第3話「背信達の行方」

「うわああっ!」

 ランスターは跳ね起きる。そこは、寝室だった。

二つ並んだ隣の寝台を見れば、ディアドラが静かに寝息を立てている。

二人の寝室は酷く静かで、窓から見える雪の降っている音すらが聞こえそうだ。

「……なんて、夢だ」

 夢の中、己の首が飛んだ。

何者かに撥ねられたのだ。

断頭台に転がった首はほんの少しの間だけ生きていると、以前酒の席でカスヴァルドから聞いた事がある。そのせいだろうか、撥ねられた首のまま死ぬ事無く、床を見ていた。

 ――それを見下ろす者がいた。

床に転がる首のままでは、見上げる事すら敵わない。

(お前は誰だ?)

生首のままで問うと、彼は静かに答え……そこで、その名の恐ろしさで眼が覚めた。

「あの男のせいだ……」

 もう随分日が経っているのに、未だに身体が覚えている。

 刹那の殺意、全く反応が出来なかったあの恐るべき身のこなし。

 鬼火の、蒼。

「クソッ」

 苛立たしげに寝台据え付けの棚から酒を注ぎ、一気に呷る。

 しばし俯いた後、立ち上がって……寝息を立てる少女の上に突然圧し掛かった。

毛布を乱暴にとり、寝間着に手をかけた所で少女は目覚める。

「――っ!」

「ディアドラ……ディアドラ!」

「ら、ランスター様……! お、おやめ……下さい……っ!」

 名を小さく叫びながら寝間着の留め具を外していく。

 胸元を露わにした時、その身体がおそろしく震えている事に気が付いて……身体の炎が消え去った。

「ああ……すまな、すまない、ディアドラ」

謝り、身体を退かす。

己の愚行に歯噛みした。恐怖に己を制動出来なかったなど、けしてあってはならぬ事だ。

 怯えた瞳で此方を見つめている少女。その眼に避難の色があるのを恐れて視線を逸らすが……しかし、逸らした視線の先に身体を動かしてきて、微笑みを向けてくれた。

「少し驚いただけですよ。ランスター様こそ……大丈夫ですか?」

「え?」

「酷く、怯えてはありませんか……?」

 驚く。

己の異変など口にした訳ではないのにディアドラは聞いてきたのだ。

「……それは、心配かい?」

「え? え、えぇと、そう、ですね」

 少し困ったように微笑む。

その顔を見ているだけで、救われていくような気がした。

気が付けば、金の髪達がべっとりと身体に張り付いていた。酷く汗をかいていた。

まだ呼吸が乱れているようだ、小さく首を振っていると……ディアドラは少し怯えつつ、手巾で汗を拭きとってきてくれた。

 今はまだ、深い夜。

イーガンスが二人にとあしらえた別館にはまだ人は少なく、ランスターの強い希望で護衛の者すらも遠くに控えさせている。

「……ありがとう、ディアドラ」

「……っ」

 少女が声を失った。

 ……どうかしたのだろうか? 不安になる。

「ディアドラ?」

「あ、あ……御免なさい、ランスター様。いいえ、礼をされる謂れなど御座いません。私はランスター様の御世話をするのが役目です」

 そう言って、視線を逸らしてしまう。

 そんな仕草を見ている内に、ランスターは自分の中に何か温かいものが芽生えてくるのを感じた。

 これはもしや、形にしてはならない感情かもしれない。

 ランスターは幼少をそうやって育ってきていた。個人に対しての余分な感情はいらない、それが己を、いずれは家名を傷つける事は明白だと、そう教わってきたからだ。

 だが……思い起こす。

「……私は、君に謝らなければならないな」

「謝る、ですか?」

 小首を傾げるディアドラの、銀の髪に指を伸ばす……抵抗はなく、その指の行方を緑の瞳が見届けてくれた。

「君を、物のように扱った事だ」

「――――」

 頭を下げる。

 すると――少女の手が、頭を撫でてくるではないか。

 その心地良さに、ランスターは我を忘れてしまう。

「……随分、魘されておりましたよ」

「ああ……首を撥ねられる、夢を見たよ」

 密かに呟く。

ディアドラは驚いた顔になって覗き込んできた。

その視線に微笑みを返すと……口が勝手に述懐を始める。

「……僕はね、ディアドラ。英雄になるんだ。そうなる為に生まれ育ったんだ。剣も憶えたし軍略も憶えた。交渉術も、貴族としての立ち振る舞いもだ……だけど、殺し合いは知らない。戦争は知ってるのに、変だろう?」

 言葉を吐く度に、緑の瞳を見つめながら告白を続ける程に、自分の心が解けて行くのを感じた。

 深い森の様な瞳が、言葉も思いも優しく包み込んでくれるような気がしたのだ。

「ランスター様、貴方は、御自分をお隠しになられているのですか……?」

「……内緒だよ」

 こんなに優しい時間がある事を、ランスターは生まれて初めて知った。

 人の温もりがこんなに温かく、愛おしい事を今初めて教わった。

「ないしょ、なんですか?」

「そうじゃなきゃ、いけない。僕は英雄になる男だからね」

 応えるランスターに、ディアドラはしばし沈黙してから問うてきた。

「どうして……今は隠さないんですか」

「どうしてかな……君が美しいからという理由ではない事は、確かだ」

 美しいものであるならばなんでもいい、その傍に置き、王たる己の糧とせよ。

 それがランスターが受けてきた教えだ。

帝国に滅ぼされ、最早祖国は存在しない。それでも彼は王家の人間として生きてきた。これからもそれは変わらないだろう。

 だが、目の前の少女は違う。彼女は……。

「……ランスター様、明日は早いのでしょう? 疲れているのが解ります。御眠りになられた方が……」

「いや、君ともっと話がしたい。なんでだろう、今なら君と解り合える気がするんだ」

 そう言って、深緑の翠を見詰めると……長い沈黙の後に、囁きかけてきてくれた。

「では、歌を……」

「えっ」

「歌をお聞きになりますか? 私、得意なんです」

 少女は柔らかく微笑んだ。

 だから、嬉しくて頷いた。

 やがて部屋の中に流れだすのは勇敢なる旅鳥の歌。

歌は……少女を己の胸に埋めるまで、続いた。


「ファラン、どうだ?」

「――足跡はある、結構な数だ」

「そうか……糞、ドジったぜ、オレとした事が下水を見逃していたとはな……」

 苦々しくぼやく声に向かって見上げ「どうする」と聞いた。

「一旦上がって来い、アルワッドを待ってからだ」

言われるまでも無い。ぬかるんだ石段を駆け上がる。

雪の降る深夜、ファランは宿屋「傷だらけの間抜け牛」の便所から降りる事の出来る下水道通路にいた。汚物の溜まり場になっている此処は臭気が酷くて鼻がねじ曲がりそうだ。

きっと身体にもこの臭いはこびり付くだろう。此処から出たら服は捨てて、嫌いなのだが湯浴みをする事としよう……絶対に。

 帝国兵の残党がこの宿から入れる秘密の通路に匿われているという情報でルディアンはファランと数名の部下を連れてやって来た。

宿に入るなり襲いかかって来られたのは尋問の手間が省けて助かったのだが……生き残った一人が便所から下水へと続く、秘密の落とし戸を使って逃げた事によってこの厄介事が相当の難物であると判明した。

下水道から便所に出て、そのまま身体を拭こうと食堂を通って厨房へと向かう。

床にはさっき作ったばかりの死体が五体、転がっている。いずれも帝国残党兵、宿屋の主人が匿っていたものだ。その主人も今は物言わぬ躯となっている。

その手には、帝国銀貨の入っている袋が握られていた。

「間抜けな野郎だ、こんな貨幣どこで使うつもりだったんだよ」

「溶かせば銀は銀だろ。握って逝けたなら、まあまあの人生だったんじゃねえか?」

「まあそのカネは俺等がいただくんだけどな――おい、抜け駆けは止めろよ、頭が後で分配するんだからな」

 既に食堂には山犬の戦士達が十名程度集まりだし騒いでいた。いずれアルワッドが更に連れて来る事になっている。戦士達の合間を抜け厨房へ入ると、そこで待っていたルディアンが湯で温めた手巾を渡してきてくれた。素直に受け取り顔を拭く。

「野郎ども、客はまだ上で寝てるんだから静かにしとけ」

 その一喝で騒ぎが小さくなる。

「でもあの中に入るのかよ……たまんねえなあ」

 誰かのぼやきが聞こえてくる。

カリナーンには古くから下水道の技術が伝わっており、汚物処理には苦労が少ない。

とはいえ、下水の管理自体は気を使ってない事が多く不衛生な空間を温床にして溢れ出す疫病や、害虫、害獣の類は後を絶たない。

それに陽の光の届かない地下空間は絶好の隠れ場所となり、有事の際の逃亡経路や犯罪者達の棲み家に使われている事は少なくない。大都市になればなるほど浮浪者の寝床も増えるし、意外にこの空間を住まいに選ぶ者はいるのだ――信じられない事だが。

「褒美の銀がいらねえのなら、帰っていいぜ」

 ルディアンのおどけに夜番であった山犬の戦士達が口々に「めっそうもない」等と言い出す――現金なものだ。

ファランは布で拭き終わった後だのに、身体にしつこくこびりついている匂いに気付いて顔を顰めた。

「待たせた」

 そこに、大男が雪を被りながら入って来た。後から眠そうな気障男が続く。

どうやらまた降り出したようだ、今年はいつもより雪が多い気がする。そういえば、ディアドラは雪が好きだと言っていたな……いや、今は会えないな。こんな匂いじゃ……。

「ファラン、先降りろ」

「あ、ああ」

 ルディアンの声に忘我から覚め、渋々ながらも装備の点検を始める。足に滑り止め、顔には覆面。コルドアの民が下水道掃除する時の格好なのだそうだ。点検を終え、再び恐るべき臭気の溜まり場へと降りて行く。 

「これで何人だ」

「今は宿舎建築に殆どまわしているからな……おおよそ三十くらいか」

「充分だ。こっちはオレとファラン、スファーダで行く……マコーニ川だったか、虱潰しに探せ。一人見つけたら銀貨一枚、殺ったら銀貨二枚だ」

 マコーニ川とはコルドアの中も走っている川だ。下水道の行きつく先でもある……即ち、逃亡者達が外を目指して辿り着く場所だ。

 上でそんなやりとりがあってから、ルディアン、そしてスファーダが降りてきた。

「臭えぇ!」 

「だから下水っつうんだよ。よしファラン、行くぞ」

「解った」

 ファランは瞳の蒼を炎と燃やし、歩き出す。

「松明は付けるな、ファランの夜目に任せればいい」

「って、俺等はどうするんだよ。こんなとこじゃいつコケてもおかしくねえぞ」

 とはいえ完全な常闇ではない。街の随所にある下水道用の穴から夜の僅かな光が入って来るからだ。

かなり大きめの通路だが、その中央にある汚水の流れる川の為に両端の僅かな通路しか足の踏み場は無い。その通路にしても汚物が溜まり、ぬかるんでいた。

 それよりなにより臭気が酷い。こんな所に本当に人間が住めるのか、疑問だった。

「そんなだからお前は夜仕事が下手なんだよ。丁度いい練習だ、行くぞ」

「って、待てよ……!」

 スファーダのぼやきを聞きながら進む。しかし、このぼやきも今だけは賛成だ。こんな臭くて汚い所とはさっさとおさらばしたい。

中央の水路は雪解け水のせいで随分水かさが増しているようだ。この寒さで水が凍っていないのは地下の熱の為なのだろうか? 気付けば外よりも寒さが幾分ましな気がした。

追跡しながら進んでいると十字路に出た。中央に鉄の柵が横たわり、四方全ての通路へと繋げる橋となっている。周囲には真新しい足跡が数多く残っていて、それは通路へと延びていき――そして、闇の中へと消えていた。

「足跡が散漫過ぎてどう進めばいいか解らねえ」

「一番新しいのを追え」

「解った」

 指示に従い、道を右に曲がって歩きだす。

「臭ぇわ汚ぇわ……俺にはまったく向いてねぇ場所だぜ」

「おめェコルドア攻略の時に肥桶を頭からかぶって大騒ぎしてたじゃねぇか」

 スファーダが言葉を失った。まったくルディアンは人が悪い。

 ともすれば足を滑らしそうになる通路の泥濘を、足で払い通路へと落とす作業を黙々と続けながら歩を進ませる……後続を歩み易くしながら進むのも先鋒の仕事だ。汚物を払いのける足元を、時折鼠が通り過ぎて行くのが見えた。

どのくらい歩いただろうか……通路の先に、おぼろげに燃える光を見る。

「スファーダ、そろそろ黙れ」

「あン? このガキャア……」

 スファーダの頭を小突き、長剣を抜くルディアン。

「何人だ?」

「まだ解らない。先行するか?」

 剣鉈を抜きながら応える。後ろのスファーダが長剣と短剣を抜き放ち「なんだよ、いるならいるって言いやがれ」と小声で毒づいた。

「行け、五人以上なら戻って来い」

「解った」

 音も無く動き、松明の光に近づく。やがて、声が聞こえてきた。

帝国語で喋っているようだ。

身を潜め、会話に集中する――ファランは帝国語を知っていた。ルディアンに教わったのだ。それはこのカリナーンでは珍しい事らしいのだが。

『なあ、もう投降しよう……限界だよ』

『駄目だ、何の為に今まで耐えたと思っているんだ!』

『だが、もう食料は限界だ……アルドレ様達のように逃亡の道を選んでも……』

 ――何て事だ。逃亡者が出ていた。ファランは心中で舌打ちしながら声と、気配を読む。 松明の明かりの下、数人が囁き合っている。

其処は先の十字路の様に鉄の柵で通路全部を使えるようになっているようだ。

『ふざけるな……鼠を食ってまで耐えているんだぞ……諦められるか!』

『なあ、打って出よう、こんな所で惨めに死んで行くならいっそ玉砕しよう』

『待つんだ、春が来ればきっと救援は来る! アグローナ様がいる限り――』

 六人。

 ファランは言われた通りに戻ろうとする――その時だった。背後から鋼の悲鳴が響き渡った。それと同時に男の悲鳴、水音が続く。

「糞ッ! 糞がひっかかちまった!」

 スファーダの声だった。安堵したファランは剣鉈を構え、異変に気付いて武器を構え出している六人の一人が松明持つ右手目掛けて飛び込み、斬りつけた。

『て、敵か!』

『ぎゃあーっ!』

 肘下を失った男が苦悶の声を上げ斃れ、下水に落ちた。同時に松明の炎が水に落ち、小さくなる。

弱くなった光源が闇に貪り食われ、蒼炎は闇に浮かび上がる。

男が下水で暴れる事で起きる激しい水音がファランの動きを助ける。腰を低くしながら剣鉈を渾身で薙ぎ払うと、四つの手応えを鉈に感じた。

『ぐあああっ!』

『あ、足があーっ!』

 姿勢を乱した二人を水路へ蹴り落とす。足を失った一人は水面に顔を出して必死にもがきだし、一人は浮かんですらこなかった。

 残った男達は敵が何かも解らない内に仲間が死んでいく事に恐慌状態に陥いり、一人が剣を滅茶苦茶に振り回しだして、やがて味方の頭にめり込ませる。ファランは少し間合いを離し、その哀れな様を冷めた目で見ながら次の獲物を探す。

 残ったのは、二人。

『落ち着くんだ! 体制をげえっ』

 隊長だろう、号令をかけた男の脇腹を貫く。

最後の一人、泣きながら剣を振り回している男の喉をめがけて短剣を投げた。それは深く喉笛に突き刺さり、しばらくじたばたともがいた後、下水に落ちた。

「その剣はくれてやる」

 仕上げに落ちていた長剣を拾い、未だ下水でもがく哀れな連中を楽にしてやった。

一人暗闇に残った少年は長剣を下水に捨てて、剣鉈に付いた汚物を服で擦って綺麗にした。

 ――その殺気を感じたのはそんな、息を抜いた瞬間だった。

 背後から突然迫る何かに気付いた瞬間、数歩の距離を離れ跳ぶ。中空で振り向きざま剣鉈を構えれば、背に熱い痛みと、何かが流れる感触を感じた。

避けきる事が出来なかったか。だが浅い、舌打ちしてから瞳の蒼炎を燃やす――何処から現れたのか、一人の戦士が其処に立っていた。

「おのれ、仲間達をよくも……!」

 帝国語ではない、女の声だった。

「…………」

 油断無く構え相手を見る――暗闇だと言うのに確実に背を狙ってきた、こいつは夜目が利く相手と見ていいだろう。今も真っ直ぐにこっちを向いて剣を構えている。

 鎧姿に小剣と楯――楯が厄介そうだ。

背中の傷も含めて勝負を急ごうと決める。

「噂に聞いた鬼火か――是非も無い!」

 小剣の突きで来た――その動きを見極めてから動き出す。

切っ先をすり抜け、ファランの身体は女戦士の背後へと疾った。同時にぎゃり、と耳障りな音が下水道に響く。脇腹を狙った剣鉈と護った楯が絡んで鳴いた音だった。

「!」

「疾い!」

 女が驚愕しながら振り向く。

ファランもまた、驚いていた。

 またしても、鬼火の初手を防がれた。この速きは、誰にも追いつかせない筈なのに――。

「おおっ!」

 怒りに任せて剣鉈を振りかざす。

「くっ」

 しかし女戦士は、その悉くを受け、弾き、流す。

 鋼が弾け火花が飛び散るその度に、暗闇が一瞬照らされる。剣鉈が一手止められる毎にファランの自信は削れていき、女の防御には確かさが増していく。

(……糞ッ! 何で斬れねえ!)

 間合いを一旦外して息を整えた。対して女も構えを直す。

「ファラン、何を手こずってる」

「おお、女の剣使いかよ」

 そこに聞こえてくる声、それと共に近づいてくる灯。

松明を掲げたルディアンとスファーダだった。二人の剣と身体は血に濡れ、向こうで戦闘があったのだろう事を教えてくれる。

「手こずってねえ!」

 ルディアンに無様を見せた事に苛立ち、声を荒げる。対し、女は冷静なままに此方を注意しながら新手の二人に目を向け告げた。

「……祖、グインの名の元にこの決闘を乱す事は許さぬ! 我が名はアグローナ、ティターニアの騎士也!」

 凛とした声が地下通路に響く。

「ケッ、なあにが決闘だ。三人がかりが怖いだけだろうが」

 スファーダの皮肉。ルディアンはその横で口端を吊り上げ此方を向いた。

「ファラン、それでいいのか? お前が決めろ」

 驚いた。騎士の約定など知った事かと笑い飛ばすと思っていたのに。

「お、俺が……?」

「そうだ。そこな女騎士はお前との決闘を望んでるようだ。受けるかどうかはお前が決めるのが筋ってモンだろう?」

 女が此方を見る。

――その眼に、隠しきれない懇願を見た。

「……いいぜ」

「ヨシ。ならオレが立会人だ。といっても此処じゃやりにくかろう? 外に出ようぜ」

 ルディアンがスファーダに何か含めてから背を向ける。

アグローナと自らを名乗った女騎士は、暫し悩んだ末に「よかろう」と呟いてルディアンに従った。自然、ファランもその後ろに従う事になる。

三人は下水道を外へと向けて戻り始めた。

「……あの剣士は来ないのか」

「あいつぁあの辺にあるだろうお前等のねぐらを探ってるさ」

 女騎士が明らかに動揺する。

「お……愚かな、たった一人でか? 潜んでいる全員でかかって殺されるぞ」

「って事は複数いるのか。こいつぁ好都合だぜ……心配してくれてありがたいが、オレの部下は鼠を食って生き繋いでいるような半死人如き、何人いようと後れはとらんさ。尤も、あんたのような騎士が複数いるってなら解らんがね」

 ルディアンの背中が事も無げに応えた。

「私より強い騎士がいるとも」

「嘘はやめとけよアグローナ、お前一人のこのこ出てきたので解ったぜ。お前は、部下が殺されるのに耐えきれなくなった間抜けな将さ。部下が糞塗れで耐えてきたのを一時の感情で無駄にした愚かな将でもある――お前、オズボーン直属守護騎士の一人だろう? 主の仇を討とうとは御立派な事だが、そういうのは美談で聞くに済ませるが花ってモンだ」

 アグローナの身体に震えが走った、余程に驚いているのだろう。

 ルディアンの博識の前には、誰だってこうなるのだ。

「……お、お前は何者だ」

「少しばかりお前等のお家事情に詳しいだけの、只の悪党さ――さあ、外に出ようぜアグローナ、先に上がれ――まさか決闘を自ら宣言して逃げはせんだろう? 身体を拭く時間をくれてやるよ、濡れた布があるから厨房に行くんだな」

 鷹の眼持つ戦士長が振り向き、石段を顎で示す。女騎士は、しばし俯いた後に石段を登って行った。

下水に残るは二人の戦士のみとなる。

「……あの女もお前の弱みを知っているな。それに、ランスターよりも剣が立つ。下手するとお前、負けちまうぞ?」

 女騎士を目で見送ってから腕を組み、ルディアンがそんな事を言い出した。思わぬ言葉を聞いて、怒りに我を忘れてしまう。

「ざけんな! 俺は負けねえ!」

「まあ聞け小僧……一つだけ、教えてやる。お前は、殺したがり過ぎなんだ」

「……?」

「解らんか? お前、なんで自分の動きについてこれない奴如きに剣筋を受け凌がれるかが不思議なんだろう? そこんとこを考えろ」

 考えるのはあんたの役目だ……それを喉で飲みこみ、考える。

何か、あの女と金髪の犬野郎との似た理由……両者とも、使うのは騎士剣術。武器は違っていた、女は楯持ち、犬野郎は持っていなかった……駄目だ、解らない。

「そのツラァ解らん顔だな。やれやれ、じゃあ二つ手掛かりをやろう……オレもお前の剣は全部読めるぜ、怖くねえ。だが、お前の動きを全て追えてるわけじゃねぇ」

 より一層解らなくなる。動きが追えないのに剣筋を読むって、なんだ? 有り得ない。

「もう一つ……虚実」

「きょじつ……?」

 腕を組んだままルディアンは呟き、此方を見下ろした。

「さて、そろそろ御嬢さんの御召し替えは終わったかね」

「きょじつ……」

「ファラン、上がれ。女は待たせるモンじゃねえぞ」

 答えの見つからぬままにファランは石段を上がり、外に出た。新鮮な外気を胸一杯に吸い込み身体を落ち着かせる。

 厨房へ向かうとアグローナと鉢合わせる。

「手間取らせて済まぬ」

「いや……」

 松明の明かりで初めて見る女の容姿は美しかった。金の長い髪に琥珀の眼。鎧姿なのが勿体無いと、誰もが思うのではなかろうか。

だが今のファランにはこの女が越えねばならない壁にしか見えなかった。

「始めよう」

「ああ」

 二人は外に出る。僅かに遅れてルディアンがそれに続く。

 雪が勢いも強く降っていた。吹雪く程ではないが、ただ立っているとたちまちに身体に白い化粧がされてしまう程だった。

 深夜の往来。両者が間合いを取って離れると、その中央にルディアンが立った。

「来い!」

「……っ」

 ファランはまだ答えが出なかった。動きを追えないのに剣を読むという事、虚実という言の葉、二つが繋がらない。剣鉈を抜き構えても、答えは浮かんでくる訳も無かった。

「……来ぬのか? ならば、此方から行くぞ!」

 女の身体が動く。その動きは鬼火の眼にとっても速く、身を逸らすだけで手一杯となる。

「ちいッ」

 紙一重で躱しはするが、小剣の鋭さはファランを徐々に退かせる。このままではどこかの壁にでも押し付けられて終わってしまう。しかも女は此方の動きに慣れだしたのか、無闇な大振りを見せず、着実に細かい突きと払いを繰り返してくる。

 それがファランの戦術にとっての苦手と悟ったのだろう。

「だらあっ!」

「甘い!」

 剣鉈を合わせて押し返そうとするも、身体を引かれ、力の行く先を殺される。体を崩した所に襲い来る連撃。既のところで受け太刀できるが、再び不利な体勢を強いられる。

(糞! 広い所なら勝てると思ったのに……!)

 焦りが判断を鈍らせる。判断の鈍さが躱す身体を委縮させる。凌ぎ切れずに細かい傷が体のあちこちに刻まれていく。

駄目だ、このままではやられる……! そう思った瞬間に、身体が勝手に動いた。

「おらあっ!」

「!」

 足が深い雪だまりに入ったのを感じた瞬間、雪を持ち上げるように蹴り上げた。中空に白い靄が生まれ、女騎士はそれを盾で吹き飛ばす――その隙に身体を大きく跳び退らせた。

「ふうっ……ふううっ」

 白く荒い息を整えながら剣鉈を構えると、女騎士は此方を睨みながら告げた。

「お前の剣は最早見切った。すまないが死んでもらうぞ。私はそこの男も斃さねばならぬ。少年……私の言葉を聞いてくれたのには、礼を言うぞ」

 頭に血が昇る。

 今、こいつは……なんと言った……?

「おい……ルディアンを、どうするって言った……?」

「いかん、ファラン! 熱くなるな!」

 ルディアンの声を遠くにして、一気に間合いを詰める。

「同じ事を――」

「繰り返す!」

 突きを躱す。同時に脇腹を狙った剣鉈が楯に流され――その音と同時に、小剣を持つ逆手の肩を斬撃していた。

それは、常軌を逸した神速の業。

「ぐあうっ」

 女の肩に血の花が咲く。

「おおおっ!」

 風と化した豺は、女の身体を周りながら斬撃、斬撃、斬撃……刃の嵐であった。

女の身体を取り巻く凶暴なる鋼の風が、その身体を次々に切り刻んでいき……血化粧に染まった女騎士は堪らず膝を折った。

そして、嵐は止む。

「……俺の、勝ちだ」

 荒い息を吐き、ファランは剣鉈を女の首に突き付けた。

「……何が起こったかすら解らなかったわ……完敗、ね」

 女の声に肩の力を抜く。

「――ったく、オレの話をまるっきり無視しやがって」

 そこに、ルディアンが苦笑しながら近づいてきた。

「勝ったんだから、いいだろ」

 ばつが悪くてそう返すと、鷹は眼を鋭くさせながら頷いた。

「そうだな、お前の剣は常識で量らない方が面白いみてェだ――さて、その女の始末は勝者であるお前の権利だ、ファラン。どうするんだ?」

 見据えられる。豺は、膝を突きうなじを曝ける女を見下ろした。

「アグローナ、だったか」

「そうだ」

「……名は忘れない」

「感謝する。嬲り者にされるでもなく、決闘をも受けてくれ、私を戦う者のままに扱ってくれた……嵐の如き戦士よ、そなたの名を聞かせて欲しい」

 逆手にした剣鉈を握り直し、夜空へ向ける。

「ク・ファラン」

「良き名だ……私はアグローナ=シドラ。そなたの名を抱いて、私は逝こう……部下達よ、すまぬ、護れなかった……『祖グインよ、照覧あれ。いざや御許へ参ります』」

「待て、ファラン」

 振り下ろす寸前だった。

 何事かと手を止めると、ルディアンはアグローナの前に立ち、片膝をついた。

『グインよ照覧あれ、か。決闘の前も言ってたが、グイン騎士団の所縁か、お前は?』

『……私の祖父が騎士団の一員だった』

『ふぅん……まぁいいや、それよりお前、死ぬのは嫌だろ?』

 驚愕。

ルディアンが、敵に情けをかけた……?

慌てて剣鉈を腰に収め、周囲を警戒する。

これは、もしかしたら他者に見られていい場面ではないかもしれない、そう思ったのだ。

『何が言いたい』

『面倒な交渉はしないぜ。お前、オレの部下になれ』

 女騎士の表情が驚きに変わった。

 おそらく、自分もそうだろう。皆殺しにしろと言った筈の相手に情けをかけ、しかも部下にしようなどとは……普段のルディアンから想像もできない言葉だ。

『ふ……ふざけているのか?』

『いいや、マジだよ……オレァ血の濃さを大事にするタチでね』

 そう言って、ルディアンは女に何かを見せた。

 ファランの位置からでは見えなかった。近づこうかと思ったが、恐らくルディアンは隠したのだ、ならば見ないままの方がいいだろう。

『そ、それは……!』

『祖グインよ、照覧あれ……汝我が御旗に剣を捧げると誓うか?』

『……祖グインよ、照覧あれ……! 誓います。この剣を、貴方に捧げましょう』

 周囲を気にしながら見守っているとそんな会話を終えた二人が何か儀礼の様な事をして、やがて両者共に立ち上がった。

「アグローナ、下水の部下は全部で何人だ」

「生きているのは後十人程です」

 そして更に驚く。あの女騎士が、ルディアンの前で恭しい態度と成り変わっていた。

 何が起こったのだろう、まさか、魔法とかいうものの働きか。

 余りの驚きに身体に積る雪すら払うのを忘れ、見入っていた。

「スファーダには捕らえるよう言ってある。命の保証はしてやろう。さて、部下どもにお前を説明しないといかんが……おっと、先ずは治療をしないといかんな」

「ルディアン」

「……ん、おぉ、すまんすまん……ファラン、ガラトリンクを呼んでくれ。オレはこの宿の上の適当な部屋でこいつを休ませる」

 ファランは動かない。

 傷だらけの女とルディアンの二人を交互に見ながら俯いた。

「ファラン、このままじゃこいつが血を失って死んじまう」

「ルディアン、俺を動かすのは言葉じゃない」 

「解った、後でちゃんと説明してやる。約束だ」

 納得はできなかったが今はやむを得ない。

女が死ぬと、ルディアンは困るのだろうから。

「解った。約束だぞ」

 振り返り、走り出した。

 一度だけ、振り返る……二人は宿屋の中へと消えていた。

「約束だからな」

 風雪を切り分けて駆けながら、少年は呟くのであった。


――コルドア解放から、一カ月が過ぎようとしていた。

 長い時間のように聞こえるが、日常を生き急ぐ者達にとってはあまりに短い時間だ。

祝福すべき解放当日から数日後に降り出した雪は世界を瞬く間に白く染め上げ、人々の生活の中心が外から家の中へと変えられていた。

 街の人々が冬の準備に忙しなく追われるそんな頃、未だに浮かれ騒ぐフィオナ兵団の戦士達を横目にして山犬達は実に良く働いた。

 雪が街を埋める前に形だけは出来上がった四棟の大宿舎。今はその二つを使い、山犬の戦士達は借り受けていた宿屋から移り住んでいた。宿舎に貯め込んだ食料は『八百人』の戦士を十日食わせる量があり、大切に保管、厳しく管理されている。

食料対策はそれだけに終わらない。

雪が降っている今でも狩りと食菜を採りに行く大隊を毎日編成、山犬達は成果を最も多く上げた者には褒美を出す遊びを流行らせていた――何よりも、飢えこそが最も恐ろしい敵なのを彼等はよく知っているのだ。

「ルディアン、まあた空いてる宿舎に入れて欲しいってヤツがきたぜ、どうする?」

 スファーダの報告に戦士長は帳簿を付ける手を止めた。

此処は山犬隊第一宿舎の食堂だ。新築の宿舎には、木の香りが心地良く漂っている。

ルディアンは私室を持っているのだが殆どの時間をこの食堂で過ごしている。私室を使うのはイーガンスや貴族が訪れた時くらいだった。

「何処の部隊で、何人だ?」

「十字剣、十五人だ」

「入れてやれ。但し食い扶持は自分持ち、宿泊費もしっかり取れ」

 頷き戻っていくスファーダと交代で、アルワッドがやって来る。

「此処から三日の村から来た連中が、フィオナ兵団から住居を奪われたと宮殿前で騒いでるらしい――出張るか?」

「ヴァラヤに任せて五人ほど連れて行け。向こうに偉いさんがいたらそれに任せてほっとけばいい。もしいないようなら連れて帰って来い」

 アルワッドが背中を見せた時、ルディアンは少し考える。

「あー、待てアルワッド、もう十人とセロを連れて警戒に当たらせろ。騒いでる連中に紛れて他国の間者がいるかもしれん。確認しろ」

「了解だ」

大男が立ち去った後、ファランが向かいに座って来た。旨そうな湯気をあげる肉と野菜の煮物の入った皿を机に置いてから懐から麺麭を出し、ルディアンへと投げ渡す。

「おう、悪ぃな」

 麺麭を受け取り応えると、ファランはもう一つ麺麭を出して齧りつく。

「ルディアン、少し休めよ」

「なんだ、お前が代わりをしてくれるのか?」

「……できねえ」

 口を尖らせ咀嚼するファランに笑いつつ麺麭に齧りつき帳簿の残りをやっつけ始める。

「しっかし硬ぇ麺麭だな、実に食い応えがある。味も悪くないし、保存にも良さそうだな」

「此処の麺麭屋、ウチだけに麺麭を売ってるらしいぜ、今」

 金の払いが悪い相手を商売に選びたくないのは当然だろう。フィオナ兵団軍属の取引は一月経った未だに後払い契約が有効にされていた。

そんな兵団の中にあり、解放の当日から一度も財布の紐を縛らなかった山犬隊は、商人達にとっては救い主と言えよう上得意だったのだ。

しかもその得意先は払いがいいだけではなく、様々な材料までも仕入れて来てくれる。既に何軒かの店から山犬隊の専属店になりたいとの打診があった。しかしそれを許してばかりでは他の部隊もいい顔はしない、専属店になるには幾つかの条件を出していた。

ところが商人達もさる者で、許可を得ずとも山犬隊以外には取引しないと看板を降ろして商売している店も出始めているらしい。この麺麭屋も、そうなのだろう。

「そろそろこれも対策せにゃな」

「?」

「硬ぇ麺麭を柔らかくする話さ」

 ファランは不思議そうな顔になって煮物に麺麭を漬け込んだ。

「こうすりゃいいだけじゃねえか」

「そうさ、欲しいのはその汁だ――ああ、そろそろ幹部も増やさないといかんなあ」

 欠伸をしながらぼやくルディアンを、麺麭を噛み千切りながら不思議そうに見やるファランであった。

……山犬の戦士はこの一カ月という短い期間で三百も増えていた。

十字剣から移籍を希望してきたもの、コルドアの民だったもの等履歴は様々だ。入隊希望者はアルワッドかルディアンの眼鏡に適えばそれを許されていた。つまり、篩にかけた上で三百人も増えたのだ。

「ファラン、この間の傷は癒えたか」

「大した傷は無かったからな」

「言うじゃねえか小僧。剣が届かなくて泣きべそかいてたくせによ」

「かいてねぇ!」

……アグローナの居場所は未だに秘密のままだった。

今はガラトリンクが付いているらしい。

「……ルディアン、そろそろ教えてくれてもいいだろ」

「気になるか?」

「ガラトリンク以外の誰にも言ってねえじゃねぇか。俺は……仲間に隠し事は、嫌だ」

 ファランが口を尖らせて呟いた。

 その言葉を受け……卓の上に首飾りを置き、ルディアンは語り出す。

「……ティターニア帝国がずっと昔から侵略と征服を続けているって事は教えたよな」

「ああ。ずっと南のヴァラヤの国も滅ぼされたって話だよな? カリナーンだけじゃなく、色んなところに手を伸ばしているって前に聞いた」

「この首飾りはそんな滅んだ国の一つ、とある旧い騎士団の勲章だ」

 あの雪の夜にアグローナに見せたものなのだろうそれは、窓からの日光を受けて卓の上で鈍く光っていた。

「あいつは死の間際にその騎士団の名を呟いた。なんでちょいとカマかけたのさ。そしたら案の定、引っ掛かってくれたってわけだ」

「……ふうん」

 勲章を手にして、掌で弄ぶ。

 随分草臥れてはいるが、それが金で出来ている装飾品である事に気が付いた。

「結構な値打ち物だな」

「だろう。随分昔に手に入れたモンだ。御守代りにと身に付けていたんだが、こんな使い所があるとはな」

「……なんで仲間に話さない?」

「今はまだ時期じゃない。いずれ話すさ……オレが幹部格の部下を欲しがっているのはお前だって解っているだろう?」

「…………」

「せめて残党兵掃討の件が片付かないとな。あの女はその情報も垂れ流してくれている、もうじき全部狩り終わるさ」

山犬隊に与えられた仕事である帝国残党兵掃討は、現状で二百有余名を捉える事が出来ていた。その全てを、悉く殺している。ルディアンの厳命であった。しかし未だにまとまった数がコルドアに潜んでいるのは予想に明るい。探索の手は止まる事は無かった。

「ルディアン。俺はあんたの豺だ。だからもう、何も言わねえ……ただ、仲間には、いずれちゃんと話して欲しい」

「そいつは嬉しいね。お前には、疑われたくない……ああ、ちゃんと話すさ」

 恐らくルディアンは嘘をついているのだろう。

 しかしファランは黙って勲章を返すのみ。

 それが豺の在り方だからだ。騙されようと、刃を向けられようと、最期の一瞬まで主を信じて尾を振るのだ。

 両者が共に、その理を深く呑み込んでいるからこその欺瞞であった。

「ルディアン、イーガンスの使いが来たぜ!」

 宿舎入口からそんな怒鳴り声が飛んできた。ルディアンは立ち上がる。

「アルワッド! 後は任せるぞ、帳簿は後でガラトリンクに渡しておいてくれ!」

 姿見えていない大男へ声をあげると建物の遠くから「解った!」と遠い声が返る。

「行くぞファラン」

「解った」

 定期的にイーガンスに会いに行く時、その護衛となるのはファランだった。これで、七回目の訪問となる。ファランは肉汁を腹に掻き込み立ち上がった。


……庭園中庭に用意された椅子に座って話すのがいつものきまりだった。

イーガンスの庭園は雪化粧で真っ白だ。吐く息も白くて、柔弱な少女の身体に障りはないだろうかと時折心配になる。

「……うふふ、それじゃあスファーダさんとは仲直りできたのね?」

「ああ」

 イーガンスとルディアンの密談が、二人のささやかな逢瀬の時間でもあった。逢瀬とはいうものの、少年は女の扱いなど知らなかったし、少女は無邪気なままを少年に向ける――其処にあったのは確かな友情と、仄かな、互いが言葉にできないままでいる想いだけだった。

「……ねえ、ランスター様の話をしていい?」

「何か、厭な事されたのか」

 ファランは眼を鋭くする。

ルディアンに打ちのめされるのを見て以来、ディアドラはランスターとファランが共になる事を避けていた。言葉にする時も、このように気を使うのだ。

「ファラン。男の人って、どうして女を欲しがるのかしら」

 身構えたところを唐突に、そんな事を言われた。

「ん……お、俺は……」

「ごめんね? こんな事、ファランにしか聞けないから」

 言葉を濁すと謝られてしまう。

「い、いや……俺はそういうのは良く解らない。だから答えられねえんだ、悪いな」

 嘘をついてしまった。

この街に来てから自分の中に『欲』が生まれたのに気付いている。

 ディアドラを見ていると抱きしめたくなり、セロと二人になると甘えたくなる。

勿論行動に移すではないし言葉にもしない。

それは弱さ故の感情ではないかと、少年はそう思っていた。

「男の人がみんなそうでない事は解ります――ファランがそうだもの。私の身の回りの人達だけが特別に欲張りなんでしょうか?」

 自分の宿舎で毎日飽きもせず繰り広げられている乱痴気騒ぎを思い浮かべた。女も男もあの場では滅茶苦茶に入り乱れている。

「いや、男は大抵そんなもんだ」

「じゃあ……ファランも?」

 緑の瞳が見つめてくる。

 雪が陽の光を反射して、ディアドラの瞳の中にも煌めきを宿らせている。

庭園の何処かで雪掻きでもしているのだろうか、女中のはしゃぐ声を遠くに聞いた。

「お、俺の事はいいだろ」

「いいえ、一番気になる事です」

 少女の真っ直ぐ見つめてくる瞳から逃げる事が出来ない。どうしたものかと返答に困っていると、遠くから声がした。

「ファラン!」

 ルディアンの声だった。声の主の元へ行こうと腰を上げかけると、服の裾を掴まれた。

「今日は……短いです」

 哀しそうな声、顔。

 ずるいと、思った。

そんな声をされたら、そんな顔をされたら立ち上がれないじゃないか。

 腰を下ろす。

「此処だ! ディアドラといる!」

 返事をしてからディアドラを見る――無邪気な微笑みがあった。

 ……ずるい。

「じゃあ教えて? ファランは、欲張りさん?」

 しまった、此処は逃げるべきだったのか。

 顰め面を作って、気の利いた答えを探すが……やっぱり、浮かんでこなかった。

「……わかんねえよ」

「そうね……じゃあ、話題を変えていいかしら? ファラン――抱き締めて」

「へっ?」

「お願い」

 少女は……ついさっきまで見せていた無邪気さの一切を消し去り、切羽詰まって泣きそうな顔に変わっていた。

「あの犬野郎に何かされたのか」

「…………」

 以前ディアドラは「戦場へ向かう」と言った。これは彼女の戦いで、彼女は自らの意思と反する行為をする、戦う事を選んだのだ。最近、そう思えるようになった。だが……心に暗い火が燃えるのを我慢する事は出来ない。

少年は一度だけ躊躇してから、少女の華奢な体を抱き締めた。

細いのに柔らかくて、甘い匂いのする身体の抱き心地は、余りの気持ち良さに我を失う程だった。快楽を堪能していると、少女の手が首に縋って、絡みついて来る。

それは、ただ寄り添う為の抱擁ではなくなった。

「……ディアドラ、どうしたんだ? 教えてくれ」

「私……怖いの。ランスター様の本当の姿を見てしまったの。あの人は……」

 震える声。

ファランはきつく抱きしめてその言葉を止めた。

「だめだ、ディアドラ。その心は駄目だ」

「……どうして?」

「自分の死ぬ理由になるからだ。戦場での情けとは、そういう事だ」

 ディアドラにそれができるかは疑わしかったが。

「……それが、ファランの生きてきた場所なのね」

 腕の中の少女がもがきだすので、少年はその身体を放してやった。

 ディアドラは立ち上がり、数歩離れていく。

「なら、弱い心はどうすればいいの? 私、自分の心なら殺してしまう事が出来ると思ったの。でも……人の心を殺める事はできない。助けを求める手を振り解くなんて……」

 ディアドラが何を言おうとしているのか解らない。

だが……それが自分にとって酷く不快な事だけは、感じ取れた。

 今口を開くと何か、ディアドラを傷つける言葉を吐きそうな気がする。

或いは、自分自身を。

「ファラン、急いで帰るぞ――おっと、これはディアドラ様。申し訳ありませんが、ファランを返していただきますよ」

 応える前に、時間切れとなった。

ルディアンが中庭へ踏み入って来たのだ。

「……じゃあ、帰るよ……またな」

 今度こそ立ち上がる。

「はい……またな、です」

 歩き出す。陽の降る雪の中庭に唯一人、小さくなっていく少女の姿を時折振り返る。少女はまるで雪の中に溶けて行くように白くて、儚げであった。

 イーガンスの館を外に出た時に、ルディアンの問いが飛んできた。

「喧嘩でもしたのか?」

「そんなんじゃねえ」

 不貞腐れた声で返してしまう。しかしルディアンは気にもせず歯を見せ笑って、山吹色の髪をわしゃわしゃとやってくる。手で軽くそれを制した。

「さっさと謝っておけよ? 女の機嫌を直すにゃそれが一番だ」

「だから、そんなんじゃ――」

「歩きながら聞け、仕事の話だ」

 言葉途中で遮られた。ファランは口を尖らせ頷く。

 街中も、すっかり雪で覆われていた。

遠くに車輪を雪に埋もれさせた馬車が往生しているのが見える。

しばし見ていると、警邏にあたっていた山犬らしき男達が数名馬車に取り付いて手を貸し始めているのが見えた。

「イーガンスはつい最近館を新築した。やっこさんの館からは随分と離れた所にあるんだがな。そこが数日後火事になる……お前の手でな」

「――金髪野郎か」

「そうだ。中にいる奴は全部殺れ。帝国兵残党の暴挙ってヤツさ、下拵えは全部用意してある。お前は、仕上げ役だ」

 いつものように頷いた。

「解った」

「詳しい内容は後で話す。それまでは、休んでろ」

 ファランは内心喜んだ。

これで、ディアドラを救う事が出来ると、その時は思えたのだ――。


 夜。

「あー、疲れた」

 ぼやくセロが部屋に入って来た。

不機嫌を隠そうともせずに口を尖らせる。

「お前の部屋は此処じゃねえ」

「そうね、此処はあんたの部屋。でも、あたしは此処で休みたいの」

 ……あの夜から、セロと自分の間にある何かが壊れた気がする。

壊れた、という言い方が正しいのか解らなかったが、はっきりと言える事はセロが此方の作る壁を気にせず踏み越えてくるようになったという事だ。傍にいられると困る事だってあるのに、少しも気にせず近づいてきてファランを翻弄するようになった。

 少年は、自分が思っているよりもずっと少年だったのだ。

 そしてセロは、ファランが思っているよりもずっと女だったのだ。

「……フン」

 口では勝てない。だから、不貞腐れるしかない。

 寝台に転がると、その横に寝転がって来る赤毛の娘。

「お前な……幹部連中だけの贅沢を」

「へえ、ファランもこれを贅沢だって思ってるんだ? ちょっと意外ね」

 幹部だけに個室が許されていたのだ。流石に八百人全員の個室など用意できない、幹部以外は宿舎食堂の横にある大広間で場所を割り当てられて過ごしている。どうしても一人になりたい時は自腹で宿にしけこむといった寸法だ。

「だったら、こんなに可愛い女が横にいる贅沢ってのも意識してみたら?」

「自分で言うんじゃねえよ」

 呆れ、笑ってしまう。やっぱり、自分とセロの間は何か変わってしまったのだろう。

 少しばかりいい加減な作りの窓がぎしぎしと大きな音をたてた。外は……吹雪いているようだ。暖炉の火を強めようと、炭を幾つか投げ入れた。

「あんた、仕事いつ?」

「明後日」

「あら……」

 残念そうな声を出す。

「なんだよ?」

「その日って、あんたのお姫様と我等が英雄ランスターさまの婚姻式の日よ?」

 ――ああ、そうか、もうそんな時期か。

 ディアドラから聞いてはいたが……不愉快で、記憶からわざと外していたのだろう。

「あんたは見に行くかと思ってた」

「なんでそんなもん見なきゃならねんだ、冗談じゃねえ」

 吐き捨てるように言うと、セロは寝台棚にあった燻製肉を摘んで笑う。

「ディアドラに呼ばれてよ? あの子、そういうの鈍感そうだからねぇ……あんたに自分の晴れ姿を見て欲しいと思うくらいに根性太いと思ったのよ」

 なんとなく、言葉の意味を察する事が出来た。少しは成長できたのかもしれない。

「あいつは――嫌がるよ。自分と優男が一緒にいる所を見られるのは」

「へえ……想われてるわねえ」

 嫌味だ。

 だけど、こんな風に言ってくる声を聞くとなぜだか心を擽られた気分になる。最近の自分は本当に変になっていると、そう思う。

横で揺れている癖のない赤い髪を撫でたくなってしまう。

それをなんとか堪え、燻製肉を摘むのだった。

「あれ……でも、変じゃない?」

「何が」

「婚姻式よ? まあ、一晩中一緒でしょうからねえ……変じゃない?」

 ……ルディアンの言葉が蘇った。

 身体を撥ね起こす。

「……館の中の全員を、殺れって……」

 呟き、ふらりと立ち上がる。その腕を捕まえられた。

「ルディアンに聞きに行く気?」

「そうだ」

「あんた、そこで今あんたの言った台詞をそのまま返されたら、どうするの?」

「――――」

 喉が締まる。

 ルディアンは、そんな事を……。

飼い主だからって、そんな、心を踏み躙る様な事は言わない筈だ。

 言うもんか……!

「ファラン」

 嘘だ。あいつはそんなこと言わない。

だって、さっき俺に謝れって忠告までしてくれた。

「ファラン!」

 頬を張られ、忘我から覚める――セロが見上げていた。

「何してるの、早く行きなさい」

「行くって……何処へ?」

「決まってるでしょ、ディアドラの所よ。ルディアンは優男が目的なんだろう? だったらあの子にだけなんとかその場に居ないようにさせればいいのよ」

 眼を見開く。それは名案だ。

「ああ……そうか、そうだな、解った」

「窓から行きな。気取られてるかもしれない……あたしは此処で誤魔化してはみる」

 外套を素早く羽織ってから窓に手をかけ、振り返る。

「セロ、ありがとう」

「貸しにしておくから、いいわ」

 窓を開く。恐ろしい勢いの寒波が部屋に入って来た。

 白と黒の風が凶暴に頬を襲う。だがファランは怯むことなく窓から身を翻した。

 雪の上に落ち、すぐさま走り出す。

 少しでも気を抜けば膝まで埋まる雪の中、明かりも無い常闇の中を、少年は蒼い炎を燃やしながら走り抜けて行った。


 ファランの足ですらイーガンスの館に辿り着くのに相当の時間をかけた。

 今夜の寒波は相当に酷いのだろう、自分以外に外に出る無謀な者はいないと思われた。全身が雪塗れだ。少しでも身体を止めると途端に寒さが服の中に忍び込んでくる。

以前と同じ手口でイーガンスの館の柵を越えた。犬がいても殺すくらいの心積もりだったが、やはりこの雪では外には放されていなかったようだ。

 いつもの場所、中庭の椅子も雪で埋もれてしまっている。そこを超えて、以前教わったディアドラの部屋の下に来た。

 ――明かりが付いている。

 躊躇せず壁を登りだす。こんな最悪の天候でありながら、ファランの登攀は確かであった。飾り煉瓦を、窓のへりを、煉瓦と煉瓦の隙間を足場にして登る。

 雪は氷と混ざり、滑りやすく危険な登攀を冷静に、着実にこなし、登って行く――その途中で、少女の歌が耳に飛び込んできた。

不思議だ、寒さに震えている手に力が蘇ってくる。

壁を登り切る。部屋の窓から中を覗くと、そこにディアドラはいてくれた。

銀の髪の少女は壁に据え付けられた暖炉の傍、いつも見せてくれる穏やかな表情のままで椅子に座り唄っていた。驚かせるかと心配しつつも、窓を叩いてみる。

唄が止み、緑の瞳が此方を向いた。

手を振ってみせると、ひどく仰天した様子で走り寄ってきてくれる。

窓が開かれると同時に部屋に転がり込み、寒波を入れぬようすぐに窓を閉めた。

「ファラン!」 

「夜遅く、すまない」

 ディアドラは急ぎ足で部屋の向かいに据え付けられた棚から毛布を出して、持ってくる。

「そんな事はどうでもいいです、何でこんな、吹雪なのに……」

 雪を払ってから外套を脱ぎ棄てると、頭の上から赤い毛布を被せられた。顔を出すと、向かいの端から毛布に潜ったディアドラと眼が合った。

「もっと火の傍へ」

「ああ」

 二人は一緒の毛布に包まったまま暖炉の前まで歩き、座る。

「……寒くありませんか?」

「うん」

 二人は炎を前にして暫し見つめあうと……やがて、どちらともなく笑いだした。

「ああ、驚いた。今夜は死の精ではなく、冬の精かと思いました」

「俺はただの豺だ、前もそう言ったろう」

 応えると、ディアドラは首を振る。

「いいえ、ファランは、ファランです……私の、大好きな」

「っ」

 少女の頬が赤いのは、暖炉の炎だけのせいじゃない。

「……お、お」

 応えたいのに、何故か舌が回らなかった。

 少女が悪戯そうに見詰めてくる。緑の瞳が期待に輝いている。

「お?」

「お……おう」

「ずるいです、ファラン」

 頬を膨らませて抗議された。

 その無邪気に胸が苦しくなる……失いたく、ない。

「……ファラン? 私、怒っていませんよ?」

「ディアドラ、婚姻式の後、お前は何所に行く事になっているんだ? 教えてくれ」

「?」

 不思議そうな顔をするディアドラの手を毛布の中で捕まえる。それが当たり前のように、柔らかい手は強く握り返してきてくれた。

 暖炉の炎が二人を赤く染めている。揺らめく影が二つから一つになっていた。

「貴方は嫌がると思って言わなかったけど……お父様が用意してくれた館に、移り住む事になっています」

 衝撃を受けた。

……嗚呼、ルディアン……あんたは、俺の心を裏切るのか。

 俺に言ってくれた、ディアドラを大切にしろといった言葉は、嘘なのか……!

「ファラン、どうしたの?」

 自分がどんな顔になっているのか解らない。だが、ディアドラがとても心配そうにしてくるので余程に酷い顔なんだろう、そう思った。

「ディアドラ、式の後、此処に戻ってくれ」

「え? それは難しいわ、ファラン……私はその夜からランスター様の妻となってしまうのですから。でも、私は――」

 言葉を続かせず、抱き寄せる。ディアドラは素直なままにその抱擁に身を預け、腕を首へと回してきてくれた。そのまま床にそっと寝かせると、銀の髪が絨毯に広がった。緑の瞳は潤み、揺らめき、ファランの蒼い瞳を映していた。

「ファラン……不思議なの。私、少しも怖くないわ」

 囁きかけてくる言葉が嬉しかった。このまま想いの全てを遂げてしまいたかった。

「お願いだ、その館に行かないでくれ」

 潤んでいたディアドラの眼に疑惑と、懼れが浮かぶ。

「ファラン……? もしかして……ランスター様を……?」

「そうだ。俺の次の獲物だ」

 瞳の疑惑が驚きに、そして――読み取れない感情へと変わる。

「だ……駄目ですファラン。あの人は、いけない」

 ディアドラの口から、意外な言葉が漏れだした。華奢な肉体を身体の下にしながら、ファランは浮かぶ疑問を口にする。

「何故だ。お前はあの男に苦しめられてるだろう?」

「いいえ、違うのファラン。あのひとは弱い人よ、いろんなしがらみが彼を押し潰そうとしているの――あの人とファランは、きっと友達になれる筈よ」

 何を言ってるんだ。

 お前は、何故あんな犬なんかを――。

「奴は、俺の獲物だ!」

「ファラン……!」

 身体を起こす。少女がそれを追うように上体を起こし、腕に縋って来た。

「ファラン、いけないわ。あの人は――」

「言うな!」

 腕を振り払い、立ち上がる。

「俺の仕事はその夜、館にいる奴を鏖殺する事だ」

「……私がその場にいても、ですか」

 背を向けたまま、窓へ向かう。

「だから……だから此処に来たんじゃねえか……!」

 窓を開けようとする背中に声が飛んで来る。

「ファラン……貴方は、豺なのね」

「それ以外の生き方を知らない」

 窓に手をかける。

「ファラン、ならば私は翼の無い雲雀です。貴方を、待っています」

 眼を見開き、振り向く――少女は穏やかに微笑んでいた。

「やっぱり、あなたが私の死なのですね」

「ふ……ざけるな! なんで容易く受け入れる? 足掻け、生きようと足掻けよ!」

 少女は優しい微笑みを崩さない。

「受け入れるしかないわ。私にできる精一杯の、貴方への想い、抵抗だもの……私ね? ランスターの腕の中に、一度だけ収まってしまったの。あの人の弱さを知ってしまった夜に」

「…………」

 声を失ったままでいると、少女は涙を溢し――それでも、微笑んでいた。

「他人の腕の中で、心の中はずっと貴方に謝っていたわ……それで解ったの。私、貴方が好き、大好きよ。強くて、優しくて、弱い貴方が愛おしい。ほんとうはずっと一緒にいたいけど、それはきっと叶わないから。だったら……貴方の手にかかりたい。そして連れて行って欲しい…………ここではない、どこかへ」

 気が付くと、自分の頬に何かが流れているのに気が付いた。

 涙。

 泣いているのか、俺は。

「ディアドラ……俺は豺なんだ。でも、お前が好きだ。お前を失いたくないんだ……頼む、頼むから、俺の願いを聞いてくれ……!」

「ファラン、貴方が豺である限り、この理は変わらないのよ。獲物を愛でる豺なんて、おかしいでしょう? ――嬉しい。好きって、言ってくれた……嬉しい」 

 ついさっきまで抱きあっていた。その温もりを、柔らかさを憶えている。

 今だって、近づいて抱き締めればきっと受け入れてくれる。

 それなのに、遠い。遠すぎる。

「なんでだよ……お前はなんで、そんなに自分から選択を消していくんだ……」

「違うわファラン。私は、生まれて初めて自分の意思で運命を決めるのよ。ランスター様は弱い人だわ……私はあの方を御守りします。けれど心はずっと貴方のもの、それが私の戦いになったのです」

 ディアドラの決意は揺るがない。

 きっともう、どうあっても揺るがない。

 長い沈黙の末、口を開いた。

「……さよならだ、ディアドラ」

「はい。さよなら、です。ファラン」

 吹雪の街へと戻る、己の巣へと帰る為。

 少年は、一度も振り向かなかった。


ファランは宿舎に戻って来た。深夜も更けたそこには誰もいない。食事と酒が片付けられないままであちこちの丸卓の上に置いてあり、腹を減らしている事に気が付いた。

肉をつまみ食いしながら食堂で雪を掃っていると、階段からルディアンが降りてきた。鷹の眼をファランに向け、呟く。

「どこに行ってたかは聞かないぜ」

「……ああ」

 丸卓に座る戦士長。

忠実な豺はその卓の前に立つ。

「ルディアン、何故だ?」

「そりゃあこっちの台詞だがな……まあいい、お前がどう出るか、試したのさ」

 思った通りの答えだった。

「なら、殺せよ。俺はあんたを裏切った」

「誰が? 誰を? 馬鹿言うな」

 ルディアンは丸卓に置かれてあった酒を瓶のままで口つけた。

「ファラン、お前は計画から外す」

「!」

 豺は驚愕し、丸卓を殴りつけた。料理達が汁気をこぼす。

「ま、待ってくれ、終わったら俺を殺してくれたっていい、それは俺にやらせてくれ」

「駄目だ」

「なんでだ!」

「お前への罰だからさ」

 声を失うファラン。

ルディアンは卓にこぼれた燻製肉を頬張った。

「解ったか? オレがどれだけ残酷か」

「た……頼む、お願いだ、ルディアン」

 ルディアンは冷たい眼の光のままでファランを睨む。

「駄目だ」

「ディアドラは……あいつは館から出ないといったんだ! 殺されちまう!」

「……だから?」

 その眼光は、全てを拒否する色だった。

長い付き合いだ、こうなったルディアンを止める術はない事をファランはよく知っていた。

「なら、助けに行く」

「それも駄目だ。お前はこれからオレの指定する場所に行って、そこから一歩も動いちゃならん。牙を失うって事がどれだけキツいか、そこで考えてろ」

 そう言って、丸卓に鍵を置く。

「オレがいいと言うまで出るなよ。それを破ったらどうなるか――それも自分で考えろ」

 置かれた鍵を取る震えた手。

歯を噛み締めているのが見え、ルディアンは表情を戻す。

「……此処に今いるって事は、フられた女なんだろう? それでも、護りたいのか」

「大事な人だ」

 ルディアンの眼が丸くなり、ファランに見せないよう、俯き薄く微笑んだ。

「行け、セロを後で向かわせてやる」

「ルディアン、聞いてくれ」

「なんだ」

 少年は、一度俯いてから、顔を上げる。

「俺は……俺は、あんたが好きだ。あんたは、どうなんだ」

 少年の蒼い瞳が真っ直ぐにルディアンを見下ろしていた。

「止せよ、男色の気は無いぜ」

「誤魔化すな!」

 ルディアンは冷たい瞳を作り直してその眼を見返す。

「オレが好きだと言えばそれに縋れる、か? ――甘えるなよ小僧。戦士の本分は何だ、言ってみろ」

「……孤独……」

「そうだ。生きる時はどうあろうが死ぬ時ゃ一人だ、戦士って生き物はな。ファラン、何故迷う? 今のお前は迷いの塊だ……お前がオレの豺なら、獲物を前に迷いはしない。今のお前は野良犬にも劣っているぜ。さあ行け、頭を冷やして来い」

 少年は――俯いて、肩を震わせる。

 眼をきつく閉じ、涙を堪えている少年を見上げるルディアンの顔が、誰にも見せた事のない、穏やかなものになっていた。

「俺は……俺はあんたが好きなんだ。それだけだったんだ……そんなに、それはいけないことなのか? 教えてくれよ、俺はただ、あんたの傍にいたいだけだったんだ……」

「……もう答えは充分に教えたぞ。迷うな、行け、ク・ファラン」

 少年は背を向け、駈け出した。瞬く間に雪の街へと消えていくその小さな背中。

 鷹は……椅子に背を預け「馬鹿が」と、呟いた。


 ルディアンの指示の場所にあったのは、コルドアの外れにある小さな水車小屋だった。

 マコーニ川探索の際に名士にでも貰ったのだろう。中は誰も住んでおらず、無人のままだった。街を流れる小川の一つを使ったその小屋の周りは見晴らしが良く、見張りをされたならば出て行く事は敵わないだろう。

ファランはそこで眠った。ずっと眠り続けた。

 ……考えるのが億劫になっていた。自分のここ一カ月してきた事が、ずっと頭をぐるぐる回り続けていて、それを後悔するのも、これからどうすればいいのかも、何もかもを放逐して眠り続けていた。

「ファラン……起きて、ファラン」

「ん……」

 揺り起こされ、うっすらと目を開けると、紫の眼に見下ろされていた。

「セロ、か……眠いんだ、ほっといてくれ」

「呆れた。もうすぐ夕方よ? 今日は式の日なの、解ってる? 食事も食べないで……」

 そんな風に擽ってくる言葉も、今はどこか遠かった。

 数日の間、セロが来ている事は知っていたがずっと眠った振りをしていた。セロの優しさすらが、今は辛かったのだ。

「式の日だろうが関係ねぇよ……俺は、此処から動けないんだ」

「あんた、ルディアンの言葉にそのまま従う気でいるの……?」

 答えない。

「いいの? ディアドラが死ぬんだよ? あんたそれでいいの!?」

「うるせえ!」

 藁を吹き飛ばし、上体を起こす。すぐ目の前にはセロの顔。日のうっすら差し込む薄暗い水車小屋の中、二人は間近で睨みあう。

「――もう俺は考えたくない。お前だって言ったじゃねぇか、俺がそれでいいならって」

「駄目よ。もうあんたは選ばなくちゃいけない所に踏み込んでる。自分で解ってるんでしょう? もう、逃げられないんだよ」

「逃げる……?」

「違うって言うの?」

 俯いて、目線から逃げた。

違わない、逃げているだけだ。解ってはいる。

 だけど、どうすればいい? この小屋から出たらルディアンは今度こそ、きっと自分を捨てる。野良犬にも劣るとまで言われたのだ、間違いない。

飼い主の為というならば、殺すのも、殺されるのだって構わない。だけど、捨てられるのだけは……嫌だ。

「……此処にいる事を選ぶのだって、一つの選択だ」

「あたしの眼を見て言って。本当に、それでいいのね?」

 セロを見る……紫の瞳が綺麗だった。

 真っ直ぐに此方を見ているその表情。そこに厳しさと優しさが同居していた。

こんなにも俺を心配してくれているのに、なんで俺はこいつを……こんなにも、いい奴なのに……。

「……ディアドラは、こんな俺を好きだって言ってくれた。でも、俺が豺である限り一緒になれないって、そうも言ったんだ」

「じゃあ……諦めるの?」

 眼を閉じ、深く息を吐く。

 銀の髪の少女。初めて会ったあの夜、変な奴だと思った女。

でも歌声は奇麗で、忘れられなくて、再会を望んだ――再び出会えた時は嬉しかった。そこで歌声と同じ様に透き通った心に触れて、段々と心だけじゃなく、歌だけじゃなく、あいつの何もかもを欲しくなっていった。

 それでもあいつは俺を俺のままに受け入れた。だから俺は、もっとあいつに惹かれていった。死を怖いと言いながら死に憧れ、でもそれは……魂となって空を駆けたいが故だった少女――今の俺は、何をしてやれるんだ、あいつに?

「セロ」

「ん?」

「また、助けられたな」

 セロの顔に微笑みが浮かぶ。

「相棒だからね、当然よ……ああ、でも……そろそろ、貸しを返して貰いたい、かな」

 頷こうとしたその時に、不穏な気配を感じ取る。

 腰の剣鉈を確かめた。

「セロ、この場所を知ってるのはお前とルディアンだけか?」

「いいえ、イーガンスも知ってるわ。ルディアンの計画はね、あの鼬親父が代わりにやるって言い出したのよ……ファラン、もしかして……」

 頷くだけを示して硝子のはまっていない窓へと背を低くしたまま向かう。そこから外を覗き見れば、此方を窺う気配が複数。それらは弓を構え、先端に火の燃えた矢を――。

(火矢か)

 ファランは素早く藁の元へ戻りセロの肩を掴む。

「身を低くして、隠れてろ……ああ、そうだ、そこの床に俺の打剣を隠してあったんだ、取ってくれないか」

 セロは頷き、床を探りだしてから手を止めた。

「あんたはどうするの?」

 ――其処にファランの姿は既になかった。


 突如として窓から飛び出した影に火矢は放たれた。

「!」

 襲撃者達は驚愕する。

 炎を矢先につけた数条の軌跡が、剣の閃きに落とされていったのを見たからだ。

 矢を剣で落とすなど、余程の達人でなければできない業だ。それを、その複数を落とすなど、出来る訳がない。

 そんな常識が彼等の命を奪った。次の矢を番える間もなく、一瞬の驚愕が彼等の急所を貫かれる原因となっていた。

一瞬で相当の距離を詰めてみせた豺は、襲撃者達の只中で凶暴に牙を見せ、血濡れの剣鉈を一人の身体から抜き取った。

 犠牲となった二人が同時に斃れ伏す。しかし山犬を狙ったではない火の矢は小屋に突き刺さり、冬の空気に乾いた木は瞬く間に燃え上がる。

「ちいっ!」

 舌打ちし、小屋を振り向く身に短剣の閃きが襲いかかった。切っ先の届く寸前に、その短剣を握る腕を斬り飛ばす。

「があっ」

 苦悶する相手を無視して更に背へ迫る短剣から身を翻す。

舞うような軽業を見せながら間合いを離し、状況を確認する。 

腕を失った一人と後二人――見晴らしのいい場所だ、周囲に見える人間はそれだけだった。 二人が左右に展開し、走って迫る。連携はそれなりに出来た動きだ、ファランはその二人を無視して血止めをしている片腕の男へと一気に走り抜け、気付けぬままの首を飛ばした。

 血飛沫が舞い、身体を濡らす。

「……!」

 二人が此方を向きなおし、じわりと動きだした。

怪我で離脱した筈の意外な三人目の一撃に期待してたといった処だろうが、しかしファランの戦闘勘はその企みを赦しはしなかった。

「さっさと来い、小屋が燃えちまうだろうが!」

 叫び、左側の男へ迫った。一跳びで短剣目掛けて強撃を打ち込めば、男は堪らず後ろに退く。追撃を入れようと動く前、右側から迫る短剣が視界に入った。

それは正確に急所を狙っていて――危機感よりも先に身体が動き、刃から身を逸らす。

 連綿と積み上げてきた経験と、殺しの知識を積み上げてきた者だけが可能にした回避の業であった。ファランはそれを成しえた瞬間に、ルディアンの言葉を思い出していた。

 更に襲いかかる刃の連続。そこに体勢を戻したもう一人が加わった。

短剣の素早い斬撃を後ろに下がりながら次々躱し、受け流し、弾き返す。隙を作る事は出来るがもう一人が邪魔でそこを狙う事ができない。横目で盗み見れば小屋の火の手は更に強くなっていた。

「うぜぇ!」

 一人の短剣を強く弾いた。しかし、やはりいま一人が邪魔で攻めきれない。

 激しい攻防の中、燃え盛っていく小屋の炎が三人の姿を照らし出していく。

 腕一本捨てるか? いや駄目だ、ディアドラを助けに行くならば此処は五体満足でなければ次の戦いに出向けない。ならば、どうする――?

(もう一つ……虚実)

 再び脳裏に蘇る言葉。

 ――試してみるか。

「この、野郎!」

 叫び、大振りの剣鉈を振り上げて――その隙を狙ってきた二本の短剣、その急所狙いの突き込みを、高く跳躍して避けていた。

「な」

 中空にあるまま呆気にとられる一人の顔面に蹴りを入れ、蹴った勢いを使って回転、もう一人の頭へと剣鉈を振り下ろす。

「おらあっ!」

慌てて受けた短剣が粉砕され、身体は頭から縦に両断され大地に刃が埋め込まれる。臓物を撒き散らしながら男は縦真っ二つに分かれ、斃れた。

気絶しているらしい蹴り飛ばした男の頸骨を踏み折り、剣鉈を腰に戻す。

 虚と実、それに急所狙いの殺したがり――襲撃者達はファランの弱点そのものだった。ようやく、女騎士と戦った夜に受けた教えを理解出来たのだ。

 そして燃え上がる小屋を見る。冬の乾いた空気のせいだろう、雪を湯気と変えながら、木造の小屋は黒い煙を噴き上げ激しく燃え盛っていた。

「セロ!」

慌てて走り出そうとすると、背中から声が聞こえてくる。

「……まだまだあたしがいないと不安ねえ。射手二人が小屋の陰から狙ってたわよ? あんた、気付いてなかったでしょ」

「お、まえ……いつの間に?」

 振り向けば、短剣を弄ぶずぶ濡れのセロがすぐ背後に立っていた。

 安堵と共に肩の力が抜ける。

「あそこ、水車小屋なのよ? あんたが出てった後に隠れてた射手を始末して、小屋の裏手にある川に飛び込んだだけの事よ……おお、寒い! 火の傍に行こうっと」

 剣を此方に手渡してから、燃え上がる小屋に向って歩き出す赤毛の女。

そうだった、セロは過ぎた心配がいる女じゃなかった。この背中を盗める数少ない一人なのだから。

息を吐き、後ろを付いていこうとすると、鋭い声に止められる。

「あんたは行きな」

「行くって……俺は……」

「小屋はもうないじゃない。ルディアンとの約束は反故って事にしなさいよ」

 おどけて言って、此方を振り返る。

 炎を背にする女の顔は火陰でよく見えなかった。

「行きなさい、ク・ファラン。あたしがあんたの一番好きなところ、それはあんたが馬鹿みたいに真っ直ぐな事よ。行きなさい、ク・ファラン。見せてよ、あんたの最高に格好いい所を」

「セロ……」

「ただ、もしよかったら……一回だけ、モリガン、って呼んでくれると嬉しいな……」

 モリガン、聞いた事のない名だったが……理解出来た。

 眼の前の女を見据えて口を開く。

「モリガン」

「……もう一回」

「……モリガン」

「ごめん……もう、一回」

「……モリガン。お前は俺の、最高の相棒だ」

「……ク・ファラン。あんたはあたしの、最高の相棒よ……さあ、行け!」

 走りだす。ディアドラの元へ。

 けして振り向かない。泣いている女を見てしまったら、きっと足は止まり、腕に抱くを我慢できなくなるだろうから。

 少年は、真っ直ぐ前だけを見て走り続けた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る