第四章「この歌よ、君へ届け」
イスカニール宮殿で行われたその式典は、栄華の極みのままに終わった。
ディアドラは、何故この沢山の御馳走が街の人に配られないのか不思議だった。
夫に尋ねると、彼は困った顔で誤魔化すのみで答える事は無かった。だから、それらを公には口にしない事にした。
「それにしてもお美しい」
誰もがそう言って少女を見る。その度に微笑みを返し、礼をした。心無い言葉を聞く度に、心無い言葉で礼を返す度に自分の心が少しずつ死んでいくのを感じた。
婚礼衣装に身を包む自分の姿は時期外れの花のようであった。愛想を振りまき微笑みを絶やす事無い、鑑賞の為の花。
「ディアドラ……疲れているのかい?」
だけど、白い礼服をそつなく着こなしているランスターもまた、一輪の花なのだ。尤も彼はその立場にありながら逃げる事は無い。それが彼なりの強さなのであろう、そう思う。
「ランスター様……ごめんなさい、人に慣れていないのです」
心配そうに聞いてくる夫に微笑みを作って返すと、彼は「もう少しで終わるから、頑張っておくれ」と言って、貴族への挨拶を続ける為に歩きだす。
宮殿の中は荘厳で、祝福と礼賛に満ちていた。
大理石で作られた白亜の塔の中で、貴族達は贅を尽くす。
美しい調度品と、美味しい食事と、美麗な参加者たち。しかし、そこには何一つとして暖かみが無かった。ディアドラが一番欲しいものが無かった。
――ファラン。
雪の中に消えて行った背中を思い出す。
自分が、こんな弱い身体じゃなかったら……いいえ、こんな身体でも構わず彼に、この身の全てを預けてしまう勇気と我儘があれば……。
もう何度目になるだろう問いかけは、もう去って行った彼には届かないのだと己に言い聞かせて終わるのだった。
最後に放たれたあの言葉の重さは少年と少女にしか解らない。
貴族達が口から吐きだす長くて飾りだらけの偽りは、少年が口籠りながら呟いてくれたぶっきらぼうで短い囁きに比べ、なんと軽い事だろう。
――会いたい。
もう一度、抱き締めて欲しい。あの夜、全てを奪って欲しかったのに。貴方を感じて、貴方と繋がって、私の欲望の全てを満たして欲しかったのに。
でも、彼はそれをしない。
ずっと真っ直ぐだった。初めて会った時から、彼は一匹の豺のままだった。
誇り高く、真に美しい獣は孤高のままに立ち去った。
「大丈夫かい?」
ようやく長く辛い時間が終わったらしい。何人の人とどれだけの挨拶をしたのかも覚えていない。ディアドラはそれでもランスターへ微笑んだ。
「はい、気を使わせてしまってごめんなさい。ランスター様」
「さあ、帰ろうか……僕らの家に」
今夜、そこに彼は来る。
私はそこで待っている。
……彼の手に、かかる為に。
「はい、ランスター様」
でも、ランスターには言っておかねばならないだろう。この方を御守りすると決めたのだから。それが彼への背信を告げる事と同義になろうとも、ディアドラは自分の意思を変える事が出来なかった。
馬車へと向かい宮殿の回廊を歩いていると、山犬隊の戦士長と出会した。
鷹の眼を持つ男は足を止め、ランスターに向けて短めの祝辞を述べる。
「ありがとう――では、妻が疲れているのでこれで失礼するよ」
ランスターは避けるように其処を立ち去ろうとする。それは、下賤の者を見下す態度というよりも、苦手な相手から離れたいといった風に見えた。
「あの……ルディアン様」
「何でしょう、奥方様」
立ち去ろうとしたランスターから数歩離れて山犬の戦士長へ声をかけた。
「豺は、もう野に放たれましたか?」
「……いいえ、奥方様。今宵は祝いの宴、獣が邪魔をする事は無いでしょう」
驚いた。
それなら、ファランは……?
動揺する心を追い打つように戦士長は囁いた。
「しかし……小賢しい獣とは、常を以て人の皮を被りたがるものです。御身、健やかなるよう……」
「ディアドラ、行こう」
ルディアンの言葉に割り込んでくるランスター。
山犬の戦士長はランスターへ一礼してからディアドラの手を取り膝を突いた。淑女への騎士礼だ。そして、囁きかけてくる。
「――もしお望みであるならば、今宵貴方の為に豺を一匹放ちましょう」
「そ……それは、私好みの豺かしら……?」
「さてそこまでは……歌好きな奴ですが、御眼鏡に適いますか、どうか」
戦士長はそこまで言うと立ち上がり、背を向けた。
(覚悟はできたのかな?)
「え」
去って行く背中。
それは山のように大きく、沈黙して、しかし揺るぎそうにない確かさを持っていた。きっと豺の住処には、あれほどに心地良い場所は無いのだろう。
「ディアドラ、何を話していたんだい?」
「……豺が好きなの、私。その話をしましたわ」
ディアドラの心に勇気と、得体のしれない力が湧いてくる。
(あれが……ファランの好きな人。そうね、ものすごいひと……)
鉄のような、一振りの剣のような男だった。
「やまいぬ? 僕は……嫌いだな」
「あら……それはきっと、豺の事を良く知らないからですわ、ランスター様……いつか、教えてあげられればいいのだけれど」
二人は話しながら馬車へと向かう。
回廊が終わると中庭が広がっていた。白石膏と大理石、それからよく手入れされた季節の花達が訪れる者を楽しませるのだろう場所だった。
貴婦人や紳士が楽しそうに歓談する中を、会釈しながら歩いて行く。彼等は美しい造園を歩き、美しい噴水仕掛けを楽しんで、美しい馬車に乗って、美しい館へと戻るのだろう。
そこに隠されたあらゆる人の汚さを隠してこの美しさは続くのだろう。
無垢なままでそれに感動する時間は終わりを告げたのだと悟った。あの少年と別れを告げた夜から、少女は既に少女ではなくなっていたのかもしれない。
造園の中に待っている筈の馬車へ向かうと、装飾の成された豪華な四輪馬車が停まっていて、そこに義父が待っていた。
「やあ二人とも、素晴らしい宴席だったよ」
笑う顔に裏がある事をディアドラは子供の頃から知っている。
それでも……それでも、愛したかった人。
「ありがとう、イーガンス大老……いえ、義父上と呼ぶべきですね」
ランスターの笑みに応えて笑う父の顔。その眼の奥の光にランスターは気付いていない。
「お父様……」
「おぉ……綺麗だよ、ディアドラ」
腕の中に自ら抱かれて、一度だけ囁いてみた。
「愛してます、お父様」
「私もだよ可愛いディアドラ。いつまでも私の娘であっておくれ」
見上げれば笑みの奥の、眼の光。今までずっと見てきた光。彼が芸術品を愛でる時に見せる光と同じもの。私は、結局この光を変える事は出来なかった……。
「いいえ、今宵より、私はお父様の手から羽ばたきます。申し訳ありません、お父様」
「ははは、これは手厳しい……ランスター公の奥方であろうと、お前が私の娘には変わらないのだよ? そんな哀しい事を言わないでおくれ」
ランスターが近寄って来るのが解る。父の腕から離れ、その隣に寄り添った。肩にまわって来る手に軽く身を預け、父を見上げて言葉を続ける。
「お父様……豺が私の元を訪れます。きっと、お父様は怒るかもしれませんね。お父様は、お嫌いでしょう? やまいぬ」
イーガンスの眼に焦りが生まれた。
「お前は犬を欲しがっていたかな? 猫の方が似合うのではないかな?」
「いいえ、私は豺が欲しいのです、お父様……どうか、御身お気をつけあそばせ」
ディアドラはランスターの肩から離れ、馬車に乗った。
ランスターと父が何か囁き合っている。
きっと、今夜の私が様子のおかしい事を囁き合っているのだろう。
「本当の私を知っているのも、貴方だけよね? ファラン……」
呟きは返る事は無い。それでもディアドラは自分を強くしてくれたあの少年を思い浮かべる事が出来た。空のように遠い蒼を思い出せた。
馬車は走りだし、見送っている父をゆっくりと小さくしていった。
辺りはすっかり暗くなっている。新居の外観が見れるのは明日以降になりそうだ……見る事が出来るかは、解らないが。
宮殿の中庭を出ると、白くて静かな道に出る……そんな中を、寒さに震える街の人達が歩いていた。
「ランスター様……私、施政の事は解りませんけれど……私達が贅を尽くす事を少しでも我慢できれば、あそこで震えている子に何かしてあげられるんじゃないでしょうか?」
窓から外を眺めつつ囁く。ランスターは困った顔になった。
「私一人で政が動いている訳じゃないんだ……それに今は、そんな事をしている場合じゃない。帝国の迎撃の為に少しでも力を溜めねばならない時なんだよ」
解りきった答えが返って来る。
だから、微笑みを作ってランスターに向ける事にする。
「……差し出がましい事を言ってすいませんでした」
「い、いや、君の言う事は尤もだと思う。ちゃんと、今後の財政に考えるから……」
狼狽する金髪の若者を見ながら、ディアドラは微笑みを絶やさぬままに小さな嘆息をひとつする……この人の弱さを支える事が出来れば、きっとこの人は立派な方になる、そう信じて。
すると、手が重なってくる。躊躇してから、その手を弱く握り返した。
「ディアドラ……やっと二人きりだよ」
見つめる瞳が男の眼になっていた。
「ランスター様。私が欲しいのですか」
もう誤魔化すのは止めよう。
真っ直ぐに見つめ返すと、握られる手に力が籠った。
「勿論だとも、ディアドラ。僕は――」
「今夜だけ、待っていただく訳にはいきませんか?」
揺れる馬車の車輪の音だけしか聞こえなくなる。
「え……?」
「今夜、私達を襲うものがあります。それを乗り越えてからでないと、私はこの気持ちを整理できないのです」
「お、襲うって、なんだい? まさか、暗殺者の類が――」
「解りません、杞憂に終わるかもしれません。でも、今宵はそれを待ちます……ランスター様もお決めになって下さいませ。私とこれから向かう館で過ごすか、安全な場所で過ごすかを……」
言葉にしながら、自分がどれほどにその瞬間を待ち望んでいるかを自覚した。
ああ、ファラン。貴方は今どこにいるの……?
今夜、私は貴方に会えるの……?
「駄目だ! 君をそんな危ない場所に置けるわけがないだろう? 一旦私の館に戻ろう」
「いいえ、私は館に向かいます。これは私の命を賭けた勝負なのです。この勝負ができなければ、私は運命の先へ向かえません。ランスター様、これは、私の決めた事なのです」
淡々と語っていくにつれ、その思いはどんどん大きくなっていく。
死は怖くない。もっと、もっと怖い事がある。
俯き眼を閉じる。
半信半疑の様子で聞いていたランスターだったが……やがて、応えた。
「……ならば衛兵を用意する、それは構わないね?」
「はい、それがよろしいかと。でも、ランスター様は御自分の館に戻られるべきかもしれません。貴方の御身は貴方だけのものではない、そうなのでしょう?」
「君を独りにできる訳ないだろう!」
薄く眼を開ければ此方を心配そうにした優しい青年の顔があった。
握る手にほんの少し力を込めて、微笑む。
「ありがとうございます、ランスター様」
「当然だよ、君は僕の妻なのだから」
馬車は静かに雪の上を走る。
少女は窓から外を見る……雪がまた、降りだそうとしていた。
「ルディアン! ルディアンはおるか!」
「ンなでかい声出さなくても聞こえてますぜ」
山犬の宿舎、ルディアンの私室にイーガンスが怒鳴り込んできた。
ルディアンは椅子に深く座ったままでその来訪者を迎え入れる。
「どういう事だ? ディアドラは何か気付いているのではないか?」
「何の事です?」
「計画だ!」
夕闇の時間は雪の降る曇天模様に忘れ去られ、空は既に夜闇の体を見せていた。
戦士長は立ち上がり、暖炉から燃える枝を一本取って火皿を灯す。
「計画?」
「何をとぼけておる! ランスターの暗殺だ……! 私は街にいるだけの暗殺者を雇ったのだぞ、まさかこの計画が漏れて失敗する様な事があっては、その損失だけでどれ程になるか!」
枝を暖炉に投げ入れ、軽く暖を取る振りをしながらルディアンはイーガンスを盗み見る。
「街全部の殺し屋とは豪気ですなあ……で、余裕な人数はオレの豺にけしかけた、と」
「……あ?」
口元だけを吊り上げ笑う男。
イーガンスは、後退る。
「前に言いませんでしたか? オレの気に入りの豺だ、と。それとも、オレが気付かないままに始末できるとでも思いましたかね? あんたが用意してくれた小屋を、まさかオレが疑わないとでも?」
「ま、まあ待て、ルディアン。帝国兵残党の仕業にするこの計画、一人二人は味方の死者がいてもいいかと思ったんだ。ならお前の部下から適当に出てもそれは――」
笑ったままで、ルディアンはゆっくりとイーガンスへ近づく。
「オレァね、悪党どもの中で二十年程生きてきて、ただ一つだけ護って来た事がある。およそ悪ってモンの全部を経験してきたが、それだけは守ってきたつもりだ」
「ま、待てルディアン。私とお前は仲間だろう?」
背が戸に当たった。開けようとすると――外から鍵がかかっていた。
「あんたのせいで風邪ひいちゃったわよ」
女の声が戸の向こうから聞こえた。
「それはね、部下を売らない事だ。見捨てもしたし、オレ自身の手で始末した事なんざ幾らでもある。だがね、ハナから裏切るつもりだった事はただの一度もねえんですよ。こいつはオレのちょっとした自慢でね」
「待て! 待ってくれルディアン! 金か? 金ならある、だから――」
笑ったまま、鷹の眼を持つ男は言った。
「ああ、もういいよ。あんたの娘さんからしこたま貰うさ……そうそう、一つだけ感謝する。あの娘はあんたよりも随分と使えそうだぜ? 取り持ってくれて、ありがとさん」
「ディアドラ! 私を売ったのか!」
一瞬の抜き打ち。
肉の弾ける音と共に、イーガンスの首が宙を舞う。
「馬鹿言うな。お前が散々売ってきたんだろうが――こいつぁ釣り銭みたいなもんだぜ」
ルディアンは剣の血を拭い、鞘に収めた。
「セロ、アルワッドを呼べ。死体は作った、予定通りに動くと伝えろ。そのままお前はファランを探しに出ろ、何人使ってもいい――奴を、必ず探し出せ」
「解った!」
走り去る音。
ルディアンは顎髭を撫でながら腕を組む。
「さて……後は仕上げを御覧じろ、ってトコだな」
呟き、床に転がる躯を蹴とばした。
「親ってモンについて、一度酒の席で話してみたかったんだがね」
勿論、死体は何も語れない――。
新居は寒いままだった。
まだ召使の数も少なく、暖炉に火を入れる事すらままならない有様だったのだ。
「寒いぞ、もっと薪を用意しないか!」
ランスターが命じている横で、ディアドラは薪を拾って暖炉にくべる。
「ディアドラ……そんな事をして手が傷ついたらどうするんだい」
「あらランスター様、それならランスター様がやって下さいませ」
そう言って、薪を渡す。
しばしぽかんと口を開けていたランスターは、やがて「よし、一つ頑張るか」と薪を両手いっぱいに持って、暖炉にくべ始める。
「駄目ですよランスター様、始めは種火と言って、少しの薪だけで火を起こすのだそうですよ? 火が強くなってきたら窓を少し開けて、風を少しでも入れるといいのだそうです」
ランスターは驚いた顔でディアドラを見る。
「よく知っているねえ」
「ええ、友達が教えてくれたのです」
二人は肩を並べて暖炉の火を付けるのに夢中になった。
笑い合い、作業していると召使達が微笑ましく此方を見ているのに気付く。
ランスターは追い払おうとしたが、その手を取って、笑っている者達の中から一人を呼んで、手伝って貰う事にする。
――やがて種火は太い薪へと燃え移り、暖炉の中に強い炎が揺らめいた。
「ありがとう、貴方の御蔭で火が付きました」
「御安い御用でございます、奥様」
召使と微笑みあう。
隣のランスターが懐に手を入れるのを制し、囁いた。
「ランスター様、こういう時は……ありがとう、だけでいいのですよ」
「い、いや、しかし僕は容易く言葉で礼をしてはいけないと教えを……」
「貴方はこの館の家長なのだから、ここでは貴方が王なのですよ? 貴方は貴方の思うが侭に振舞うべきです――おかしい所は私と一緒に直していきましょう?」
少女は額の汗を拭き取りながら言う。
若き英雄は、しばし戸惑いを隠せない様子でいたが……やがて意を決した顔になり「ありがとう」そう、召使へ言い放つ。
「おやすい御用でございます、旦那様」
初老の召使は二人に恭しく礼をして、他の召使達の中に紛れて行った。
「……なんだか気分が良いよ、ディアドラ」
「そうですか、それは……とても、よかったです」
二人は顔を見合せ微笑むのだった。
全ての部屋の暖炉に火を灯せた頃、夕食が出来上がっていた。
ランスターもディアドラも、煤で手がすっかり汚れてしまい、食堂で手を洗わねばならなかった。肩を並べて手を拭いている時にランスターが囁いた。
「食事の後に、衛兵達を呼んでくるよ。君は此処にいておくれ」
「ランスター様、召使さん達を皆家に帰したいのですが、よろしいですか?」
ランスターは血相を変え、慌てて首を振る。
「とんでもない! 君が一人になってしまうじゃないか!」
「ええ、私は独りになりたいのです」
微笑む肩が掴まれた。
「……君は、何を待っているんだ? 襲撃者じゃないのか、此処に来るのは」
肩を抑えられた少女は少しだけ、俯く。
「杞憂に終わるかも、と言ったではありませんか」
「君がそれを知るのは何故だ?」
「……ランスター様、私は――」
言葉が悲鳴に止められる――召使の一人の声だった。
二人は顔を見合せ――ランスターは剣に手をかけ走り出す。ディアドラはその背に従った。
「どうした!」
「あ……旦那様……」
召使の数名が玄関広場に集まっていた。
「何があったのだ」
「それが……館を囲む木の合間に動く人影を見たって、この子が」
ランスターは険しい顔を作り外を見た。
「衛兵!」
声を上げると、僅かに連れて来た数名の騎士が走り寄って来た。
彼等はランスターを護る為の少数の精鋭だった。だが、声に呼ばれてきた数はたったの五人。今警邏に当たっている者を集めても十人の筈だった。
「式典の後ですまないが、警備を強化したい。今すぐ馬を走らせカスヴァルドの元へ向かって欲しい……一人ではいかんな、二人、いや、三人で行ってくれ。道中充分に気をつけよ」
「しかしランスター様、それではこの館の手勢が薄く……」
「それが私の我儘だったのは認めよう……今は危機が迫っているかもしれぬこの状況に対応せねばならん、全騎士と召使達を一所に集めよ、守りもそれなら少なく済む。私も警備に加わる、さあ動け、急ぎ馬を出すのだ」
騎士三人が「では我等が」と玄関から外へと出て行った。
館の中が俄かに騒がしくなり、怯えた召使達が騎士の誘導で玄関広場に集められる。
ランスターが命令を下す様は威風堂々としていて、支配者の器を充分に感じさせるものだった。
ディアドラは、そんな若者の顔を見て人知れず安堵する。この人は、強さをちゃんと持っていてくれるのだ、と。
そして……ざわめく落ち着かない空気の中、そっと通路へと身を隠す。
「……ごめんなさいランスター様」
たった一人、中庭へと向かう。
彼が近くにいるのなら、私がすべきことは――。
少女は闇を恐れない。闇に潜む者の中に、彼がいるのなら。
唯一人、少女は中庭への戸を開くのだった。
『計画』が乱れているのに気付いた時にはもう遅かった。
一人、また一人と数が減っていき、気が付けば五人だけになっていた。
イーガンスが集めた手勢は五十と聞いた。
数名が別件で動いていたとはいえ、おおよそ四十の人間があの森の中で音も無く屠られた事になる。闇に生きるを生業とした者達が、闇の中で死んでいく。
それは、有り得ない恐怖だった。
群れて動く事に慣れないとはいえ、それだけの人数を静かなるままに消していくとは、一体どんな業を使えば成し得るというのだ。
「もうすぐ馬の場所だ」
誰かが呟く。
雪と木々を踏み荒らしながら森の中、五人は必死に逃げていた。
もう沢山だ。
誰しもの心にあったのは、その言葉だけだろう。
この場から遠くに離れ、今日の仕事は無かった事にして彼等がいつも潜む住み慣れた街の闇へと戻る。そうすれば彼等にとっての日常が戻って来る筈だ。
暗い森の中、少しだけ開けた場所に出る。
そこは、先程まで生きていた今回限りの仕事仲間達と計画を打ち合わせた場所だった。
「ひゃ、ひゃあっ」
誰かが間抜けな声を出す。
だが――その声の理由を悟り、全員が息を飲んだ。
首。
森に開かれた場所。先ほど仕事仲間達と打ち合わせをした所。
そこに……先まで喋っていた者達の首が、四十近く、横一列に並べられていた。
「お、鬼火だ……鬼火が出た……」
「冥府へと誘う炎……」
「よ、止してくれよ……俺は死にたくない……」
「いいから、早く逃げるんだ!」
暗殺者達は怯え、惑いながら馬を探す。
馬、馬はどこだ。
馬が何処にも、居ない。
「何で獣の声も聞こえないんだよ!」
「おい、いいから此処を離れよう……此処はもう、危険だ。このまま――」
肉の裂ける音がした。
声が止み、一人の身体が崩れ落ちる。
「い、いるぞ!」
倒れた男から離れ、四人は互いに背を合わせ、周囲を警戒する。
雪に覆われた森の中は獣の声も、虫の音すら聞こえない。男達の荒い息だけが残り僅かの音だった。
邪なる沈黙。
空気が殺意に満ちている。
闇の中で、妙に映える白い雪が無気味であった。
「な、なあ! もういいじゃないか! 俺達はもう降りる! 金も返す! だから、見逃してくれないか!」
一人が突然そう叫んだ。
その叫びに感化されたかのように、両隣の男が叫び出す。
「お、俺もだ! もうこんな仕事は受けない!」
「俺もだ! イーガンスの仕事はもう受けない、だから……だから見逃してくれ!」
そして……初めに叫んだ男が背にしていた、最後の一人が呟いた。
「駄目だ」
次に聞こえてくるいくつもの肉が裂ける音。血の噴き出す音、雪を紅く染める音。
剣鉈が鞘に収まり、そこに立つ者は独りとなっていた。
「後一人」
そして鬼火は再び闇の中へと溶けて行く。
中庭は、ディアドラの我儘を聞いてもらった場所だった。
イーガンスの館のそれと酷似した造りの庭園は、森を一望できるようになっている。夜の森、闇の色をした木々は恐ろしげに見えるが、しかしどこか優しげにも見えた。
ディアドラは、木々を見上げながら歌い出す。
いずれランスターが自分の不在に気付くだろう……それまでに、何回歌を唄えるだろうか? 少女は旋律を紡ぎながら、彼を待つ。
一目だけでも見れればいい。そのまま殺されたって構わない。
どんな手段であれ、この身を彼の、彼だけのものにして欲しい……ディアドラの願いはそれだけだった。
がさりと、森の方から音がした。それは木々を分け進む音。
――胸が高鳴る。
「ファラン?」
歌を止め、中庭から森へと抜ける生垣の通路を歩く。
「ファラン……?」
確かに音が聞こえたのだ。
あの少年が、闇から湧き出るような、そんな気がして少女は森への道を小走りに進む。
「ファラン……!」
森への入口に出たその時――草叢から飛び出した身体を抑えつけられた。
「やあ、奥方様……夜分遅くに申し訳ありません」
「……!」
叫ぼうとした口に乱暴に指を突っ込まれた。血の味が口を支配する。
血走った眼の男が少女の身体を捉えていた。
「いやはや……貴方の呼ぶその男は化物だ。五十人からなる殺しの手練を皆殺しですよ。私は最後の生き残りと言う訳でして……」
もがく。しかし男の腕は万力のように動かない。
「どうか大人しくしてください奥様。乱暴に扱われたくは無いでしょう? このように」
手首を捻られた。その痛撃は少女の全身を稲妻のように走り、悲鳴を上げる喉すらが締め付けられて、ひゅうひゅうと息を溢すばかりにさせられる。
「あ……ぁ……」
「痛みに悶える女の顔は興奮しますな……しかし今は楽しめる時間も無いものでね」
涙が浮かび、滲む視界。
その視界の中、森の暗闇から、何かが――黒い水面を揺らすように現れる。
「……ファ……ラン……!」
全身をどす黒く染め上げた少年だった。
山吹色のざんばら髪すらが赤銅の色と化していた。
変わりの無いものは只一つ……瞳より焔立つ、蒼き炎。
すべてが、ディアドラの思い描いた通り、そのままだった。
悦びと苦しみに涙を流す。
「鬼火……さあ、見えますか? 止まって、剣を捨てなさい」
喉が絞められ、息が止められる。
しかし……少年は止まらない。
「か……あっ」
視線が少女へと一度だけ向けられた。歩みは、止まらない。
――剣鉈が抜かれ、鋼の歯軋りが響き渡る。
「そうそう、さあ、捨てなさい……止まって、な」
「だ、だ、め……ファラ、ン、捨てないで……!」
歩き出す。真っ直ぐに、此方に向かって。
「おい……止まれ、剣を捨てろ!」
「覚えてるぞ。アドレッセとか言ったな、お前……知ってるか? お前は既に、俺の間合いの中にある」
少年は呟きそこでようやく立ち止まる。
「ざ……戯言を」
「なら試せ。その女の頸骨を折る前に、お前を三回殺せるぞ」
蒼が燃えている。とても、とても美しい蒼が。
涙で滲む視界の中ですら、蒼い炎ははっきり見えた。
「どうした? 指にちょっと力を入れるだけだろ? やれよ、俺の脚とどちらが早いか試そうぜ――まあ、どちらに転んでもお前は死ぬんだがな」
「この女がどうなってもいのか?」
「俺の言葉が理解出来なかったか?」
「…………っ!」
拘束が剥がれた。
同時に鈍い鋼の音。
よろめく身体を堪えつつ、歪んだ視界に見えたのは男と少年が切り結んだ瞬間だった。
剣鉈と、二本の短剣がせめぎ合っている。
「すまん、嘘ついた。本当は、一回なんだ」
「な……舐めるな!」
火花が弾け、両者は間合いを取り直した。
大きく息を吸った後、二本の短剣を蝶のようにはためかせながら男は少年に襲いかかる。
閃く剣は、凄まじい速さの変幻自在。奇妙な軌跡を描いて少年へと迫るその剣は、躱すので手一杯の様に見えた。
「ファラン……!」
「女の前で、刻まれろ!」
草と雪を踏み荒らしながら二人の殺し合いが続く。
激しい攻撃を続ける男はどんどんと少年を追い込んでいる。
目にも止まらぬ速さで左の短剣が踊り、右の短剣は閃いた。剣鉈は飛来する蝶の如き剣先を受け、流しはするのだが、その惑わすような刃の舞の前に反撃へと転じる事が出来ないようだった。
初めて見る少年の戦う姿。
その表情は氷のように冷たく、無表情のままだった。
それは豺が獲物を狩るときのそれであり、孤高なるけだものの、生命の習わしを垣間見たような気がした。
「ぐうっ……」
何故か、攻め続ける男の方がどんどんと焦燥の表情に変わっていく。
蒼い炎を燃やす少年は、凍った面持ちのままで剣を捌き続ける……気が付けば、男の剣持つ手が血塗れになっていた。
刹那、剣鉈持つ逆の手に、煌めく刃を目が捉える。悟り、驚いた。少年は追い込まれていたのではない、追い込んでいたのだ。
ディアドラは……こんな状況の最中であるというのに、少年の体捌きに見入ってしまっていた。美しいとすら、思っていた。
「盗賊くずれにしては上出来だ」
「舐めるなと、言った!」
突然、男が此方を向くや――走り出した途端、首と胴が別たれた。
崩れ落ちていく身体。剣鉈の血を払う少年。
「背を見せるとは余裕だな」
血飛沫が舞った。
男の身体はディアドラの目の前で斃れ伏し、噴き出した血は婚礼衣装の純白を赤く穢し、染め上げた。顔にかかった血潮の熱さと粘りを感じ、少女は小さく呻き声をあげた。
少年は剣鉈を腰に収め……そして、音も無く背を向ける。
「待って!」
「ディアドラ、もう何も心配は無い。お前の敵は鏖殺した。お前の……夫のもな。そして俺は、お前を殺しはしない。絶対にそんなこと、しない」
歩き出す。
「待って! 待ってファラン!」
「……さよならは言った筈だ」
背中が応える。でも、足は止まってくれない。
「お願いです、待って……待って! 好きなの、貴方が好きなの! お願いだから、行かないで、私の傍に……ねえ、お願い……!」
「俺もだよディアドラ。だから、お前の敵は全て殺す。だけど、俺は豺だから……それだけだから……」
少女は背中を追って走りだす。
今走らなければ、失ってしまう。それは、絶対に厭だ――。
「ディアドラ!」
ああ、なのに、足が、足が止まる。
でも、少年の足は止まらない。
背中にかかった声は少女が護らなくちゃいけない者の声。
ああ、遠ざかって行く。私は――。
膝が折れ、少女は嗚咽を漏らす。
その横に夫が並び、声を張り上げた。
「待て……待て、山犬!」
少年の足が、止まった。
「お前が……お前がそうか、ファラン、とかいったな……」
「お前はランスターとかいったか」
コルドアの英雄を前にして、血塗れの少年は太々しいを儘にする。
「ディアドラは、私のものだ!」
「……なら、幸せにしてやってくれ」
胸が、苦しい。
嗚咽を止められなかった。
「ふざけるな、ふざけるなよ……ディアドラの涙が見えないのか! 彼女は……彼女は貴様を想って泣いているんだぞ!」
「ランスター……さま……」
驚き見上げた青年の顔は真摯であった。
少年が振り返る。血濡れの戦士は初めて会った時と同じように蒼い炎を眼に宿し、無頼な姿を隠しもせず、けれどもどこか優しそうな少年の表情で此方を見ていた。
「その涙を拭くのはお前の役目だろ」
「私を憐れんでいるのか……?」
少年は肩を竦めた。
「お前こそ、俺を憐れんでいるのか?」
「!」
ああ、そうか……。
私は、なんと愚かなのだろう。
ファランは……私達が決めた事を、護ってくれているだけなんだ……!
彼は豺。
私はこの方の守人。
二人はそう決めて、あの夜に袂を分けたのだ。
この苦しさは、辛さは、彼もきっと同じなんだ……。それなのに、私は……。
「――お前には、貸しがある」
ランスターが剣を抜く。
「死にたいのか? 俺は抜いた奴に容赦はしないぜ」
少年が剣鉈に手をかけた。
「……お、お止め下さい。ランスター様」
「止めないでくれディアドラ。これは、僕の意地だ」
ランスターが前に出て、構えた。
対峙する少年は腰を低くして、鬼火を揺らめかせる。
二人の戦士が其処に立つ。
「僕が勝ったら――ディアドラの願いを聞いてやれ」
「フン」
少年が投げつけられた言葉をせせら笑った瞬間、ランスターが動いた。
まるで稲妻のように一直線に振り下ろされた剣は――深く大地を抉るのみ。
そして振り降ろした体勢のまま、ランスターの身体が崩れ落ちた。
「ランスターっ!」
「――――っ」
「弱過ぎだ」
ランスターと擦違った少年は、拳だけを握って呟いていた。膝を突いて苦しむランスターを振り向いて、歩み寄りつつ剣鉈に手をかける。
「コルドアの英雄さんよ。我を通したいなら、もっと強くなるべきだったな――」
「いけません!」
ランスターを庇って立つ。
喜んでこの命を差し出そう。貴方に奪われるのならば、どんなものでも……。
そう思い、見上げると……ファランは、頭を、撫でてくれた。
そのかお。
「幸せにな、ディアドラ」
「あ……待っ……」
森の中へと消えて行く。
きえていく。
あんなに優しい笑顔ができるなんて……知らなかった。
ぼろぼろと涙が溢れ出す……堪え切れない。
「……なにを……しているんだ……追いなさい、ディアドラ……今なら間に合うから……」
足元で、ランスターが苦しそうに呟いた。
首を振って、しゃがみ込む。
「貴方を放って行ける訳がありません……私は、貴方の妻ですから……」
「彼が、好きなんだろう?」
頷いた。
そして、ランスターに肩を貸す。
「なら、行かなきゃ駄目だ。君はきっと後悔する」
「いいえ、私はけして後悔しません。彼は、私の為に戦うと言ってくれました。それで、もう、充分……」
肩に回るランスターの手に力が籠る。
「行かなかったら、君を奪う事になる」
「優しいのですね……ランスター様。貴方がそんなでなかったら、私はすぐにでも走り出していた事でしょう……貴方のせいなのですよ?」
この人を護ろう。
それが……私とファランを繋ぐ事になるのだから。
「ランスター様こそ、私の汚さを知った事でしょう。貴方が望むのなら、私はいつでも貴方の妻の座を降ります……ただ、御傍にはいさせて下さい……貴方を御守りしたいの……」
言葉を最後まで紡ぐ前、身体を抱かれ、止められた。
「……中に入りましょう? 今夜は、冷えますから……」
「ああ……」
雪が降っていた。
雪だけはいつまでも変わらない白さのままで、穢れた全てをまた純白に変えてくれる。
私は……雪にはなれそうにない。
ファラン……。だって、今でも私は貴方の事しか……。
雪は、少女の問いに応える事無く、ただ黙って降り続けるのだった。
「……報告は以上であります」
頭を垂れた戦士の言葉が終わる。
カスヴァルドは腕を組んで男を見ていた。
「イーガンス乱心、か。まあ理由は幾らでも考え付く……コルドアの民草には負担をかけてばかりだからな。内政面が弱いのは目下最大の課題と言えよう」
「どのような形で公表致しますか」
「ランスターの婚礼が終わったばかりだ、今はまだ早いな……ルディアン、死体の保管を任せる。後十日、何処かに隠しておくのだ」
名を呼ばれた男は頷いた。
「は。仰せのままに」
「……で、本題に入ろうか」
イスカニール宮殿の一角。執務室の中は暗いままだった。
本の山に埋もれるようにして二人の男は立っている。
「本題……ですか?」
「イーガンスを見限った理由は何だ?」
「!」
暗い部屋に緊張が走った。
カスヴァルドは冷然な視線を目の前の男に向け、心中では喝采していた。
この泰然さ、戦士にしておくにはあまりに惜しい男だ、そう思えたからだ。
「さて……何故そのような嫌疑をかけられるのか。まずそこから理解ができませんな」
「それはそうだ、これは嫌疑ではない。私の推測だからな」
「お戯れを」
「言葉遊びだよ、ルディアン……例えばだ、イーガンスの莫大な遺産を自由にできる術を見つけてあの男自身には利用価値がなくなった。なれば後ろ暗い協力者、秘密の共有者は早い内に舞台から退場してもらった方が都合がいい」
楽しげに言の葉を弄ぶ。
ルディアンの眼の色は変わらないままだ。
「イーガンスの望みはコルドアの支配。それにはランスターが邪魔だから、殺す……そんな単純すぎる思想の持主と長く付き合う気は元より無かった。その暗殺自体を利用して、ランスターではなくイーガンスを始末する」
「ついでにランスター殿下を上手くお隠しに出来れば好都合……ですか。それはまた、随分と都合の良すぎる絵ですなあ」
鷹の返答だった。
眼光の中に微かな殺気すらを感じるが、カスヴァルドは動じないままに遊戯を続ける。
「そうだろうか? 私がその絵を描いたのならば、実行していたな。こんな不安定な治安の状態だ、混乱に乗じればいくらでも隙はある……成功させる自信があるぞ。むしろ、時間が経てば経つほどに好機は遠くなるだろう」
「カスヴァルド卿、結果の後にそれを言うのはいけません。物事には、常を持って意外な障害が起こるものです。真の策謀とは、混沌を呑みこむ事から始まるのですから」
「成程」
二人は乾いた笑いを響かせた。
そして、同時に沈黙する。
「ルディアンよ、ランスターに王才はあると思うか?」
静かに呟いた。
返答次第で伏兵を動かす――部屋の中には手練が五人潜んでいた。
「さて、難しい質問ですな。それは、コルドアの? それとも……カリナーンの?」
「!」
驚愕を、返されてしまった。
この男は……。なんとも、大きく出たものだ。
そう思いつつ己を顧みる。
……兵団を運営する多忙に、私は展望を見誤ってはいないだろうか?
「たかが都市国家ひとつ奪っただけの勢力が、地図を塗り替えて行く旭日昇天。ティターニア帝国を破ると言うか……大きく出たな、ルディアンよ」
「腹を減らせた豺が、大四手熊を殺す事もあるのが自然の習わしです。それに、それが成されなくばこのカリナーンの真なる盟主が決まる事は無いでしょう」
「…………」
再び、沈黙。
今度の沈黙には意思があった。
持札を、どの程度まで見せるべきかという意思が。
「ランスター暗殺未遂の一件は、公表しないままとしよう」
「同感ですな。今は無用な混乱は避けるべきです。公表する時期もありましょう」
「イーガンス……帝国残党との奸計の末、人手に掛かったというのはどうだ? あの男が帝国武将に媚を売っていたのは元老院周知の事だ。残党の狼藉とすれば話も通じ易かろう」
「は。で、あるのならば既に工作の準備はできております……帝国兵を十人程生かして捉えております、彼等の所業と出来ましょう。命の保証あらば彼奴等も証言を合わせると含めてあります」
カスヴァルドは再び心中で喝采した。
行動力の面では完全にこの男が上だ、それは、認めなくてはならないようだ。
同時に思う。この男が……欲しい。だが、御せるか……?
「よかろう。この一件、処理は全てお前に任せよう……望みは?」
「褒美を貰う訳にもいきませんな。なればカスヴァルド卿、再びこのような席を作る時間を確約していただませぬか? できれば、定期に」
――自分から、来たか。
獅子身中のものとなるか、それとも、火と知らずに入って来るか?
「お前と話すには、この席だけでは時間が足らずに過ぎるようだしな」
「……承諾の賜り、感謝致します。では、早速行動に移しましょう」
背を向ける戦士に声をかけた。
「ルディアン、イーガンスの手記は燃やしておけば良いな?」
「は。自分には関わりの無き事です」
揺るがない背中が応える。
そして、戦士は出て行った。
暫く経って後、伏兵達が姿を現し、恭しく礼をしてから部屋を出て行こうとする。
「……ん? 君、待ちたまえ」
「は。私でしょうか」
気になり声をかければ女の声が返る。
見慣れぬ騎士だった。鉄仮面に顔を隠す姿、恐らく女であろう姿形はどの隊でも見た事が無い。
「……見慣れぬ顔だな」
「アリアンヌと申します。コルドア正規兵から志願してディアドラ様の近衛隊を任じられたものであります――今は手練であれば誰でも良いと命じられ、参じました」
「顔を見せよ」
「……はっ」
鉄仮面を取ると……見事な金の髪、琥珀の眼、それを覆うかのように酷い火傷の跡を左頬に残す顔が覗いた。輪郭すらがやや歪んでいる。
醜さに思わず目を逸らしそうな程であったが、カスヴァルドは平静を纏ったままで一礼をする。
「すまぬ」
「いえ、何も気にするものではありません……では、失礼致します」
そう言って、騎士礼の後に部屋を後にする女騎士。
カスヴァルドは気付けなかった。
女の首に、彼の豊富な知識を以てしても見覚え無い騎士勲章が掛けられていた事に――。
コルドアを見下ろす事の出来る城郭の一角。
暗い空。夜闇から白い羽のような雪が絶え間なく降りてくる。きっと空の上には鳥肉好きの神様がいて、白い鳥を締めまくっているのだろう。
小さい頃、そんな事を父代りの男に言ってみせて、散々大笑いされた事を思い出す。
豺は雪に半ば埋もれるようにして、そこに座っていた。
飼い主を裏切って、大切な者を見届けて……。
だが、悔いは無かった。
満足だった。
でも……幸せでは、なかった。
少年の眼から止め処なく溢れ出る涙。それは雪を溶かし、頬を流れ続けていた。
これから何処に行こう?
帰る場所は捨てた。温もりを求めた場所は失われた。
これから何処に行こう?
自分は、あの旅鳥なのかもしれない。飛べもせず、走りもせず……。
「よお、小僧」
声に首を巡らせる。
そこに、鷹の眼を持った男が立っていた。
慌てて眼を擦る。
「……俺を殺しにきたのか」
「いや、迎えに来た」
笑いながら隣に座る男。
「俺は……あんたを二度も裏切った。あんたと一緒にいる資格なんて……無い」
「馬鹿言うな。そりゃオレが決める事だ。お前の決める事じゃねえ」
「…………」
押し黙るとルディアンは歯を見せて、雪の積もった頭をわしゃわしゃとやってきた。
雪が、こぼれおちていく。
「あの若造は、もう少し生かしておこうと思う。少し、やり方を変えようかと思ってな」
「……そりゃあ、俺には嬉しい話だな。あんたに刃を向けずにすむ」
「……はっ! 小僧が一丁前の口を利くようになったもんだなあ?」
ルディアンは大声で笑い飛ばす。
ファランは一度鼻を啜ってから呟いた。
「ディアドラの敵は全部殺す。それが俺だ」
「……なら小僧、何故あの娘を奪わなかった。お前は鎖の無い、自由な獣になれたんだろう? 奪い尽くせば良かったじゃねえか。あの娘も、それを望んでいた筈なのに」
「鎖……」
雪の降る夜空を見上げた。
「俺はいろんな鎖でがんじがらめだ……ディアドラが好きだ。セロが好きだ。ルディアンが好きだ。山犬どもが好きだ。そんな生き方が、好きだ。ほらみろ、鎖だらけだ! 俺はどこまでいっても鎖付きの豺なんだ。そんな獣は……あいつの傍にはいられない」
ルディアンは、成長した豺の横顔を見る。
険しさが増したその烈しい表情。しかし眼の光は鋭さだけではなく、深さを湛えていた。
「けどさ……もう迷わないよ。俺はもう、迷わない」
無理に笑いを作るファランの頭をもう一度撫で、立ち上がる。
「迷ってもいいんだ、ファラン。本当に大事なのは、答えを見つけようと生きる事だ……お前は、よくやった」
「…………」
「さあ、帰ろうぜ――オレには、お前が必要だ」
「俺、さ。ディアドラの唄が好きなんだ。今でも、好きなんだ。忘れられねえ……」
鷹の眼に、穏やかな光が灯る。
少年の山吹色の髪を撫ぜながら、ルディアンは何度か頷いた。
「唄だけじゃないだろ?」
「――――っ」
足に縋って来る少年。
嗚咽を漏らすその頭を、いつまでも、撫で続けた。
ランスターの婚礼式から、二十程の日を数えたある日の事。
その日は朝から山犬の宿舎の空気が慌ただしくなっていた。
「……んー、これでいいかな?」
礼装を着たセロは、姿見の前でくるりと回って見せる。
ふわりと、布と一緒に燃えるような赤い髪が舞う。
「まだこれしか伸びてないかあ……」
前髪を摘んで呟いた。
髪はようやく背中に届いたようだ……邪魔で仕方ないと思っている時期や、男を騙すのに便利だと思う時期もあった。そんな遍歴の末、今は腰くらいまで伸ばしてみようかと考えている。
……ディアドラのように。
「似合わないかしら……やっぱり」
「そんなことねえさ、良く似合うぜ」
「そんな、嘘ばっかり」
「本当さ、綺麗だぜ」
「……うれしい」
今、セロの部屋には一人しかいない。
枕の横にこっそりと人形が置いてある部屋の中。そこに展開していく一連の会話は当然、一人の少女の声だけだ。
「髪だけじゃないさ……お前は、本当に綺麗だぜ」
「ああ……あっ、だめよ、皆が呼んでるのよ?」
「いいじゃねえか……待たせておけば……」
「よかねえよ、何やってんだおめぇは」
「!」
会話の中に異音が混じる。
振り向けば、戸を背凭れにしながら山吹色の髪持つ豺が呆れ顔で立っていた。
「……いつからそこに?」
「あ? 今だけど?」
「そう……死ね!」
手が閃くと同時にファランのすぐ顔の横に打剣が刺さる。
動作を悟らせず投げる巧みがセロの業だ。虚を突かれ、ファランは剣が刺さるまでそれに気付けなかった……つまり、本当に当てる気があれば殺されていたという事だ。
「うおっ!」
「チッ、外したか」
「外したか、じゃねえ! 殺す気か!」
「死ね! って言ったじゃない」
戸から短剣を抜いたファランが顔を真っ赤にして詰め寄って来る。
コルドア攻略からこっち、なんだかんだとあったけど、まだまだ子供っぽい所は変わっていない。
近寄ってがなり始める少年を見ながら、嬉しさを堪えつつにやにやと笑って見せた。
「このアマ……いつかしっかり教えてやろうと思ってたんだ、いいか? 身体に風穴拵えさせられて、笑ってる奴ばかりだと思ったら大間違いだぞ!」
「淑女の部屋に戸も叩かないで入ってくれば、そりゃあ打剣の一つも御馳走になるわよ。あんた、気配りって言葉知らないの?」
「何が淑女だ、テメェはいつも俺の部屋にずかずか入って来るじゃねえか」
「ばっかねえ、男と女は違うのよ」
ファランがこころなし此方を見上げながら睨んでくる。
……空の様に広く、遠い、蒼い瞳。
少年は小さい頃から、ずっと変わっていない。
「……? おい、なに呆けてやがる。というか、人の話を無視すんな!」
「あ? あぁ、ごめんごめん……あんた少し背、伸びた?」
「え……そ、そうか?」
目線が合い始めてきている。
少し背の低い方だったから時間がかかったけれど、もうすぐ抜かされてしまうのだろう。
「そういえば少し目線が合ってきてるな……へっ、もうじき抜くな、ざまあみろ。もう馬鹿にさせねえぜ」
「そうねえ……」
背が伸びたって話をするとすぐ機嫌が良くなるのよね。本当、子供だわ。
セロは、苦笑しながら山吹色の髪を撫でる。
「……なんだよ」
「帰ってきてくれて、ありがとう」
豺は目線を逸らす。
こういう、露骨な所がたまらない。
「何を今更……それに、別に、お前の為じゃねえ」
「ぜんぜん、さっぱり、まるっきり、あたしの為じゃない?」
「……ちッ……少しは、そうだよ」
ファランは口を尖らせそう言って、背を向ける。
顔を見られたくないんだ、解ってる。
「早く来いよ、ルディアンが待ってる」
「ねえ、ファラン」
「ああ? てめぇ、急げって言ったのが聞こえなかったのか?」
いいや、今はまだ止めておこう。
この背を見れる場所にある限り、そのうち機会は巡って来るだろう。
あの美しい銀髪の乙女に、いつか勝てる日が。
「はいはい、行くわよ。礼装って一言でいったってね、女のは着るのにえらく時間がかかるんだからね。普通は手伝いがいるくらいなのよ?」
セロはファランの背中を追いかけだす。
今日は、大事な日。
ランスター兵団長がこの宿舎を訪れる日だった。
「……コルドアで迎撃しない?」
「そうだ、軍船を水際で迎え撃つ。船から物資を下ろす前に叩く事が出来ればかなりの有利を得られるだろう」
用意したはいいが使われないのではないかと笑われていた山犬隊宿舎の会議室。
今そこに多数の人間が控え、張りつめた空気の中にいた。
部屋の中央、ただ一つの円卓に座る四人の男。
フィオナ兵団長ランスター=オーリン。
フィオナ兵団副団長ノイッシュ=オーリン。
フィオナ兵団参謀カスヴァルド=アーントランド。
フィオナ兵団別動隊。山犬隊隊長、ルディアン。
周囲に立つは正騎士の護衛達、それに山犬隊幹部。
最高会議にも近い面々を揃えた上で山犬隊宿舎を軍事会議場にするという、カスヴァルドの提案は他の誰もを驚かせたが、ランスターは強く賛同し、それを実現させた。
「帝国が係留に使うだろう港町コルセスカはチェビオット王家の領土だ……あの国は現在帝国と中立協定を結んだ状態にある」
「チェビオット王家に弓引くつもりなのですか……!」
ランスターとノイッシュのやりとりにカスヴァルドは頷いて見せる。
「コルドア正規軍と我が軍を合わせて五千がせいぜいだろう。対する帝国は恐らく一、二万の兵を用兵すると予想する。問題は、数よりも経験と連携だ。用兵に長ける者もそう多くいないこの状況、士気が勝っていれば儲けもの……はっきり言おう、今のままでは勝てん。それはフィオナ兵団を発足する際に言ってあった筈だ」
カスヴァルドの宣告に二人が黙る。
ルディアンはいまだ沈黙を守ったままだった。
周囲の正騎士達にも動揺は走ったようだが……山犬の幹部達だけは、口元に不敵な笑みすら浮かべていた。
礼服に身を包んだセロが卓に飲み水を運ぶ。
ランスターが一瞬でもそんな女の胸の谷間に目を運ぶのを認め、ルディアンのすぐ横に立つファランは唸り声をあげそうになり……それを必死に堪えた。
「コルドアを攻略できたのは、運が良かっただけだと私は判断している。即時撤退はギャリック候の失策が無くても実行するつもりだった。元からあの出兵は、諸国への、我が兵団の宣伝の様なものだったのだ」
「なんだって? それは初耳だぞカスヴァルド」
「勝ったのだから言う必要はあるまい? 改めて各地の中立王家に密使を送りつつ身を潜める心積もりと用意があったのだ……だが、我々は、勝った。勝ってしまった」
ランスターの仰天した顔を気にせずカスヴァルドは続ける。
「この勝利の背景に山犬隊、ルディアンが深く関わっている事は既に此処にいる皆が承知している事だろう。彼等は奇想なる戦術を以てして戦略を左右させたのだ……私はもう一度これを使うべきだと考えている」
「ま、まさかまた暗殺を……?」
「はは、流石に王城の奥深くにいる王の首を取るのは無理だろう……まあ、どのような策を取るかはルディアンが考える事だ」
ノイッシュに応えながら、参謀はルディアンを見据えた。
問われた男はようやく出番かと言いたげに、大きい動作で一礼してから口を開く。
「王の首、取ろうと思えば取れますぜ。だがまあ、それは最後の手段ですな。先ずはコルセスカを盗めればいいでしょう。あっちこっちと喧嘩する体力はありませんしな」
事も無げに、そう言った。
隣に立つ豺は「フン」と小さく鼻を鳴らすのみ。
「さて、私が言いたいのは此処からだ。ルディアンにこの話をした時、この男が要求した事を伝えよう……兵団の内千五百人を山犬隊に引き入れたい、との事だ」
「!」
「!」
ランスターとノイッシュが同時に驚愕する。
千五百人……それは、山犬隊が二千三百の部隊、旅団になると言う事だ。
騎士叙勲を与えたばかりの男にそこまでの兵力を授けるなど、全く前例のない事だった。
「それがあれば、その兵団のみでコルセスカを落とし、かつチェビオットの反攻を許さないとルディアンは言ったのだ」
「おおっとカスヴァルド卿、後ろの方のまでは言ってませんがねえ?」
「ん? そうだったかな?」
二人が不敵に睨み合う。
しばしその様子を見たランスターが大きく息を吐き、口を開く。
「どうやら私の預かり知らぬ所でこの話は進んでいたようだな……だが、問うまい。私はカスヴァルドを信じて此処まで来た。そのお前が推す策に異論は、ない」
鷹の眼に多少の驚きが走る……豺にもだ。
この男、随分と強い眼を持つようになった。
ファランは金髪の若者が光らせるその眼の奥に深緑の瞳を思い出し、誰にも気づかれぬよう喉の奥で少女の名を、呟いた。
「苦肉の策だと思って欲しいランスター……本当は、君にこんな穢れた道を選ばせたくは無かった……」
カスヴァルドの表情には苦悩があった。
しかし、すぐにその表情に冷静を戻してルディアンを向きなおす。
「聞いての通りだ」
「では閣下、この私に命令をお与え下さい。直ちに策を打ちましょう」
ルディアンはランスターへと進言する。
……その顔に重い決意を秘め、ランスターは言った。
「ルディアンよ。我等に勝利を約束せよ」
「――御意」
円卓の場にあった者達が一斉に立ち上がり、兵団長へ一礼する。
それを見届けてからランスターは立ち上がり、そして……ファランを真っ直ぐに見据えてきた。
豺は応えるように蒼い眼を合わせる。
「…………」
「…………」
奇妙な、沈黙。
しかし、誰も動ぜずままにその睨み合いの結末を待った。
「私の豺になってくれるのか」
「あんたが、それを望むなら」
「望む」
「ならばあんたも俺の鎖だ。せいぜい俺を使えば良い」
二人は――睨みあいながら、口を歪ませ、笑い合った。
笑顔のままにランスターは剣を抜き、高らかに宣言する。
「しかと聞き届けよ。私は今日この時より此処より始まる王となり、帝国の牙を折る正義となる! 我が正義の目指す先は唯一つ――勝利だ!」
部屋の中に湧きたつ歓声。
それは、山犬達が出立の準備を始めるその時まで続くのだった。
終章
出陣の日。
山犬隊、総勢二千三百は南へと進路を取って進軍を開始した。目指すは他国領土、港町コルセスカ。
折しも雪は止み、空には青空が見えていた。
「一月くらいはこの天候が続いてくれりゃ嬉しいんだがな」
軍勢の作る行列の中間、馬上のルディアンが呟いた。
「進軍の足を見て……コルセスカまで二十日ってところか」
戦士長の馬に並んで進む、馬車の手綱を引く大男が返す。
振り向けば、コルドアへと続く小高い丘を下る道に長き戦士達の軍列ができていた。
「……随分大きくなったな」
「まだまだ足りんよ」
「……だな」
鷹と大男は口元に笑みを浮かべ合う。
「ルディアンは、何人いれば満足なんだ?」
馬車の荷台に寝転がって短剣を弄んでいるファランが問うてきた。
その問いに大男と鷹が顔を見合せ、同時に首を捻る。
「疑問だな……何人いればいいんだろうな?」
「さてなあ……オレも真面目に数を考えた事は無かったな」
「?」
二人のそんな言葉に同じように首を捻るファランであった。
すると、必要でない限り口を開こうともしない筈の、馬車に座った黒衣の男が珍しく喋り出す。
「帝国を押し返すのか、帝国を征するのか、帝国を滅ぼすのか……いずれによって、必要な数も変わるであろうよ。大事なのは数ではない……」
しゃがれた声を三人は黙って聞いた。
「数ではない、か……まあ、とはいえ……数が無けりゃあ先ずは喧嘩も出来ねえからな」
ルディアンの苦笑い。ファランは黒衣の男へ上体を起こして問いを続ける。
「ガラトリンク、大事なのは、何なんだ?」
「思想」
「思想……? 考える事で戦に勝つ? それって、戦略とかそういうものの事か?」
「違う。ク・ファランよ、思想とは意思、観念、正義、信念、情愛……全てを指す」
ファランは再び首を捻った。
「そんなもんじゃ人は殺せないぜ」
「いいや、死ぬ。思想を殺す事、それこそが真の死なのだ」
「ガラトリンク、小僧に何語ってんだ。熱が出るから止めておけ」
考え込む前にルディアンの野次が来て、それにむっとしてしまい、思考が止まる。
「俺は馬鹿じゃねえ」
「馬鹿な方が、可愛いぜ」
「…………っ」
アルワッドが噴き出したので、後頭部に干し肉を投げつけてやるファランだった。
再び、寝転がる。
遥かな、遠い蒼が広がっていた。
「……旅鳥は、結局どうなれば幸せなのかなあ」
「おめぇ、まだそんな事言ってやがるのか」
呆れた声を出すルディアン。そんなファランの横に座るガラトリンクが……ファランの肩を叩き、コルドアを指さした。
「なんだ…………っ!」
声を途中で飲み込んだ。
皺だらけの細い指が指し示す先……離れつつあるコルドアの城郭の上に、一人の少女が立っていた。
銀の髪、白い礼装……穏やかで、悲しげな表情。緩やかな風に髪と衣が舞っている。
少女は大きく息を吸い、そして……唄い出す。
響き渡るは旅鳥の歌。
その声は透明で、艶やかで、冬の澄んだ空気も手伝って長い軍列のどこまでも届いていくのだった。
「…………」
「度胸のある娘だなア」
「いい声だ」
歌は、旅鳥が……崖から仲間を見上げ、しかしいつか必ず帰ってきてくれるのを信じて待つと、いつまででも待つと、そう締めくくられた。
歌が終わると共に、戦士達から雄々しい歓声が響き渡った。進軍すらが止まった。戦士達は手に手に武器を掲げ、思いがけぬ祝福を与えてくれた歌姫に称賛と、凱旋の約束を叫んでいた。
歌姫の、帰還を待つと伝えるまるで恋歌のようなその詞は、戦士達の士気を猛烈に昂ぶらせるのに十二分の威力をもっていたのだった。
「……古の、ヴァルドの如し」
「呪歌使いだってか? なんでも魔法に繋げるのは止めておけよ」
歓声の中、ルディアンとガラトリンクは少女を見上げる。
歌姫は、悲しげな表情で微笑み……誰かを、探していた。
「ファラン、行かなくていいのか?」
「……ああ、ここでいい」
少年は、口を固く結んでそう言った。
ルディアンは、その拳が固く握りしめられているのに気付き、苦笑する。そして、それ以上は何も言わない事にした。
「泣き虫のくせに……無理するなよ……お前はいつもそうやって、自分が決めた事には我儘を変えないんだからな……ディアドラ…………」
ファランは小さく呟き、少女に背を向ける。
――だが今は戦いの時。
豺は、せめてこの背中が少女に見つかれば嬉しいと、けして言葉にしない思いを胸にして、ただ真っ直ぐに前を見据えたのだった。
了
英雄は帰還する まんぼ @manmanbou
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