チャプター3 ヨモキの項3

 演目は『吸血女王ケミルア』。間もなく、第三幕が始まるところだ。


 この幕で登場するわたしは、実の兄を妖魔のケミルアに殺された妹という役どころ。ケミルアは副団長のサクヤさんが演じている。


 ケミルアは冷酷非道な悪女を絵に描いたような人物で、ひと月に一度、民衆の中から一人の生贄を要求する。その生贄というのは常に――ケミルア好みの若い男が選ばれた。


 ケミルアは生贄として連れてこられた男を、月が一周するまでの間、伴侶とする。この間、ケミルアは男のあらゆる求めに応じ、甘やかすようにして何でも叶えて見せた。……無論、村に帰してくれだとか、ケミルアの元を離れたいという内容は例外で、そういった男の弱音には一切、耳を貸さなかったが。


 そして、月が終わる最後の晩に、夫となっていた男の血を一滴残さずに飲み干すのだ。


 本当のサクヤさんは女にしか興味が無いと公言し、若い女の人の生き血しか吸わないのだけど……ケミルアとして振舞っている時は、女に対してとことん嫉妬深いという性格であり、見事になりきっていた。


 舞台の裏でキュダンさんが意識を飛ばし、わたしに合図を送ってくれた。このタイミングを、逃すわけにはいかない。


 キュダンさんの指示で、ユチュミさん、クトゥーヤさん、マハルゼさんが揃って曲を奏で始める。ユチュミさんの長笛の余韻が会場全体に響き渡ったところで、わたしは舞台の裏から登場する。


 変わり果てた兄の亡骸。わたしはそれを想像し、兄の身に起こったであろう悲劇を想い、泣き崩れた。


 観客の心の動き――動揺、落胆、期待、同情……それらを探り、隙を見つける。わたしは兄の死を悲しみ、ケミルアへの恨みと己の絶望を訴え、わたしを見守る人々の心と自分の心の結び目を作る。


 多くの人間は、妖魔に対する、潜在的な恐怖と怒りの入り混じった衝動を秘めていた。だから、妖魔であるケミルアに対する怒りの感情と、その犠牲者への同情といった類の感情は周囲と同調しやすく、舞台上で繰り広げられる愛憎劇にも感応しやすい。


 ふと、わたしは声をかけられた。ゆっくりと顔を上げると、そこには、ケーヤさん……ケミルアの息の根を止める決意を胸に秘めた稀代の英雄、レラガンが立っていた。


「私は旅の者。名をレラガンと申します。娘さん、あなたは何をそんなに悲しんでおられるのですか?」


 レラガンは、泣いていたわたしに事情を尋ねた。わたしは、得体の知れない相手に話して良いものかと逡巡するが、こちらの親身になって心配し、是非力添えしたいと申し出る旅人レラガンに勇気づけられ、遂に心の内を話す決心を固めた。


「そうですか、あなたの兄もケミルアに……」


 わたしの話を聞いて事情を知ったレラガン。彼は己の怒りを抑えつつ、地に跪いていたわたしを、優しく助け起こしてくれた。


「あなたはもう、泣かなくていい。あなたの兄の死は辛く悲しいことですが、ケミルアの蛮行がこれ以上続くなど、あり得ないからです」


 相手の心理を測りかねたわたしは、レラガンに問いかける。レラガンは強く頷き、わたしのか細い手を握ってくれた。


「こんなことは……こんな悪行は、もう終わりにしなければならない……いや、終わらせるのだ。妖魔は幾度も我々人間を虐げてきたが、妖魔は常に我々の手で滅ぼされてきたのだ。悪しき支配者ケミルアの命運もまた……」


 ユチュミさんの意識が飛んできた。わたしは了承し、自分の心の中にある不可視の触手を、会場全体に這わせた。


 人々は、レラガンの演説に痛く共感していた。だから、その心理的機構を見抜くのは容易かった。わたしの創り出した不可視の触手は、観客たち一人一人の意識下に深く入り込み……少しずつ、捕食していった。


 わたしは妖魔としての食事をする際、相手の心を壊さぬよう、少しでも影響が少なくなるよう、細心の注意を払っていた。それは、わたしと同じ食物を摂取しなければならないユチュミさんたちも同様だった。


 でも、わたしたちは人間の意識の構造を十分に把握しているわけではないし、むしろわからないことの方が多い。だから、わたしたち妖魔によって捕食された人間の心にどのような影響が出るのかは、未知の領域だった。経験上、喰われた心は元に戻らないのだ。


 それでも、妖魔の血が目覚めた者は、人間の食事の他に、妖魔としての捕食も行わなければならない。もし、生きるのを止めると言うのであれば、その限りではないのだけど……。


 わたしの迷いを感じ取ったユチュミさんが、意識下で声をかけてくれた。わたしは心の中で返事をし、「大丈夫」と念を押した。


「次の生贄がケミルアの元へ送られるのは、明日の正午と、あなたは仰られた。ならば、私はこの機会を逃すわけにはいかない……是非、この私も民衆の集いにご同行させてください」


「あの……そこで、あなたはどうなさるおつもりで?」


 わたしの問いに、レラガンは胸を張って答える。


「この私が、次の生贄役となりましょう」


「そんな……危険すぎます。それに、ケミルアの意に沿わないことをすれば、皆にどのような災いが降りかかるか……」


「娘さん、私に考えがあります。ただ、それには、あなたのお力添えも必要となりましょう。だから、お願いしたいのです」


 彼は力強く、勇敢だった。わたしは、レラガンという人物を頼もしく思い始めていた。混じりけの無い純粋な正義感から、悪しき妖魔を滅ぼそうと決意する、彼のことを……。





 舞台を終えたわたしたちは、近くの村の傍の山林に面している溜まり場へと、引き上げていく。去り際に、この街の住民たちの意識下をたくさん見てきたけど、やはり、幾人かからは何らかの――僅かだけど、感情の欠落を感じることができた。


 ユチュミさんの表情も、冴えなかった。人の心理を直接細かく読み取るのことのできるユチュミさんは、わたしとは比べ物にならないほどのものを見ているのだろう。……声をかけたかったけど、それも躊躇われた。


 ユチュミさんの視線が、わたしに向けられた。ユチュミさんは、無意識のうちにわたしの考えを読んでしまったのだと思う。彼女にかけるべき言葉を持たないわたしは、つい目をそらしてしまう。


 一言だけ、ユチュミさんはわたしの脳裡に言葉を送り届けた。


(ごめんね)


 謝るべきはわたしなのに。……わたしは、心の中でユチュミさんに詫びた。


 でも、再度、ユチュミさんはわたしの心に謝った。わたしは悲しく、苦しかった。でも、妖魔として目覚めたことを否定しては、ユチュミさんに対して猶更悪い気がしてしまうので、何とか己の意識を思いとどまらせた。




 わたしたちは興行と称して賃金を稼いでいたが、実際は人間の心を食す行為も兼ねている。人間社会において、妖魔が生き延びるための手段であった。


 精神的なものを食す妖魔は興行の際に飢えを満たすが、人間の血肉を摂取する必要のある者には、また別の手段が必要だ。間もなく、その打ち合わせがあり、アキゴさんが皆に召集をかけた。


「それでは……今宵の狩りは、ケーヤさん、マハルゼさんがそれぞれの班を率いて、別々の村に散ってください」


 アキゴさんが、皆の役割を分担する。


 一座の規模も膨れ上がっていたので、皆が一度に行動すると、周辺の地域の人間たちに発見される危険も高まる。だから、三、四人の班が編成され、近くの墓場にいき、屍を漁るのだ。


 班の中には必ず一人、人間の心に干渉できる者が同行していた。その者が食すのは心などの精神的なものだったけど、ある程度人間の行動を操ることができる能力を利用し、近くの人間に発見される危険性を大幅に減少させる重要な役割を担っていた。


 唯一、サクヤさんだけは単独で行動しており、アキゴさんもそれを認めていた。サクヤさんは人間の肉を摂取する必要はないけど、その代わりに、生きている人間の体液を多く必要とする体質だった。


 サクヤさんは近くの村で気に入った娘を選び、その血を吸っていた。一人だけでは相手の致死量に達する恐れがあるので、毎月二、三人ほど。サクヤさんは血を吸った相手を自らの意のままに操る能力を持っていたので、単独行動の方が都合が良いのだという。


 日が暮れて、ケーヤさんとマハルゼさんが数人の仲間を引き連れ、方々に散っていく。わたしは、彼らを見送っていた。


 わたしの能力は、犠牲者の心を食い荒らし、破壊する……ただそれだけのもの。だから、狩りの手伝いはできない。人間としては認められず、妖魔としても仲間の力になれない自分が、歯がゆかった。


 ふと、わたしの顔を見上げる、シャモギと目が合った。シャモギは寂しそうでいて、辛そうだった。今日は狩りに行けると思っていたシャモギだったけど、他の仲間が優先され、班から外されてしまったのだ。


「シャモギ…‥お腹、空いているのね?」


 シャモギは戸惑ったが、やがて小さく「うん」と頷いた。


 わたしは、仲間の目の届かない物置の隙間を見つけ、そこへシャモギを連れ込む。わたしは暗がりの中でしゃがみ込み、袖をまくって、シャモギの口元に左腕を差し出した。


「噛んでいいよ。血、飲みたいもんね」


 シャモギは目に涙を浮かべたまま、逡巡していた。わたしが催促をしてやると、シャモギは一言謝り、わたしの腕にかぶりついた。激痛が奔ったが、黙って耐える。


 シャモギのように、死肉だけでは飢えをしのげない妖魔も少なくない。そして、わたしたちは妖魔と言っても、妖魔の血が目覚めただけで、基本は人間の身体なのだ。だから、わたしの血で、弟の渇きを潤すのは可能だった。


 本当は、妖魔が妖魔を食すのは、一座では禁止されていた。生きた血肉に魅入られた妖魔は、やがて歯止めが効かなくなるという話もあったからだ。


 でも……わたしは、苦しむシャモギを見ていると、何かをしてあげなければいけないという想いが、募り続ける。わたしはそれに耐えることができず、何時しか、こうして弟に己の血を提供していた。


 頻度は徐々に増えていた。アキゴさんが言うように、シャモギが必要以上に血を欲するようになっているのかもしれない。でも、わたしは……もう、自分を止めることができなくなっていた。


 このことに関しては心を強く閉ざし、ユチュミさんたちに読まれないように気をつけていた。……でも、もしかしたら、既に感づかれているのかもしれない。


 


 食事を終えたシャモギは、泣きながら謝った。わたしは、泣きじゃくるシャモギの頭を撫でてやり、愛しい弟を慰め続けていた。 

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