第2話 「犬と雲雀と鷹と豺」


 勝利の美酒は、何よりも甘かった。

 コルドア要塞が城塞都市国家コルドアと、名を戻す事できた記念すべき日。それはフィオナ兵団が初めての大規模戦闘に勝利を収めた日にもなる。

帝国軍は次々に降伏し、二千を越える数多くの捕虜が生まれた。全周を囲んだ兵団の策は功を奏したようで帝国兵の脱走という報告は今のところは、ない。

 戦火の去った後、一旦陣に戻る事になった山犬隊は一日遅れてからコルドアの中に入る事を許された。其処では既に華々しい凱旋の場は終わり、改めて与えられたのは闇に潜ったのであろう帝国残党兵掃討という汚れ任務だった。

 しかし山犬の戦士達は腐るわけでもなく仕事にありついた。彼等は、自分達がこの戦で一番得をして、誰よりも損していない事をよく知っていたからだ。

 ――総被害数三十人、死傷者はたった十二人。

突撃を繰り返してきた十字剣騎士隊と、黒薔薇騎士隊、それからコルドア正規軍の甚大な被害を聞けば実にルディアンの策と、陣と、指令を躱す巧みさを知る事が出来た。

更に言うならば今回の籠城戦、最大の功労者は発表こそされなかったが山犬隊のファランとセロである事実も大きい。兵団幹部としても、前線を避け続けていた山犬隊を褒めこそすれ苦言を呈す事はできなかったのだ。

戦後の報奨金は山犬達を大いに喜ばせた。目の前に煌めく金達こそがこの戦の勝利に最も貢献したのが誰かと言う事を雄弁に物語っていたからである。


解放から更に三日後の朝を迎える。

 都市の中は未だ自由に湧き昼夜問わず酒が振る舞われ戦士達を癒し、悦ばせる。酒の席で民達は、帝国の支配は堕落と腐敗を撒き散らすものだったと、口々に語り、涙した。

 ここでどのような事が成されていたのか、それを告白した人物達から語られる享楽と頽廃に満ちた日々は、帝国への嫌悪と不快感を新たにするには充分に過ぎた。

 その告白が終わるたび、人々は嬉しそうに、穢れた過去を振り払うように新たな乾杯を叫ぶのだった。

そんな歓喜と祝福に騒ぐ大通り。

そこから裏路地に一歩踏み入れば、帝国兵の死体を吊るし石を投げる流行りの遊びを見る事ができるのは、誰も語らない暗い事実であった。

……大通りを真っ直ぐ進むと行き着くのは街の中央大広場と鎮座する荘厳な建造物だ。

名をイスカニール宮殿と言う。コルドア元老院が施政を執り行う為に作った都市中央に位置する政務を行う為の御殿である。

「くぁ……」

 ルディアンは大欠伸をして、塔の窓から街を見下ろした。

 そこは宮殿中庭から登る事のできる時計塔。街の景観を見ておこうと思い、登ってみたのだ。

宮殿は街の中で最も背が高い。特に時計塔はコルドアの外からでも城壁越しに見えるほどだ、窓からは巨大な都市の景観をぐるりと見渡す事が出来た。真下に見える宮殿正面、街の大広場には人の海ができていて、宮殿から現れる事になっている英雄の出現を今か今かと待っているようだった。

「こんなトコから見下ろせば、そりゃあ支配の一つもしたくなるわなあ」

 呟きながら螺旋階段を降りていく。

今日はイスカニール宮殿にてフィオナ兵団の重鎮達が揃い、コルドアの代表達と今後の政策についての検討会が開かれる事になっていた。

共和制を布いた都市国家コルドアには王はいない。

元老院と言われる街の名士達と、幾つかの商業組合が合同で作った組合会、そして議会の度に民間代表から選ばれる民会の三権によって国が動く。民、商、政が一体となり支配層と呼ばれる者達だけが国を司る事のない民主政治を行ってきていた。

 だがその優れた政の仕組みも、今は帝国によって見る影も無い。元老院だけがかろうじて現存し、フィオナ兵団の重鎮達との話し合いの場に臨む事になっていた。

その記念すべき第一回議会の開催を機会として、此度の戦に於いて活躍した戦士の功労を讃えて騎士位の称号を与える叙勲式も行われる。叙勲を受ける功労者の歴々の中にルディアンの名も連なっていた。

――カスヴァルドとの約定は確かだったという訳だ。

 それが理由でこんな美しくも息苦しい建物にやってきているのだが、まだ叙勲式までには時間があり、妙に大きい此処を冒険する事で時間潰しと洒落込んでいる。

ファランかセロを連れて来るべきだった、さぞや面白い反応を見せてくれた事だろう。そんな事を考えながら中庭に戻って来た。

階段が終わって中庭を巡る回廊に出る。

そろそろコルドアの民達の前に兵団の幹部面々が姿を見せる時間だ。彼等が逗留する奥の間から外へ向かう玄関広間へ向かうには余程変な道を選ばなければこの中庭回廊を通る筈、是非とも近くでくだんの英雄が持つ顔を見てみたい、そんな目的もあった。

 商人が顔から商売相手を見抜くように、ルディアンは顔から器を見抜く。悪党どもの中で成り上がり、生き残る為に身につけた特技だ。

「…………」

「……ん?」

 中庭に、人の気配があった。

 回廊を歩きだすまで気付かなかったのは不覚か、相手の業か――。

 無意識に手を剣の柄に自然と運ぶのと、耳に唄が聞こえてきたのは同時だった。

「……ほう」

 中庭の花壇の前、銀髪の少女がそこにいた。

 なんとも美しい娘だった。絵画の如きに図らずも目を奪われる。北方の出身なのであろうか、長く見事な銀の髪を揺らして唄っている。

「こりゃあ愛でるにはいい代物だなァ」

 ルディアンは無精髭を撫でつつ、しばし眼福にあずかった。

何をしているのかとよく見れば、陽光の降りる中庭で歌を唄いながら花を摘んで……いるのではない、花に唄いかけていた。

 花に向かって手を差し伸べているのは、まるで拍手をせがんでいるかのように見える。

「なんだ、ありゃ」

思わず一歩退いてしまうが余計に興味を引かれてしばし注視してしまう。

ふと、対岸の回廊に同じように少女を見ている人物に気が付いた。

「あ、しまった、オレとした事が」

 金の髪を優美に揃え、高級そうな装飾の成された板金鎧の上に金の刺繍も見事な上質の上衣を身につけた美丈夫。フィオナ兵団長ランスターその人であった。

 少女に意識を奪われていたせいで、邂逅の機会を逃してしまった。苦笑いしている間にもランスターは中庭へと足を踏み入れて、少女に何か話しかけだす。

 後ろには困り顔のカスヴァルドがいた。此方を見受けると、見透かしたような笑みを作ってくる……どうやら此方の目論見は、色々な意味で失敗のようだ。

「ふーむ」

 しかしこのまま立ち去るのも癪に障る。転んでも、タダで起きては笑い者、まずは落ちている銅貨を探せという金言もある。腕を組んでランスターを堂々と観察する事にした。

ここにいられるだけでもあの狐めには充分嫌がらせになるだろう。

 そんな事を考えている内にも、若い男女の語らいは進んでいる。

「本当に、美しい。まるで女神ブリーイッドの生まれ変わりかと思いました」

「あら、私は人間ですわ」

「い、いやそれはそうなんですが……」

 ぽかんとした色男の顔。吹き出しそうになるのを堪えるのに随分と腹筋を要した。

 カスヴァルドの方は……既に笑っているようだ。

「……貴方の瞳はまるで深い森のようですね」

「まあ、ありがとうございます。貴方様の瞳は深い海のようですわ。海で遊ぶ時は晴れた日がいいですよね? そんな日は寝具をおひさまに干すと、夜寝るときにとっても気持ち良いんですのよ」

「そう……なんですか」

「ええ、それはもう。でも、勝手にすると怒られてしまうのです……お手伝いさん達が仕事を取らないでくれーって言ってきますのよ」

 駄目だ、耐えらない。軽く腰を前に曲げてこっそりと息を吹きだした。

 なんともたまらん会話だ。救国の英雄を相手に一歩も退かず持論を展開しているあの娘は何者であろうか?

「それは、そうでしょう。立場ある者は人を使わねばなりません」

「……そういうものでしょうか?」

「そういうものですともお嬢さん。とりわけ貴女は美しい、貴女の様な方が家事等でたおやかな手を汚してはいけません」

「あら、それはどうかしら? お手伝いさんの中にもとても綺麗な方がいますわ。その人はしかもとっても働き者で、皆から慕われておりますのよ」

「は、はぁ」

 色男が会話の主導権を握ろうと必死なのが実に笑える。

 どうにも色気のある方向へ話を向けられないのがもどかしそうだ、そも、あの娘がランスターを男として見ているかも甚だ疑わしい。

「ディアドラ!」

 そんな時、中庭に響く声があった。

 カスヴァルドの横から早歩きで現れたのは、鼬に似た印象の男――イーガンスであった。

 なんだ、あの娘がセロの言ってたオズボーンの餌として呼ばれた絶世の美人とやらか。ルディアンは成程、と納得する。確かに美しさだけならその言葉を信じてもいい……だが、肉欲を覚えるかどうかは実に疑わしい。

「お父様」

「イーガンス議員ではありませんか」

「おお、ランスター様。外では民草達が首を長くして待っておられますぞ。ディアドラよ、御挨拶しなさい。この方はこの街を救って下さった英雄だぞ」

「あ、はい……申し訳ありません。私はシー・ディアドラと申します」

「私はランスター=オーリンです。英雄等と言う大層なものではありませんが」

 満更でもない調子でランスターは応える。

 そして調子づいた色男は、とんでもない事を言い出した。

「イーガンス議員。お願いがあります。彼女を、私にいただけないでしょうか」

「は?」

「な……待て、ランスター!」

 ほう、と息を吐くルディアン。今の一瞬でその場にいた人間達の色々な思惑を見る事が出来た。

 ランスターは自信満々といった風で、イーガンスは一瞬放心し、それから実にしてやったりといった顔になる。遅れて場に入ったカスヴァルドはそんな両者を見て眉を顰めていた。

 そしてディアドラ。話題の中心であるあの少女だけはにこやかに微笑むその表情から感情を読み取れなかった。まあ、何も考えていないのかもしれないが。

「どうした? カスヴァルド」

「どうした、ではない。婚姻相手と言ったのか? 君は自分の立場を考えろ」

「考えているさ。イーガンス議員の娘だぞ? 申し分ないじゃないか」

 実に扱い難そうな馬鹿だ、カスヴァルドの苦労が窺える。

 だが……逆に言えば、あの世間知らずのお坊ちゃんの威光を武器に、これだけの大軍勢を率いるに至ったあの狐の才覚は相当のものだという事にもなるか。

「ディアドラ、お前はどうなんだ」

「え……」

 イーガンスの睨む瞳。その眼はカスヴァルドとランスターには見せないように。哀れな事だ、贅肉将軍の次は、あれか。

 不快感はあるが、あれも成り上がる為の手段だろう。ルディアンは笑顔がゆっくりと凍っていく銀の髪の少女に人知れず同情した。

「……わ、私は……お父様の薦めなのであれば……」

 語尾が消え入っていく娘の言葉。

 少女の暗い顔と対象に、ランスターの顔は喜色満面となる。

「素晴らしい! 早速皆に公表しよう!」

「おい、ランスター……」

「カスヴァルド、喜ばしい事は、続けて起こすからいいんだよ。祝福とは皆で味わうものだ」

 いやまったく、清々しいまでに我を通す男だ。これも一つの王才ではあろうか。

フィオナ兵団、意外にあれで上手く回っているのかもしれんなと、ルディアンは感心するのだった。

 カスヴァルドは諦めたように嘆息した。

「……兎に角もう時間だ、行こう」

「ああ、では皆さん、行きましょうか」

 その皆さん、には当然娘も含まれていたようだ。ランスターに手を引かれ、銀の髪の少女は歩き出す。

三人は揃って宮殿前広場へ向かって行った。

「ただのツラ合わせより余程に面白かったぜ」

 呟きながら中庭を渡り、叙勲式の待合室へと向かう事にするルディアンだった。

中庭の中央までさしかかった辺りで、わあっと歓声が起こる。


ランスター! 英雄ランスター!


 それは冬の空気を震わせて、宮殿の隅々に響き渡った。

解放の英雄、若き兵団長の人気であった。自由と平和を取り戻したと喜び騒ぐ者達。今だけは、その美酒に酔い痴れればいいだろう。

「解放の使者、若き英雄ランスター、か」

 嘆息する。

 ……能天気そうな男だった。これからのコルドアの厳しい状況を悟っているのは、カスヴァルドだけと言う事なのだろうか。

 先ずは様子見。彼等がどのようにこの都市を動かしていくのかには、多少の興味はある。此方にしても、すべき事は山積みになっているのだから。

響き渡る歓声の中、ふと、少女が唄を聞かせていた花達を思い出す。

 この辺りだったか、と花壇を見下ろすと――花達が、種を落として枯れていた。

「…………」

 顔を上げ、最早見えない少女の背中を探してしまう。

 さっき、花は咲いていたよな……?

 死んだ花は、何も答えてはくれなかった。


「かんぱあい!」

 人でごった返す食堂の中にもう何百回目になるだろうか、音頭の声が響く。

山犬の面々は兵団の為に解放された宿屋の幾つかを借り受け、いつから始まったか解らない宴を続けているのだった。

此処はそんな山犬隊に解放されている宿屋の一つ「黒い太陽」亭だ。宴の傍らでは、食堂の端に置かれた少し大きめの丸卓に山犬の幹部連中が集まって食事をとっている。

窓が少ないせいだろう、朝だというのに薄暗い部屋の中は戦士達が夜を明かしすっかり出来上がったままくだを巻いていて、辺りは酒と、肉と、吐瀉物の匂いで占められていた。

 そんな転がる無頼どもを軽快な足捌きでかわして歩き、給仕の娘は笑顔を振りまき仕事を続けている。気前のいい山犬達は、女中の胸元に次々と銅貨を突っ込みいつあの胸元が重みで露わになるかと遊んでいた。

……今頃行われるている筈の、戦士長の晴れ舞台を見に行く山犬は誰もいない。行った所でルディアンが喜ぶわけがない事を誰もが解っているからだろう。

 それに只遊んでいるわけでもない。残党兵掃討任務については斥候術のいい練習になるだろうと、セロとルディアンで抜擢した連中が街中を走り回って調査をしている。

「しかしウチの大将が騎士様とはねえ」

 椅子にだらしなく座り、燻製肉を気障な仕草で頬張りながら伊達男、スファーダはおどけて見せる。

「駄目よスファーダ、今度からルディアン閣下って呼ばなくっちゃあ」

 セロのおどけに周りの男どもが一斉に笑った。そして、また湧き起る乾杯の声達。

 卓に置かれた豚の丸焼きから足を毟り取った頭傷持つ大男は、真面目な顔で黒い肌の異人へ知をひけらかす。

「ヴァラヤ、知ってるか。騎士は挨拶に剣を使うんだ、俺やお前のような槍、斧だと失格になるらしいぞ。だから騎士になる前に最低でも剣の訓練をしなければならん、しかも騎士は朝、昼、夜の挨拶用に剣を着替えるんだぞ」

「なんだっテ。じゃあ毎日三本も剣を持ち変えるのカ? 鎧も重そうだシ、騎士とはろくなものではないナ」

 その返答に再びどっと笑いが巻き起こる。

自分がからかわれた事を知って、異人はアルワッドの顔に向かって食べ終えた豚の骨を投げつけ見事に命中させた。

更に巻き起こる笑い声。

「でもよ、真面目な話、ウチの大将にゃこれからなんて挨拶すればいいんだ?」

「馬鹿、いつも通りで構わんさ」

 伊達男の曇り顔に、大男は顔に付いた脂を舐め取りながら答えを返す。

「スファーダとアルワッドは猫なで声、あたしは癇癪、ファランは甘えんぼな声かしら?」

 セロがおどけた調子を囀りながら横目で隣を見ると、少年は――卓に肘をついたまま、ぼうっと毟られている豚肉を見つめていた。

「ファラン?」

「あ?」

 皆が不思議そうに注目する。

その気配に気付いたファランはその視線から逃れるように、手近の木杯をぐいと仰ぐ。

「ちょっと、それお酒――」

「ぶはっ!」

 大嫌いだと公言する酒だ、勢いも良く噴き出した。そしてそれは、正面で座っていた気障男の身体におもいきりぶち撒かれる。

「き、汚っ! てっ、てめぇ! 何しやがる!」

「ちょっとスファーダ落ち着いて――ファラン、どうしたの? 具合でも悪いの?」

 咽込む少年の背をヴァラヤが摩る。

「仕手人、休んだらどうダ? お前の調子は私から見ても、悪イ」

 ファランは大丈夫だ、と返そうとするのだが咽込んだ呼吸はなかなか直らない。

しばらくひゅうひゅうと呼吸していると、酒を被ったままの気障男が唐突に笑いだした。

「ファラン、お前女でもできたんじゃねえのか? まるで恋煩いだぜ。この間の仕事からだよな? そこにいた商売女にでもやられたのかあ?」

「っ」

 正解だったのか、一瞬息を呑む。

「なんだ、図星かよ」

「違う!」

 珍しくもスファーダのからかいに咬み付くファランだった。

「……もしかして、あの子?」

 酷く静かに問う女の声。

沈黙で返す少年なのだが……やがて、観念したように口を開く。

「色事じゃねえ。次に言ったら殺すぞ――ただ、気になってる」

 ほう、と全員が息を呑んだ。

ファランが他人に興味を持つという事実に驚いたのだ。

不機嫌そうに丸卓の上にあった燻製肉に短剣を突き刺し、肉を削っている少年の世界の全てはルディアンで出来ていると、この場の誰もが、セロですらそう思っていたからだ。

「あの子というのは商売女……じゃなくて将軍の相手をさせられていた名士の娘か?」

 アルワッドの言葉にセロが頷く。

その辺りで……卓と、その周囲の全員が赤い鴉の不機嫌を敏感に感じ取った。

癇癪を恐れ、卓に座る者以外はさりげなく離れていった。残されたのはそこに座っている山犬の古株、幹部連中だけとなる。

「あー……なあファラン、それよりセロとどっかに遊びに行ったらどうだ?」

「あ? なんでだよ、めんどくせぇ」

 気障男の実に空気を読まない言葉に大男と異人は表情を凍らせる。冬の酒場は薪暖炉が無ければとても過ごせない寒さだというのに、気障男の台詞はそれだけで室温をもっと下げるだけの威力があった。

「それで、どう、気になってるの? ファラン」

 凍った表情を更に凍らせるような冷たい囁き。

スファーダはそんな男二人を他所に、にやにや笑って酒杯を仰ごうとする――と、杯を握る手の甲に、いつ放たれたのか、肉料理用の小刀が突き刺さった。

「――――」

 悲鳴もなく、哀れに悶える気障男。

手を抑え苦悶する姿をその場の全員が顔を青ざめさせ、無視している。

「ん……どう、と言われてもな。ただ気になっているだけだ。それなのにまた会うって、なんで約束したのか解らないんだ。会う理由も必要も無いのに」

 淡々と語る少年は本当に悩んでいるようだった。気のいい大男と寡黙な異人は何かしらの助言を人生の先駆者として投げてやりたいと思うのだが……横で明らかな怒りの気配を振り撒いている赤毛の娘を見て、どうにも萎縮してしまう。

怒りの報復が怖いのではない、娘の想いを応援していたからだ。

「馬鹿ねえ、ファラン。会ったら解るじゃない、そんなの」

 セロがそんな二人の逡巡を待つ事なく言い放つ。

「会う?」

「そうよ、同じ街、すぐ傍にいるんだもの。会ってみればいいじゃない」

 赤毛の少女の言葉に霧が晴れていくような顔になる少年。

それとは逆に、助言を与えた少女の顔は曇っていった。

「おお、いてえ……駄目だぜ、ファラン。その女には会えねえよ」

 スファーダが血塗れになった手を舐めつつ言葉を挟んでくる。

「何故だ?」

「――そのオンナとは、スファーダ、今朝のあのオンナなのカ」

 アルワッドの疑問にヴァラヤがその上から更に質問を続けた。話題を放ったスファーダは肩を竦めつつ、皆に充分に注目されてから話しだす。

「さっき俺とヴァラヤで市街中央を歩いたんだがよ、その時にウチの偉いさんが宮殿前で市民を前に演説会みたいなのをやっててな。まあたいした盛り上がりだったぜ。それでな、そこで総大将のランスター様とやらがツラだしてさ。いい男だったぜ、俺には負けるが」

 スファーダはそこで言葉を一旦切って、豚肉を毟り取った。

「そこデ、ランスターという男が婚姻すると宣言したのダ。その時控えめに挨拶していたオンナ、あれがそうだと言うのなラ、確かに会うのは難しいナ」

 少年が不思議そうな顔になる。

「なんで難しい?」

「そりゃおめえ、解放軍の軍団長サマに見染められたとなれば果ては公爵夫人か后妃様かってものだぜ。護衛も付くだろうし他の男に会うのを親父が許すわけもないだろうよ。下手に虫でもついたらどうするってもんよ」

 気障男の言葉をあまり理解できない顔でファランは首を捻る。しかし納得はしているようで文句や不貞腐れた様子は見せない。

「イーガンスか……あたしならあいつに顔が利くから、あたしが話を通すとか」

「馬鹿言うな、ルディアンに知れたらただでは済まんぞ」

 セロの案は呆気なくアルワッドに却下された。

それはそうだろう。後ろ暗い取引相手が昼日中から面通しに行くなど有り得ない事だ。

「ああ、いいんだ。気になっているだけで、そのうち忘れると思う」

 口数少なく少年は皆に詫び、短剣を拭き始めた。

卓を囲む皆が、普段ファランと仲の悪いスファーダですらが、そんな様子に言葉を失う。

「おー、やっとるな、諸君」

 そんな所に、胸に騎士勲章を付けた山犬の戦士長が帰って来た。

どことなく暗い空気だったのがたちまち晴れて、卓の面々は帰還した男に席を作る。

「それがフィオナ騎士勲章か」

「カッコいいだろ?」

「似合わないわよ」

 卓にたちまち火が灯ったようになるのは、やはり山犬どもを率いるこの男の人気に他ならない。何処か遠くにそれを見ながらファランは短剣を拭き続ける。

「アルワッド、流言の方は順調か?」

 ルディアンが酒杯を受け取りながら聞くと、杯を差し出した大男は頷いた。

「ああ、散らばった連中の話じゃあもう街の小僧にまで話が広まっているそうだ。裏路地に入って遊ぶのは帝国兵に食われるからダメだ、とかな。まあ、今なら残党兵の噂など誰でも信じる事だろう。実際にいない保証は取れてないんだしな」

 ルディアンは山犬隊全員に「帝国兵残党を見た」という噂を流すようにと命令していた。部下達は上層部から与えられた楽な仕事、残党兵掃討の期間延長の為だろうと素直にその命令に従っている。

「私とスファーダの部下の受け持ちの地域モ充分噂が飛んでいル」

 ルディアンは頷いてスファーダとヴァラヤに金貨を一枚ずつ投げた。

「お前等の世話になる宿の主人に渡しておけ。征服されてからこっち、ずっと帝国兵の相手をさせられてきたんだ。これ以上タダで飲み食いされちゃ首を括りかねんぞ」

「金貨とは奮うわね、騎士になったのが利いてるの?」

 おどけて言うセロの頭を金貨で小突いてから手渡し、戦士長は続ける。

「俺達は確かに元盗賊だが今は正規の兵隊だ。きっちり筋は通すのさ。それに、国の人間の覚えがいいに越した事はない――御前らも自分の配下にそれを徹底させろ。フィオナ兵団ではなく、山犬隊がだ。山犬は掠奪者でも、搾取者でもない、味方なんだと解らせろ」

 幹部達は頷いた。

「まだ解放の浮かれた気分があるお陰で表面に出ていないが、騎士を含めた貴族連中と町の人間との喧嘩があちこちで起きている。この都市は痩せ細った病人と同じだ。今はゆっくり休ませるべきなのに、立ち上がり歩く事を強要されている。これでは病魔も去りはすまい」

 アルワッドが豚の骨まで噛み砕いて吐き捨てる。

「今後も、もっト諍いは起きル」

「でしょうね、帝国兵との軋轢でいっぱいいっぱいだったのよ、この都市は。やって来た英雄どもにはさっさと元居た場所に帰って欲しいって言うのが本音でしょ。まあ、こっちにしたって此処を根城にするつもりで必死で戦ったんだけどねえ」

 長腕と鴉のやりとりを聞きながら、ルディアンは椅子に深く座り直して酒杯を呷った。

「冬が来れば近隣の村から越冬にやって来る連中で此処はもっとごった返す。後二十日と少し位までには移動するつもりで作業は進めておけよ」

 確認をとったのはルディアンの先見、山犬隊の宿舎を作っておくと言う命令だった。

 町外れの空いた土地を名士から譲り受け、現在突貫作業中である。隊内の中でも木の扱いに長ける者達を組ませ、近くの森で木を伐採、加工している。作業に余裕があれば越冬する民草の為の建物までも用意するつもりであった。

それとは別に、冬の間自給する為に森の中で狩りを続け食料を集めている。

 更に冬を迎えたら、都市の市井達との緊張を少しでも緩和する為、隊内で自警団を組織し防犯活動に当たらせる計画までがある。

 一介の山賊上がりが陣を指揮し、戦争後の街の復興、果ては施政の内情までをも的確に読んで部下に指示を与えているのだ。こんな彼の素性に多少の疑問なり持つべきなのだろうが、山犬達はそんな些細な事に拘る事無く鷹の眼持つ戦士長に従う。それは、彼等にとってそうする事こそが一番の得になると、彼を信頼しているからに他ならない。

「に、しても、コルドアのえらいさん達は苦労だぜ。散々荒らされた所にやってきた救い主のメシの用意から始まって、施政権を奪いたがる連中の相手、おまけに帝国兵残党と捕虜の面倒まで考えなきゃならんのだからな」

 気の毒にと笑うルディアン。スファーダは丁度通りがかった給仕の娘に肉と野菜の追加を頼んで椅子に座り直しつつ嘯いた。

「解放したのはウチなんだ、施政権は当然ウチのもんだろ」

「そこまで単純な話ではないな。それではティターニア帝国という看板がフィオナ兵団と変わっただけだ。コルドア側はできるだけ有利に司法を自分達に戻したいだろう」

 大男の意見は概ね正しい。そして、それが綺麗な話のままに進まないのがこの時代だ。丸卓に座る面々はその事を充分に良く知っていた。

「近い内に不明な事故やらが起きるってわけね、ルディアン?」

「稼ぎ時ってヤツさ」

 不吉な予見に眼を鋭くさせ応える。

「いずれにせヨ、ここで冬を越す事になるナ」

 ヴァラヤが窓から空を見上げながら呟く。

皆がそれに倣った。

「……雪が降りだしたら春まで動けねえ」

 短剣の煌めきを確かめ、呟くファラン。

「そうだ。そして、その間にこの都市のゴタゴタを全部解決しなければ、春と共に始まるだろう帝国軍の反攻に、俺達は蟻の様に踏み潰される。まあ、今のままじゃ十中八、九、間に合わんがな」

 ルディアンが皆を見回す。

「今度の獲物はでかいな」

「だが、面白ぇぜ。あの貴族連中ってのはどうにも虫唾が走るしな」

「慌てル事はなイ。布石は充分。後は良く狙イ、仕留めるだけダ」

「…………」

「あんた達、格好付けてるのはいいけどさ、一番に苦労するのはあたしとファランだってコト、憶えておきなさいよね?」

 幹部達は油断無く、そして不敵に戦士長へと笑いを返すのだった。

 そこで給仕の娘がやってきて、頼んだ料理の載った木皿をどかりと丸卓に置いた。

 この辺りでしか取れないらしい、海から戻ってきた魚の塩焼きなのだそうで、脂がのって実に旨い。

一斉に手が伸び、あっという間に料理が消えた。アルワッドは愉快に笑いながら目を丸くしている給仕の胸の隙間に銅貨を入れて、もう一皿を頼んでやった。

「そうだ、なあルディアン、ウチの総大将が今朝、婚約発表したよな? あのお相手の娘さんによ、ファランが会いたいんだってよ」

「ばっ……!」

 相変わらず空気の読めない発言をするスファーダに、ファランは磨いていた短剣を取り落としそうになる。

「ふうん?」

「あ、あの仕事の日、オズボーンの部屋にいた子なんだって。ファランはその子と何かあったみたいなのよ」

 訝しげにするルディアンはセロの説明を聞くとしばらくの間俯いている山吹色のざんばら髪を見ていたが、アルワッドから酒を注がれるのを合図に口を開く。

「それならすぐ会えると思うぜ? 昼になったらイーガンスの館に行く。騎士叙勲の祝い事って名目でな。ファラン、お前、付いてこい」

 ファランの顔が上がる――猫にいきなり水を浴びせた時のような顔になっていた。

「俺、が? セロじゃなくて?」

「ああ、セロよりお前の方がいいんだろ?」

「良くねぇよ。セロが行けばいい」

 飼い主に向けて口を曲げて反論する少年を見る赤毛の少女は、俯き表情を曇らせる。それから、にやけ顔を作って少年へと声をかけた。

「残念ね、あたしは昼からスファーダと用事なの。ね?」

 突然に美味しい話を振られたスファーダは、青天の霹靂に諸手を挙げて賛同する。

「そうそう、ファラン、俺は、セロと、逢引! なんだよ。悪ぃなあ!」

 ファランは勝ち誇るスファーダの顔に向け口を尖らせながら「解ったよ」と言うしかない。

「なら着替えて来い、お前の今着ている、返り血で染めました、みてぇな服じゃ流石にまずいからな。服が無いなら、買ってこい」

「じゃあ、あたし達はそろそろ行きましょうか」

「おうおう、どこでも付いて行くぜ、セロ」

 朝の宴はここまでのようだ。各々立ち上がる。

「状況の確認をしてくる」

「頼むぜアルワッド。必要ならガラトリンクにも声をかけろ」

 大男に従って、他の連中も出て行った。残ったのは、新たにやって来た皿に手を伸ばすルディアンと、不機嫌そうに口を尖らせたファランだけだった。

「ほれ」

 ルディアンに銀貨を投げられ、受け取る。仕方なくファランは立ち上がり革商を訪ねる事にする――その足取りが落ち着かなくなっている事に当人は気付いてないだろう。

ルディアンは苦笑した。宿の外に出て、雑踏に消えていくファランの背中を見届けながら「ちったあ成長したのかね」と呟くのだった。


 それから鐘一つ程の後、ルディアンとファランはイーガンス邸の客人として迎えられた。

 ルディアンは磨いた鎧姿、ファランは新調した革の服での参上だ。戦場には必要無いから普段は身形などに拘る事のない二人だが、今回は髪に櫛まで入れる程念を入れてきた。

昼間陽の下で訪れたそこは、庭園に囲まれたとても美しい建物だった。よじ登った館の壁には、夜は気付けなかったが見事な煉瓦細工がなされているのを見受けられる。

侍女に中庭へと通されると、そこに先日の鼬、イーガンスが待っていた。

そして……その隣に控える銀の髪の少女。

少女は、ファランを見つけると一度驚いたように目を見開き、それからあの夜とまったく同じ、無邪気で嬉しそうな笑顔をファランへと向けてくる。

 ――約束は、あっけなく達成されたのだった。

「おお、来たかルディアン。待ち侘びたぞ」

 イーガンスが気さくにルディアンへと声をかけてくる。ファランは飼い主の事をすらしばし忘れてディアドラを見詰めていた……と、その視線の間に割って入るものがあった。

鮮やかな金髪を長く伸ばした男用の礼装に身を包むその姿は、ファランには何の縁も無い「貴族」と呼ばれる連中の一人なのだろう。

体躯は然程大きくなく、顔立ちだけは妙に整っているのがいちいち癪に障る。そんな金髪の優男が、何故か此方を睨んできた。

「なんだ、あの娘か……ふうん、お前、見る目あるじゃないの」

 ルディアンが小声で呟きながら簡易騎士礼をイーガンスへと向ける。

「だから、そういうのじゃ――」

「ファラン、隣の男を見て、憶えておけ」

 此方の返答を潰して飼い主は命じた。それからにこやかな顔を作って鼬と少女と、憶えろと言った優男の元へと向かっていく。

睨んでくる男と視線を合わす――弱い眼だ、大した男には見えない。此方を妙に意識しているのには疑問を感じるが。そんな事を思いつつ歩き出した飼い主に従う。

「山犬隊戦士長ルディアン、参上しました。これは私の護衛です。ファラン、自己紹介しろ」

「厭だよ面倒くせぇ」

 反射的に返すと頭を小突かれ、失礼を詫びる。

「すいませんね、ウチのはまだまだ礼法の方はさっぱりでして」

 鼬と優男がそんな息の合ったやりとりに苦笑する。

「何、構わぬよ。まずは騎士叙勲、おめでとう、だな。ルディアンよ」

 にこやかに杯を出す鼬。毒入りの杯でも同じ表情で出せそうな奴だ。

ルディアンはそれを受け取って気持ち良く一息に飲み干した。

「有り難き御言葉、この身に余ります。叙勲を許していただきましたランスター公にも重ねて御礼申し上げます」

 相変わらずの口上でルディアンは酒杯を優男に渡す。

ランスターという名か、ファランは顔と名を繋げ、憶えておく。渡された優男はにこやかに微笑んでそれを一口だけ飲んだ。

 その様を見て、ファランはランスターと言う男を嫌いになった。ルディアンを見る微笑みの中にある眼の奥に、嘲りの光を見たからだ。

いかにもつまらぬただの貴族だ、こいつは。そう決めた。

「貴公の活躍が全てだよ、ルディアン卿。此度の戦は貴公がいなければ成しえなかった事ばかりだ。礼を言うのなら、それは私の方になるだろう」

 そう言いながら会釈の一つもしない。流石は貴族と言ったところか。気に食わない奴を睨みつけているその時――いきなり視界が暗くなる。眼に柔らかいものが覆い被さっていて、自分が目隠しされたのだと気が付いた。

「うふふ、ファラン、また会えましたね」

「お、おい、よせ」

 多少なり緊迫の場にあった筈だのに、少女は気にもせずファランの耳に囁いてくる。

目隠した手を退かそうとその手と覆い被さる身体に触れ、柔らかさに身を凍らせた。無邪気な少女の戯れは、初心な少年に女を意識させ、未知の興奮を呼び覚ます。

「ディアドラ、戯れるのはおよし」

 視界を封じられているファランの耳に優男の声が聞こえる。その声の後、するりと手が離れてファランの視界は戻り、目の前には優男が立つ。

優男は銀の髪揺らす少女の腰を抱きながら嘲りの混じる微笑みを作り、此方を見下ろした。華奢な細い腰を抱く腕と眼の光を見たその時刹那の殺意が湧くのだが、ルディアンを困らせる事はできないと心を落ち着かせる。

「いけないよ、ディアドラ。君は私の婚約者なのだから。節度ある態度をしてもらわねば」

「……はい、すいません」

 眼を伏せ、謝る少女。いよいよこの優男を嫌いになる。

「ランスター公、そろそろ部屋で話をしませんかな? 娘との時間はこれよりいくらでもありましょう」

 イーガンスは笑いつつ、ディアドラを窘めるランスターを窘めた。

「ファラン、お前は此処で待ってていいぞ――御嬢様を御守りしていろ」

「おお、それがいい。戦士よ、頼んだぞ」

 それだけを言い残すと反論も許さぬままにイーガンスとルディアンは連れ立って中庭から開いた窓を潜って居間へと向かう。

一人残ったランスターは不満そうにファランを見下ろしていたが、やがてにこやかに「では私のディアドラをお願いしよう」とそう言って、踵を返した。遠ざかっていく背を見てファランは唾を一つ吐いてやった。

「ファラン」

 そんな背中にかかる声。振り向けば少女がすぐ傍らに佇んでいた。

「ファランから会いに来てくれるとは思いませんでした。私、ファランを探そうと思っていたんですよ。きっと街の中にいると思ったから」

 俺を? 探すと言ったのか? 嬉しさに口元が綻びそうになる。

堪えていると、ディアドラは無邪気な微笑みを向けてきて……遂に耐えきれなくなって笑みを返してしまった。

――陽光に煌めく銀の髪が風に流れている。

「今は外に出るな……街は、今お前が歩き回れるような所じゃない」

「そうなのですか?」

「そうだ」

優しく瞬く深緑の瞳に見つめられる。真っ直ぐに、見つめ返す。

「ファラン、あちらに行きましょう。庭園がとても綺麗なんです」

陶磁の如き白い肌に手を引かれ素直に従い歩き出す。その手の温もりがくすぐったくて、密かに背を震わせた。

歩を進めていると柔らかな旋律が流れ、耳を擽ってきた。

「ディアドラは歌が好きだな。それに、上手だ」

「ありがとう……ええ、歌は大好き。歌は、私に翼をくれるのです」

 中庭から続く二人の背の丈よりも高い木々の生け垣で出来た道へと出る。少女の歌は心地良く木々の道を泳いでいった。

「ファランは、歌が好きですか?」

 ふと立ち止まってディアドラが聞いてきた。

悪戯そうな顔で覗き込んでくるその仕草。

素直なままに答えようとしたその時に、何故かは自分でも解らない……優男が向けてきた嘲りの眼を、ディアドラの細い腰に回っていた腕を思い出してしまう。

「ファラン?」

薄桃色の唇が開き、己が名を呼ぶ。それなのに、この少女は。

「今度はあの男なのか」

 言った後、自分を殺したいほど後悔した。

「…………」

 見上げる瞳が、たちまちに潤み、濡れたからだ。なんで、こんな言葉を吐いたのか自分でも解らない。お前の歌が好きだ、会えて嬉しい。そう言いたかっただけなのに――。

少女は繋いでいた手を放し、後ろに数歩、少年から離れていく。

「わ、たしは……籠の、鳥ですから」

「なんでだ? お前は嫌なんだろう? あの夜もそうだった」

 責めるように言葉を続ける。よせ、やめろ、と心のどこかが言うのに、止められない。

「私には、飼い主がいるのです」


 ――――飼い主――――。


「だ……だけど、お前が嫌がる事をやらせるなんて」

「その為に飼われているのですから」

 そのために、かわれて、いる……?

「その為に……だって? そんな事は無い。飼い主とは、飼うものを大事にする筈だ」

「……私は、一度たりとも飼い主……父の愛を感じた事はありません」

 哀しげに笑う少女。

無垢な笑みだけじゃない、こんな顔も、できるのか。

「そんなことはない!」

 思わず大声を出していた。

ディアドラが目を丸くする。

「飼い主だからって……そんな、心を踏み躙る様な事は言わない筈だ、言うもんか……!」

血が滲むほど唇を噛んで、ファランは俯き言葉を吐いた。

「ファラン……?」

 少女がおずおずと近寄って、不思議そうに覗き込んでくる――哀れに顔を青くさせる少年を見て、少女は何かを悟ったように呟く。

「ファラン……貴方も、なの?」

 覗き込んでくる少女の震える瞳を見る。その瞳の中に、震える瞳の己を見た。

 翠と蒼の合わせ鏡。

 少年と少女は、とても自然に互いの頬に触れ合っていた。


 中庭から直接繋がる居間で三人は立席の懇親宴と洒落込んでいた。

イーガンスは、美的趣味だけは悪くない。娘にしても、部屋に置かれた調度品の数々にしてもだ。盗賊の頃からの癖で皮算用を始めるが、見えているだけでも金貨の袋が数個できそうだった。

 昼日中なのに薄暗く設えられ、燭台の火の灯ったその席は、どこか退廃的な贅の極みというものを感じさせられた。

ルディアンは苦笑する。それが、まったく自分の気質に合っていないと安堵した事に。

「あの少年は、大丈夫なんでしょうね?」

 不機嫌を隠そうともせずランスターが聞いてくる。

「私めの忠実な豺(いぬ)ですよ。あれが傍にあれば何の問題も無いかと」

 その応えにも不満な心持ちを隠さない。

「その犬が、飼い主を噛む事はないかと気になっているのです」

 苛立たしげに呟く優男を見て目を細める。

やれやれ、ようやく顔を合わせる事の出来たこの男に多少なりは期待していたのだが、この程度の胆力か。

「ははは、ランスター公は我が娘の首に紐をつけねば満足できませぬか」

 イーガンスがさも愉快そうに笑い、酒を煽った。

浮世の追い風を愉しんでいる事なのだろう、この男は。征服からの解放、そして娘を見初めた救国の英雄と、己の野心を擽る事件に立て続けに恵まれてきたのだから無理も無い。

「いや、そういう訳では……」

 照れたように返すランスターを助けるように口を開く。

「イーガンス大老。そろそろ腹を割って話してはくれませんか。ただ騎士叙勲の話で呼んだわけではないのでしょう?」

 この切り出しは、打ち合わせの通りだ。

先に二人は密会し、ランスターへの進言をしようという話を纏め合っていた。幸いな事にランスターはイーガンスの飼っている小鳥の囀りにすっかり心奪われたらしく、鳥籠をちらつかせれば僅かの護衛だけでのこのこと出向いてくる程であった。

今この優男を政的に護る者はいない。これから話す内容に、抵抗なく首を縦に振らせようという腹積もりなのだ。

 この案はイーガンスのものだ。ルディアンは首を縦に振った証人となる為此処にいる。

女を使った策をルディアンは余り好まない――快楽と同じだ、その約束も一時の泡と扱われかねないからだ。

「うむ、実はな……ランスター公、単刀直入に言うが、コルドア正規兵の指揮権を我々街の元老院に戻して欲しいのだ」

 勿体ぶった話し方でイーガンスは笑ってみせる……表情で駆け引きをしているつもりならば、そいつは止めた方がいいんじゃないか。それは相手を怒らせたい時のツラだ。

笑みを浮かべたままでランスターを見る。優男の顔は、困った表情を笑顔で誤魔化すものになっていた。

「し、しかしそれは明日以降のイスカニール評議で決めねば……」

「公の口約束だけでもいいのです。ほれ、丁度此処に騎士も一人おりますれば」

 心の中で舌打ちする。

此処で話をオレに向けやがって、勘の鋭い奴ならそれで関係を察するぞ。

顔色を盗み見て様子を窺ってみたが、幸運な事にこの若者は浮かんだ杞憂を実現できる程の話巧者ではなかったようだ。

「いや、だからこそ余計な事は出来かねます……義父になる方に不義理を働くようで申し訳ないのですが」

 イーガンスの顔に焦りが生まれる。尚も口を開こうとするのを見たので、一旦話を遮る事にする。これ以上この男の思うが儘に話されると白い話まで黒くされてしまいそうだ。

「失礼ながらランスター公、この街の名士御歴々には何の後ろ盾も与えないおつもりなのですか? それでは元老院も街の施政者の立場上、得心がいかぬのでは」

 此処で悪役をやるのはオレの役目だったんだ。下位の人間に宥められていい気になれる奴は少ない。ましてや相手は王家の血統だというのに。

「む……それはそうだが。だからといって、カスヴァルド、兄上ともこの件は話し合っている。今ここで私一人が勝手な采配をする訳にはいかぬのだ」

 不満を顔に出すランスター。酒杯を乱暴に煽る辺りに若さが窺えた。

 カスヴァルドの存在がこの男にとって大きいのは良く解った。これは、失策だったかもしれないなと、ルディアンは無精髭を撫でながら言葉に頷いて見せた。

「そこを押して、こうやって頼んでおるのです。貴方の言葉が必要だ、この街の兵力を期待するフィオナ兵団の状況も察するに余りあるのですが、それはこの疲弊したコルドアにとっても同じ事なのです」

 ルディアンの緩急付けを無視してイーガンスは唾を吐き続ける。

「……とはいえ我等兵団にも冬の深まる前に兵の状態を充実させ、意思統一を計りたいと言う事情がある。で、ありましょう?」

「あ、ああ、そうなのです、イーガンス大老。コルドア軍を我々の指揮下に置いた上で軍事活動を進めなくては来たるべき帝国の侵攻に備えられません。恐らく帝国は夏を待って侵攻を開始するでしょう。それまでに、防備を万全とする必要があるのです」

夏、ねえ……。

カリナーンへと渡る船が氷で進まない春のうちは大丈夫だろうと、誰かがこの世間知らずの坊ちゃんに囁いたのだろうが……帝国の大型軍船ならば、春先の氷なら砕いて進む事が有り得る事をその誰かは知らぬと見える。

とはいえ、狐顔の参謀が持つ算段はもっと深いのは間違いないだろう。危機状況をあの男がランスターに進言しないのは、どんな真意がある事やら。

図らずも兵団の危機意識について知る事が出来た事を喜んだ。軍全体の方針は未だ下働きの部隊でしかない山犬隊には中々知らされないからだ。必要とあらば贅肉侯爵辺りでもを褒め殺して聞き出すのだが、その手間が省けたのは実に幸運だ。セロにも奴の相手だけは御免被ると言われているし。

「それは構いません、しかし指揮権がそちらにある必要はないでしょう。コルドアの猛将ダーマットに今まで通り任せるべきではありませんか?」

 思案する間にもイーガンスの攻めは続く。しかし最早門を堅く閉ざしきったこの男を攻略するのは先日のコルドア戦よりも難しかろう。ルディアンは疾うにこの話を結論付けていた。

「彼には兵団の相応しい席を設けるつもりです。それに、ダーマット将軍だけに軍を任せるには五千という数は多すぎるでしょう?」

 応酬される言葉の中に気になる人物の名を聞いた。

ダーマット将軍……先の戦で将軍が二人戦死した為、実質この将一人の采配でコルドア軍は動いていた事になる。即ち、たった一人の軍団長がこっちの作った策と好機を読んで軍事行動に移す指揮を見せたと言うわけだ、こと用兵術に於いては或いは自分を上回るかもしれない。

まったく、コルドアに入ってからは楽しい事だらけだ。智謀においてカスヴァルド、用兵においてダーマット、次々に人物が現れる。

「ふうむ、指揮権の問題は難しいですな」

 会話に割って入り、両者の杯に酒を注ぐ。そろそろ話を終わらせた方がいいだろう。これ以上は心証を悪くするだけだ。

「だからこそ、理解をしてもらわねばならない」

 ランスターは譲らない。

「ではコルドアは裸のままでいなくてはならぬのですか」

 イーガンスは食い下がる。

 話は平行線だ。イーガンスは娘が欲しければ軍を寄越せと言い張り、対するランスターは自分一人では決められぬと言い張る。片方が政を知らぬままにそれを求め、もう片方は政をこの場で御す気のない事はよく解った。

まあ、この金髪の若造が思った以上に強情な面を持っていた事が解っただけでも今は儲けとしておこう。

「おや、あの二人の姿が見えませんな」

 この言葉は、ランスターには激しく効き目があったようだ。

ファランには悪いが、逢瀬は此処まで。

「見てきます――失礼」

 もしやあの銀の髪の娘にも可愛そうな事をしたか。ファランに向けている眼はずいぶんと女の眼であった。

 部屋に残ったのは二人だけとなり、イーガンスは不機嫌を隠さず声を荒げて問うてきた。

「ルディアン、何故邪魔をする」

「いやあ、無理でしょ。貴族ってのぁ一度横に振った首は中々変えないものですぜ。深追いも過ぎると下手すりゃ咬まれちまいます」

 二人になった薄暗い居間。イーガンスは憎々しげに杯を煽った。

「評議会は明日なのだぞ。そこで決められてしまえば軍事力の無くなった元老院、コルドアの政治など意味を成さぬ。このコルドアが奴等のものになってしまう。コルドアは、このわしの、わしのものなのだぞ! これでは征服されていた時と変わらないではないか!」

 興奮して語気を荒げる鼬を宥めるように杯に酒を注いでやる。

「まあまあ旦那。手が無い訳でもありませんや。兵団はこの冬の間は縛られた居候なんですからね。その合間にでも策は練れましょうぜ」

 狭量にも限度ってものがあるだろうと、喉まで出た言葉を飲み込んだ。

しかしコルドアの兵力は『オレにとって』どうしても必要なものだ。無論、あの娘だけで取れるとも思っていない。

 それでも宥めは効いたようだ。イーガンスは更に杯を煽ってから不承に頷いた。

「さて、オレもちょっと見てきます。あの豺は気性が荒い、ランスター公の喉笛が心配だ」

 そうおどけると、イーガンスは笑み無くルディアンに向け冷たい瞳を向ける。

「なら、放っておいてもよかろうではないか……?」

 やれやれ、ここまで酷いか。

イーガンス、野心家なのを見込んではみたがとんだ外れ籤のようだ。金と色さえ使えば手に入らぬ物はないと信じている……商人には相応しかろうが、施政者の資格はこの鼬には無さそうだ。

「そういう訳にはいきませんぜ。あの豺はオレの気に入りでしてね。犬を一匹噛み殺した如きで首を括らせるわけにはいきませんや。ところで旦那、ひとつおねだりなんですが」

「なんだ?」

「あの金髪の犬ころの首を縦に振らせたら、あの娘、オレが貰ってもいいですか?」

 イーガンスがいやらしく笑う。

「お前もか、ルディアン。まったく魔性の女だな、あやつは。いいぞ、くれてやるわい。お前がわしにこの国を取り戻してくれるのならな!」

 笑う鼬に会釈して、鷹は中庭へと出て行くのだった。


 暫しの沈黙。しかしその時間は永遠にも似ていた。

「……硬くて熱いですね、まるで鋳られた鋼の様」

 ディアドラの囁き。掌に頬を擦りつけながら囀る声。

「お前は軟くて冷たいな」

 呟く声は擦れていた。

「ふふ、あべこべ、ですね」

 少年を笑うその顔。その仕草。無邪気なだけの少女。

「ディアドラ」

「はい?」

「ご……めん、酷いことを言った」

結ばれた唇に、細い指がなぞられた。

 緩やかに風が吹き、生垣の道を走って行き、冬も前だと言うのに花の甘い匂いが運ばれてくる。それらは毒にも似て、心の中に沁み入って来る。

「私を心配してくれたのですよね? 嬉しいです、ファラン」

 ……生まれて初めて自分が無力だと知った。

今少女に触れている己が掌は、幾百の死体を作る事が出来る、築いてきた。それなのに、今はこの少女一人守る事ができないのか。

 待て――俺が、誰を、護るだって?

 俺は……。

「俺は、ルディアンの豺だ」

「ルディアン……先ほど御一緒だった方ですね? 鋭く、孤独な目をしていました。まるで空高くを独り飛ぶ猛禽の様な……ねえファラン? ファランは、あの人が好きですか?」

 間髪入れず頷いた。

ディアドラは優しく微笑みそんなファランを見つめている。

「羨ましい。私は……主を感謝こそすれ愛せないのです……私、酷いですね」

 優しい微笑みの裏に陰があった……こんな笑みは、見たくない。

「なら、野良になれ」

「のら?」

「主を捨てて、自由に生きればいいだろう」

「それは――きっと、素敵ね」

 顔をあげ両手を広げる少女。

だがそれは、無理をしている仕草と気付く事が出来た。

「ディアドラ?」

「逃げれないの。私の身体は陽の光の下で長居するだけで身体に良くなくて……ファランと一緒に走って遊んだり、できないの。それは少し、残念……私はね? 一人じゃ何もできない、翼をもがれた雲雀なのよ。飛べないくせに、歌だけは、 唄えるの」

 そしてまた、陰のある笑み。

……理解した。少女の絶望を知ってしまった。

だが、知ったからなんだというのだ? この手には、ディアドラを救う術は無い。

俯き、唇を噛む。少女はそんな少年の傍らに寄り添った。

「ああ、ファラン。強い人、鬼火を宿らせる戦士よ。私、貴方と出会えて良かった……貴方の強さを垣間見て、己が覚悟の繊弱を思い知る事ができました。そう、貴方が戦場に行くように、私も戦場に向かうのです。貴方と違って人はころせないけれど、私は――」

言葉を最後まで続かせない。

寄り添ってきた身体を受け止めた。華奢で、柔らかくて、甘い匂いのする身体を腕の中にした。

豺は、翼を捥がれても懸命に唄う鳥を腕にそっと、置いたのだ。

「……貴方が窓から現れた時、最初、私を此処から連れ去ってくれるのかと、少しだけ期待したんです。ここではないどこかへ――死を伝える戦士が首無しの馬に乗って迎えに来てくれたのかと、そう思ったんです」

 肩に顔を埋めながら囁かれてくる声に愕然とする。

ディアドラが死を恐れないのは、死を安らぎだと、そう思っているからなのか。

それは戦士の心と同じだ。楽園を目指し、命燃やし、燃え尽きるまで戦う戦士と……。

ならば、何を殺せばこの子は救われる? 戦士には敵が必要だ。何を敵とするのだ? 俺が代わりに殺してやる。そう考えて、考えて……答えが何も浮かばない事に苛立った。

「ディアドラ。俺はお前を救いたい――何をすればいい?」

 少女は首を振る。

「駄目よ、ファラン。貴方は私の事をそんな風に考えては、駄目」

「何故だ? 俺は……」

「ルディアンと私、どっちが好き?」

 言葉が、殺された。

「そ、んなの、こたえられない」

「なら、駄目」

 少女の柔らかい感触が離れる。捕まえようとしたら、その手を払い除けられた。

 むきになってその手を捕まえる。か細く、柔らかい手。簡単にそんな抵抗など御す事が出来る。捕まえた腕を取り腰を抱こうとしたその時、咎の光を宿らせた深緑の瞳に真っ直ぐ見詰められている事に気付く。

腰を捕まえた手を放す。

 訪れたのは重い、沈黙。

「……ファラン、私の友達になってくれますか?」

 咎める視線に耐えられず俯くと、そんな言葉を投げかけられた。

「……ともだち?」

「ええ、友達。私ね? 友達って一人もいないの。ファランがもしも私の友達になってくれるなら、私、とっても嬉しいわ」

 少女は初めて出会った時と同じ、無垢なる微笑みを浮かばせていた。

「……俺は友達でもない奴と会って嬉しいなんて思わない」

「私達はともだちってことね? 嬉しいです、ク・ファラン」

 髪を掻いて照れる心を隠す。でもきっと、この少女はそんな自分を知っているのだ。

「ディアドラ、俺は――」

「貴様! 何をしている!」

 鋭い声に言葉を止められる。

振り向けば、金髪の優男が生垣の道に立っていた。

舌打ちする。ディアドラに心奪われていて、気配の近づくを読めなかった事に。

 ディアドラを背中に隠すようにしてから、不快さを隠さない顔で男が近づくに任せる。

「何もしてねえ」

「何も? 今、私のディアドラの腕を握っていただろう! それは――私のものだ、手を離すがいい下郎!」

 殺意。

「手前ぇは誰だ?」

「私を知らないと言うのか? 無礼者め、教えてやろう。私はランスター=オーリン、フィオナ兵団の兵団長にしてそこな娘の婚約者だ」

「そうじゃねえ、こいつを物扱いできる手前ぇは一体何様だと言ったんだ」

 優男の目が吊り上がる。

それを嘲り笑いながら、腰の剣鉈の重さを確かめる。

「ラ……ランスター様、御許し下さい、この人は、私を護って下さっただけなのです」

 ディアドラが場を取り直そうと前に出る。

その肩を乱暴に掴もうとする手が伸びたので、手首を握って止めた。ついでに関節を極めてやる。

「ぐ!」

「ランスター様……! だ、駄目よファラン、止めて!」

「言えよ、手前ぇは何様だ。俺には権威に尾を振る犬にしか見えねえぜ」

 下らない言葉を返したらその場で関節を外してくれよう。残酷な笑みを浮かべて優男を見る――その逆の手が、閃いた。

 ランスターの抜き打ちよりも速く、ファランの身体は飛び退る。

山吹色の髪数本が、はらりと二人の戦士の間を落ちていった。

 少女の小さな悲鳴。それが余計にファランを苛立たせる。

「抜いたか」

 なら、殺そう。

 瞳の蒼炎を燃え立たす。

「鬼火……!」

「死ね」

 刹那。ディアドラは動いたのを気付く事すらできず、ランスターは警戒した程度だった。

ファランの身体はランスターの背後、その首目掛けて剣鉈を――。

「!」

首と剣鉈の間に、煌めく長剣があった。

――馬鹿な。

剣と打ち合う前に刃を止めて飛び退る。数歩間合いを離して剣鉈を構え直すと、数瞬遅れてからランスターの身体が振り向き後じさった。

 ……反応は完全に遅れている。だのに、何故斬撃を防がれた?

 山吹色の髪持つ少年と、金色の髪持つ若者が睨み合う。一人は怯えの色を浮かべた青い眼で、一人は怒りに燃える蒼い眼で。

「ファラン!」

 鋭い声、身体が止まる。

 振り向けば、ルディアンの顔があり――次の瞬間思い切り殴られ、足を刈られた。

堪らず地面に転がった所に蹴りが来る。一撃目が脇腹の急所に入って、息を吐き、痛みに苦悶する間に体全部を蹴り、踏みまくられる。

どす、どす、ごすと、肉が軋む音が周囲に響き渡った。

容赦も、慈悲も、手心も無い――殺される、そう思える程に。

「がっ、ぁ、ぐ、お……」

次々襲う一撃。痛みと苦しさにひたすら身体を丸くして耐える事しかできない。痛みで涙ぐむ視界の端に剣鉈が見える……だが、手は伸ばさない――伸ばせるわけがない。

「止めて! 止めて! ファランが死んでしまう!」

 ディアドラの声が酷く遠くから聞こえる。

何をされたかも理解できない内に、全身が動かぬ程にされていた。それでもなお、蹴りは身体に埋め込まれる。痛みが消え、やがて意識が遠くなっていく。

「御無事であられますか、ランスター公」

 頭の中で何かが、きいんと遠鳴りする中、ルディアンの声が遥かに聞こえた。

「あ、ああ……ルディアン。もういいだろう、止めてやれ」

「御許し頂けるのですか、この愚か者を? おお、その深い慈悲、厚情、まこと感服致します、公。この愚劣に代わって厚く御礼申し上げます」

 そこでようやく蹴りの雨が止まった。痛撃の無くなった身体を転がすと、身体に誰かがそっと触れて来る。

「ファラン、ファラン……!」

 ディアドラ……糞、情けない姿を、見られちまった……。

「行くぞディアドラ、その男はもう放っておきなさい。後はルディアンに任せよう」

「でも……」

 裂けた頬に触れてくる柔らかい手。少年は声を振り絞る。

「いい、よ……行け、ディアドラ……」

「ファラン……っ、ごめんなさい、私のせいで……」

「いい、んだ……行け、ディアドラ……また、な」

 躊躇いがちに柔い指が離れていった。身体が離れるその寸前「またな、です」と、声を確かに耳にした。

 二つの気配が離れていく。ひとつは足早く、もう一つは何度も足を止めながら。

「……立て、ファラン」

「……ああ」

 二つの気配を感じなくなった頃、ようやくルディアンの声を聞く事が出来た。

 腫れだした眼で見上げれば……ルディアンが手を差し伸べていた。その手を震えながら握ると、ごつい手が力強く握り返してきて、一息に身体を起こされた。

「焦らせやがって、馬鹿が」

「…………」

 俯き腫れた唇を尖らせる。

「帰るぞ。戻ったら治療してやる」

「あいつ……俺の剣を……」

 擦れた声で呟くと、ルディアンは薄く笑って見下ろしてくる。

「修業は足りんがいい筋だったな。お前の弱みを身体が憶えていた、そんな剣だ……さぞかしいい師に恵まれたのだろうぜ」

「……続けてれば、殺せた」

 不満を漏らすと、ルディアンは肩を竦めてからゆっくりと歩き出す。ファランは足をふらつかせながらもその背中を追いかけ始める。

「阿呆。こんな所でぶった切って言い訳の利く首じゃねえんだよ、アレは……少し待て、殺る場所ならオレがいずれ作ってやる」

「いずれじゃだめなんだ、ディアドラを――」

 言葉を途中で止める……自分に何ができるか解らなかったからだ。

無力さを感じる。それはこの身体が感じるのとは違う種類の痛みであった。

「……お前がそんな風に思う奴が出来るとはなあ」

「……?」

 訳も分からず頭を撫でられた。痛みで軋んでいた全てが、それだけで癒されていく。

身体も、心も。

「ファラン、何かを欲するって事はな、同時に失う覚悟、手に入らなかった時の覚悟、何より背負う覚悟をするという事だ。解るか?」

 よく解らない。答えずにいると、言葉が続く。

「オレの豺でだけ在り続けるなら、それも気にせず済んだのだがな」

 それは独り言のように、誰に向けた訳でもない呟きのようだった。

「お、俺は、あんただけのものだ」

 慌てて返す、だが――。

「帰るぞ」

 ゆっくりと遠ざかって行く背中。ファランはその背中を、引き摺る足で必死に追いかけるのだった。

 

 夕方。

「ふざけんな! ファランは半死の体になってたんだぞ!」

「黒い太陽」亭に轟く稲妻の如き怒号が響いた。

「芝居だってバレたらオレがやばいだろうが」

 苦笑いするルディアンと、その前で殺意すら籠もった眼で睨みつけてくるセロの二人を囲み、山犬の面々は声も上げられずその様子を見守っていた。

ついさっき、セロを冷やかした男が頬に刺さった串の治療に運ばれたところだ。セロの怒りは怒髪天で、さしものルディアンが気圧され、丸卓に座る身体を下がらせていた。

「自分の立場を護る為なら仲間を半殺しにしていいのがあんたの流儀か」

「セロ、そのくらいにしておけ」

「アルワッドは黙って!」

 大男の仲介すら役に立たない。こうなったセロを止められるのは……恐らく唯一人なのだろうが、今その一人は二階部屋の寝台で、傷から出た熱で寝込んでいた。

「もしオレが止めなかったら山犬全員縛り首だぜ?」

 眼のまわりに大きな痣を付けたスファーダがセロの隣に立って酒杯を差し出してくる。

「そうさ、少し落ちつけよ、な? セロ。皆ビビっちまってるじゃねえか」

 セロはスファーダの見事な痣を見て……ようやく大きく一つ息を吐き、礼を言いつつ酒杯を受け取った。

「ごめんねスファーダ。でも、胸を揉むならさっきみたいな時は止めた方がいいわよ」

「っ」

 セロが吐いた言葉に周囲の山犬達にやっと笑みが戻る。セロとて自分のせいで凍った空気を直したくは、あったのだろう。

だが、それとこれとは話が別でもあるようだ。

丸卓に手を置き、言葉を続け出す。

「……止め方ってものがあるでしょう? ファランは、あんたの命令を聞いたのよ?」

 哀しそうな顔を作るセロを見て、ルディアンは椅子に背を預けた。

「セロ、ファランを診に行ってくれ」

「……っ」

 セロは唾を一つ吐いてから二階の階段を登って行った。

 山犬達が一斉に、大きな溜息を吐く。

「ああ、おっかなかった」

「俺ぁちょっとチビっちゃったよ」

「ルディアンも苦労だよなあ、あんなじゃじゃ馬よく乗りこなせるぜ」

「別の意味では乗っかりたいんだけどよォ」

 宿の中に喧騒が戻って来る。ようやく事の成り行きを見守っていた女中達が注文を受けたり料理を運ぶ為に食堂に現れだした。

冬の夕刻は短い。少しの緊張の時間を経ただけで、もう夜のそれへと変わろうとしている。光源になりつつある火皿の炎を見ながら、ルディアンは肉を一切れ口にした。

「行かないのか?」

 アルワッドが向かいに座って笑いかけてくる。

「今行ったら、余計怒られる場面に出くわすかもしれんだろうが。少し待ってから行くのが紳士の嗜みってもんよ」

 笑って答えるルディアンの横にスファーダとヴァラヤが座って来る。

「しかしあの女ァ鉈のガキが関わるとホント洒落にならねえ……見ろよ、この痣。こんなツラじゃあ今日は女中と遊べねえよ」

「戦士長、アレはセロの本音ではないと思ウ」

 互いに気を使っての台詞なのだろう。ルディアンは笑ったままで二人の幹部に酒を注いでやった。

「解ってるよ、気にすンな」

 ……ファランは帰って来たと同時に倒れた。

宿に着く最後の一歩までルディアンの肩を借りようとはしなかった。それがファランの律儀で詫びなのだと、ルディアンは黙って受け入れた。

 だが事情を察する事の出来ないものだっている、セロの怒りは実に激しかった。

 怪我人は四、五人ほどだろうか。仲間内の刃傷沙汰に罰則を付けるいい頃合いかもしれないと、アルワッドが言ったのを幹部の誰もが記憶に留めている。

「しかし、ファランの馬鹿は際限がねえな……未来の王相手に首狩りとはな」

 とても真似出来ねえと呟くスファーダ。ルディアンは手を振りながらそれに応える。

「たまさかこの場にいた連中の口止めはよくよく念を押すようにな。この話は絶対に外に漏らすな。お前等も、持ち場の宿にさっさと戻れ」

 スファーダとヴァラヤは酒杯を一気に呷ってから頷き、宿から出て行った。丸卓に残ったのは二人の戦士だけとなる。

「しかし、ファランがその娘にか」

 アルワッドが杯を煽りつつ、呟く。

「あれならまだセロの方がオレには都合が良かったんだが……な」

 ルディアンのぼやきに笑う大男。

「嘘だな、お前は誰でもいいのさ――ファランを戦士(おとこ)にする奴なら、誰でもな」

「おいおい、オレがそんな優しく見えるのか?」

 アルワッドは立ち上がる。

「見える訳ないだろう? さて、今夜の狩りは俺の当番だったな」

 大声で笑いながら出て行く大男を見送って、ようやくルディアンは立ち上がった。

「ったく、どいつもこいつも」

 宿の主人が食堂に姿を出して愛想を撒いていたのでそこへ赴き、騒ぎの詫びにと金貨を握らせてから、二階の部屋へと階段をそっと登って行くのだった。


 身体中が燃えるように熱い。

 慣れた感覚だ。戦場で傷を負った日の夜はいつもこうなる……そういえば最近は、見る事が随分と少なくなっていた。

 ……誰かが、身体を拭いてくれている……。

「ルディ……アン、か?」

「残念、あたしよ」

 女の声が返って来る――今はあまり見たくない相手だった。

 少しくらいの見栄はある。セロに対しては余計にだ。

「……残念では、ねぇよ」

「ふうん? じゃあ、嬉しい?」

「…………」

 セロの手が身体を巡る。ルディアンのとは違い、優しいが、少しくすぐったかった。

 ふと、その手が止まる。

「何があったかは聞かないけどさ、心配くらいはしてもいいだろ」

「……お前、下で騒いでいただろう」

「うん。だって、それをやったのは自分だって、あいつが言ったから」

部屋の隅に置かれた暖炉に赤黒く燃える炭が、時折ぱちりと音を出す。

 うっすらと目を開ける……もう夜だった。

窓から見える冷たい月の光が僅かに部屋の中に差し込んでいて、セロと自分の身体を青白く染めている。

「俺、が悪かったんだ……ルディアンを責めないでくれ」

「……解った」

 声が酷く沈んでいた。

どうしたのかと目を向けると見えるセロの横顔。その顔は、今まで見た事無い程寂しげだった。涙が眼に溜まっているのが解る。

「……セロ?」

「そりゃあ、あんた達が深い仲なのは知っているわよ。でも、だからってそうやってお互いだけで解り合ってて、秘密を作って、なんだかあたし、ばかみたい――」

 ――誤解だ。

答える代りに痛む腕を持ち上げて、セロの頬を撫でた。

「……ファラン?」

 驚いた声を聞く。

「一回しか、言わねえぞ……ありがとう、いつも」

「え?」

「一回しか言わねえって、言ったろうが」

 それきり目を閉じる。すると、小さな声が聞こえてきた。

「……それは、あの子のおかげ?」

「違う」

 セロは「ふうん」とだけ返して、黙る。

 汗の拭かれた身体が冷えた空気に触れて、それがとても心地良かった。

暗い部屋の中、二人はただ黙ったままの時間を共有していた。

「セロ」

「なに?」

「俺はルディアンの事、何も知らないんだ」

 暫し沈黙が部屋を支配する。

「何言ってるのよ、冗談……」

「冗談じゃねえよ。拾われて、生き方を教わった、それだけだ……俺はそれからずっと、ルディアンの豺でいた。俺はそれでいい、そうありたいだけだ。だけど、皆がそれを邪魔しやがる……畜生、どうすればいいかなんて、俺が解るもんか……!」

 呟きが沈黙に溶けて行く。

ふ、と、セロの冷たい手が身体に触れてきた。その指先にディアドラの指の柔らかさを思い出すが……それよりも、艶めかしい気がした。

しばし指に身体を任せてしまうと、今度は髪を撫でられる感覚。ファランはルディアン以外の人間に初めてそれを許し、髪の中を泳ぐ指の心地良さを愉しんだ。

「……ファランはさ、ルディアンの事、好き?」

 目を見開いてセロを見る。

何故かその問いに、答えられない。

月明かりだけの部屋で、青白く染まったセロの中で、ただ一つ違う色、紫色の瞳が煌めいていた。いつも逃がれていた筈の視線から、逃げられない。

「……あたしには、嫌われないように、捨てられないようにって必死になってるように、そう見える時がある」

「そんなわけ――」

 言葉を続かせられない。緑の瞳の少女が紡いだ言葉を思い出す。

(ルディアンと私、どっちが好き?)

 あの言葉の意味を、悟った。

「でもねファラン。私はあんたがいいなら、それでいいと思ってるんだよ」

 声は、優しかった。

 ディアドラとは違う。セロはそれでもいいと言ってくれた――だけど。

「お、俺は……答えが、欲しい」

「……それは、あの子のおかげね」

 ファランは、ゆっくり頷いた。

「少し、悔しいわね」

 笑うセロの腕を掴む。昼間にディアドラの手を握った時と同じように。

「お前は答えを知っているのか?」

「知ってると思うよ。でも、教えない」

 今度は腕を離さない、知りたいんだ。

「言えよ」

「いやよ」

 身体を起こす。随分回復していた。痛みは退いてないが、普段通りに動くのに障りは無い。

「寝てなさい」

「教えてくれよ、頼む」

「駄目」

「どうしてだよ!」

 二人だけの部屋に響く、小さな怒声。

「解らないの? あまえんぼ。でも、駄目。だってそれは……自分で見つけなきゃ駄目だからよ。きっとディアドラ、あの子もそう言った筈よ」

 腫れの退いてきた唇を尖らせる。

なんだよ、どいつもこいつも、と毒づいた。

「自分で決めて欲しいからよ。だって、私達はあんたを飼いたい訳じゃないんだから」

 セロはそう言って立ち上がり、此方を見下ろしてくる。

「……何処に行くんだよ」

「部屋に戻るのよ」

 腕を離さないままでいると、困った顔で笑いだす。

「ファラン、いいの? あたしは優しくしてあげられるけど、きっとそれはあんたの望む答えと違うよ? それでもいいなら……教えてあげる」

 セロの眼が妖しく光る。

まただ、また眼の輝きに負けてしまった。

「……解ったような眼で、俺を見るな」

 不貞腐れながら、腕を離した。

すると彼女は腕を摩りながら一度腰を折って、頬に顔を近づけて唇を――。それは、裂けた頬にすら甘くて柔くて心地良かった。

「良かった。腕を離さなかったら、あたし、あんたを嫌いになるかもしれなかった」

「……嫌いなのに、優しくするってのか?」

 頬に残る蕩ける様な感触。

「ディアドラだって、できてるでしょう? 言っとくけど、あたしの方が上手だよ」

 セロは背を向ける。

「セロ、行くな」

 言葉に足を止め、にやけ顔で振り向く。

「あたしの魅力にやられちゃった?」

「そんな訳、あるか。でも……行くな」

 セロは一度溜息をついて背を向ける。

「セロ――」

「枕持ってくる。あたし、自分の枕じゃないと寝れないの」

 戸が閉まる。

 一人になると余計に寒さの増す部屋で、ファランは膝を抱え、丸まった。


「……盗み聞き?」

「入れる雰囲気じゃなかっただろうが」

 二階の廊下。

 部屋の外で立っているルディアンに、セロだけが気づいていた。ファランは、それ程に自分を見失っているのだろう。

「……どんな気分?」

「飼い犬が勝手にガキこさえてきたような気分」

 吹き出した。

「捻りが無いわねえ」

「セロ、任せていいな?」

 珍しい。ルディアンが企みを含まずに囁いたような気がする。

「本当は、あたしだって役違いなんでしょうけどね」

「そりゃ解らんさ。オレかもしれん、お前かもしれん」

 本当に、珍しい。ルディアンがあからさまに人を避けた。

 セロが訝しんでいるとルディアンは背を向け、それから、思い出したように振り向いた。

「そうだ、寝物語にでもいいからファランに伝えておいてくれ。お前に与える次の仕事が決まった……あの金髪の優男だ、とな」

「なっ……」

 言うだけを云った戦士長は階段を降りて行く。

「自分で言ったんじゃない、縛り首って……」

 背中は、何も語らなかった。

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