その声がいけない

陽澄すずめ

その声がいけない

 ねぇ、あなたがいけないのよ。

 あなたの、その声がいけないの。


 耳もとに荒い吐息がかかる。

 わたしの体はとっくにほどけてしまっていて、何をされてもとろとろ溶けていくばかり。

 すっかりかたちを失くしたわたしの奥まで、あなたは絶えず入りこむ。

 すっかりかたちを失くした思考回路は、芯を衝かれて揺さぶられ、いよいよ何も分からなくなる。


 あの人とはちがう指。

 あの人とはちがう舌。

 あの人とはちがう形。


 だけど、あの人と同じ声。


 わたしはかたく目をつむった。

 滅茶苦茶にかき回されて、有耶無耶に乱されて、執拗に絡みついて、白痴みたいに鳴いて、もう誰に抱かれているのかどうでもくて、あたまの中までまっしろになって——


 さいごに、わたしの名を呼ぶあの人の声がきこえる。



 夢から醒めた。隣で眠るあなたは、あの人とは似ても似つかない。

 白白しい朝の光に浮かびあがる、とがった喉仏にそっと指を這わせる。

 薄らと目をあけたあなたは、つぎの瞬間、勢いよくとび起きた。


「もう、起こしてくださいよ。僕、今日は一限の講義を受けなくちゃならないんだから」

「だってあなた、とっても気もちよさそうに眠っているんだもの」


 あなたは恨みがましい甘えた視線をわたしに注いで言った。


「あなたのせいですよ、義姉さん」



 わたしとあなたで、罪とあまい蜜を分かちあっている。


 あの人の、わたしの名を呼ぶ声が好きだった。

 果てる寸前に、わたしの名を呼ぶ声が好きだった。

 だけどあの人はもう帰らない。

 どれだけ待っても帰ってこない。

 わたしの中は、からっぽになってしまった。

 あなたの話し声をあの人と勘ちがいして泣きくずれたわたしを、やさしく包みこんでくれたあなたの腕は、あの人と勘ちがいするには細すぎたけど。


 あの人と同じ声で、わたしの名を呼んでくれるから。



 それからいくつも夜をこえて。

 ある日、真昼の陽の下で偶然あなたを見かけた。

 あなたはぜんぜん知らない男の顔をして、きよらかな頬で笑っていた。

 隣にいる可愛いひとは誰?

 指先を絡めるように手をつなぐ、誰にも咎められることのない、ただの若い恋人たちみたい。

 あの声で、そのひとの名を呼んでいるの?

 あの人と同じ声で、わたしの名を呼ぶのと同じに?



 からっぽだったわたしの中は、正体不明のどろどろでいっぱいになってしまった。

 薄くらやみの堕ちる、白んだ意識にしずみながら、今宵もあなたのあの声を聞く。

 かたく目をつむっていても、もうすっかり分かってしまった。


 あの人とはちがう、あなたという男の肌のにおい。あなたの形で、わたしの虚をぴったり埋める。

 だけど、あの人と同じ声。


 ねぇ、あなたがいけないのよ。

 あなたの、その声がいけないの。


 目の前にあるとがった喉仏に、わたしは思いきり歯をたてた。



—了—

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