枢機卿猊下の不運と幸運

ヨツコ

紙一重のアンラッキー7

 この国では数年前から、二つの派閥によって巻き起こされた争いが深刻化している。

 一つは現皇帝をはじめとした皇家と主だった貴族が与する皇帝派。

 その皇帝派に対するのが、皇帝の実弟でありながら出家して教皇となり、民衆の支持を集める教皇派。

 年を追うごとに争いは激しさを増し、いつしか血で血を洗うような様相になってしまった。

 最早互いの頭目の、その首を捩じり切ってもまだ足りない。どちらかを根絶やしにすることでしか争いは収束しない……そう思われるほど両派閥の関係は悪化し、国の全土とそこにいる多くの民草までを満遍なく巻き込んで泥沼化してしまった。


 そんなあるとき、あるところに、ぽつりと現れたとある人物がいた。

 一応教皇派に与する坊主だったわけだが、どうも様子がおかしい。

 派閥など知ったことではないと言わんばかりの超然たる態度。

 弱きを助け、強きも助け、慈愛を以って世界の全てを見守るような、そんなただの坊主みたいな人物で、煩悩も我欲も見せず、ふんわりと微笑んで民草に混じり時に語らい、子どもらに呼ばれれば軽く手を振って見せるぐらい気取らない人。


 いくら何でもそんな態度ではこの国では命がいくらあっても足りない。そんな親切な誰かの忠告などものともせず、彼の人物はその麗しの顔にふんわりと笑みを浮かべ、いつの間にか枢機卿と呼ばれるまでになってしまった。

 権力抗争の間をするりするりと駆け抜けて、本人すらも与り知らぬところでいつの間にかひとかどの人物へと上り詰めていた。


 麗しの枢機卿には野心は皆無で、政治的な才覚も乏しく、正直なところ信仰心も場末の飲み屋で出されるエール並みに薄かったが、ただ「運」だけが尋常ではなくよかった。

 歴史に名を遺す七聖人全てを合わせても、彼一人の「運」が遥かに勝っていただろう。

 それくらい、幸運は枢機卿にぴたりと寄り添う味方だったのだ。



◆◇◆



 不運に不運を重ね合わせたところに不運をぶちまけて更に不運を付け足して不運をひとつまみぱらりと振りかけ最後に不運と不運で飾り付けたら出来上がり。

 そんな感じの純然たる不運の結果、麗しの枢機卿は今こうして仰向けに青い空を見上げ、身体の後ろ半分を深い泥濘ぬかるみに埋めていた。


 辺りが妙に騒がしい気もするが、枢機卿がいるこの一帯だけは礼拝堂と宿舎の隙間、丁度建物と建物の陰になっており、人目もなく人がいなくて、助けを呼ぶことも出来ないぐらい静かだった。


 澄み渡った青いばかりの視界の左から右へ、真っ白な鳩が横切った。

 縁起がいいような気もするが、如何せん背中その他を泥濘ぬかるみに浸している現状、気分はすこぶるよろしくない。


 暑すぎず寒すぎず、風は爽やかで陽射しはぽかぽかと暖かい。そんな中にあって、泥濘ぬかるみはひんやりと冷たかった。

 厚めの法衣越しではあるが、絶妙に身体の熱が奪われていくのを感じる。

 朝起きて、一応日課としている礼拝を行っただけの現在。朝食すらも済ませていない一日の始まりだというのに、これは困ったことだ。


 礼拝の間腹が減って、露店で売っているような肉の臭みをただ強い塩味だけで誤魔化した串焼きが食べたい、などと思いながら祈ったのが良くなかったのかもしれない。

 だが、思考がどうであろうが祈りの聖句は一言一句違えなかった自信がある。なんなら眠りながらでもきっと間違いないで言える。


「あああああああああこんなところにいたあああって、って法衣があああああ真っ白の法衣いいいいいい!」


 そんな叫び声と、ばたばたと駆け寄って来る足音。そして後頭部を泥濘ぬかるみによって固定された枢機卿の顔と空の間に、下男の顔が飛び込んできた。

 いつも何くれと枢機卿の世話を焼いてくれる下男は、今はその大きな瞳に焦りと安堵と涙を浮かべていた。


「やあ」


 泥濘ぬかるみに半身を漬けた枢機卿ののんびりとした声を無視して、下男はその襟首をわしと掴み上げた。

 成人男性としてまあ標準的な体形の枢機卿は決して軽いわけではない。下男はとてもしっかり者で、その上力持ちであった。もちろん足元はしっかりと泥濘ぬかるみを避けている。


「なにやってんですかあああああああああああああああこのばかあああああああああああああ」


「ちょっと色々あって」


「ちょっと色々あってじゃないですよ! すごく探したんですからね! 礼拝の途中で行方知れず、って大騒ぎですよ!」


「ごめんねえ」


 枢機卿がすまなそうに、本当にすまなそうにどこかちょっとションボリした風に困った顔をしたので、下男は仕方なく、溜息をひとつ吐いた。

 溜息を吐いて、泥濘ぬかるみから枢機卿を引っ張り上げる。

 真っ白な法衣の後ろ半分を泥人形のようにしながらも、枢機卿は怪我一つなかったので、下男は今度はほっとした溜息をまたひとつ吐いた。


「まあ、ご無事でなによりです」


「無事なのかな、これ」


「法衣は無事ではありませんね。まあ法衣だけで済んだなら良かったです」


 その場に立ち上がった枢機卿は、見事に後ろと前で様子が違う。こんなに綺麗に後ろ半分を泥濘に浸すなんて。

 下男は、泥濘の脇に生えている立派な木と、礼拝堂の中二階ぐらいの高さにある窓を見て、それから再び枢機卿を見た。


「もしかして、窓から落ちました?」


「んー、惜しい。厳密には木から落ちた、かな」


 それを聞いて、胡乱なものを見るような目に変え、若干低くなった声が下男から出た。


「……なぜ」


 普通に礼拝をしていれば、普通は木から落ちない。


「いつも通り礼拝をしていたら、にゃーにゃー鳴いてる猫の声が聴こえてきてね。あんまり鳴くものだから気になって様子を見たら、黒猫がそこの木に登って降りられなくなっていたんだ」


 枢機卿の半分泥まみれで、半分真っ白な腕が脇に生えている立派な幹の立派な木を指し示した。


 不運が重なってね、と枢機卿は自身ではそうは思っていなさそうに笑って言った。


 枢機卿本人がどう思っているかは置いておいて、側から見れば確かに不運は重なっていた。七ぐらい。


 不運その一は、猫が木から降りられなくなっていたこと。

 そしてその二は、いつもなら礼拝時、誰かしらが傍にいるはずなのだが、その時に限って一人だったことだろう。

 下男やその他の誰かしらが、ほんの一瞬目を離し席を外していただけに過ぎないのだが、枢機卿の不運はその程度の僅かな時間を見逃したりはしない。


 不運その三は、木が窓から少し離れていたこと。

 不運その四は、床が磨かれたばかりだったので滑ったことだろう。


「猫は捕まえられたんだけど、窓から身を乗り出したところで足元が滑ってね。ぎりぎり木の枝を掴んだんだけど、猫が驚いてしまって。その衝撃で今度は手が滑って掴んでいた木からも落ちた」


 不運その五、猫が驚いて暴れてた。

 不運その六、落ちた先の地面が泥濘ぬかるみだった。

 不運その七、思いのほか泥濘ぬかるみが深く、はまって自力では抜けられなくなった。


「見つけてくれて良かったよ。幸運だった」


「……それを幸運と言い切るの、ほんとすごいと思います」


 呆れ交じりに下男が言ったその言葉に、枢機卿が「たはは」と締まりのない笑顔を零した。

 だがまあ、幸運は間違いなく、確かに枢機卿にぴたりと寄り添う味方だったと言える。


「そういえば、随分と騒がしかったようだけど」


「……ええ、ふいのお客さまが団体でいらしてたもので。もうお帰りになりましたが。なんせ枢機卿がご不在でしたので」


「それは悪いことをしたなあ」


「まあ、また来ると思いますよ。何度でも懲りずに」


 枢機卿はただ自覚のない「運」だけで、枢機卿と呼ばれるまでになった。


 派閥も何も関係ない、そんな態度を面白くないと思う者は多くいて、その者たちはあの手この手で枢機卿をこの世から永遠に排除しようと目論むのだが、何をどうしてもさっぱり上手くいかなかった。


 その手のことを生業にする、いわゆる凄腕であったとしても、必ず目的を達成出来ずに終わり、なんなら枢機卿の姿を見つけることすら困難だったりする。


 そんな風に、野心も才覚もなく、それでも枢機卿は権力抗争の中を駆け上がっていくのだ。

 無自覚の運だけで、上り詰めようとしている。


 そして、その幸運の帳尻を合わせるかのように、日常には絶妙な不運が付きまとうのだが、それすらも幸運とは紙一重だったりするのだ。


「あ、猫」


「おや、猫。君は無事でよかったね」


 恩人を泥濘ぬかるみへと蹴落とした挙句、少しの汚れもない艶やかな毛並みを維持したまま「にゃあ」と鳴いた黒猫を見て、後ろ半分を泥まみれにした枢機卿は実に満足そうに微笑んだ。

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