっぱなしで申しわけないのですが」


 いえいえ。と老婦人はやはり青空のような晴れやかさで笑う。


「お会いできて私もうれしかったですよ」


「ではどうも」


「ごきげんよう」


 天にむかって消えていく老紳士を見とどけた後、老婦人は日傘をさしながらのんびりとした歩みで公園を去ってゆく。

 これは陽だまりの公園でおこった、ごくささやかな出来事。

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何の価値もない人生 卯月 @hirouzu3889

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