妖魔の旅路
来星馬玲
チャプター1 ヨモキの項
森林の水っぽい空気がわたしの頬をさする。それは穏やかで優しくもあり、冷たくもあった。
空っぽの桶を左手にぶら下げたわたしは、腐食した落ち葉の堆積した地面を踏みしめながら、明るい木漏れ日の中を歩いていった。
絶え間なく聴こえてくる鳥のさえずりが、人里を離れた森の中の情景に染み入ってくる。わたしはそんな中に踏み入っている自分が、少しだけ申し訳ないような気持ちになっていた。
苔むした石の合間から、こぽこぽと湧き出る水。その澄んだせせらぎの水源の傍に桶を置き、膝を折る。それから、桶の中に入れていた柄杓を使って湧水を汲み取り、桶に水を入れた。
水いっぱいの桶。それに柄杓を差し込み、両手で持ち上げた。
ずしり、とした重みが、わたしの腕から腰に掛けて圧し掛かってくるようであったが、わたしは踏ん張って耐え、帰路に就いた。
わたしが戻ると、今日一日の興業の準備を始めている一座の仲間たちが、次々に声をかけてくれた。わたしは頬を緩ませ、皆に笑顔で受け応えをする。
舞台用の小道具が積まれている物置の傍に到着したところで、そこに桶を置いた。……ふう、と息を吐く。ここから森の湧水までそれなりの距離がある。まだ仕事に不慣れなわたしにとっては、少し堪えた。
「ヨモキ、おはよう。朝早くからご苦労さん」
背後からの声。振り返ると……そこには、長身で着物姿の女性の姿。烏の濡れ羽色の長髪。同性のわたしから見ても目を引く美麗な相貌が、朝日を浴びて一層眩しく映った。
副団長のサクヤさんだ。
「おはようございます、サクヤさん」
サクヤさんは優しく微笑むと、わたしの肩を軽く叩いた。
「うん、元気があって宜しい」
それからサクヤさんは真顔になり、声を潜めながら言った。
「アキゴがあなたのこと、呼んでいたよ。朝の仕事はもういいから、行ってきなさい」
「え……団長が?」
「シャモギのこと……らしいけどね」
シャモギ。わたしは一瞬、ドキリとなった。
サクヤさんはわたしの心を見透かしているようで、心配そうな面持ちになってわたしの顔を覗き込んだ。
「……シャモギがまた何か、ご迷惑を?」
「さあ、あたしはあまり聞いていないから。ま、そんな大した問題じゃないと思うけどね。ほら、早く行ってやりな」
「あ……はい、すみません」
わたしはサクヤさんに向かって頭を下げ、団長のいる仮小屋へ向かった。
アキゴ団長の居る仮小屋は、広場の北東側の隅に位置している。間に合わせの材木と藁で建てられており、内部には隙間から入ってくる陽の光以外の明かりがない。アキゴ団長は暗い中で目を閉じ、一人で瞑想していることが多く、一座の仲間からも変わり者と呼ばれていた。
でも、一座の皆にとってもそうであるように――アキゴさんはわたしとシャモギの命の恩人であり、わたしがこれまで生きてきた中で、最も敬愛するべき人物なのだ。
「ヨモキさん。またシャモギさんが、こっそり一座を抜け出していたようですねえ」
わたしが一室に入ると、アキゴさんはこちらに背中を向けたまま、そう言った。その第一声に驚いたわたしは……何とか、気を落ち着かせてから話しかける。
「あの……申し訳ありません、シャモギにはあまり遠くへは行かないようにと、言い聞かせているのですが」
アキゴさんは敷きわらに腰を下ろしたまま、くるりと全身をこちらへ向けた。猫のような獣毛におおわれた顔の中で細められた鋭い目が、わたしを射抜くような威圧感を放っており、わたしは緊張してしまう。
アキゴさんのことは尊敬している。でも、その物腰に対峙した際、内心、畏怖の念もあった。それが、アキゴさんに言わせれば……まだ妖魔になり切れていないわたしの、心の弱さなのかもしれなかったのだけど。
「わたしもね、あまり、とやかく言いたくはないのですよ。妖華一座の皆には、もっと自由に振舞って欲しいと常日頃思っていますからね。……でも、シャモギさんはまだ子供ですからね。一人で人間と接触するようなことがあれば、一座の仲間たちを危険にさらすかもしれない……この前のように、ね」
アキゴさんの話はもっともであった。わたしも、またシャモギが仲間に迷惑をかけるようなことは、あって欲しくなかった。仲間のためでもあり、シャモギ自身のためにも。
「まあ、特に騒ぎにもなっていませんし、シャモギさんも以前の件で反省はしているようですからね、あまり、心配はする必要はないのかもしれませんが。……万が一、ということも起こり得ますので」
「はい……心得ています」
「今度シャモギさんに会ったら、念を押しておいてくださいね。皆、シャモギさんを気にかけていますので。特に、姉であるあなたが、ね」
「……はい」
自分でも頼りなく感じるほどの、力の無い返事。アキゴさんに失礼ではないかという危惧もあったけど、シャモギのことが絡むと、どうしても気が気ではなくなってしまう。
シャモギは、わたしの……わたしの、たった一人の家族。今は一座の皆が家族と言えばそうだけど、やっぱり、実の弟のシャモギは唯一無二の特別な存在なんだ。
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