3 1000ドル
「言っとくが、これ以上(1000ドル)はまける気はないぜ」
私の内心を見透かしたように、彼はそう告げてきた。
「でかい賭けをするなら、相手は観光客の方がいい。後腐れがないからな。こんなチャンス逃せるかよ」
「はぁ……」
彼が主張していることは、彼の都合でしかない。語勢を強める彼に反比例するように、私の気持ちは萎えていた。
「おいおい、あんだけ注文つけておいて、今更やめるって言うんじゃないだろうな?」
「賭けをするのは構いませんが、もっと額を下げてもらえませんか? さっきみたいに100ドルとか」
「ダメだ」
彼は断固として譲る気はないようだった。
「1000ドルの勝負、これが最低線だ」
先の通り、私は海外では主にクレジットカードで支払いを行っている。現金の場合、両替で手数料が
しかし、それにもかかわらず、私は必ず現金を持ち歩くようにしていた。
その理由は、以前に某国で路上強盗に遭ったことが関係していた。当時間の悪いことに私は現金をほとんど持っておらず、強盗たちの逆恨みを買ってしまった。そのせいで、有り金をすべて渡したにもかかわらず、暴行を受けることになったのだ。結局腕時計を差し出すことでなんとか強盗たちの怒りを静めることができたが、それがなければ殺されていたかもしれない。
だから、その時以来、私は身の安全を買うつもりで、海外旅行中はいつも必要以上の額の現金を持つように心がけていたのだ。
カード不可の店もあるので多少使ってしまったが、それでもまだ1000ドルほどなら残っていたはずである。手持ちの現金だけで済むというのは、キャッシング枠を使って金を借りることに比べると、心理的な抵抗がずっと小さかった。
小さかったが――
「1000ドルですか……」
やはりまだ易々と賭けられるような額ではなかった。
「それくらい、お国に帰れば簡単に稼げるだろ」
「…………」
当時(というか今もだが)、日本は不景気の真っ只中にあったが、彼の中では日本=裕福な国というイメージが強かったようだ。あるいは、彼の住む某州が日本以上に不況にあえいでいたので、一種の妬ましさの表れだったのかもしれない。
もちろん、1000ドルは簡単に稼げるような額ではないから、私が彼の話に乗せられることはなかった。
「そうか。分かったよ」
「100ドルでいいんですか?」
「違う。あんたが臆病者だってことが分かったんだ」
彼は吐き捨てるようにそう言った。
「真っ先にイカサマを疑うわ、賭けの額を下げようとするわ、こんなビビり初めて見たぜ」
見え透いた挑発だ。ああやって相手を怒らせて、勝負をさせる気なんだ。真面目に受け取ることはない。私はそう自分に言い聞かせた。つまり、その程度には、彼の言葉が腹立たしかったのである。
「それとも、そうやって金を使わないから日本人は金持ちなのか? 野球の試合や歌手のライブを見るよりも、通帳を見る方が楽しいってわけだ? あんたらは死ぬまで働くイカれた連中だもんな」
私は決して愛国心が強い人間というわけではない。冒頭で少し触れたが、子供の頃から引っ越しを繰り返してきたので、私の中には故郷という観念がほとんどなく、それゆえに愛郷心を持ち合わせていなかった。また、それに連関するように、自国に対しても特別な感情をほとんど持っていなかったのである。
しかし、それでも彼の罵倒は不愉快だった。
私個人に対するものなら、大抵のことは聞き流せただろう。だが、日本や日本人という概念を持ち出されると、自分がその代表となったような気持ちにさせられて、「私がやり返さなくてはならない」という使命感のようなものがふつふつと湧いてくるのだった。
「……受けます」
私の返答に、彼は一瞬虚を突かれたようだった。
「いいのかよ。1000ドルの勝負だぜ?」
「ええ」
「途中で降りたりしないか?」
「ええ」
小馬鹿にするような態度の彼に対して、私ははっきりとそう答える。
「本気なんだな?」
「1000ドルあります。早くやりましょう」
まさか怖気づいたのか? 臆病者はどっちなんだ? 私はそう言わんばかりに、財布から金を取り出して、テーブルの上に叩きつけてやった。
しかし、それでも彼はゲームを始めようとしなかった。
「聞いたよな?」
彼は立ち上がると、後ろを振り返って、奥のテーブルに声を掛けたのである。
「賭けは俺の勝ちだ」
その瞬間、例の小太りの男は、「クソったれ!」とか「信じらんねえ!」とかいうような意味の言葉を叫ぶ。
そして、彼に札束を手渡した。
1万ドルはあるのではないだろうか。
「ああ、もう一つ賭けてたんだよ。『あんたに1000ドルの勝負を受けさせられるか』ってな」
ポカンと間抜け面を浮かべていた私に、彼はそう説明してくれた。
あまりに予想外の展開だったために、私は彼の話を理解するだけでせいいっぱいになってしまう。だから、かろうじて「そういうことだったんですか……」と声を漏らすことしかできなかった。
対照的に、彼は饒舌だった。最初に顔を合わせた時のような、人好きのする笑顔でまくしたててくる。
「いろいろ言って悪かったな。でも、あれはあんたを乗せるためで、本心ってわけじゃないんだ。許してくれ」
「いえ、そんな」
見せかけの勝負だと気づくことなく、訳知り顔でイカサマの防止策を提案したり、挑発に乗って賭けを受けたり、私一人だけ真剣になってしまった。そのことを自覚した時、胸の内には怒りよりも羞恥心が渦巻き始めていた。
そんな私に同情したのか、もしくは次のチャンスだと思ったのか。彼は儲けた金の中から、1000ドルだけ抜き取る。
「それとも、あんたがその気なら本当に勝負しようか?」
ちょっと考えてから、私は首を振った。
「やめておきます。とても勝てる気がしませんから」
おそらく私には何か思いもよらないようなイカサマで、あるいは生まれ持った天性の博才で、彼はゲームに勝ってみせるに違いない。これを聞いて、彼は「いい判断だ」と大笑いしていた。
そして、ひとしきり笑ったあと――
「それじゃあ、迷惑料にこれを」
彼はそう言って、1000ドルを私に差し出してきたのだった。
(了)
仕組まれていた賭け 蟹場たらば @kanibataraba
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