2 赤か黒か

「じゃあ、俺と賭けをしないか?」


 私はすぐに、彼と小太りの男とのやりとりを思い出していた。


「というと、客が何人なにじんなのか、あなたが見抜けるかどうかという……?」


「いや、都合よく観光客が来るとは限らないからな」


 立地や外観からなんとなく感じてはいたが、やはりこのダイニングバーは定番の観光スポットというわけではないようだ。


「アメフトは……まだシーズンじゃなかったですね」


「ああ」


 NFLは毎年九月に開幕し、二月のスーパーボウル(優勝決定戦)で閉幕を迎える。しかし、私が某州を訪れた時はまだ五月だった。


「だから、『レッド・オア・ブラック』で決めよう」


 そう言って、彼はポケットからトランプを取り出した。


 競馬や麻雀同様、ルールだけならトランプギャンブルもいくつか知っている。だが、『レッド・オア・ブラック』という名前に聞き覚えはなかった。


「どんなゲームですか?」


「名前の通りだよ。一方が山札の一番上のカードを引いて、もう一方が赤か黒かを予想するんだ」


「トランプを使ったコイントスみたいなものですか」


「そういうことだ。分かりやすくていいだろ?」


 アメリカで主流のトランプギャンブルといえば、ブラックジャックやテキサスホールデムあたりになるだろうが、これらはルールが複雑な上に、戦略性が高く、初心者にはハードルが高い。


 その点で、運頼みの勝負であるコイントス、いや『レッド・オア・ブラック』は分かりやすいだけでなく、公平なギャンブルだと言えるだろう。


「一回勝負ですか?」


「それじゃあ、すぐ終わっちまってつまらないだろ。交互にやって、先に三回当てた方の勝ちにしよう」


 単純なルールだから、決着に五回もかけるのは逆に長過ぎる。三回勝負というのは確かに妥当なところではないか。


「このゲームはよく遊ばれているんですか?」


「ああ、酔っててもできるからな」


 彼はおどけたようにビールに口をつける。


 しかし、あることに気づいたようで、すぐに顔を引き締めるのだった。


「気になるなら、カードを調べてもらってもいい」


「そういうつもりは……」


 とは言ったものの、私は内心では若干ながらイカサマの可能性を疑っていた。


 賭けの種目を彼が決めただけでなく、使うトランプも彼が用意している。その上、そのトランプはすでに開封済みのものだった。


 気さくに声を掛けてくれたり、料理を御馳走してくれたり、彼のフレンドリーな態度には好感を持っていた。だが、賭けを持ちかけられたあとでは、それも私をはめるための策略だったのではないかという気がしてならなかった。


 彼からトランプを受け取ると、早速チェックを始める。カードの赤・黒を予想するゲームなので、裏面にそれを見分けるための印(マーキング)がないかを特に念入りに確かめた。


「問題ないようですね」


 私の考え過ぎだったらしい。チェックが済むと、彼にトランプを返す。


「ただ一点だけよろしいですか」


「なんだよ?」


 トランプを調べることを、彼は簡単に許可してくれた。しかし、そのことがかえって私の不信感をかき立てていた。


 彼はトランプ以外の部分に、イカサマを仕込んでいるのではないだろうか?


「手の平に好きなカードを隠し持つというのは、マジックでも使われるような基本的なテクニックですからね。カードを引く前に、相手に手の平を見せることにしませんか?」


「ああ、いいとも」


 気を悪くした様子もなく、彼は鷹揚に頷いた。


「それと追加で袖もまくりましょう。袖口にカードを隠すというのも見たことがあるので」


「分かったよ」


 今度も頷くと、彼はすぐに服の袖をまくってみせた。


「他には?」


「もう十分です」


 イカサマの手口といえば、おおよそこんなところではないだろうか。詳しいわけではないから断言はできないが、トランプしか使わないシンプルなゲームだけに、手口の種類も限られてくるはずである。


「じゃあ、ルールの確認だ」


 あとで揉めないようにするためだろう。彼は改めて今までの話を繰り返していた。


 賭けの種目は、『レッド・オア・ブラック』。一方が山札の一番上からカードを引き、もう一方がそれが赤(ハート、ダイヤ)か黒(スペード、クラブ)かを予想する。


 これを交互に行って、先に三回正答した者が勝者となる。もし両者同時に三回正答した場合は、同じルールで延長戦を行う。


 イカサマ防止として、カードを引く側は服の袖をまくり、また引く前に必ず手の平を対戦相手に見せることとする。もしこのルールが破られた場合、対戦相手はその回の勝負のやり直しを要求することができる。


「これでいいか?」


「ええ、大丈夫です」


 同点になった時や違反をした時などの細かいルールも確認できた。ここまで決めておけば、問題が起こることはないだろう。


 だが、それでもまだルールが一つ抜け落ちていた。それもおそらく一番重要なルールが。


「それで、いくら賭けるんですか?」


「3000ドルだ」


 私は真っ先に自分の聞き間違いを疑った。


「何ですって?」


「だから、3000ドルだよ」


 彼は事もなげにそう繰り返した。


 先述したように、当時の為替相場は1ドル=約100円だった。つまり、3000ドルは約30万円ということになる。


「足りなきゃ店の外そこで下ろしてくればいい」


「それなら払えなくはないですけど……」


 私の持っているクレジットカードには、海外キャッシング枠(現地の通貨で金を借りられる枠)があった。だから、今すぐまとまった額を用立てること自体は可能だった。


「しかし、3000ドルですか」


 細かいアメリカの法律までは把握していない。だが、日本と同様に、個人の間で高額な賭けをするのはまず間違いなく違法だろう。


 いや、正直に告白すれば、この時私の頭にあったのは法律の問題ではなかった。私が気にしていたのは、ただ賭けの額が大き過ぎるということだった。


 先程小太りの男と勝負した時は100ドルを賭けたという。もちろんそれも高額には違いないが、まだ遊びで済む範疇ではないか。実際、彼は儲けた金を食事代にあてているようだった。


 だから、100ドルくらいなら、私も迷いつつも旅の思い出として、最後には賭けを受けたことだろう。


 しかし、3000ドルとなると話は変わってくる。


 彼が言い当てたように、私は日本の中流層である。それも公務員だから、保障は充実しているものの、収入自体は中の下くらいだった。海外旅行に何度も出かけられているのは、単に他の趣味に割く分の金を回しているからに過ぎない。


 そのため、勝てば3000ドルの臨時収入というのはひどく魅力的に感じられる一方で、負ければ3000ドルの支出というのはあまりに手痛く思えてしまうのだった。


「別に構わないだろう? 公平な勝負なんだから」


「それはそうかもしれませんが……」


 運頼みのゲームの上に、イカサマも封じてあった。勝つか負けるかは五分五分だろう。


 だが、やはり賭ける額が額である。こちらの勝ちが明確ならともかく、互いに対等の勝負では、リスクの方が大きく感じられてしまう。


「分かった。2000ドルだ。2000ドルにしよう」


「もう少し低くなりませんか?」


「1500ドル」


「もう少し」


「じゃあ、1000ドルでどうだ?」


 乗り気でない私を見かねて、彼は徐々に賭ける額を下げていく。


 その様子を見ている内に、私の中にある期待が生まれ始めていた。このまま粘れば、もっと下げてもらえるのではないだろうか。


「言っとくが、これ以上はまける気はないぜ」


 私の内心を見透かしたように、彼はそう告げてきた。

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