第5話
「おい、きみ、どういうことだ。なんだってあんな女なんぞと面会しなきゃならんのか」
ほんの少し彼女が離席した途端、ぼくはにこにこと社交用の仮面をかぶった彼につかみかかった。ほんとうに気色の悪い笑顔で触ることさえためらわれるほどだったけれど、それよりも彼に対する怒りが勝っていた。
「いや、怒ってはないのだけれどね。ぼくは小柄だけれど心まで子供ではないから、例えば『さすがの嫌がらせだ』と何百回もほめてやったっていいさ。それくらいぼくの心は安らいでいる。ただ意図を教えてほしいんだ。なんだって、あんな、顔だけの女と会話する必要があるのか」
大学だからそこまで変なことはできない。食堂で周囲には人がたくさんいる。彼の上にのしかかることもできないし、今ここで皿をひっくり返してぶん殴ったり、コップの水をぶちまけたり、罵倒することだってできない。彼はあまりにぼくのことを過小評価しているからひどい勘違いをしているかもしれないが、ぼくには羞恥心というものがあるし社会的立場を懸念する理性を持っている。男釣りをしたからって、あたまがおかしいわけではないのだ。
メロスもかくやの憤怒を見せつける。そんなぼくに彼は顔を近づけた。
「お前に助けてもらいたいんだよ。俺にはお前しか頼る人がいない」
それは甘ったるい吐息、それは心くすぐる心地の良い言葉。淫魔のような囁き。
「……なぜぼくが君を助けなきゃならないんだ」
ぼくはあきれ果てていた。いつも通りの彼のスタンスに。
彼はあれ以来、ぼくの女装についてちょくちょく口をはさんでくるようになった。「お前の偽装技術には脱帽する」だの「お前の言葉のすべてに同意するわけではないけれど、女性の平均値は優に超えている姿をしている」だの、賞賛なのか皮肉なのかわからないことを言っていた。
しかし、今の彼の姿を見てみるがいい。あるいは普段の彼が無垢なる学友たちをその顔と体つきと、偽装したやさしさを以て欺く姿を。インキュバスの名がホモ・サピエンス史上最も似合うだろうこの人物は、行く人来る人を魅了し続ける。アヘンの成分でも振りまいているのかと思うほど、常に人が彼の周りに集まっている。彼の人気は彼がいる法学部にとどまらず、大学一湿気ている我が文学部にまでその浮名が流れてくるほどのものである。
「だってほら、俺は今お前の社会的な生殺与奪の権を握ってるだろ」
彼の本性など所詮はこれ程度でしかない。彼は人格者ではなく人格者を僭称するペテン。彼は簡単に第二の家族と言えるほどに関係性の深い人間を地獄に突き落とそうとするし、ぼくの人権など全く理解していない。前近代の荘園経営者のような脳みそをしているのである。
それが大学では「学年一のイイ男」、「港区高層ビル並みの物件」として名をはせている。
こんな詐欺師に「詐欺師」なんていわれたくないし、人格面で説教されたくない。
「それにあのアマずっと俺に言い寄ってくるんだよ。『俺には好きな人がいるんです』ってごまかそうとしたら『じゃあその子を教えてよ』とか言ってくるし」
「は? ……まさかきみ、ぼくをいけにえにしたのか?」
「生贄なんてそんな……、家族じゃないか」
「人に女装までさせといて、きみ、ほんと何をしゃべってるの?」
脱力、理解不能。現代の日本では通用されていないどこか海外の、あるいは別星系、それか別次元の、もしくは別世界の倫理観で社会を生きる彼と正面から相対する疲労感はすさまじい。
「お前はミスコンの女を存分に煽れる。俺はあの女から逃げられる。ウィンウィンだ」
「どこがだよ」
言ってることはめちゃくちゃ。
「それにな、あの女と付き合うんだったらお前と付き合う方がよっぽど楽しい」
「気色悪いな」
気色悪いセリフ。
「鈴鹿……いや、葵。こうして大学で顔を合わせると、いつも以上に可愛らしく思える」
背筋の凍りつく台詞。アメリカのおかし並みに甘ったるい表情。
「――ふふ、ふふふ、熱々なのね」
青筋を浮かべている彼女がいなければ、先ほどまで食べていた昼食のすべてを、彼の顔に向けてぶちまけるところだった。
「でも、やっぱり鈴鹿君はお似合いじゃない。私の方がもっとあなたを幸せにできる」
そして今度は、口からではなく胃に空いた穴から、すべてを体内にぶちまける予兆が襲ってくるのであった。
女装男子の言い訳 酸味 @nattou
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