アンナとナナ

深見萩緒

アンナとナナ


 アンナと出会ったのは、幸運だったのだろうか。不運だったのだろうか。私にとっては、幸運だったと思う。でも、アンナにとって私と出会ったのは、不運だったんじゃないかな。

 そう言ったら、アンナはいつも微笑を浮かべている綺麗な顔に、少し私を蔑むような気配を差し込んだ。私はアンナの、こういう表情が好きだ。

「幸運とか不運とか、流行りの話題に乗ろうってわけ?」

「アンナだって気にしてるくせに」

「まあね」


 机の上に置かれたスマートフォンが、ネットニュースの動画を垂れ流している。

『この世紀の大発見により、我々の持つ倫理観が試されていると感じます。専門家の間でも意見が分かれており……』

『第三者による、安易な決めつけはよくないということですね? しかし、科学的に証明されてしまったとなると、やはり我々一般人としては……』

『ですから、遺伝子検査によって確定するまではですね……』

『遺伝子検査は、さらなる差別に繋がるという声もありますが……』

『しかし憶測による差別や偏見をなくすためにも……』


 教室の隅、窓際の、一番後ろの席。ここほどアンナに似合う場所もない。アンナはいつも窓のそばに机を寄せて、広げたカーテンの中にすっぽりとおさまって、教室と自分とを隔てていた。机ひとつぶんを覆い隠す、真っ白なカーテンの繭。私はその中に入ることを許されている、たった一人の人間だ。

 どうして私を、ここに入れてくれたの? アンナに訊いてみたことがある。そうしたらアンナは、この蔑むような表情を浮かべて、言った。

「同類だから」


 私とアンナが、同類。容姿端麗で、運動も勉強もできて、家もお金持ちで、何もかもが私とは違っているアンナが、同類。

 だけどその時私は、アンナについて囁かれていたひとつの噂のことを思い出して、確かに同類かもしれない、と思った。そしてアンナと一緒に、このカーテンの繭にこもって昼休みを過ごすことを選んだ。



『ですからね、そう単純な話ではないんですよ。そもそも遺伝情報というものは、我々の持つ個人情報の中でも最たるものであってですね……』

 何かの専門家らしき人が、つばを飛ばしながら喋っている。「どう思う?」とアンナが言ったので「きもい」と正直に答えると、「そうじゃなくて」と頭を小突かれる。

「幸運遺伝子。結局さ、これって本当にあるのかな」

 疑問形ではあったけれど、答えなんて一つに決まっている。

「今さら? そんなの、分かり切ってるじゃん」

「だよね」

 春の風が教室に吹き込んで、カーテンの繭が大きく膨らんだ。



「幸運遺伝子」なるものの存在が発表されたのは、半年くらい前のことだった。偶然や確率によって、誰の身にもランダムに訪れるはずの幸運あるいは不運。そういうものが、実は遺伝子によって左右されていたと判明したのだ。

 幸運遺伝子はLUCK1からLUCK7までの7種類がある。7種類のLUCKのうち6種以上が発現している人は、平均よりも有意に高い頻度で、自分にとって有利に働く「偶然」に恵まれるのだという。

 そしてLUCK遺伝子の発現数が2種類以下の人は、誰の目から見ても不幸な人生を送っているのだ。

「発現って、よくわかんない」

 私が言うと、アンナは少しどころではない蔑みを私に向ける。

「生物の授業でやったでしょ。聞いてなかったの?」

「寝てた」

「ばーか。発現ってのは、つまり、遺伝子が仕事してるってこと」

「私たちのLUCK遺伝子は、仕事してないんだ」


 私のLUCK遺伝子の発現数は、絶対に2種類以下だと思う。

 ドラマや映画に出てくる「かわいそうなおんなのこ」の設定のほとんどが、私に当てはまった。そこから抜け出す努力もしてみたけど、たいてい空回りするか、もっと悪い方向に流れるだけだった。

「学校、いつまでいるつもりだったの」

 アンナが、私の頬をつつきながら言う。

「今月いっぱい。授業料は、頼めば免除してもらえたらしいんだけどさ、ほら、おやじがあんなことになって、もう無理だなっていうか」

「そっか」

「でも別に、良いんだ」

 私の頬をつつくアンナの指を、その細くて白い指先を、齧る真似をする。アンナはいたずらっぽく笑って、慌てた演技で指を引っ込める。

「もう、どうだっていい。でしょ?」

「うん。どうだっていい」


 私の、私たちのLUCK遺伝子の発現数は、絶対に2種類以下だ。



 LUCK遺伝子の存在が発表されてから、世間は騒然となった。本人の努力云々にかかわらず、これまでの人生で遭遇した「幸運」や「不運」が、すべて遺伝子のせいなのだとしたら、幸運な人間は今後もずっと幸運だし、不運な人間はやっぱりずっと不運なのだ、ということになる。

 お金持ちの家に生まれて、親の愛に恵まれて、才能にも恵まれて、良いことがたくさんあったな、という人の人生は、ずっと幸運。

 お金も愛も才能も何もない環境に生まれた人間は、その生まれこそがその人の「不運」を象徴している。つまり、この先もずっと、ずっとずっと不運に見舞われ続ける。


 自殺者が増えた。殺人も増えた。

 生まれてからずっと悪いことばかりだった人生の、それが「偶然」ではなく遺伝子のせいならば、どんなに頑張ったところで意味がない。多くの人々が絶望した。


 就活市場や結婚市場にも、大きな変動があった。皆、相手がこれまでに遭遇してきた「幸運」や「不運」を知りたがった。社員として迎えるならば、配偶者として連れ添うならば、幸運遺伝子が強い人間の方がいいに決まっている。


 幸運格差、幸運差別。幸運と不運の差は開いていく。

 ある著名人が遺伝子検査をした結果、幸運遺伝子を7つ全て持っていたとして、一大ニュースになった。圧倒的に幸運な人々は「ラッキーセブン」と俗称され、日本では短く「ナナ」と呼ばれた。

 一方で明らかに不運な人間の遺伝子も、また調べられた。海外で起きた凶悪通り魔事件の犯人は、その生い立ちは目を覆いたくなるほど悲惨だったのだが、幸運遺伝子がゼロだったと報道された。不運な人間たちの俗称は「アンラッキーセブン」、あるいは略して「アンナナ」だ。



「アンナがアンナナとか、洒落でも上手くないよね」

 自嘲しながら、アンナは細い指を、今度は私の唇めがけて差し出してくる。

「そうかな、語呂は良いよ」

 私はそう言って、アンナの指先に口づけた。それだけじゃ物足りなかったらしくて、アンナの指が唇を割って、口内に侵入してくる。ちょっとだけ、塩っぽい味がする。

「ナナがアンナナよりましでしょ」

 アンナの指を舌で押し返す。アンナが笑ったのは、私があっかんべーをしているように見えたからだろうか。それとも「ナナがアンナナ」の語感に笑ったんだろうか。

「洒落になんないよね。ナナなのに、アンナナなんて」

 後者だったらしい。私は「うるさい」と言って、まだ舌の先に留まっていたアンナの指を、今度は本当に、ちょっと齧った。アンナは「いたっ」と言ったけれど、痛いほど噛んだつもりはない。「うそでしょ」と言うと、「うそ」と帰ってくる。


 また、風が吹いた。繭の内側、ふたりだけに許された空間が、少しだけ広くなる。

 繭の外側では、同級生たちがそれぞれ昼休みを満喫している。あの子たちは、この繭の中には入れない。入りたいとも思わないだろう。あの子たちと私たちとでは、世界の見方が決定的に異なっている。


 あの子たちは幸運だ。少なくとも私たちよりは、ずっと幸運だ。これからの人生、不運なこともあるけれど、同じくらい幸運なこともきっとあると、純粋に信じている。

 ――そう、信じるということ。私たちが短い人生のうちに失ってしまった、大きなもののひとつだ。

 あの子たちは、親を、友達を、先生を、他人を、大人を、子供を、異性を、同性を、世界を、未来を、信じている。


「あっちの世界に、行けると思う?」

 最後の確認として、私はアンナに尋ねた。帰ってくる答えは分かっていたけれど、一応、訊いておきたかった。

「私には無理」

 少しの間も置かず、アンナが呟いた。

 風が吹く。繭を大きく広げて、羽化せよと囁いてくる。アンナは、綺麗な形の目を見開いて、今にもはちきれんばかりに膨らんだカーテンの繭を睨み付けている。

「私もだよ」

 私はアンナの肩を抱いて、それから、アンナの頬に唇を寄せた。アンナは少しの間されるがままになっていたけれど、やがて私の方を向いて、私の唇を受け入れた。

 春の匂いがした。



 容姿端麗で、運動も勉強もできて、家もお金持ちで、何もかもが私とは違っているアンナ。生まれてこのかた不運という不運に見舞われて、おやじが教師相手に暴力事件なんて起こして、借金もたくさんあって、お母さんは私を置いて男と逃げて、馬鹿で、小汚くて、臭くてみじめでどうしようもない私に、「同類だ」なんて言ったアンナ。

 だけど私はあの噂を聞いていたから、アンナの言葉に納得した。


 可哀想なアンナ。まだよちよち歩きの、大人の庇護を一身に受けなければならなかったころから、大人の性欲のはけ口にされてきたアンナ。

 今も広大なインターネットの海の中で、アンナの痴態が誰かの欲望を満たしている。それが痴態だなんて知ることもできずに、画面の中の幼いアンナは、お父さんの持つカメラに向かって、大人でも言わないような言葉を口にして、煽情的なポーズを取る。



「でも、もうどうだっていい。どうだっていいんだよ」

 アンナの手を握る。冷やりとした包丁の硬さが、私にも伝わってくる。

 私たちはアンナナで、不運で、そしてこれからもずっと不運だ。いつまでも、ふたりきりの繭の中にこもっていられれば、これ以上傷付かずにすむのかもしれない。けれど、世間がそれを許さない。

 私たちは、いつか繭から引きずり出される。少女は大人にならなければいけない。私たちを待っている世界が、どんなに残酷だったとしても、私たちは羽化しなければならない。


 だから、ふたりで決めた。どうせ繭から出なきゃいけないなら、みじめったらしく引きずり出されるんじゃなくて、這い出すんじゃなくて、爆弾みたいに爆発してやろうって。爆発して、飛び散って、周りのものを粉々にして、そうやって世界に飛び出してやろうって。


「でも、ほんとに爆弾作ってくるなんて、思わないじゃない」

 アンナが笑う。笑っているアンナを見ると嬉しくなる。

「ネットで調べたら、すぐ作り方が出てきたよ。入浴剤とか、あと釘とかも入れて……」

「結構破壊力、ある?」

「動画見たけど、なかなかすごかった」

「あとで見せて」

 アンナが珍しく間の抜けたことを言うものだから、こらえきれずに笑ってしまった。

「アンナ。もう、あとなんてないんだよ」

 そうしたらアンナは、なんだか昔を懐かしむように目を細めて「そうだね」と言った。



 刃物と爆弾。分かりやすく危ないものをそれぞれ持って、私たちは最後のキスをする。


「みんな、死んじゃうかな?」

「大丈夫なんじゃない? あの人たちは『幸運』なんだから」

「あ、そっか」

「私たちの方が、死んじゃったりして」

「あり得る。アンナナだし」

 唇を軽く合わせたまま、くすくす笑う。アンナの吐息がくすぐったい。


 私がアンナと出会ったのは、たぶん幸運だった。アンナが私と出会ったのは、もしかしたら不運だったかもしれない。アンナくらい綺麗で、頭もよくて、なんでもできる子だったら、こんなことになりさえしなければ、いくらでもやりなおせたような気がするのに。


 それとも、やっぱり駄目なのかな。私たちはきっと、アンナナだから。


「でも、もうどうだっていい」

 私たちは互いに言い聞かせるように囁いた。それから、

「どうだっていいんだよ」


 アンナとナナは、繭を飛び出した。




<終>

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アンナとナナ 深見萩緒 @miscanthus_nogi

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