チャプター9 ヨモキの項5

 落日に浮かんだ、朧げな朱色の残滓が遠方に広がっている。群青色だった空には暗黒が浸透し、静かな青藍の淵へと沈んでいく。


 闇夜の訪れを目前にしても、初夏の陽気は仄かな熱で肌を温めてくれる。それを感じて、わたしはちょっとした安堵のような感情を覚えていた。


 つい最近、水が引かれた田んぼでは、早くも蛙たちの鳴き声が黄昏時に音色を添えている。その一つ一つの声に、どのような想いが載せられているのかは判別できないが、たくさんの新しい出会いによって彩られているのは想像に難くない。


 幾つもの資材を運びながら、緩やかな坂道を登っていく一団。わたしもその中の一人ではあったけど、あまり重く大きなものを持たされているわけではなく、市場で買った乾燥した発酵させた豆類の牛乳の類だ。


 荷車を引いているのは、ケーヤさんやマハルゼさんといった、常人以上の腕力を持った仲間たち。わたしやユチュミさんは念の為の警戒を怠らないようにという指示のもと、まだまばらに見られる村人たちの意識の動きを観察する役目を担っていた。


 わたしたちが近隣の村民から警戒されている兆候は見られない。ただ、隣の村では墓場を何者かに荒らされたという噂話が流れ出ていたから、度々その話題を聞かされると、ドキリとさせられる。無論、わたしたち妖魔の食事によるものであるのは間違いなかったから。


 こうして帰路についている時でさえ、わたしは自分の行いを振り返り、何気ない感情のざわつきが言い知れぬ不安と意識の暗雲にじわじわと責め立てられてしまう。


 もし、わたしが妖魔ではなくて、ごく普通の――そう、さっきすれ違った、山菜の入った籠を背負った若い娘だったなら、妖魔による墓荒らしの話を聞いて怯えて震えあがっていたかもしれない。


 こうして自分が人間の感情の変化の波を視覚的に受け取ることが可能となって、妖魔が人知を越えた世界線の高みから傲慢に人心を見下ろしているのだと実感していた。


 そう……わたしはその気になれば今も読み取っている波の中に一石を投じ、当人が望んでもいない改変を与えられた。決してわたしはそんな行為をしないと心に誓ってはいたけれど、それが出来るというだけでいかに危険であるのかは十分に理解しているつもりだった。


 麓の村々が遠ざかるにつれ、人の意識の反流は感じ取れなくなっていった。時折、誰かの意識の断片が揺蕩っていたけど、それは生きている人のものかどうかさえもあやふやだった。


(色々なものが、見えるようになった……な)


 一方で、見えなくなったもの……遠い過去に忘れてきたものもあったかもしれない。昔のわたしが当時のわたしでなくなるというのは、あの時に持っていた感情もあそこに置き去りにしてしまったのかもしれない。


 ふと、前方から人影が駆けよってくる。こんな時刻に、誰だろう? と思うも、すぐに合点がいった。


「シャモギ」


 わたしが名前を呼ぶと、弟もわたしのことを「お姉ちゃん」と読んで応え、すぐ傍に並んだ。


 そのまま手をつないで、一緒に歩き出すわたしとシャモギ。周囲の仲間たちからの視線も向けられたが、誰も何も言わなかった。


「どうしたの、シャモギ?」


 やんわりとした口調で、問いかける。シャモギが降りてくるにしては、人里に近すぎたくらいだったし、先ほど感じた視線の中にも、若干の訝しみがあったからだ。


「えっと……」


 シャモギは少し逡巡した。


 答えられないなら、黙っていて良いよ――そう言おうとしたところで、シャモギの言葉に先手を取られる。


「ちょっと、この辺の狩り場を探していたら、お姉ちゃんたちが帰ってくるのが目に入ったから……つい」


 シャモギは少し口足らずな喋り方だった。狩り場というのは、妖魔の食事の件とは別で、人としての食料の話だ。幼いシャモギも持って生まれた素質も合わさり、仲間たちのために頑張っているんだ。


 ただ……。


「そっか。……でも、この辺は人の目にも付きやすいから、気をつけてね、シャモギ」


「うん……」


 シャモギが何かを隠しているというのは、すぐにわかった。以前、ユチュミさんはわたしの心の中に直接伝えてくれた話を思い出す。


 シャモギが助けたいと願っている、シャモギの心の拠り所になっている女の子。同時に浮かび上がった、首の辺りで結わえた黒髪の、ふさりと揺れている静かな動き。


(あ……)


 手繰り寄せた記憶の中の少女が、今日見た村娘の一人と結びつけられた。わたしが昔のわたしを見つめ直す些細な機会を与えてくれた、あの子。


 その時、微かに息を呑んだような感情の揺らめきがあった。誰のものかはわかる。近くにいる、ユチュミさんのものだ。


 多分、ユチュミさんは、シャモギの姿を見て、無意識のうちにわたしの心の中を覗いてしまったのだろう。でも、わたしはユチュミさんを責める気など全くなく、確かな感情の共有をしてくれた彼女に対する感謝の念さえ覚えていた。


 以前聞いた話でも、ユチュミさんは自制していなければ周りの人の心が次々と自分の中に入り込んできて、他者との境界線が曖昧なものになってしまうという。不意にわたしの心の中を覗かれたとわたしが感じ取ったということは、それだけ自らを律していた証明でもあった。


(ユチュミさん……ありがとう)


 いつも気にかけてくれているユチュミさんに対して、はっきりと感謝の念を繰り返す。帰って失礼になりはしないかという恐れはあったけど、一瞬の沈黙の間をおいた後、ユチュミさんもわたしの心にこたえてくれた。


 わたしは改めて、シャモギの顔を見やる。わたしの視線に気づいたシャモギはきょとんとした表情で、栗色の瞳をしばたかせた。


 徐々にではあるけど、最近のシャモギの変化の核心に近づいてきている。そう思うわたしの中では、何故か、ちょっぴり寂しい気持ちがふつふつと沸き始めていた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

妖魔の旅路 来星馬玲 @cjmom33ybsyg

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ