チャプター6 コノハの項1

 肌寒い空気を運んでくる冷たい風に揺られ、雑多な樹々の葉がカサカサと音を立てた。陽が昇る前の薄青色の空に見える星の数が、また幾つか減ったような気がする。


 まだ、夜の獣たちが活動する時間である。でも、わたしは逸る気持ちでいても立ってもいられなくなり、予定していたよりも早い時間に深い山の中に入ってしまっていた。


 暗闇の中から、視線を感じる。奥に潜む、想像によってでしかその姿を表せない獣が、脳裡の中でよりおぞましく変貌していく。弱みを見せては駄目――雑念を振り払い、感情を抑え、落ち葉のひしめく地面を踏みしめて先を急ぐ。


(この辺り、かな)


 まだ大分葉の残っている、幹の太い落葉樹が立ち並ぶ中。それらの合間には、遮られた光を求めて曲がりくねった枝を伸ばしている低木がひしめいており、さらに枝の隙間から覗ける地面には、根元から細長い鋭利な葉を生やした草が目についた。


 ある程度、空は青みを増していた。森林を照らす微弱な光を頼りに、目当ての緑を探して、慎重に草の合間をかき分けていく。


 程なくして、それは見つかった。周囲に群生している深緑色に比べると目立たない、薄い暗緑色。これが目当ての薬草だ。リトサイシ、と呼ばれている。


 昔は村の傍でも採集できたらしいけど、これを必要とする者が増えたために、近場では大半が取り尽くされてしまった。知識と費用のないものにとっては栽培することも難しく、近所の金持ちの農園では余分なくらい育てられていたが、それは一介の農民が手を出せる代物ではなかった。


 ただ、こうして山の奥地にまで踏み込めば、まだ自生しているリトサイシを見つけることができる。これは、地元の現場で働く農民の間では知られており、余所者や裕福な者に対しては秘密にしていた。


 わたしも最近になるまでは知らなかったけど、父の教えと、父が隣人から譲ってもらった見本のリトサイシを頼りにして、こうして見つけることができた。


 背負っている籠を下ろし、目の前にあるリトサイシを丁寧に掘り出す。リトサイシは全草に血行を整えて消化器系を改善する薬効があるけど、特に重宝されるのは根塊だった。


 おぼろげな朝日の下にさらされたそれは幾分小ぶりだったけど、収穫するには十分なものであると思う。トントンと叩いて土を落としてから、籠の中に入れた。


 他にも二つほどの根塊を掘り出した。もう少し蓄えておきたい気持ちもあったけど、取り過ぎてはならないと自らを戒める。


 再び籠を背負い、帰路につく。中身を迂闊に人の目へ触れさせてはいけなかったので、道中、適当な山菜を採集して籠の中に積み重ねておいた。


 視線。


 また、獣かな。細い枯れ枝を踏み砕いたような、パキリという音が響いた。


 言い知れぬ不安。心臓の鼓動が速まった。


 白い眼光が、青みがかった色彩を垣間見せた。


 危機感を覚え、後ずさりをする。相手へ背中を向けて走って逃げたり、獣を下手に刺激しては危険だという知識はあった。ゆっくり、落ち着いて、ゆっくり……。


 草むらを飛び越え、何かが飛び出した。わたしの上げた悲鳴が森の中に反響した。


 咄嗟に横へ飛びのき、突進してくる猛獣をかわした。地に倒れ伏した拍子に、籠の中身が転び出る。慌てて起き上がると、目の前には四足の獣――朝の日の下に映る、栗の実を潰したような毛色の猪の姿があった。猪は白い牙をむき出しにし、咆哮を上げた。


 頭の中が真っ白になる。冷静さを取り戻そうとしても、荒ぶる獣は待っていてはくれない。


 わたしは走った。幾度も両手足に木の枝が引っかかり、わたしの肌を傷つけた。


 地を蹴る音が急速に迫ってくる。恐怖心を煽る獣の気配が、背中にまで接近してきた。


 背負っていた籠に、ドンという鈍い衝撃が走る。身体が宙に浮き、視界がグルグルと目まぐるしく変わる。ごつごつした石の散らばる地面へうつ伏せに倒れ、顔面に土と石片がこびり付いた。急いで立ち上がろうとしたけど、足が酷く痛み、思うように動かせない。骨が折れているのかもしれなかった。


 両腕で身体を支えあげ、背後へ振り向く。その時、予想外の光景が目の中に飛び込んできて、わたしは小さく叫んでいた。


 それは、小さな少年の後ろ姿に見えた。わたしよりも背の低い、幼い子供。その子が両手で猪の鼻頭を抑えつけ、突進を食い止めている。


 わたしは信じ難い光景を前にして、まるで時間の流れが硬直しているかのように凝視していた。その子は小さな身体からは想像もできないほどの怪力を発揮して、猪の体躯を持ち上げ、獣の如き咆哮を上げながら、抵抗する猛獣を遠方に放り投げた。


 弧を描き、飛んでいく猪。落下して横倒しになった猪はよろよろと立ち上がり、こちらを睨みつけた。でも、猪は少年の吼えるような声に気圧されたらしく、弱弱しく踵を返すと、背中を向けて、足早に退いていった。


 わたしは少年の背中に見入っていた。やがて、その子はわたしの方へ振り向いた。少年はあれほどの大活劇を演じたにもかかわらず、息切れをしている様子もない。


「あ、あの……」


 わたしは、か細い声をかけていた。


 男の子の顔……それは、興奮している獣のような逆立つ毛で覆われていた。大きな耳は野犬を思わせ、毛深い両手先には動物の皮を易々と切り裂けそうなほどの鋭い爪が光っていた。


 その子を見ているわたしの脳裡に、ある存在を端的に示す一つの言葉が浮かんでいた。


 ……『妖魔』と。

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