ナナニンミサキ

鱗青

ナナニンミサキ

 雨上がりの尖沙咀ツィムサーツィの交差点にたたずむ彼女は、とても目立っていた。

 オフホワイトの長袖ワンピースの裾が、なよ竹のようなくるぶしまで届いている。白い日傘。流れるストレートの黒髪をポニーテールに束ねた、漆黒の大きなリボン。むせかえるような都会の熱気を浴びつつも、白いワニ革ハンドバッグを肘にかけて、粒ほどの汗もかかずに足を止めている。

 一瞬オイラは、

(なんだあの間抜けそうなお嬢様、トサカに黒アゲハがとまってら)

 と鼻で笑ってしまった。

 ここは中華大陸東南部最大の都市国家、香港自治共和国。第三次世界大戦の後、独立したての小国家だ。

 オイラは、隠れていた商業ビルのショーウィンドウに自分の姿を映しながら両手に唾をつけ、ボサボサの髪を整える。

 ウインドウの中でポーズをつけて立っている首のないマネキン達が、オイラには逆立ちしたって出せない金額のブランド服を着てこちらを見下ろす。

 待ってろ、姉貴。ちゃんと見つけ出して、また二人一緒に暮らせるようになったら、オイラきっと全力で稼ぐぜ。そしたらこんなしゃれた服だって着せてやるからな。

 ガラスに映る半透明の自分の顔。陽に灼けて浅黒く、目鼻立ちははるか西方の血が混じった名残で彫りが深い。中華人というよりも、東南アジア人的な顔立ち。来月十二歳になるけど、背丈は追いついていないので十歳ぐらいに見えるだろう…

 これならな。服はまあ、サイズの大きなズボンに綿シャツだけど。顎に指を当ててニッと笑いカッコつける。よし。ちょっと小賢しい地元の子供の小銭稼ぎ程度には思われるだろう。

「やあ、そこの姉ちゃん。どこに行きたいの?何を探しているの?」

 うわ。近寄ってみると、この姉ちゃん、すげー可愛いじゃん!てか、顔、っちぇー!芸能人みてぇじゃん!

 睫毛が長い。煙草乗っちまうんじゃね?ってくらい。それから目自体がデカい。でも白人みたく怖い感じじゃない。むしろのほほんとしてる子猫みたいだ。鼻はちょっとだけ高い。顎が細い。ほんでオイラと違って色白だ。たぶん姉貴よりは下…十四歳くらいかな?

 姉ちゃんは、微笑んだ。うぐ、とうなってしまうほど無邪気に。

「こんにちは、可愛らしい太郎冠者たろうかじゃ。私は賽河さいかわ冴子さえこと申します。探しているものがあるのですけれど、この区域に行くにはどうしたら良いでしょうか?」

 突然俺は心臓を見えない手で握りしめられた感じがしてよろめいた。

「あら?太郎冠者、大丈夫?私の広東語、おかしかったかしら」

「う…うっせ、なんでもねぇよ!」

 差し出されたメモは上等のスベスベした紙で、おまけになんか…いい匂いがする。 

「ったく…ンだよタローカジャ?って。オイラにゃナセル=カービルっつう立派な名前があんだよ」

「まあ。あなたは地元の方ではないの?」

「なんでそう思う?」

「それは、お名前がウイグルのかたのそれですもの」

 俺は顔をあげ、まじまじと姉ちゃん…サエコをねめつける。

「ウイグルで何か問題あっか。難民排斥主義者か、あんた?」 

「いえ?私は一介の日本人旅行者にすぎません。ただ、この辺りにいらっしゃる中華人以外のかたは地元育ちでないでしょう?土地に明るければ問題などありません。ではよろしく頼みます、ナセルさん」

 また微笑む。食ってかかっておいてなんだが、調子の狂う姉ちゃんだなあ。

「このメモだと少し歩くぜ。遅れんなよ」

 俺は先に立って歩き出した。この上品でポヤッとした姉ちゃんと話すと変な感じがする。育ちが違うというか、国が違うとこうも変わってくるものか。

 なによりもオイラの心を掻き乱すのは、その声だ。

「この土地は随分と暖かくて良いですねえ。陽射しがきついのだけが、私には難点ですけれど」

 この、声。音調といい抑揚といい、姉貴にそっくりなのだ。

「そんな長袖着ててよく平気だな。お日様に弱ぇならサンオイルでも塗りゃぁいーじゃんか。金持ちなんだろ?」

「そうなのですけれど、私に日焼け止めは効果がなくて…」

「は?わけわかんねえ」

 人通りの多い、かつ治安維持のために憲兵が立っているエリアを抜けた。今だ。

「あーそうだ!なぁ姉ちゃん、オイラ一つ教えなきゃいけねぇことがあんの忘れてた」

「ご親切にありがとうございます。なんですか?」

 立ち止まって振り向いたオイラに、無防備に身をかがめるサエコ。

香港共和国この土地じゃさぁ、悪い奴もいるからさぁ…」

「はい、そうですよね」

 ワンピースの胸元からちょっとだけ肌色の谷間が覗ける。オイラ思わず生唾を飲み込んだ。馬ッ鹿野郎、そーいうタイミングじゃねえっての!

「───あんま簡単に他人を信じちゃいけねえ、ぜっ‼︎」

 オイラはサエコの腕からハンドバッグを引き抜き、猛ダッシュした。スラム街へと一目散。

 根城にしてる廃棄マンションの踊り場で座り込み、獲物のハンドバッグの中を物色してオイラは盛大にがっかりした。しまってあったのはパスポートとか貴金属ではなかったのだ。

「なぁんだよコレ〜…ぶっ壊れてんじゃん」

 黒光りする金属の塊。両手で包んでもずっしりと手首に重くのしかかるような存在感。

 六連のリボルバーだった。

 艶のある銃身は短くて、口径も広い。銃把には繊細な浮き彫りがしてある。頭に二本の角を生やし、目を吊り上げクワッと口を開けた悪魔のような…

 でもハンマーがない。ハンマーノック式なのに。これじゃあ引き金を引いたところで弾丸は飛ばせない。ハンドバッグを逆さに振ってみたけれど、他には何も入ってはいなかった。まあ弾丸があったところで、これじゃあ意味がないけどよ…

 つらつら眺める。まぁ、カッコいいというかキレイな銃だよな。骨董品なら高く売れるかも。

「でもこの不気味な彫刻なんなんだろな。あの姉ちゃんなんでこんなモン」

「それはですね、般若ハンニャというのですよ」

「へ」

 後ろを見る。サエコがオイラより上の段にしゃがみ、両手を自分の顎に当てオイラの手元を覗き込んでいる。

「その村正ムラマサは私の大事なつつなのです。返してもらえますか?」

「どっわあああああああ⁉︎」

 オイラ、思わずジャンプして離れる。その叫びを聞きつけて、「なんだなんだ」「どうしたどうした?」と空き部屋で寝起きしているガラの悪い大人達が顔を出してきてしまう。

「やべっ…あんた、こっち来い!」

「え?なぜですか?」

「いいから来るんだよ!」

 サエコの手首を掴んで階段を駆け降りた。

 地下駐車場まで一気に着いて、すっかり汗だくで膝に手をついて息を切らすオイラに対し、サエコはたたんだ日傘をヒラヒラさせて涼しい顔をしている。どうなってんだこいつ…

「ナセルさんはここで暮らしているのですか?なぜ難民保護話施設や孤児養育機関を頼らないのです?」

「あんな…奴らっ…信用…できるか、よっ…」

「まあ。なぜ?ここは治安が悪いのでしょう?そこにナセルさんのような小さな男の子一人では、不用心極まるではないですか」 

 ゼエゼエとうつむいてダラダラ汗を垂らしているオイラを、不思議そうに見つめるサエコ。

「それにっ…ここはなあ…アンタが思うほど悪くはないんだ。なんせMr.チーの縄張りだからな」

「───どのようなかたなのです?」

 サエコの瞳の異様な輝き。でも、下を向いて呼吸を落ち着かせようとしているオイラにそれは見えない。

「Mr.チーはスゲェ人なんだ。この辺のヤクザもチンピラも仕切ってるし、なんなら憲兵にも顔がきくんだぜ?そんでオイラの、姉貴を探すのを手伝ってくれてるんだ」 

「そうなのですか?」

 俺は頷いた。やっともとの調子が戻ってきた。背中を伸ばしてフーと肩を下げる。

「…まー姉ちゃんがはじめに言ったみてぇに、オイラは難民さ。この国に来たときには姉貴と一緒だったんだけど、ちょっと施設から出て散歩してて離れた隙に姉ちゃん人攫ひとさらいに攫われちまってよ」

「まあ。それでナセルさん、施設を脱走して一人でお姉さんを探しているのね?」

 難民として流れてきたこの一ヶ月、まともにベッドで眠れたことなんて一度もない。

 だってそうじゃないか。今、この瞬間も、姉貴が悪い奴らのアジトでとんでもない目に遭わされているかもしれない。腹を空かせているかもしれない。泣いているかもしれない。怪我をしているかもしれない。

 優しい姉貴。抜けてるけど、おっちょこちょいだけど、頭が固いけど、口うるさいけど。

 戦争で荒れ果てた故郷から逃げて、大陸各地の戦火を避けて、野盗や匪賊、様々な悪党から助け合って生き延びてきた。

「…諦められねえ。諦めちゃいけねぇんだ。そうしたら絶対、もう一度姉貴に会える。オイラ、アッラーに誓ったんだ」

 サエコは両手をポンと合わせた。

「そうなのですね。Mr.チーはあなたのお姉さん探しの手伝いを、あなたはあなたでその恩返しにちょっとしたアルバイトをしてらっしゃると。その理解でよろしいかしら?」

「そうさ。他にも恵まれない子供を集めて、里親を見つけてくれてるんだ。だけどなぁ、政府セーフとか平和維持軍ヘーワイジグンの連が邪魔しやがるから、なかなかうまくいかねえの。それにカネもかかる。だから」

「だから、ナセルさんのような子達を使って泥棒をさせているのですね」

 ムカっときた。サエコは非難するような口ぶりではなく、涼しい木陰でチャイを飲んでいる風に何気ない。

 何も分からないくせに。恵まれた日本から来て、オイラ達の苦労なんか想像もできないだろう。

「───他の大人が難民のためにまともに働いたことなんて一度もないんだぜ。それに重い尻を動かすのにだって、カネとか食い物とか、オンナをやらなきゃ…」

「女性を?なぜ?」

「な、なぜって、そりゃ…」

「なぜなのか、何に必要なのか教えてくれませんか?」

 冴子にジッと瞳を見据えられて、なんだか胸と顔が熱くなり、オイラの掌は汗まみれになった。

「あ、あんたみてぇなお嬢さんには関係ないことだよ!」

「そう、お嬢さんには私達が用事がある」

 まるでタイミングを合わせたように、駐車場の階段の登り口からジャケットの男が現れた。

 オールバックに固めた半白の髪。オイラの父ちゃんとは全然違う、男の割に細い腰、細い腕。常に外さない丸縁サングラス…

「Mr.チー!」

「あら、噂をすればなんとやら。あのかたですの」

 Mr.チーはブランド(プラダ?だかなんだかと言っていた)のスニーカーをキュッと鳴らして、オイラ達から十mほど距離をとって立ち止まった。その後ろには六人、さっきオイラが騒いで寄ってきた男達の顔が並んでいる。

「み、Mr.チー…その、この姉ちゃんはちょい世間知らずなお嬢様で…そんな感じで…だから…」

「うん?だから?」

 ゆっくり発音するMr.チー。この人はいつも、自分の使うのはかつて中国で正式に使用されていた北京官話ぺきんかんわなのだと自慢している。

「だから…だからだからその………」

 Mr.チーには逆らえない。オイラのためを思ってくれてるひとだけど、何かあつがあって、こうやって対面していると頭から押さえつけられている気分になるんだ。

「み、見逃して…くれるよね…?」

 ぷっ。

 男のうちの誰かが吹き出した。

 小さな嘲笑。それが波のように広がり、大きな潮騒となり、駐車場の壁に反響する大爆笑になるまでそんなに時間はかからなかった。

「ぶっへっへへへ、バ、バカだなぁナセル」

「お前、まーぁだそんな甘っちょろいこと言ってんのかぁ?」

「そんなだから、ぶは、ぶはひひひっ、ヤベ、笑いが止まんねえ、そんなだからお前いつまでも死んじまった姉貴のこと探すハメになるんだよ!」

 笑われるのは慣れている。馬鹿にされるのも。だってオイラはガキで、短気で、おまけに頭も良くはない。

 だけど───最後の一言が胸に刺さった。

「おい…なんだよそれ。姉貴が死んでるって…そんなわけないだろ」

「あーあ、言っちまった。黙っとけっつわれたのによ」

「しょうがねえじゃねえか。コイツ笑えるほどバカなんだし」

「訂正しろ!訂正しろよ!姉貴が死んでるわけない、そんなの誰にもわからない!オイラの姉貴を侮辱したのも同然だ!Mr.チーだって姉貴はきっと生きてるって言ってくれたんだ‼︎」

 くっくっく。低い笑い声。

 オイラは自分の目を疑った。Mr.チーが、口元を拳で隠すようにして失笑を…

「そんな…Mr.…だってオイラをここに住まわせて…メシだって食わせてくれて」

「そりゃ家畜には餌を与えるさ。栄養失調じゃが下がるしなあ」

「…姉貴を探すために…自由に外に出られて…」

「適度な運動ってやつだよ。カッパライや置き引きで走って逃げ回って、いい運動になっただろ?」

 自分の声がだんだんほどけていくのが分かる。嵐の夜の闇のように、底のない絶望に心が沈む。

「──ったじゃないか…」

「うん?なんだい?」

「姉貴は生きてるって。確かにこの世で生きてるって!あんたオイラにそう言ったじゃないか!だからオイラあんたを信じて」

「ん?あー…ああ。生きてるよ?他の人の体の中で、ね」

 その意味が、すぐには理解できなかった。

 だけど言葉が分解され、喉を通り胃のまで落ちた時。

「て…めぇ…!」

 オイラの中の怒りが爆発した。

「君のお姉さんは生きてるよ。五人ほどに分け与えられて。安心していい、受け取った人達もちゃんと拒絶反応予防薬デキサメタゾンを服用しているから。体の中で腐ったりはしないはずさ」

 よくも、よくも、よくも、よくも。

「よくもオイラの、この世でただ一人の姉貴を‼︎切り刻んで売っ払ったな‼︎」

「人聞きが悪いな。人助け、と言ってくれよ」

 もう聞きたくない。何も。

 オイラは飛びかかろうとした。だけど、男達の一人が撃った銃が右の太腿を貫いた。

 悲鳴を上げ、カビ臭いコンクリートの上に転げ回る。それをまた、男達は爆笑して眺めている。Mr.チーも。

「…あなたにはお礼を言わなければなりません、ナセルさん」

 オイラが落としたハンドバッグをすくい上げ、冴子が呟く。

「ひーふーみーのよー、いーつ、むー、なー…」

 人差し指で男達を差していく。最後にMr.チーで指が止まった。

「───やれめでたやの七人ななたりよ。黄泉比良坂よもつひらさかがククリヒメも喜ばん」

「何を言っているのかな、お嬢さん。さあ、こちらに来たまえ。君ほどの上玉なら大物に高値で売れる…グズグズしているとそこのガキ犬の脳天をブチ抜くぞ」

「───まあ、これはこれは!」

 冴子は手の甲を唇に持っていき、コロコロと笑った。大の男…それも悪党を前にして、とにかく場違いに楽しそうに。

 そして冴子はハンドバッグからリボルバー取り出して構えた。

「おやお嬢さん、勇ましいね。でも…この距離でも分かるが、その銃は壊れていないかな?」

 オイラは痛みに悶えながら、トチ狂ったことをしている冴子に手を伸ばす。

「バカ…逃げろ…」

 オイラを横目で見て、サエコは静かに微笑んだ。

 華奢な手の中でリボルバーが蒼い火を噴いた。

 一番端の男が、フッと細く息を吐き、糸が切れたように膝から床に崩れ落ちる。

「な、なんだコイツ!どこ撃たれた⁉︎」

「傷なんてねえ…オイ!マジで傷が無ぇぞ!」

「しっかりしろ!オイィ‼︎」

 Mr.チーは素早く倒れた男の首筋で脈をみた。

「…死んでる」

 それからゆっくりと立ち上がり、懐からサッと自動拳銃オートマチックを冴子に向けた。

「どういうトリックだ?答えてから死ね」

 冴子の表情は角度が悪くオイラからは見えない。しかし小さく歌うような声がした。

「ひとつっては父のため〜…」

 冴子は駆け出す。Mr.チーが撃つ。他の男達も追随ついずいして援護えんご射撃。駐車場が急にやかましくなる。バンバン、ズギュンズギュン、ドカドカ、キキキン───

 壁にめり込む弾、駐車してある改造車に当たる弾、天井や壁に跳弾する弾…オイラは頭を守って小さく背中を丸めた。

 だから見てはいなかったけれど。冴子はそれこそ二本足の獣のようにそこらを飛び、車のドアを蹴り付けて跳躍し、バク宙を決め、リボルバーを撃ち続けた。

 〽︎ふたつ撃っては母のため

 三つ撃ちては兄の無念

 四つ五つと妹の悲嘆

 六つ重ねて祖先かみおや

 十重とえ二十重はたえの怨みぞ晴らさん

 不思議な声。不思議な唄。子守唄だろうか。姉貴そっくりの声で歌いながら、応射する男達が二人倒れ三人倒れ、気がつけばMr.チー一人ひとりになっていた。しかも弾丸を打ち尽くしてしまったらしく、ガチンガチンと数回虚しく引き金を引いてから銃を投げ捨てた。

「さてチーさんとやら。あなたで最後です。何か言い残すことはありますか?」

 ご注文は以上でよろしいですか?ではお会計です…そんなレジ係が尋ねるような口調だった。

 しかしMr.チーは高笑いした。

「バカめ、そのリボルバーは六連式だろうが。残弾も数えられんのか!」

 勝ち誇るMr.チー。ボクサーのように半身になって、暴力で反撃しようという魂胆を冷や汗まみれの顔に浮かべる。

「では遠慮なく七人ななたり目としてしましょう。他のお仲間さん達がミサキとなって待っていらっしゃいますよ」

 汗一つかいていない横顔。ワンピースの、リボルバーを構えた袖のあたりが蒼く光っている…

 違う。銃身が───あのハンニャの浮き彫りがほろほろと燃えている。不吉に───蒼く。

「耳を塞ぐのですよ、ユスフさん」

「え…なんで?」

 サエコはオイラを見下ろして微笑んだ。天国ジャンナに浮遊するという聖乙女フーリーって、こんな感じなんだろうか?

 オイラは言われた通りにしっかり耳を塞いでいたので、Mr.チーがサエコを嘲笑いながら近づいてきても、何を話しているのか分からなかった───どうせご自慢の北京官話での、汚い罵詈雑言のオンパレードだろうけど。

 サエコが何か唄う。なんだろう。唇が動いているけど音が聞こえないし、聞こえたとしてもどうせ日本語なら意味がわからない。

 それからサエコは引き金を引いた。無音のなかに蒼い稲妻のような発光。

 だけど…耳をしっかり押さえていたのに。

 これまで聞いたどの銃声よりも凄まじい音がした。恐ろしい、大きな岩が転がり落ちるような音。

 それから、本当に巨大な何かが降ってきたようにコンクリートの床が跳ねた。

「ナセルさん。もう目を開けて。大丈夫ですよ」

 気がついたら、オイラは壁を背に脚を投げ出していた。撃たれた右太腿に、冴子が細く裂いたワンピースの左袖を包帯にして巻いてくれている。

 駐車場には六人の悪党どもの死体───でも、肝心のMr.チーのものは見当たらない…

「Mr.チーは…?」

「ああ。あのかたこそ私の求めていたけがれたみたまです。他の六つのかたとともに、村正を通じて黄泉への供物となりました。それより動かないでください」

「何言ってんのかよくわかんねー…けど…こんなの…かすり傷みてえなモン…だぜ」

「いいから、お手当てさせてください。ナセルさんのおかげで探していたものも手に入りましたし」

「いーから、もーほっとけって…」

 言いかけて、口が止まった。

 サエコの左袖。廃マンションの地下駐車場の弱々しい蛍光に照らされたそれは、縫い傷に切り傷に…無数の抉られたようなあとだらけだった。

「さて、では行きましょうか」

「え?行くって…」

「私と一緒にですよ。この国にはもう、ナセルさんの用事はないでしょう?それなら私と行きましょう。イヤでしたら、このまま孤児養育機関に連れていきますけど?」

 それは、死んでもイヤだ。オイラはブンブン首を振る。

「ですよね。ハイ、決まり。ヨイショです」

 サエコは掛け声一つ、オイラを背中に背負い上げた。

「なっなっなっ、何しやがんだ姉ちゃん!」

「ナセルさん、足怪我。ナセルさん、軽い。私、力持ち」

「なんでカタコトになんだよ!」

「まあまあ、弟は姉に頼るものですよ?甘えなさい」

 コロコロと笑いながら階段をのぼっていく。

「フッザケんな!オイラの姉貴は一人きりだ!アンタみてえなおっかねえ女、姉だなんて思えるか!」

「そう───なら、名前で呼んでくれません?」

 一階が近づく。玄関ホールに外からの陽光が差し込んで、キラキラと眩しい。

「…サエコ」

 オイラはそっぽを向いて、できる限り小さく呟く。サエコは子猫のように微笑んで前を向く。

「あと………あんがと、な…」

 オイラ達は外に出る。太ももの激痛、か弱い(見せかけは)女に背負われている気恥ずかしさ。

 でも。

 白い雲を見上げながらオイラは笑う。こんな気分、いつぶりだろう。懐かしくて、嬉しくて。

 まあ、悪くはないかな。そう思った。

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ナナニンミサキ 鱗青 @ringsei

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