トンダ家のおまじない

佐古間

トンダ家のおまじない

「ミツヤマさん、大丈夫!?」

 驚いた声と共にぱっと体を支えられ、ばくばくと早鐘を打つ胸をぐっと抑えた。

 後少しで本棚に突っ込むところだった。目と鼻の先の位置に、ハードカバーの重厚な背表紙が見えている。人気作家のシリーズ作で、最新巻がこの間発売されたばかりだった。

「あ、ありがとうございます、カイダさん……」

 強い力で体を起こされて、私はそろそろと顔を上げた。

 先輩アルバイトのカイダさんが心配そうな顔をして、私の頭のてっぺんからつま先までを確認した。怪我をしていないか見てくれているのだろう。

 日曜日の昼過ぎ、“とまり書房”は普段閑古鳥の鳴くような書店だが、休日の昼間は客入りも良く、今日は特に人が多かった。

 目まぐるしくお客さんの対応をして、売れた本の補充をして、こまごまとした雑用をして、と動いている内、いつの間にかスニーカーの靴紐を踏んづけてしまったようだ。足を縺れさせてつんのめった私の体は、面白いほど勢いよく前のめりに倒れ込み――たまたま通りかかったカイダさんに、本棚に突っ込む前に抱き留められた。

「怪我はなさそうっすね……紐、気を付けてください」

 じっくり確認していたカイダさんが、最後に足元に視線を合わせて注意する。自分でも理解していたことだったので、「はい、すみません」と謝罪しながらその場でしゃがみ込んだ。素早く紐を結びなおして、今度は踏まないように靴の中に押し込んでおく。

(さっきもこうしてたんだけどなぁ……)

 はあ、と吐きそうなため息はぐっと飲み込んだ。

 どうも、今日は調子が悪い、ような気がする。ついてないと言えばいいのか、やはり「調子が悪い」の一言で片づけられる気もするが。

 調子が悪い要因を考えてみてもさっぱり思いつかなくて、のろのろと立ち上がる。二、三度確認するように足踏みをしたら、少しだけ足首に違和感があった。

(捻ったかも)

 どういう姿勢でつんのめったか覚えていないし、当然、見てもいなかったが。

 結構な勢いで倒れ込んだので、足首を捻っていてもおかしくはない。棚に突っ込まなかっただけマシではあったが――ふるりとひとつ首を振った。

(でも、気のせいかも)

 どちらかと言えば「気のせいだと思いたい」に近かったが。

 もう自分の仕事に戻ってしまったカイダさんを見習って、私もそろそろと歩き出す。声をかけてきたお客さんには、ぎこちないながらもどうにか笑顔を浮かべて振り向いた。



 今日の“調子の悪さ”と言ったら、きっと人生で一番に違いない。

 セットしていたはずの目覚ましはいつの間にか切れていて寝坊してしまうし、朝食で飲んだコーヒーで舌を火傷している。通勤のため自転車に乗ろうとしたらタイヤがパンクしていて、着替えのブラウスを忘れて急遽買う羽目になった。お客さんの対応でメモをしようとボールペンを取ったら、五本くらい連続でインク切れを起こしていたし――それで、さっきの転倒未遂だ。このままいくと帰る頃には死んでそう。

「はぁ~~……」

 従業員入り口の自販機で買ってきたペットボトルのお茶を抱えて、バックヤードでひと際大きなため息を吐いていると、様子を見に来たトンダさんが「どうしました?」と声をかけてきた。

 先ほど捻った――かも、と思った右足首は、しっかり捻っていたようで。

 歩く度痛みはじめ、引きずってしまったところをトンダさんに目撃されたのだ。そのままバックヤードに引っ張られ、足首を確認したところ、うっすら赤く腫れ始めていた。

 今日は日曜で病院はやっていないし、とりあえず冷やした方が良いだろう、と、トンダさんが近くの薬局まで応急処置用の湿布を買いに走ってくれたのだった。

 私は足首を出したまま、ふらふらと今日の不運についてため息を吐いていた。

「湿布買ってきました。とりあえずしっかり冷やして固定して、動かさないようにして、明日必ず病院行ってください」

「ありがとうございます……それから、本当にすみません……」

 足首を満足に動かせないなら、しばらくは出勤も難しいだろう。迷惑をかけてしまうことについて謝罪すると、トンダさんは眉尻をぐっと下げて「気にしないで! 今日は特に忙しかったし」と続けた。

「朝見た時、ミツヤマさんの靴、ちゃんと紐踏まないようになってたし、忙しく動いている内に出てきちゃったんだよね、多分。紐、踏まないようにする結び方とかもあるんだけど、そこまで気が回らなくて」

 ごめんね、と、トンダさんは軽く頭を下げた。

「えっ!? いやいや、そんな、私の不注意なので……!」

「うーん、でもヒヤリハットっていうし。朝の時点で――いや、もっと前から、ちゃんと靴紐の処理について話してれば転ぶこともなかったわけで」

「あの、ほんと、すみません……」

 なおも続けるトンダさんに居たたまれなくなってしまって、私は出来るだけ体を縮めようと背中を丸めた。

 トンダさんから受け取った湿布をそろそろと患部に貼って、固定するための包帯はトンダさんが巻いてくれた。手際よく動く手をぼんやりと眺めながら、「あの、」と小さな声で吐き出す。

「今日、なんかずっとツイてなくて……だからその、本当に私のせいです。すみません」

 トンダさんは気を使って謝罪をしてくれたが。

 私は、私の“せい”ということで終わらないとどうにも収まりが悪かった。居心地が悪いというか、一層申し訳なく思ってしまう。

 トンダさんは謝罪にはもう触れずに、「ツイてないって?」と聞いてくる。

「えっと……その、鳴るはずの目覚ましが鳴らなくて寝坊したり……コーヒーで火傷したり……」

「うん」

「自転車がパンクしてて……ブラウス忘れたんで買ってきましたし……あ、あとさっき、ボールペンが五回連続でインク切れてて」

「五回も?!」

 聞き返したトンダさんに、「インク切れのやつは全部処分しておきました」と伝えると、申し訳なさそうに「ごめんね、ありがとう」と礼を言われた。レジ台にあるペン立ての中身の話だ、一度全て確認した方が良いかもしれない。

「とにかく、それで、さっきまでちゃんとしてた靴紐が出てきて踏んじゃいましたし――今日、なんかめっちゃツイてないなって」

「ああ……それでさっき、大きいため息吐いてたんだ?」

 問われて頷く。トンダさんは考え込むように顎に手を当てた。

 すっかり、綺麗に巻かれた包帯のおかげで、右足首ががっしりと固定された。湿布のおかげでひやひやしている。鎮痛効果のある冷感湿布のおかげで、痛みも心なし引いた、気がする。

 恐る恐る靴下をはきなおした私は、そのまま、恐る恐る靴を履いた。

「立てる?」

「一応どうにか。体重かけなきゃ歩けるかと」

 少し落ち着いてきたとはいえ、店内にはまだお客さんがいて、カイダさんが一人で回している状態だ。小さい店舗とはいえ一人では大変だろう。早くトンダさんを解放してあげねば、と思うのだが、体は思うように動かない。

 ふらついた私を支えるようにして、トンダさんは「タクシー呼ぶ?」と聞いてくれた。

「歩けないなら、無理しない方が……」

「い、いえ、大丈夫です!」

 そこまでは、と首を振ると、何か言いたげな顔をそのまま、トンダさんは「わかりました」と頷いた。

「荷物、取りますんでちょっと待っててくださいね」

 そのまま、私のロッカーから荷物を出してくれる。薄手のコートとリュック。今日ばかりはリュックでよかったと思ったし、今朝、自転車のタイヤがパンクしていてよかったと思った。直す時間がなかったので歩いて来たのだ。

「あの~……トンダ家のおまじないなんですけど」

 取り出したコートを着せてくれながら、トンダさんはそんな風に切り出した。

「おまじない?」

「はい。悪いことって大抵三回続くんで、そういう時は、先に自分で自分を叩いて“悪いこと”の“先取り”しとくんです」

 “悪いこと”の“先取り”なんて、不思議な言葉に首を傾げた。

「えーと、例えば?」

「例えば、朝寝坊して、コーヒーで火傷したら、一回自分で頭をコツって叩いておく。で、後に来る不運を今使っとくんです」

 納得するような、しないような。

 首を傾げた私に、トンダさんは気にせず「ミツヤマさんは多分、七回じゃないですかね」と言った。

「七回……不運が、ですか?」

「そ。ラッキーセブンって言うじゃない? ミツヤマさんは今日、寝坊と、火傷と、パンクと、忘れものと、ボールペンと、捻挫で六回悪いことが続いてるから、後一回来て“アンラッキーセブン”かなって」

 想像よりも適当な言い分に思わず閉口したが、トンダさんは「まあ、騙されたと思って」と私の手を取った。

 トンダさんと私は二十センチ以上慎重差があるので、私の手を取ったところで頭の方には持っていくのには少し大変そうだった。

 それでも、促されるまま、流されるまま、私は自分の頭を“コツっ”と叩いた。拳を作って叩いたので、思いのほか良い音がしたし、思いのほか、叩いたところが痛い。

「い、痛い……」

「あ、ごめん、そんな強く叩かなくてもよかったのに」

 痛がる私にトンダさんは謝罪したが、その顔をにまにまとした笑みに変えると、「まあ、でもこれでミツヤマさんの不運はもう使い切ったので!」と言い切った。

「そんな簡単なものかなぁ……」

 じんじんとする額を抑えながら、リュックを背負わせてもらってゆっくりと歩き出す。ふらつきはするものの、どうにか歩行できることを確認して、トンダさんもようやく少し安心したらしかった。

「今度出勤した時、おまじないの結果、聞かせてね」

 にこやかに言われてしまえば、「はあ……」と頷くより他ない。

 私はのろのろと歩きながらバックヤードを出て、カイダさんに謝罪と挨拶を告げてから、“とまり書房”を後にしたのだった。



 それで、その日、不思議なことに不運――“悪いこと”はぴたりと止まった。

 どころか、偶然用事で近くに来た母が家に寄ってくれて、翌日の病院の送り迎えを約束してくれたし、夕飯にもありつけた。

 翌日病院に行けば、軽い捻挫ではあったものの。応急処置が早く適切だったため、数日もすれば治るだろうと言われた。

(トンダ家のおまじない、すご……)

 というのは、話を聞いて以降、ちょっとした不運・“悪いこと”・ツイてないこと・調子が悪い事――が続いた時に、先んじて自分でコツコツと頭を叩くと、以降ピタリとそれらが止まるからで。

 私はひっそり、トンダさんの――トンダ家の皆さんの事を、現代を生きる魔女の一族ではないかと疑っている。


 なんていうと、百パーセント揶揄われるので、本人には口が裂けても言わないけれど!

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トンダ家のおまじない 佐古間 @sakomakoma

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