欲深き出戻り希望の画策に目に物見せる方法論

御子柴 流歌

仕打ちには、仕打ちを


「アイスコーヒーのお客様」


「はい」


「カフェモカ、チョコレート2ショット追加のお客様」


「そちらで」


 そこそこ話題のカフェ、オープンテラス。ここから見える街行く人々は皆無口――って口元が覆われているから見えないだけだから、その保証は全くなかった。このご時世だから致し方ないところではある。


「甘いの好きなのか?」


「今はそれ、別にどうでも良くない?」


「……ただ回りを見てるだけってのもつまらないと思って、わざわざ話題を提供しようとしただけなんだが。別に興味があって訊いたわけじゃない」


「だったら今そんなこと話してる暇はないんだし、後にして」


「……後なら良いのか?」


「それは『その後の私』にでも訊いて」


「要するに、とくに答える気はないってことなんじゃ?」


 ――返答はなかった。


 俺も、相席をしているこの女も、マスクをしている。それぞれが、まだ氷が溶ける前のドリンクを目の前にしていても、である。こういうご時世であることに感謝したいのは、マスクによって俺たちがパッと見誰であるかが分かりづらくなる効果があることと、マスクによって俺たちが会話していることにも気取られにくいことだろう。


「……それにしても、だ」


 一応は金を出したわけで、飲まない義理はない。マスクを一瞬だけ外してひとくちコーヒーを啜り、また元に戻してから口を開く。まだ昼の気温は高い。冷たい飲み物がまだまだ気持ちの良い季節感だった。


「何よ」


 そりゃそうだ。全く持って色気のない会話に終始している俺たちは、もしもこの会話がハッキリと聞き取られていたならば、奇異の目で見られていても仕方がなかった。


 こういう場で男女が空間を共にしていれば、そりゃあ大抵はデートだろう。キャッキャウフフとしているようなふたり組なんてものは、このカフェ内にも4組ほど居る。高校生の部活帰りと思しきふたり組から、まぁまぁ年の行ったようにも思えるふたり組まで。年齢層はそれなりに広かった。


 それに引き換え明らかに俺たちは、互いの謀略を果たすためにこの場に来ているのだから、そりゃあ浮くよな、という話だった。


「ホントに来るのか?」


「来るわよ?」


「……妙に自信満々だよな」


 向かいに座る女――うえゆうは笑う。顔の半分がマスクで隠れていようと、その雰囲気で笑っていることが明らかだった。


 この上野という女が言うことには、この後この周辺に俺の元カノということになっているみなかみというモデル――どういうタイプのモデルなのかは伏せておく――と、その今カレということになっているすずもとえいろうという経営者の男――どういう会社経営なのかも伏せておく――がやってくるという話だった。


 ――どちらにも『○○チョメチョメということになっている』という注釈が付いてくるのが、今回のミソだ。当の本人たちとしてはそういうことになっているのだろう、ということだ。恐らくだが、その真意は簡単に察することができると思う。


 なお、今俺と相席のようなことをしている上野と水上加奈美には、微妙にも程がある『友達と友達の顔見知り程度』の面識はあるらしい。友人同士の話で稀に名前が出てきて、相互に顔を知り合っているということではない――というレベルだとか。


 ちなみに俺と上野は友人とかそういう関係性ではなくて、『俺の元カノの元カレの今カノ』である。ああ、めんどくさい。文字に起こすと分かりづらいことこの上ない。


 結局のところ、俺たちは『俺の元カノ』に目に物見せてやりたいという共通認識があるというだけで共通の知人を仲介役として手を組んだのだが、蓋を開けてみれば大学時代に学科全体で取る授業で見たことがある女だった。世間とは狭いものである。


 とはいえ、今はそれよりも大事なことがある。


「何か証拠でもあるのかよ。……そうだ、俺は散々『証拠があるなら見せてくれ』って言ったのに、まだ見せてくれてないじゃんか」


「そうだっけ?」


「そうだよ」


 しらばっくれようとしているわけでは無さそうだが、少なくともこの状況を楽しんではいるようで、ある程度満足感が得られたのか上野はスマホを操作し始めた。


「コレよ、コレ」


「……は」


 草も枯れそうな乾いた笑い。


 出されたのはスクリーンショット。メッセージアプリのスクショだった。


 その内容は――もう、誰がどう見たって明らかな(オブラートを何枚か使った言い方をすれば)のお誘いとそれの承諾、そしてその後の(とても分厚いオブラートを何枚も使った言い方をすれば)の様子と、そののお話。そしてまさかの


 本当にご丁寧なことで、まったく有り難くない。こんなにも有り難くない迷惑な話があって良いのだろうかイヤ良くない良いはずが無いだろうがコン畜生め。


 それでも少し面白いなと思ったのは、スクショ内で展開されていた会話がつい先日俺に送ってきたメッセージよりも少しドライな印象を受けたからだ。何だろう、『冷めている』とまでは言わないが、どことなく季節外れの秋風を感じるような。ナニか、そのとやらの後でヤツを冷めさせる要因があったのだろうか。タイムスタンプを見れば、俺宛にメッセージを飛ばしてきたのは数度のを重ねた日の夜らしかった。


 何でもかんでも写真に残そうという最近の文化の是非を問いたくなるような内容だった。少しは『記録にして残すべきモノ』と『思い出として残すべきモノ』と『この世から抹消すべきモノ』をしっかり判別する必要があると思う。


 危機意識って、大事だぞ? コイツ、本当に経営者か?


 ――っていうか、何がとは言わないが、貧相だな。財布の厚さはさぞかしコイツの方が上なんだろうけど。いわゆる超高級スポーツカーが大好きそうだなというような予想が立つ程度には貧相だ。


 コイツに雇われているニンゲンの将来が心配に――――は別にならないな、どうでもいい。勝手にしやがれ。狸寝入りでもしているときに出て行ってしまえ。


 俺がしっかりと呆れていると、そんな俺のツラに満足したのか、上野は次の画像を見せてくる。その画像が言うには、今日もまさしく逢瀬を交わそうという予定があるらしく、その待ち合わせがココらしい。


「つまり、コレ通りであれば」


「……来たわよ?」


「マジかよ」


 早い、早い。もう少しコッチにも準備させてほしかった。


 まったく『人生は小説より奇なり』なんていうことわざもあるが、それにしても限度がある。あまりにもやり過ぎたと思えるような話には、さすがにフィクションの神様だってキレて殴りかかってくると思う。


「じゃあ、行ってきて言ってきて?」


「……え、俺だけ? 来ないの?」


「何でよ。あの娘と直接的に面識があるのはくさの方でしょ?」


「たしかにそうだけどさぁ……」


 気が進まないのは確かだ。ただ、これでカタを付けなくてはいけないのも確か。そして、その任務に就くのは俺だけというのも確かなことだった。


 貧乏くじにも程がある。何かもうちょっとマシな報酬が欲しいところだった。


「……あとで、イイコト、したげるから」


「何だよ、イイコトって」


「そりゃあ、イイコトよ。……一応は知ってるんだからね?」


 若干だが、上野の視線に熱を帯びたような気がした。


「何で知ってるんだよ」


 知っているんだ、とは訊かない。恐らく同じ認識ができていると思ったからだ。


「そりゃあ、そういう話って意外と動き回るモンだから」


「どういうルートがあるんだよ」


「そりゃあ、いろいろあるのよ。そっちにだって、無くは無いでしょう?」


「……お前らほど生々しくは無さそうだけどな」


「あっはは、それは言えてるかもね」


 けらけらと楽しそうに笑う上野。


「アンタたちなんて、どうせ『あそこの店の最近入った娘は、胸はデカいけど不感気味だ』とか、そういう感じなんでしょ? 大抵アンタらがヘタクソなだけなんだっつーのよ」


「……」


 思っていたよりも数倍生々しい裏ルート会話があることを、俺は察した。俺らの場合は精々昔馴染み感を楽しみたいがための、「あの女優はわざとらしいからオススメできない」、「いやそれならむしろそそる」、「マニアックだなお前は」――とかそういう中学生男子に少し毛が生えた程度の話だった。


「……ほら」


 顎で使われる。――後でそれなりの対価を貰ってやるからな、と心に誓いながら、俺はあの女のところへ向かう。待ち人がいるためふたり用の席に通してもらったと見える水上は、すぐさま小さなバッグからコンパクトミラーを取り出した。


 その光景に思わず『カワイイは作れる』なんていう有名なフレーズが脳裏を過って、思わず冷たく乾いた笑いが俺の口から飛び出していこうとする。イケないイケない、飛び出し坊やになるのは危険だ。俺は手鏡などを使わずにマジメな顔を作り直す。同じようにマジメも作れるのだ。


 さて、目の前にはひとつが埋まったふたり用の席である。


 やることはひとつだろう。


「ぃよいしょ、っと」


 ――空いている方に座るだけだ。


「あ……っ、え?」


 そうだろう、そうだろう。あの男だと思っただろう。身体的な話をするならば、とある一箇所には大きな違いがあるようだが、俺とアヤツの基本的な背格好は幸か不幸かよく似ていた。一瞬でも勘違いして、それはそれは媚びた雌狐のようなツラをしてくれたのには、さすがに反吐が出るというヤツだ。


「え……何で?」


「何でだろうな」


 驚いたような、それでいて何となく嬉しそうにも見える顔を瞬時に作れるんだから、全くもって大した女だった。


「たまたまだよ、そりゃあ。俺だってビックリしてるんだから」


 この女と同じように『ここであいまみえたこと』にビックリしているわけではないが、ビックリしていることには代わり無いのでそこは伏せておく。


「そ、そうだよね。……あー、ホントビックリした」


 どこか安心したような顔をした水上は、こちらに顔を寄せようとしながら声を潜めて言った。ふわりと漂ったやや懐かしい香りに吐き気がするようで、当然俺は静かに椅子を後ろに。


「……あの、さ」


「ん?」


 優しい色合いを醸す。もちろんトラップのひとつ。


「……あのメッセージ、見てくれた?」


「何かあったか?」


 知らぬふり。当然こちらは既読を付けずに中身を見るということをしているのだが、そんなこと向こうが知る由も無いだろう。そもそもこの女の方から一方的に関係を切ろうとしてきたという事実がある。こちらがそれに対して反応してやる義理もなかった。


「あの、……もし良かったらなんだけど」


「何も良くないな。何の話をしようとしてるんだ?」


 知らぬふり。


「え? 見てないの?」


「何を?」


「ライン。……ちょっとイイ?」


 わざとらしくポケットに突っ込んだままの手を、コイツは引きずり出そうとする。俺がそれを避けようとしてくることを予想したのか、思ったよりもその力は強かった。もちろんこちらとしては『なぜ手をポケットに突っ込んでいるのか』を知らしめたかったのもあるので、されるがままに手をテーブルの上に出させる。


「……っ!?」


「……」


 今度こそ驚いた目をしている。こちらは想定通りの展開にこぼれ出てきそうになる笑顔を我慢する。


 握っていたのはスマホ。表示されているのは電話の受話画面で、書かれている文字列は『あかさかひと探偵事務所』。


 ――もちろん、嘘である。


 調べれば分かるがこんな探偵事務所は存在しない。今繋がっているのは探偵事務所でも興信所でもなく、俺の背後で恐らく人の悪い笑みを浮かべているであろう上野海結である第一、こういうことをする側が探偵事務所であって、何なら依頼人の立場になり得る俺がこんなことをする必要なんてないわけで。そんなことも考えつかない程度には、水上の頭は正しく動いてないらしい。ここで上野の方に視線を送ればいろいろとバレてしまう恐れもあるのでぐっと我慢しなくてはいけない。ああ、勿体ない。きっととんでもなく愉快なことになっているだろうに。


「え、……何、これ。どういうこと……?」


 もちろんそんな裏があることなんて知るはずもない水上は動揺を隠せないらしく、威勢良く立ち上がって俺の手を掴んだわりにはおとなしくなった。いくら取り繕うたって、今更遅いのだが。


「別に、何も。……そういうことですけど」


 煽ってみる。が、とくに反応はない。明らかに怯えているというか、何を出されるか恐れているような雰囲気が手に取るようにわかった。


 ――そうだろう、たまにはそういう気分を味わってみろ。


「いやぁ……、『遊びでもイイから』とか言いながら、それはそれはお楽しみになっていたのはどこのどちらさんでございましょうか、って話でね」


「……なに、それ」


 目が泳ぐ。まさか、こちらが何も知らないままに、誰かさんのように感情の赴くままにこんなことをやり始めたとでも思っているのだろうか。


 呆れる。呆れ果てる。


 この女にも、当然この女に一瞬でも惚れていた自分にも。


「『あのメッセージ』とやらも知ってるけどね。何言ってんだって思って無視させてもらったよ。好き勝手してサヨナラしたのはそっちの方だと思うんだけど、どういう了見?」


「そ、それは」


「いろいろ物足りなかったから、って話だとしたら面倒くさいことこの上ないし、これ以上付き合う来もないから、そっちで勝手によろしくヤってろって話だし。……そもそも、そっちの新しい人にも相手居るんだからな」


「……え」


 そこまで分かっていたのか、とでも言いたげ。呆れる。向こうも向こうだ、全くもってイイ気なモンで。


 頭の容積はいざ知らず、胸はデカい女がすり寄ってきたモンだから、さぞかし気持ちよかったのだろうよ――当然ながらダブルの意味で。精神的にも、肉体的にも。これはかなりの偏見と僻み根性を持ってして言うセリフだからダサいのは重々承知の上で言わせて貰えば、こちとら『何でも手に入ると思っているんだなぁ』という感情しか湧いてこない。


 ――ただ、そのおかげで明白な証拠を入手出来ることになったという側面は、否定してはいけないはずだった。もちろん感謝はしない。当然の報酬として受け取っておくことにする。


「……!」


「あっ、すみませぇん」


 そして、この会話をしっかりと聞いていた上野は、わざとらしく俺たちのテーブルにぶつかるマネをして店から出て行った。


「……あっ」


 その流れで上野は、これまたわざとらしく何かを置き忘れていった。何かとは、わざわざさっきスマホプリントで刷ってきた2枚の写真。1枚はさっきのスクショを拡大した水上と鈴本の逢瀬が撮られたモノ。もう1枚は上野と鈴本のツーショット――こちらはわざわざ日付がわかるモノを選んでいる上に、自分の顔にはしっかりモザイク加工を入れている。あの女もなかなかなヤツである。ちなみにこの2枚が撮られた日は3日しか違わない。大したモンである。


 間もなくして、上野の声に重なるようにして男の声が聞こえてきた。恐らくは鈴本だろう。あちらはあちらで上野に締め上げられるだろうし、その声は通話状態が続いているこのスマホから聞こえてくるようになっている。


「よくもまぁ、ああいう事を言ってこれたモンだよな」


 物欲はあちらで満たし、性欲はこちらで満たし――ってな話、問屋が卸すはずもない。


「本性は分かってんだ」


 ここはあくまでも店の中。他人の目もある――のだが、そんなのは気にする素振りもない上野の声がスマホのスピーカー越しに聞こえてくる。明らかに周囲の視線はこちらに向いている。「ああ、この女が何かやらかしたんだな」というあとは署で訊いてやるからな、みたいな静かな雰囲気で告げる。水上の目にはあっという間に涙が浮かんできた。ああ、面倒くさい。


「どうして……どうしてなの……?」


 ――ンなもん、こっちのセリフだ。


 テメエ勝手に離れていったくせに、元の鞘の中に入れなかったくらいで喚くな。


 貧相な刀を入れたがったお前がすべての元凶だろうが。


「アタシ、死ぬ」


「あ?」


 聞き間違いではないだろうし、何ならしっかりと聴き取れている。だけど、敢えてもう一度、改めてコイツの口からその言葉を聞き出してやりたくなって、俺は訊く。聞こえないふりをする。


「……死んでやる」


 やっぱりだよ。


 出たよ、出た出た。


 定番極まりない陰湿発言が。


 この星の上で同じ成分の空気を吸っているんだと思うだけで胃がムカムカとしてくるのだから、だったらさっさと逝ってくれよ――とすら思えている。


 もう少しまともな言い訳くらいぶつけてみてくれよ。できるもんなら。


 そんな感情を抱かれているのを知ってか知らずか、コイツはほろりと涙をひとしずくだけ落とした。だから、そういうところがいちいち演技くさくてイヤなんだよ。職業柄を出し過ぎなんだ。


 どうしてこういうタイプのニンゲンというのは、軽々しく自殺のほのめかしが出来るのだろう――――とかいうセリフを臆面もなく吐き捨てられる幼気さなんてとうの昔になくしてしまっている。さらに言ってしまえば感情の泉はコイツのせいでさらにどす黒いモノで上塗りされているわけで、こんな言葉で揺れるような心は絶滅させられてしまっていた。


 そういえば――と、とあるロックバンドが歌っていた歌詞を思い出す。タレントの女に写真を通して恋をしたが、ひと目会って嫌気がしたというアレ。あの感覚を、当時の俺が持っていれば良かったのだろう。このままでいると、あの曲を知るのが遅かったことを、どうやら俺は終生公開しなくてはいけなくなってしまう。そんなことは真っ平御免だった。


 結論から言ってしまえば、心底から死ぬ気なんて無いからなんだろう。ひっそりとその兆候をカケラを遺してくれる可能性は否定しないが、本当に死ぬ人は誰に言うでもなくふらりと消えるように居なくなるのだ。


 ――そんなことなど、思い出したくもなかった。


 だからこそ、塞がっていたはずの瘡蓋を周囲の皮膚ごとむしり取っていったコイツは――。


 許さない。


 許さないし、許されない。


 だからこそ、真皮から神経ごと抉ってやる。


「しっかり、アンタのせいでアタシがこうなったんだって、遺書残してやるからっ……」


「じゃあその言い訳セリフの前でももう1回言ってくれや」


「え」


 水上が顔を上げると同時、涙が引っ込んで頬が引きつる。


 そりゃあ、そうだろう。


 ――俺の背後にいる、ひっそりと仕込みをしていたもうひとりの姿を目に留めたら、そりゃあそうなるだろうよ。


「私たちが何も知らないでいたわけじゃないですからね。何年この業界に居ると思ってるんだか……」


「あ、ぇ……」


「『オトナ同士』の話ですからね。もう少し良識的な行動をすると期待していましたが、……全くの見当違いだったようですね」


 ハッキリと水上に告げたのは、上野が呼び寄せていたこの女のマネージャーだ。まだ暑いさもあるというのに、用意周到すぎて寒気がするくらいだ。


「……事務所まで来てもらえますか?」


「あ……」


 乾ききった水上の口から、助けを求めるような声が聞こえた気がした。――きっとそんな気がしただけだろう。そんなモノをかけられるいわれも無ければ、聞こえていたとしてそんなモノに応える義理もない。


「それじゃあ、……いってらっしゃい」


 ニッコリと笑みを向けて、俺は自分の席へと戻る。しばらく進んでチラリと後ろを見遣れば、完全に意気消沈したような水上が、ただでは終わらせないというような意思を持ったマネージャーによって椅子から立たされたところだった。これはいろいろとお叱りがありそう――いや、『お叱り』で済めばマシ、という感じだろうか。


 そういえばと、スマホの方に注意を向けてみる。――丁度、何かを鋭く叩く音が聞こえてきた。ここから出てすぐのところで話しているのが俺からは見えていたので、恐らくもうじき店を出ることになるモデルとそのマネージャーと鉢合わせすることになるのだろう。


 どうなることやら。出来ればあまり被害が波及してきてほしくはない。そちらで然るべき対応を取ってほしいとは思う。


 一頻り話して、何だかどっと疲れてきた。そういえばまだコーヒーが残っているはずだが――。


「んー……」


 さすがに氷がかなり溶けてしまっていて、あまり飲み干す気にはなれなかった。見れば上野が頼んでいたカフェモカは下げられていて、その代わりに伝票は俺が頼んだコーヒーの分だけが残されていた。


 さすがに客の視線を集めすぎた店でもう1杯という気にはならない。今はひとりで、もう少し落ち着いた場所でコーヒーを飲みたい。上野とは後で話をすればいいだろう。俺は伝票を引っ掴んで店を出る準備をした。


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