第1話「鬼火」
朝靄の戦場に立つ一人の戦士があった。
動きを重視した金属鎧と腰に長剣を垂らすその姿。短く刈られた髪の下、無精髭を伸ばす硬い輪郭に宿る逞しい表情と、鷹の如き鋭い眼光から歴戦のそれを感じ取れる。
雄叫びをあげて戦士の隣を走り抜ける男が運悪く――或いは戦士が何気なく躱したものであったろうか? 流れ矢を受け、どうと倒れた。
叫び転がる男の目に刺さった矢先は眼窩を貫通し、脳漿を孕んで後頭部から突出していた。戦士は足元で転がる男を一瞥し、その首へ、手にした長剣の鞘の先を宛がった。
「す、すまねえ」
「いやいや」
鞘を突く。ごきり、と小気味良い音がして男の魂は戦士達の楽園へと旅立った。
鞘を亡骸から外して見上げる。
そう遠くは離れていない丘陵の下に、開戦四日目を数えながら未だ近づく事すらも許さぬ難攻不落、コルドア要塞の厚い城壁があった。
ただ分厚い石壁というだけではない。
壁上通路には弓兵がわんさと構えて次々と矢を放つ。壁のあちこちに仕掛けられた穴からは仕掛けの石弓が石を打ち、燃やされた油や糞尿が降り注ぎと、遠目に見ている分にはちょっとした見物であった。
「ルディアン」
呼ばれ、戦士が振り向くと、彼の腹心である大男が近付いてきているところだった。
「アルワッド、状況はどうだ」
城壁を見据えたままで問う。
問われた頭部に傷持つ大男は、ルディアンの横に並んで腕を組んだ。
「どうにもいかんな。雨のように降ってくる矢は止む事を知らんし、ようやくそいつを掻い潜って壁に取り付けばたちまち油か岩か、糞が降ってくる」
大男は顰め面を拵えつつそう答えた。
「糞で窒息死だけはしたくねえなあ。おまけにこっちの矢は全然当たらねぇ、か。開戦からこっち、何も状況は変わっていないじゃねえか……ったく、コルドアの堅牢さ。噂には聞いていたがまさかこれ程とはなあ」
肥沃な土地を持つ中原に構える巨大な城郭都市コルドア。カリナーンでも有数の富国であった都市国家だ。しかし、今は帝国に攻め落とされた敵領土の大要塞である。
「出来るのは味方の死体ばかりだな。ようやく突撃の喇叭を鳴らしまくる馬鹿も死んだようだが、死人の数は既に数百に達していると聞いたぞ」
ルディアンは眼を細め、未だ矢を次々打ち込んでくる厚い城壁を睨む。
「無駄に駒を減らしやがって……それで、オレ達の被害はどうだ?」
「矢には慣れてるからな、試しに壁に向かったのと合わせても運の悪いのが三十といった程だ……おっと、そこの奴も数に入れるようだな」
足元を顎で指す大男に頷き、戦士は無精に生えた顎髭を撫でる。
「フム。引け腰になるには充分な死人の数になったな。陣は今のままを維持しておけ、突撃したがりの連中に此処は任せちまおうぜ」
カリナーンの大地を蹂躙せしめた帝国の支配に対し一人の騎士が立ち上がり、声をあげた事によって生まれた正義。理不尽なる脅威を打ち払い、大陸に平和を取り戻す事を夢見た有志達が集った一大軍勢。
それが自軍、フィオナ兵団だった。正義の女神の名を冠ざす軍が初陣に選んだ戦場、それが眼前に聳える大要塞なのである。
「そうできれば楽なんだがな。さっき俺等の本陣に贅肉侯爵様からの使者が来てこれをお前にと渡された」
歯を見せるルディアンに、頭傷の大男、アルワッドは懐から書状を見せる。ルディアンは書状を受け取ると、丁度近くに飛んできた矢をそれで弾き飛ばした。
ぱあんと小気味良い音と共に弾け飛ぶ矢と羊皮紙。
「あー、あーあーお前……」
苦笑いして唸るアルワッドにぐしゃぐしゃになった書状を投げ返す。
「中身なんざ見なくても解るってモンだ」
現状、フィオナ兵団には二つの深刻な悩みがあった。
一つは戦の経験。野をゆく騎士、帝国の影響から外れた貴族達に声をかけつつ膨らんでいった軍勢は、今では五千を超える規模にまで膨らんでいる。
とはいえその統率を担う貴族達の過半数が大規模戦闘の経験が無い。
帝国の侵略に抵抗した戦上手の騎士、貴族達は、殆ど戦死か、捕虜となっているのだ。現在の貴族は戦を知らないままに平和を甘受し、贅と饗の前に気骨を失った者ばかりだった。
そんな彼等がとった戦力補強の手段とは、義勇兵、傭兵の大量雇用と戦力となりそうな外部勢力の取り込みだった。
ルディアンは外部勢力「山犬隊」の隊長である。五百名からなる盗賊団の頭であった経歴を持つ男だった。
「本当に分かってるか? 明日には開城しろ! なあんて書かれていたかも知れんぞ。あの贅肉侯爵なら言いかねん」
「まあねェ、寒波が酷くなってきたし、結構焦ってはいるだろうな」
もう一つの理由……それが糧秣と、居住の問題だ。
正義の志士とて人間だ。飯を食わねば生きてはいけない、眠る寝台無ければいずれ身体を病魔に侵される。実際のところ、拠点無きこの兵団は今のままでは冬を越える事も出来ずに解散の憂き目にあうだろう。あの大要塞はかつての大都市だ。即ち、戦にさえ勝てば彼等の足掛かりとなる重要な軍事拠点が手に入るのだ。
慣れぬ初陣にして敗北が許されない、水際の苦悩がこの軍にはあった。
「ま、オレが行って話を付けてくる。アルワッド、陣捌きはもうしばらく任せるぜ。スファーダとヴァラヤに遊んでねえで左翼右翼をしっかり見ろと言っておけ――ファラン!」
声のすぐ後、何かがルディアンの足元に降り立った。
軽装の革の服、腰帯の背には剣鉈を差す野伏りの容姿。
立ち上がった顔は山吹色のざんばら髪に蒼く鋭い眼、幼さの残る輪郭に烈しい戦士の顔が覗いている。それは、少年だった。
ルディアンの横に建てられている大人三人分以上はあろう高さの見張り櫓から一息に飛び降りたというのに涼しい顔で、ファランと名を呼ばれた少年はルディアンの横に並ぶ。
「付いて来い」
コルドアへ背を向けて丘陵を登り出すルディアンに無言で背中に従う少年。アルワッドは歩み去っていくそんな二人の背中を暫し見送ってから、己の陣へと戻っていった。
「何処に行く?」
ファランは問う。
「人の皮を被った連中の棲み家さ。人語がまともに通用しないからお前はずっと黙っていればいい。ただ、顔を憶えておけ」
ルディアンがのんびりと答えた。
「解った」
素直に言葉に頷くと、ルディアンは無精に伸ばす山吹色のざんばら髪をわしゃわしゃと撫でてくる。少し煩そうにその手を退けると、歯を見せて笑ってみせた。
ふざけあうその丘の下には夥しい数の戦死者どもが転がっていた。少年へと笑い顔を見せながら、それを盗み見降ろす鷹の眼の男は眼光を密かに険しくするのだった。
枯葉色の多く混ざりだした高い丘を登り越えると、本陣野営地の天幕達を小さく見下ろす事が出来た。その前には自軍フィオナ兵団の誇る守勢主力、白薔薇騎士団の騎兵達が全身鎧に陽光を反射させ並ぶ。だが陣形は完成されてはおらず、喇叭と共に進軍開始とは行きそうにない塩梅だった。
「見ろよファラン。能天気な連中だぜ。歩兵が前線で次々矢で斃れるを前にして未だにのんびり待機なんぞしていやがる」
丘の上で苦笑するルディアンの横、ファランは興味無さげに騎士達を一瞥した。
「重くねぇのかな」
と、答える。ルディアンは、かはっ、と笑い飛ばすのだった。
騎士団の邪魔をしないよう横を大きく迂回しつつ大きな丘をしばらく降り、随分な遠回りを経てようやく本陣へと足を踏み入れた。
中に入るなり飛んでくる騎士達の、下賤の輩へと向ける視線を感じつつ歩く。
本陣野営地の中は前線の場にしては怪我人が随分少なく、そこは戦時中だというのにも関わらず、どこかのんびりした空気があった。天幕の中では今頃になって鎧の準備をしている騎士や、侍女を相手に別れ前の濡れ場を愉しんでいる輩までがいる。
主の歩むままに従うファランは無意識に周囲の気配を窺い、やがて、この悠長な空気がここに一般軍属の人間が殆どいないからだと気が付いた。今この時前線で命を賭け戦っている傭兵や義勇兵等に宛がわれた陣は、自分達と同じく本陣は許されなかったという事だろう。
「負傷兵の一人もいないとはおめでてぇ場所だ」
小声でファランが呟くと、ルディアンは背中で呟き返す。
「本陣ってなぁそのくらいでいいんだよ、小僧」
戦の奥深さなど知る訳も無いファランはただ首を捻るばかりである。
やがてルディアンは一際大きく豪華な天幕の前で一旦足を止めた。
幕下の中ではいかにも貴族風な服装の男達が側女に世話されながら地図を広げ、戦略を練っているようだった。
見える所にいるのは広げた羊皮紙を見下ろす二人と、苛立たしげに肉と酒を食らう異様に太っているもう一人、それらに側女を含めて四人を数える。側女は実に戦場に立つのが似合わぬ容姿をしていた。敗戦した時の身上など気にかけてもいないのだろう、女の魅力をいちいちうるさく表した礼服なるものに身を包んでいる。
「山犬隊戦士長ルディアン、遅ればせながら参上しました」
言葉を放ってから幕下へと歩み入り、片膝をつくルディアン。ぎくしゃくとしながらもファランは同じ動作を倣って見せた。
薄暗い天幕の中はしかし貴族の、この兵団の幹部達が座る場所なのであろう、立派な調度品や掛け軸、垂れ幕があしらえてあった。
そんな物には目もくれずに頭を垂れ、命じられた通りに押し黙る。
いつも通りに気配を辿れば暗がりと、垂れ幕の奥に幾人かの兵が隠れている事に気付く。
伏兵かと一瞬だけ緊張するも、その気配から只の護衛であろうと判断した。それでも僅かに頭を上げる事で視野を通し、目前の男に害の及ぶ事もしあろうなら、すぐさま迎撃できるよう警戒する。
「おお、遅いぞルディアン」
幕下の一人、贅肉の塊のような男が口を開く。ぴかぴかの悪趣味な外套を羽織り、手には肉、もう片方の手には酒がある。服装も、その中身も贅で出来ているような男だった。
「や、申し訳ありません。我が隊はなにぶんこれが初陣となります。陣形をひとつ整えるのにも随分と手間取ってしまったものでして」
「ふん、盗賊上がりの連中だからな、仕方ないのう」
その盗賊団の戦ぶりを無視できない小心はどいつだよと、心の中で毒づく。
ルディアンが適当に話を濁していると、贅肉の対面で地図を見ながら首を捻っている若者が顔を上げる。こちらは贅肉とは対照的に妙に細い体だった。病魔、呪いの類にでも憑かれているのかもしれない、そんな見た目、貧相な面構えの若者だった。
「現在の戦況を教えてくれませんか? 私の斥候兵は運悪く戦死したらしく……目と耳を失ってしまって困っていたのです」
若者が問うてくる。
「は、酷いものです。難攻不落の要塞とは聞き及んでいましたが……全周強固な石壁に覆われたその上から雨の如く矢が降ってきて、近づく事すらままなりません。我が隊の斥候から聞いた話では、十字剣騎士隊は数割に及ぶ打撃を被っているとか」
「黒薔薇騎士隊は既に十字剣を率いて前線で戦っている筈ですが……それでは本陣を押し上げるには余りに危険ですね、攻城兵器も今から用意するのでは間に合わない……」
ルディアンの答えに対して呟きを漏らした若者に呆れてしまう。要塞攻めと解っていて攻城兵器の一つも用意していなかったのかよ。貴族ってのは本当に世間知らずなんだなと心中で笑っていると、
「まあ、仕方ありませんな。開戦の機会はこの時期をおいて他は無かった。冬近くを牙を潜め待ち、航路を封じ、増援の憂い無くして挑むこの急襲は上策かと」
こんな風にルディアンが若者を守り立てた。ああ、そういう事なのか、知ったかぶり等するものではないなと恥じ入ってしまうファランである。
「わざわざお前を呼んでまで聞きたいのはそんな事ではない、打開策を出せと言うのだ。徒に兵を消費しているままではどうにもならぬ。何か、何か良い手は浮かばぬのか」
若者とルディアンのそんなやりとりに贅肉が口を割り込ませてきた。
飼い主に対して先からの偉ぶった口調に苛立っていた忠実な豺(やまいぬ)は、誰とも聞こえぬよう舌打ちする。
しかしそれは目前で膝を折る聡い飼い主にだけは悟られたようで、腰の剣が巧みに動き、顎を鞘頭で叩かれた。
顰め面になって顎をこっそり撫でている間に、飼い主はよくよく回る舌先を使いだす。
「手、ですか……。無いと言えば無いですし、有ると言えば、有りますな」
その甘い言の葉は、蜂蜜もかくやではなかろうか?
貴族どもはその蜂蜜を前にして、どうやら生唾を飲み込んだらしい。一人は我慢もせずにさっさと手を伸ばしてきたようだが。
「なんと! 流石はこのわしが見込んだ男よ。もう策を練り上げていたか。ならば言うてみよ。それが上策であるならば、すぐにでもわしが兵団長に掛け合って実行に移そうぞ」
己の美意識が正しく働いているのならば、目の前の肉の塊は豚という表現は豚に失礼だと、そう思えた。にこやかな表情を作ると顔面が土砂崩れを起こしたように見える。
戦況を聞いてきた若者の方も贅肉に向け眉根を寄せている。どうやら貴族の美意識も、あれを汚いと思える常識は残しているようだと腹の中だけでせせら笑った。
「残念ですが上策ではありません。寧ろ下策と言ってよいかと。それ故に、口にするのもいささかに憚られますな」
ルディアンの返答はいかにもルディアンらしいものだった。目前の広い背中が囀るこの勿体ぶった話術が他者の心を容易く掌握するのをファランはよく知っている。
「しかし、打開の策なのでしょう?」
どうやら若者の方も蜂蜜の色に我慢できず、舐めだしたようだ。
「ですが、正規軍を動かさない策となります」
「つまり、暗殺か」
返答に初めて口を開いた三人目。幕下にいたもう一人の貴族だ。その男の目を見る……狐に印象の似た、中々に鋭い眼をした人物だった。この男の顔だけは特に憶えておく事とする。
「暗殺だと? ふむ、確かにそれは……上策とは言い難い」
贅肉の塊が腹を振るわせた。
「ええ、外策。そういう事になりますな」
言葉を続けるルディアンの背中からは表情を捉える事は出来ない。
しかしファランは背中で彼の感情をある程度は拾う事が出来る。今は、上機嫌だ。
「確かに、由緒正しい血統と、正義の名の元に集った騎士団を擁す我が戦団には相応しくない響きだが、此方にはそれをそうとも言っていられぬ事情がある。そも、あの街に如何な手段であれ入る策があると言うのならば、聞いてみたいものだ」
「ええ、もうすぐ冬が来ます。それこそが帝国側の援軍を抑えている理由でしたが、こうも攻めあぐねていては今度は我が軍が冬の猛威に飲まれてしまいます。決着を早めねばならないのですが……」
狐が返すと若者が更に乗ってくる。
詳しい話は解らないが、どうやら勝敗を急いでいるようだ。
以前、ルディアンが部下達に勝負を急がなくていいと指示していた事を思い出す。恐らくは、今この場に座っている事も含めてこれは彼の策中なのだろう。
「そ、そうか、では策を申してみよ。ルディアン、お前の事だ、着実な手なのだろう?」
贅肉が恐らくほくそ笑んだらしい、頬の肉を震わせる。
二人の貴族の意見に反対の色を見なかった為だろう、改めてそれを聞き出そうとする。問い詰められたルディアンは、頭を深く垂れて言葉を紡いだ。
「では、二日の猶予を頂けませんでしょうか。その時間があれば実行できます」
贅肉がぶふうと鼻息を漏らす。
「策を語れと言ったのだ、わしは」
「卿、畏れながら申し上げます。この策は外道の使う、言わば下賤の術。諸卿に於いてそれを実行するのは万が一の失策に、兵団の世評が揺らぐ事でしょう。この策は許されるならば我が隊にお任せ頂けるのがよいかと」
ルディアンの言葉遣いはいつもながら見事なものだ。学の無いファランには羨ましく、またこうやって人を食って笑う山犬の戦士長を己が誇りとも密かに思っている。
「失敗したら切り捨てろ、そういう事か」
狐が言う。ルディアンは静かに頷いた。
「は。で、あれば我等がフィオナ兵団の名に傷の及ぶ事はありません」
その返答に、贅肉の塊が腹を大きく揺さぶって豪快に笑う。
人に嫌われる素質でもあるのだろうか、この男は。ついうっかり、短剣を喉元目掛け全力で投げたくなってしまう。
「がははは! よい、よいぞルディアン。うぬの忠義、まっこと素晴らしい。お前の命を拾ってやったわしも鼻が高いわ! レニウス卿、ノイッシュ卿、ここは、このギャリックの顔を立てると言う事で、このルディアンめに任せてはどうですかな」
ギャリック、こいつは贅肉と呼ぶのすら勿体ない。腐肉とでも呼んでやるか。少年は苛立ちを隠しきれずに己を驕る肥満体を隠れ睨みながら、その他の連中を盗み見る。狐がレニウス、病魔憑きがノイッシュかと、名を憶えていく。
貴族どもの顔と名を結び付け終える数秒の間にどうやら三人の意図は決まったようだ。
「ルディアン……と申したか、その働きでの貴公の望みは、何だ?」
「ギャリック卿に拾われた恩義に報いたいが為のみにあります。部下達を労える褒美があればそれで満足です」
その拾われた経緯もルディアンの描いた絵だった筈だが。
狐は、目を細めてルディアンを見下ろしている。
あの眼はファランも知っている。あれは、相手を推し量る時の眼だ。事態を見守っていると、しばし押し黙っていたルディアンが頭を深く垂れさせたまま「また、もしも赦されるのであれば、この身に騎士位を頂ければ……」と、小さく言葉を付け加える。
――芝居だ。
あれは、己を小物に見せかける口八丁だ。手の内を知っているファランは歯を噛んで笑いを堪え、間違っても悟られぬようゆっくりと顔を下へ向ける。
「ふむ……そう、か。褒美の件についてはギャリック候が手を打ってくれる事であろう。ルディアンよ、世話をかけるが宜しく頼む」
戦士長は「御意に」と頷いた。ルディアンの心中は今どうなっている事だろう? ファランは下を向いたままでその手腕に舌を巻いていた。
「では二日の間、攻めの手は弱めつつ、しかし止める事は無きよう願います。相手の油断を誘わねばこの策の行方は迷いますので」
最後にそう言ってルディアンは立ち上がる。僅かに遅れてそれに従う。
「よかろう、それはこのレニウスが約束しよう。ギャリック候もノイッシュ殿下もこの策に乗った身だ、協力は惜しまぬだろう」
狐のレニウスの言葉に病魔憑きと腐れ肉が大きく頷きルディアンを見た。どうやら、満場一致で騙されたということらしい。
「では早速自軍に戻り、動きます。これにて失礼して宜しいでしょうか?」
三者が頷く。
ルディアンは一礼し踵を返した。その瞬間、此方に見せたその顔――ファランは笑いを堪えて後に続く。
二人は貴族達の視線を背にしながら天幕を後にした。
来た道を逆にしばらく歩く。騎士達の此方を見る視線も今は全然気にならなかった。
「どうだった、連中は」
まだ本陣の中を歩いているというのに気にも留めず、のんびりとファランに問うてくる。
「聞いていいか」
「ん?」
「あいつらは、自分が頭がいいと思ってるのか?」
ルディアンは無精髭を撫でながら、考えた。
「お前、そうじゃなきゃオレが困るじゃないか」
思わず吹き出してしまうと、またしても山吹色のざんばら髪をわしゃわしゃとやってきた。身を捩ってそれから逃げると、相変わらず彼は、歯を見せて笑うのだ。
この癖は、何年経っても直さない。
もう憶えてはいないが物心付いた頃からやられている筈だ……あの頃のルディアンは小さな盗賊団を率いるちんけなごろつきで、出世した今とは立場が随分と違う。
しかしファランは何も変わっていない。ずっと、彼の邪魔を排除する豺だった。
そしてこれからもそれはずっと、変わらない。
飼い主であり、師であり、育ての親である頭を撫ぜてくる男。この命と牙は、彼の為だけに在るのだから。
ひとしきり笑った後に、
「ファラン、明日の夜にひと仕事してもらうぞ。それまでは身体を休めておけ」
そう言って、背中を叩いてくる。
「解った」
豺はいつものように唯一言、そう返す。
本陣を抜け、二人は自分達の隊が張っている陣へと歩き戻って行くのだった。
なだらかな丘をしばらく歩き、ようやく自陣に戻って来た。
丘の向こうから聞こえる戦の音は、少し小さくなっている。これは先程の密談の成果というよりは、単なる攻め疲れと見ていいだろう。どんなに早く伝令を動かしても、まだ前線まで通達は成されない筈だ。
陣の中に入って歩き始めるなり、猫の威嚇の如き声がファランを捕まえる。
「ちょっとファラン! 何処に行ってたのよ勝手に見張りから離れて! あんたはあたしの部下なんだから、命令に従えっていつも言ってるでしょう?」
煩わしい奴に捕まった。面倒だからルディアンに任せようと思ったら、頼りの男は既に自分の天幕の中へと消えてしまっているではないか。
舌打ちして声の主、近付いて来る赤毛の少女へと顔を向けた。
「セロ、またファランいじめか? たまにゃア俺のお相手もしてくれよ」
「ファラン、気を付けろよ、その女ァそのうちお前を食うつもりだからよ」
「しかしお前等も飽きないよなァ」
周りからそんな二人をからかう声が飛んでくる。二人は揃って辺りを睨みまわし、冷やかしに応えてやった。仲間達は癇癪を恐れ慌てて散らばっていく。
……自陣の中もさほど緊張していないようだ。
ルディアンが戦線から随分下がった場所を陣取ったからだろう。本陣の騎士達程ではないが緩んだ空気になっている。流石に酒は許されていないようだが、夜番をしていた者達だろう、あちこちで食事等をしながら笑い合う姿が見えていた。
「余所見すんな」
周りを眺めていたらやおら頬を抓られた。仕方がないので目を合わせる。
燃えるような赤毛から覗かせる青紫色した大きな猫目。それを真っ直ぐに此方へ向けて睨みつける少女。名はセロ、仮の名らしいが本名は誰も知らない。
顔の形はまあ綺麗だし、女らしい身体もしている。それを強調するようなぴったりした革の服を着ているから余計にだ。世に曰く美人の部類に入るのだろうが……こんな凶暴な奴は男でも滅多にいない。
「ルディアンの付き人をしてきたんだよ。あいつの命令だ」
「はっ、騎士の真似事かよ、似合わない」
この隊にあって唯一人、ルディアンを侮蔑した口ぶりを隠そうともしない奴。それが目の前の少女だ。忠実な豺はそれを幾度となく止めようとしているが、この少女にはまるで通用しないし肝心のルディアン自身が放っておけと言うので文句も言いきれない。
「フン」
口で勝てないのは重々承知しているのでそれ以上言うのは止めた。休めと言われているのだし、何よりセロといると周りの連中の冷やかしが煩い。自分用の天幕へと逃げるように歩き出すと、赤毛の少女はその隣を小走りに付いてくる。
「ついてくんな、俺は休むんだ」
「何言ってるのさ、今夜仕事を貰ってるんだよ。あんたは下っ端斥候、あたしの部下だろ」
憮然とした顔で切り返される。足を止め、少女と対峙する。
「俺の仕事は明日の夜だ」
「あんたまた勝手にルディアンから仕事を受けたわね? いつもあたしを通せって言ってるでしょうが」
お前を通す事に何の意味がある。
思えども、言わなかった。以前それを言って口論となり、最後には泣きながら短刀を投げだして、散々追いかけられた事があるからだ。まったく、女ってのは面倒な生き物だ。
さらに言えば、この女の投剣技はこの山犬隊で適う奴がいない。つまり、未だにその時の傷が幾つもファランの背中には残っているのだ。
「詳しくはあいつから聞けよ」
そう言って又歩き出すとそれでもセロは付いてきた
「ついてくんな、俺は休むんだ」
もう一度足を止めて言うと、何故か怒った顔で睨んでくる。
「ファランあんた、あたしに何か言う事はないのかよ」
何も無い。だがそれを言えば冬前の四手熊の巣に飛び込むより厄介な事になるのは明らかだ。本当に、まったく、面倒な事だ。頭を捻り言葉を探し始めるのだが、何故かその悩む姿すらが気に入らなかったらしい、見る間に顔が怒りのそれになる。
「もういい」
それだけ言って背を向け歩み去って行く。
頭を掻きつつそれを見送り、
「セロ、気を付けてな」
とだけ挨拶をしてやった。すると……
「最初から、そう言いなさいよ!」
と、振り返って何故か笑顔で怒られる。訳が解らずぽかんとしていると、セロはそのまま走って行ってしまった。小さくなっていく背中を見て「なんなんだ」と大きく息を吐く。
まったく、女って生き物は訳が分からない。なんで山犬の連中はあの女を滅多矢鱈に贔屓にするのか、さっぱり理解ができなかった。
奴の機嫌が直った分だけこっちが不機嫌になったようなものだ。畜生、用命有るまで寝てくれようと見張り櫓で数日間寝ずの番をしていた体と、今の攻防で疲れ切った頭をようやく休ませる事にしたのであった。
ルディアンが己の天幕に入ると黒の長衣姿の男が一人、待っていた。
「ガラトリンク、どうだ、視えたか」
鎧を手早く脱ぎ去り、熊革の寝台に身を預けながら長衣の男の報告を待つ。
「うむ――マギカだ。帝国軍の将オズボーンとやら、中々の相手だな。石壁の全周に矢除けの術法が仕込まれている。此方の矢が壁の上まで届かないのはそれが理由よ」
マギカ。ティターニア帝国が海を越えてカリナーンに持ち込んだものの一つ、人智の外にあるとされる秘儀の名であった。
「魔術か。見た事はあるが戦にそれを使う程の奴と相対するのは初めてだな」
「手練の業よ。心せよ」
かつて神が人と暮らしていた時代、魔法は神の御業として存在していた。現在では書や、石碑、詩人の詠う伝説にのみその存在を語られる。
つまり今ではすっかり眉唾話になっている。それがカリナーンに住む者達の常識になっていた。しかし、未だこの世に魔が息を潜めて息づいている事を知っている者も僅かには残っている。
「ふうん。ならば、やはり門を開けにゃ話にならんか」
「既に毒は仕込んであるのだろう?」
頭巾を目深に被り、その顔を覗かせる事なき黒衣の男はそれだけを言い終えると天幕から出て行こうとする。その背中に声をかけた。
「ガラトリンク、アルワッドとヴァラヤを呼んでくれ」
頭巾が一度縦に動き、男は去った。戦士長の幕下に一時静けさがやって来る。
――流石に眠い。ファランに付き合ったのが理由だが、歳はとりたくないものだ、睡魔に打ち勝つ体力が落ちている。同じ時間起きていたファランの方は涼しい顔のままだったのを思い起こして苦笑する。
今年で三十の後半にさしかかった年齢に焦りを感じていないと言えば嘘になる。いや、焦りというより諦めと言ってしまっていいだろう。後二十年あったとしても彼が彼の描く夢を描き切るのにはもう時間は足りなかった。だが、それは解っていても、筆を置く気にはなれない。哀れな戦士の性とでも名付けようか、夢を追う事は止められない。
重い瞼を擦っていると、呼んだ覚えのない来客がやって来た。
「ルディアン、あんたファランを勝手に使わないでよ」
赤毛の少女は天幕に入るなり鼻息も荒く開口一番そう言った。
あの小僧め、胡麻擂り一つできやしねえのかよ、と嘆息するも、あんな風に育てたのは自分である事を思い出し、仕方なく少女の相手をする事にした。
まあ、呼んだ連中が来るまでの暇潰しにもなるだろう。
「ああ、悪ぃな、セロ。だが今さっき貴族の御偉方と決めた策だったんでなあ、お前には後で断りを入れようと思ってたんだが」
素直に詫びるとセロの方も肩の力を抜いたようだ。
「そ、それなら仕方ないんだけどさ……」
そう言って、自分の赤毛を弄りだす。やれやれ、ファランめ。
寝台横に置いた干し果物を頬張り、もう一つをセロへと投げる。
「ファランと何かあったのか?」
「そ、そういう訳じゃないんだけど……」
口を尖らせ腰を捩らせる仕草。狙う相手が普通の男なら容易く手玉に取れる器量と技量を持つ娘だ。実際この娘を偵察活動の頼りにしている処もある。
そんな女だからこそファランの態度が納得もしないし、困惑もするのだろうが。
「何度も言うがな、ヤツはああいう奴なんだ。女をまったく教えずに育ててきたって言っただろう? お前がその気なら教えてやれとも――」
「い、いいわよ何度も言わなくても」
頬を赤らめるセロを見て口元をにやけさせる。世の汚さを見ながら育った女が惚れた男を前にすると只の少女になる。見物するだけなら面白いものだ。
手元の酒を手に取って、その表情を肴に喉を潤した。
「ならいいじゃねえか、遠慮してないで奴の寝所にでも忍び込めよ」
「な……い、厭よ」
その後、消え入りそうな声で「拒まれたら、どうするのよ」と聞こえた。
恋という心の働きも、人心を操る術には必要なのかもしれないと、こんなセロの態度を見る度に思う。どうにも苦手な分野なのではあるが。
「それが出来ねえならまあ、ヤツに多くを望まないことだ。望んだなら、口に出してあいつに言う事だ。あいつはお前の言葉になら大概応えるだろうよ」
セロとファランが結ばれるのはルディアンにとって損になる事でもない。二人の行く末は適当に見届ける事にしていた。
「だからさ、その言葉、ねがいってのを具体的に――」
「お邪魔か?」
セロの言葉を遮るように大男が問いつつ天幕に入ってくる。黒い肌の異人がそれに続く。
「あ、あ、平気よ」
残念ながら暇潰しの時間は終わりのようだ。もう少し時間が許せばファランに無理なく女を教えさせる方法を伝授してやったのだが。
「陣は問題なイ」
言葉に妙な訛りを混じわせるのは黒い肌の異人、ヴァラヤだ。
「あたし、行くね」
頬を赤らめたセロが天幕から出ようとするのを止める。
「ああ、待てセロ。お前にも聞いてほしい事があるからここに残ってろ……さて、忙しい所呼び出してすまなかったな。どうにも眠くて動くのが億劫でな」
苦笑混じりの声に三者三様笑ってみせる。
良く躾けられた部下達に、此方の口元も緩む。
「今回の戦だが今のままじゃ勝てん。じき冬も来るしな。そこまで粘られたらこっちの負けは確定だ。後十日と少しくらいが戦のできる限度だろう。で、御偉方から話を取って来た。前に話した通り、帝国武将を陰に隠すぜ」
宣言に三人は頷いた。
「布陣は万全。後は動きを待つだけだ」
「左翼、右翼に問題はなイ。適当に隊列を乱して騎士連中に笑われていル、全て順調ダ」
アルワッドの言葉にヴァラヤが続けた。
「よし、決行は明日の夜だ。ファランとセロが上手くやればいずれ門は開くだろう。それまでの動きだが……アルワッド、陣形を広げて十字剣騎士隊の援護に入れ、できるだけ恩を売っておくようにな。矢で死ぬ間抜けはこれ以上出さないよう盾持ちを徹底させろ。で、ヴァラヤ。前に聞いた事だが、できるな?」
大男と異人は力強く頷いた。
「早速動こう」
「槍は刺さっタ。問題なイ」
「よし、頼りにしてるぜ。で、セロ。今夜の仕事の確認だ」
今まで静かに話を聞いていたセロが口を開く。
「今夜コルドアに名士の縁者を乗せた馬車が入る手筈になっていて、あたしはその馬車に乗ってコルドアに入る……陽が真上になる前には、馬車へ向けて出るつもりだったよ」
頷き、それに言葉を付け加える。
「ファランは行かないぜ。お前は単独潜入になる。書状を渡すだけの予定だったが少し事情が変わった。書状を渡したら、渡した相手の指示に従ってくれ」
形良い眉を顰められる。
「え? ちょっと待ってよ。それって潜入工作じゃない。只の使いだって聞いてたのに」
「事情が変わったって言ったろ? 安心しとけ、そいつは女より金の好きな男さ」
おどけてみると、牙を剥けられた。
「そんな心配じゃねえよ! 解ったよ、やればいいんだろ」
「恐らくファランの手引きを頼む筈だ」
そのおどけ言葉を助けるかのように、アルワッドが言葉を続ける。
「な……だったら、最初からそう言えよ! やるに、決まってるだろうが」
男三人は苦笑した。
無理もない、女豹の如きが、言葉一つで容易く猫に変わるのだから。
「よし、じゃあ行ってくれ。流石に眠い、俺は寝る。何かあるまでは起こさねえでくれ」
三人は頷き天幕を出ていった。
朝の日を遮り暗いままの天幕にあるのは、疲れ切って横たわる男と遠くに響く戦士の吠え声だけとなった。
もう誰に遠慮することも無い。大きく身体を伸ばして眼を閉じる。
「反撃の狼煙ってやつさ」
笑い、息を整えた。たちまちに疲れ切った頭に闇の帳は降りて来た。
空の月、星は雲に隠されていた。絶好の天気と言っていいだろう。
夜闇の中、その闇へ半ば溶け込むかのように二人の男が高き石壁を見上げていた。
昼過ぎ程から徐々に前線を下げていったのが功を奏したのだろう、都市を堅く護る城壁の上に見える見張りの松明の数が随分少なくなっている。逆に警戒されるかもしれぬとも思っていたが、敵将は優れた戦略眼の持ち主ではないようだ。
「よく寝たか? ファラン」
「ああ、あんたは寝過ぎだぜ、ルディアン」
苦笑で応えた。起きたのは作戦決行の昼時、丸一日半ほど熟眠してしまったのだ。
「頭の特権って事で許してくれよ。たまにはな」
「俺は咎めるつもりなんてない。もっと寝てたっていいんだ、あんたは」
その言葉につい笑ってしまい、その山吹色の髪をくしゃくしゃにしてやった。
部下達は指揮者不在のままでよく動いていた。
山犬隊、総勢五百名の無頼どもは戦士長の期待通りの戦士に育ったという事だろう。自分の撒いた種が着実に芽生えだしている実感はあった。撫でる手から逃げる密兵を見てルディアンはその思いをより確かにする。
「――さて、見えるか? 壁に刺さった槍だ」
昨日と今日の攻城戦の中で「長腕」の異名持つ槍投げの名手ヴァラヤに頼んでおいた〈足場〉の事だ。槍尻についた飾り布が、緩やかな夜風に揺れていた。
「楽過ぎるぜ」
ファランは無造作に歩きだす。その背に声をかけた。
「ク・ファラン」
真名を呼ばれた少年は足を止め、振り返る。
その左眼が蒼く燃えていた。
戦場にあって、出会った者を冥府へと送る蒼い炎。戦士達に死と恐れと共に口伝されてきた「鬼火」のほむらが其処にある。
「なんだよ?」
「奴は魔法を本当に操るらしいぜ……気を付けろ、無事で帰ってこい」
少年の顔は闇で良く見えない。
「……気持ち悪いぜ。なんだよ、いきなり」
「今度セロが仕事に出る時今みたいに言ってやれ。きっと、機嫌が良くなるぜ」
鬼火を宿した少年は肩を竦めた。
「人の世話なんぞ面倒だ」
ファランは言い捨て、走り出した。たちまち闇に溶けていく蒼炎。
夜闇に慣れ始めた眼を凝らして見れば、かろうじて闇に混じりかけた影を捕まえる。それは既に遠くにあった石壁に取り付いて、ヴァラヤの投げ槍を足場に瞬く間に捕まえ、飛び、回り、登り切った壁上の通路へと身を躍らせた。
「……ったく、お前を見ているとたまに策を練るのが馬鹿らしくなっちまう」
ルディアンは苦笑し、自陣へと戻って行くのだった。
闇から闇へ、音もなく足を運ばせる。
左眼の蒼い炎は闇を見通し、鍛え抜いた隠密の術は敏感に周囲の気配を感じ取り、しかも己が姿は気取らせない。石壁の内階段を素早く降り、衛兵達の監視の網を潜り抜けていく。
降り立った城郭都市コルドアは、ファランが今までに見た中で一番大きな街だった。昼になれば相当な数の人間が往来を行き来するのだろう。
今はすっかり寝静まっているが。
隠れる所はいくらでもあり、厄介な事は何も無い。
酔いどれの嬌声響く都市の表通りから、どこからともなく生活の臭い漂う裏通りの闇へと身を進ませる。敏感な獣すらをも起こさず闇を泳ぐ、その歩はまさしく闇の使者が徒行であった。
暫し進み、やがて使者は確かな足取りを止める。
打ち合わせの場所に着いたのだ。
そこは裏通りの奥、どんな光もいびつに反り立つ建物によって届かない、昼間でも暗いであろう常闇の淀んでいるような所だった。
周囲をぐるりと見回す。
「ファラン」
聞き慣れた女の声がした。
しかし、声の隣にもう一つの気配。腰の剣鉈に手をかけながら応える。
「俺だ」
「約束の時間通りね。案内するわ」
「待て、横の奴は何だ」
セロの隣にあった気配が緩やかに動いた。姿を消しているつもりだったのだろう。
それで、余計に警戒を強くする。
「雇われの間者だそうよ。あたしが来たから用無しになったけど、貰った給金分は働きたいって付いてきたのよ」
見据える。
すると、未だ気配を隠し通そうとするそれが、諦めたようにセロの横に立つ。
背の高い、痩せぎすの男だった。仕事用なのか、服装は黒で統一している。
「アドレッセと申します。イーガンス様の使いでして――」
「いらん、消えろ」
言葉を最後まで続かせず言い捨てた。
「そういう訳にはいきません。これはイーガンス様との契約です。貴方達の雇い主とはまた別の話なのですよ」
「知るか、消えろ」
「ちょ、ちょっとファラン……御免ねアドレッセ、ちょっとだけ時間を頂戴」
慌てた様子でセロが近付いてくる。
闇の外衣を脱ぐように現れた、間近で見る赤毛の娘は侍女の服装をしていた。胸元の露わな礼服は、凹凸のはっきりしたセロの体には良く似合っていた。
「いい? ファラン。イーガンスっていうのはルディアンの協力者なのよ。機嫌を取っておかないと後々あいつが困る事になるわ。解るでしょ?」
「あいつはお前の横でずっと気配を消していた。まるで話が上手くいかなければ俺を、お前を狙えるようにな。俺は背を見せれない奴とは仕事はしない」
返答に、困った顔になる。言葉にある鋭さを悟ったからだろう。
牙を見せる豺は、アドレッセと名乗った男を睨む――刃のように鋭い沈黙が訪れた。
ファランは無意識にセロを庇う様に腰を抱え、半歩前に出た。
やがて、沈黙を先に破ったのはアドレッセの方だった。
「解りました、ならば手引きはセロ嬢にお任せしましょう。事後の報告を後で私にも頂けますか? それから密兵殿、貴方の脱出の手引きは私がする事になっていますので、その時こそはよろしく。また、お会いしましょう」
「え、えぇ」
話はそこまでと黒づくめは背を向け、姿を消した。
この濃闇の中で、中々の身のこなしだった。気に食わないが、名と気配は覚えておく事にする。
「もう! なんだってあんたはいっつもそうなのよ。これだから偵察、交渉術の素質は無しだって皆にからかわれるのよ?」
アドレッセが去って少し後、呆れた声を出すセロの腰を放して軽く見上げる……実に気に食わない事なのだが、身長が頭半分程負けているのだ。
「組む奴は俺が選ぶ」
「もう、いいわよ。じゃあ付いて来て、オズボーンは今、イーガンスの館にいるわ」
何故か顔を赤くしたセロが前を歩き始める。
首を捻りつつその後ろに続くのだった。
再び裏路地から大通りへと出る、戦時の直中だというのにも関わらず、明日の調子も気にしていない酔いどれの帝国兵が妙に多い事に少なからず驚いた。
ここまで兵の統率がいい加減であの鉄壁の守りを維持しているのか。
道理で夜間の奇襲も無いわけだ、衛兵の少ないのも何かの策かと思っていたが、どうも単なる慢心のようだ。
魔法なるものが如何に便利であろうと、斯様に人を怠けさせる結果を作るのならば、そんなものは必要無いと心中で切り捨てた。楽とは常に身に余るものだ。
そんなだらしのない情景を余所に、向こう隣の鍛冶屋の中では酔いどれ騎士の見張りを前に、真夜中だと言うのに必死に矢を作らされている疲れきった様子の職人達が見える。
征服された市井の扱いなど、あんなものなのだろう。
「いい加減でしょ? 驚くわよね。あたしも驚いた。でも、どうやら帝国武将オズボーンさまとやらの威光だけみたいよ、この町の守勢って。あいつの首が取れた明日の朝以降、此処の連中がどんな行動に出るか、見物よね」
意地悪く笑うセロの腰をふざけ気味に軽く小突いて先を急かしてやった。
大通りを堂々と歩く二人。誰かに声をかけられたらイーガンスとやらの侍女と下男が食料を調達しにきたと話を合わせる事になっている。
この辺りの偵察術、交渉術はセロの独壇場だ。そんな彼女の業をルディアンが頼りにしているのは知っている。少しばかり、癪ではあるのだが。
イーガンスという男はルディアンがいつのまにか渡りをつけていたコルドアの名士ということらしい。セロの服装を見る限り、それなりにいい趣味をしているのが窺えた。
と、目の前を歩く侍女の姿が足を止めた。
道の端には柵があり、その奥には庭と大きな建物。ここが、目的地なのだろう。
「この館よ。打ち合わせの通り今夜は犬を放していないから、衛兵は騎士だけね。オズボーンは三階の客間、外からだと……あの部屋にいるそうよ」
暗闇に伸びる指が、ファランにだけ解るよう館の形作る輪郭、そのある一点を示す。
大通りに面し鉄柵に囲まれた敷地の中に立派な屋敷があった。三階建ての建物で、夜闇で見え難くはあるが煉瓦細工の外壁には派手な装飾が成されているようだ。敷地の中も立派なもので、庭園を模した庭木細工達を柵の外から見る事が出来た。
柵の中は流石に武将が宿泊しているだけあって、素面で完全武装の護衛騎士達が数多く立番をしている。
「イーガンスが自分の娘を差し出したのよ。馬車の中で少しだけ話せたけど、綺麗で無垢な子だったわ……可哀想に」
屋敷の中を窺っているとセロが吐き捨てるように呟いた。興味の湧かない話ではあったが「ふうん」とだけ返しておいた。怒った顔で睨まれるが、すぐに顔を戻して問うてくる。
「此処からどうする?」
「最初の打ち合わせの通りだ。館に入って待っててくれ、すぐ終わらせる」
騎士達の監視の目を掻い潜るのは左程難しいと思わない。セロと一緒に正面から入り、騎士の調査を受ける方が面倒になりそうだと判断した。
「解った。いらないとは思うけど、もし助けが欲しかったら呼んで……気を付けてね」
セロはそう言い残して屋敷へと向かっていった。護衛の騎士に冷やかされているのが遠くに見える……まったく、物好きの多い事だ。
やがてその背中が館の中へ消えるのを確かに見届けて後、動き出す。
柵は余裕で越えられる。犬が居ないのなら何を恐れる事も無いだろう。
しばし身を隠し、周囲の気配を感じなくなった時、音無く鉄柵を登り僅かの内に乗り越えた。庭木の中、館の裏を覗ける位置まで走って建物の造りを見る。飾り煉瓦、窓の手摺、雨除け、屋根、掴まる所はいくらでもあった。
見張りの目が届いていないのを気取ると同時に植木から駆け一気に館に取り付く。それから、休む事無く壁面の凹凸を使って間に屋根の上へと上り詰めた。
屋根の上に出ると、冬の近さを感じさせる厳しめの風に出迎えられる。
高い建物だけあり、コルドアをぐるりと眺望する事ができた。この館より背の高い建物といえば街中央に聳えている鐘付き塔くらいだった。
しばし暗闇に浮かぶ街の景観を楽しみながら緊急の逃走経路を頭の中で作り、それから再び動き出す。屋根の上を姿勢を低くして歩み、セロに教わった部屋の上に到達する。
屋根の上から窓を見下ろすと、僅かに窓が開いていた。
好都合としゃがみ込み、そして……歌声を、耳にした。
「本当に美しい、お前は」
太った指が、銀の髪を梳く。
歌を止めて少女は眼を伏せた。嫌悪感しかない相手に触れられるその辛さは、まだ幼い少女の心を引き裂かんばかりであった。だが、それでも少女は微笑みを作る。
「あ……ありがとうございます、オズボーン様」
応えると、髪に触れる指先が降りてくる――。
「オズボーン様、今度は、ど、どんな歌がよろしいでしょうか」
少女が、自分の身を守る最後の手段。それはこの喉だけだった。
唄っている間だけは聞いてくれる。聞いてさえくれれば、その間だけはこの身は雲雀となって空を舞うことだって、できるのに。
「そろそろな、お前の歌でもとびきりのを聞きたいと思ってな」
指が白い礼服の胸元に降りていく。
「ぁ、の、私は」
怖い。
でも、誰も助けてはくれない。
父に売られた鳥は、囀るのを止めたら、後は貪り食われるだけ。
鳥籠から出る事も許されない。
飼い主の食い気を誤魔化すこの歌だけが頼りだったのに。
赤い布で囲まれた天蓋付きの寝台に、今佇むのは少女と、少女を食おうとする男。
広い寝室にはそれ以外の誰もいない。これから始まる秘め事が、誰にも知られる事無いよう為に。どんな叫びも何処にも届かせない為に。
「なに、その綺麗な歌声を、もっと綺麗に、艶のあるものにしてやるだけよ」
少女の、女の尊厳等僅かにも気にしていないのだろう粘ついた熱い息が近付いてくる。
思わずかぶりを振ってその息から逃げるとそれが男の嗜虐をより擽って、少女の腰は太い腕に抱かれ抑えられた。
「お、お止めください、オズボーン様。私は、あ、貴方様の御心を癒す事が出来ればと、そう思って……」
男の腕の中で震えながら必死に囁く。それすらも男を悦ばせる仕草である事に、少女は気付いていなかった。
欲望というものについて全く知識がないわけではない。男がそれを貪欲に求めるのも。しかしそれを御するには、あまりに少女は少女であった。
「この町を護る守護者の祝福が欲しくないのか? 銀の髪の乙女よ、恐れるな、可愛がってやろう。その囀りをわしだけのものにしておくれ」
胸にかかった指が乱暴に引かれると、金具が弾けて隠された白い肌が露わになった。柔らかく膨らんだ双丘を小さな悲鳴とともに抱えて隠す。
羽が毟られる。
怖い!
きっと、このままを赦せば私はもう、飛ぶ夢を見る事が出来なくなるだろう。
この身を護る為、己が誇りを護る為、いっそ懐中の短剣を抜き放ってしまおうか? 少女は己が矜持と父の尊厳を秤に掛ける。
そして……全身を震わせながら目をきつく閉じた。
答えは決まっている。この命を拾ってくれたのは、誰あろう父だったのだから。
なれば、この身を拾い、生かしてくれた父へ報いるのが少女の役目なのだろう。如何にこの身が穢れようと心を挫けさせなければ、きっと、生きてはいける。
少女の肌に男の指が触れてくる。せめて、歌を奏でるこの唇だけは。
最後の抵抗を試みる。淫靡の空気が淀みだす部屋の中、衣服を面倒そうに脱ぐ武将を前に哀れな小鳥の囀りが響きだす。
それは旅鳥の歌。少女の一番気に入っている歌。
「歌を囀る娘を抱くか。興趣の極みというものよのう。うふふ、その歌声を止めるなよ。じわりじわりと、淫らに粘る声へと変えて――」
欲に塗れた男の声が突然止まる。すぐ次に、何かつぶやく声がした。
そこで、少女の意識は泥のように重くなっていく。瞼を開けていられない。意識を保っていられない。 夢の中の様に朧になっていく部屋の中に、誰か、もう一人。
貴方は……誰?
少女は蒼い炎を見つめながら眠りへと落ちて行った。
不覚。たった一瞬とはいえ、その歌声に心を完全に奪われた。
それは、哀しい歌だった。獣に翼をもがれた旅鳥の歌だった。それが、何故か途中で止まったので我を戻す事ができ、そして忘我した己を恥じ入った。
「糞っ、何を、俺は」
その歌声があまりに悲しそうだったから、少年の手は止まってしまったのだ。
その歌声があまりに悔しそうだったから、少年の足は竦んでしまったのだ。
その歌声が止まったから、少年はその歌の結末を知りたくなったのだ。
歌は、己を置いて旅立っていく仲間達の群れを崖から見上げるところで止まっていた。
「…………」
己を戻し、判断する。部屋の中にいるのはオズボーンなる武将と、それに与えられた女の筈だ。歌声は女の声だった、つまりはオズボーンのお相手という訳だ。あんな、あんなに綺麗な歌を唄う女が――。
(イーガンスが自分の娘を差し出したのよ。綺麗で無垢な子だったわ……可哀想に)
セロの言葉が脳裏に蘇る。
ファランの胸に、生まれて初めての感情が湧いた。
説明のつかないこの感情は、怒りのようで怒りではない。ただ確かなのは、歌声が止まった事をこの身が激しく不満に思い、どうにか続きを聞いてくれようとする、強い意志が燃え上がった事実だ。
気がつけば音も無く窓を開け、風に揺らぐ窓掛けに隠れながら部屋の中に立っていた。其処に気の緩みは無かった筈なのだが。
「……ぬぅ?」
贅肉の塊が寝台から顔を上げ、二つの視線が交わった。
多少、驚く。
まさか、気配を察知されるとは思ってもみなかった。
「ほう……イーガンスめ、娘を餌にしたか。とんだ外道よな」
帝国武将オズボーンは楽しげに呟くと、自分の下の人影に何事か呟いてから、裸体のままで太った身体を寝台から起こす。ファランは油断無く剣鉈を引き抜いた。
寝台に、躯の様に横たわる少女が見えた。一瞥してから注意を戻す。
この男、身体は確かに太ってはいるが中身まで贅肉と言う訳ではないようだ。
それに今見せた察知術。かなりの難物を相手にしたのかもしれぬ。魔法を操るといったルディアンの言葉が脳裏に蘇る。
丸腰の相手に一瞬も気を抜かず腰を低くする。
「ほう……名を聞こうか、若き密兵」
「これから死ぬ奴にか?」
たかが一介の兵に不遜を謳われたにも関わらず、オズボーンは実に愉快そうに太った腹を揺らして見せる。
「気に入ったぞ、小僧。お前の骸は腐らぬようにして街に一月晒してやろう。 それとも屍体のままでわしに使える人形がよいか!」
掌がファランへと向けられる。だが、その掌の先の何処にもファランはいなかった。
次の刹那、ずん、と鈍い音が部屋に響く。
少年の手に、肉の裂けていく慣れた手応え。それは必殺の確かさを伝えた。
「な……に?」
武将の呟きと、脇腹の急所へ剣鉈が柄まで抉り込んでいたのはまったく同時であった。
「ぐ、ほぁっ」
痛撃に喉が締まり、叫びすら上げられぬオズボーン。
「……く……み、見えねば術法のかけようがない……く、は……ははは……見事だ、鬼火の小僧。この首、くれてやる」
そして武将はどう、と斃れ伏した。斃れていく身体からずるりと剣鉈が引き抜かれていくが、狙い通り、その傷からは殆ど失血させる事がない。
ファランは躯を一瞥し「あんたもな」と呟いた。魔法、視野から消えるを意識して動けば御せるかと、密かに薄く安堵する。
それから、寝台で目を閉じている少女を見下ろす。どうやら、死んでいる訳ではなさそうだ。
……銀の髪がほむらのように寝台に乱れていた。
セロとは随分印象の違う華奢な少女だ。
あの歌声がなければ、興味も湧かなかった事だろう。オズボーンに何かされていたようだったがと、柄にもなく心配して見つめていると、少女はやがて……うっすらと目を開く。
「…………だれ?」
少女の声を聞き、あの歌声の主である事を確かめる。間違いはないようだ、昔、旅の吟遊詩人が奏でてくれた竪琴の高い音色にそれは似ていた。
「俺を知るな」
血濡れの剣鉈を寝台に掛かる赤い布で拭き取って、それから汚れない個所を選んで切り裂き、少女の身体にかけてやる。
「あ……ありがとう。でも、どうして?」
「お前を殺す事になるからだ」
そう言って、横たわる躯を顎で示す。少女は、まだ目覚めきっていないのか、頭を小さく振りながらなきがらを垣間見て目を見開き……やがて眼を閉じる。
「オズボーン様、亡くなったの?」
ここで亡くなった、という言葉は随分不適切ではなかろうか。
眉を寄せつつも「ああ、死んだ」と答えてやった。
「御可哀想に……私、今夜この方を慰める事になっていたのです。男の方はそれが嬉しいのですよね?」
「あ? あ、いや、俺が知るか」
女を知らないし知る気も無い少年には未知の質問だ。思わず素直に答えてしまう。
「私、シー・ディアドラと申します。貴方のお名前は?」
ディアドラと名乗った少女は傍らの死体から目を離し、確かに見たそれを気に留めぬまま深い森のような緑色の瞳で此方を見上げ、聞いてきた。
いよいよ混乱する。なんだろう、この女は。頭がおかしいのか?
「俺の事は知るなと言っただろう」
「でも、それでは御礼ができません」
「礼?」
呆れる。なんだ、この女はただの女狐だったのか。死体を前に動転しないのもそれなら合点がいく。しかし、どうも、違う気も、する。
「はい、役目とはいえ私、本当は、嫌だったんです。ですから、貴方がこの方を連れていくのを少し、少しだけ、安堵しています……オズボーン様には気の毒ですが、人は死から逃れる事はできませんものね……」
ディアドラの瞳と視線が合う。そこに、翆玉が煌めいていた。
「連れて行く?」
「はい。貴方は死の精なのでしょう? 全て歌の中にあるとおりです。音も無く現れ、手をかざすそのとき、人は妖しの業で眠りに落ちる。なにより眼の鬼火が証です。ああ、とっても、きれいな眼――」
少女の手が伸びてくる。殺意ではないが、何か嫌な予感がして少年はその手を払う。
「止してくれ。俺は只の狩人だ。命じられた獲物を仕留めただけだ」
どうもこの女と話していると調子が狂う。女狐と思っていたが、どうやらそれとも違うようだ。頭がおかしいわけでもない。どうにも対処に困ってしまう。
「狩人? 狩人の精ですか?」
「俺は人間だ。この男を殺しにきたんだよ」
問答が面倒になってしまい、そう言い捨てた。そもそもこんな女、相手にしなければいいのだが……何故か少女の眼から視線を逸らす事が出来ない。
あの歌の事を聞きたいからなのだろうか? 理由が、わからない。
「殺す?」
「そこの傷を見れば解るだろ。刺し殺した、俺がやったんだ」
緑の瞳が死体を見据える。
こんな事なら血の出る刺し方にすれば良かったか、などと思っていると、ディアドラはファランの渡した布切れで身を隠しつつ寝台から降り立って、太った身体を転がしたままのそれへしゃがみこんだ。
おっかなびっくり、といった表現の似合う様子で亡骸を調べていると……やがて、小声でぼそぼそと声が聞こえてきた。
「……ころされて、います」
「だからあ」
いい加減にしろと言ってやろうとすると……ディアドラは涙を湛え、見上げてきた。
「こわい、です」
「だったら、逃げろ。殺しはしない」
もういい。歌の事など知った事か。口を尖らせそう言った。
「こわいけど、逃げません」
戦慄。
なんなんだ、こいつは。女とか、そんな事ではない、何か未知の生き物に出会ってしまったようだ。殺傷を前に恐れ、泣き、だのに眼の色を褪せないままに「御礼」と言って、にじり寄って来る。。
こんな奴は、初めてだ。
「あのなあ……俺は邪魔だって言ってるんだよ。消えろ、消えちまえ」
「嫌です。だって、御礼をしていませんもの」
呆れ、嘆息する。本当に、調子の狂う奴だ。
「言ったろう。俺は獲物を仕留めただけだ。礼なんてされる謂れはない」
その言葉を紡いでる間に立ち上がり、ファランの真正面に立つディアドラ。深緑の双眸に見据えられるとその視線から目を離せなくなる。
改めて、少女の全身を見る。
銀の髪、深緑の瞳。すらりとした輪郭に綺麗に収まった目鼻立ち。薄桃の唇は何が楽しいのか、うっすらと笑みを作っていた。
白い夜装礼服がほっそりとした身体を包み、しかし緩やかな起伏は隠しきれずに少女の女を囁いている……まるで、絵画から抜け出たかのようだった。
生きているのを疑ってしまう程に美し過ぎる少女は、生きてる証に微笑み、喋る。
「貴方が死の精でなくとも、礼をしたい。それが私の贖罪なのです。私は一瞬でも自らの誇りを守る為、この方を殺めようと考えました。だのに私の手は穢れないままで、貴方に死の罪が及んでしまいました……ごめんなさい、狩人さん。そして、ありがとうございます」
「ばっ、馬鹿かお前は? 罪なんぞない。殺したか殺されたか、それだけだ。謝るなよ、俺はお前の為にやったわけじゃ……」
反論している言葉の途中で頬を両手で抑えられた、伸ばしてくる手を振り払えなかった。
翆玉の輝きに、心奪われてしまっていた。
頬に触れてきた手は恐ろしい程に滑らかで、細く、たおやかで、冷たく、そして……震えていた。
「ほんとうに、綺麗な眼」
「よ、よせ」
後退る。それしかこの柔らかく甘い拘束から逃げる手がない。
一歩逃げると、足が寝台に引っ掛かり、間抜けに毛布の上に転がってしまう。慌てて起きあがろうとすると、なんとディアドラは上に圧し掛かって来るではないか。
赤い天蓋の寝台の上、少年と少女は重なった一つの影になる。
視線が、混ざり合う。
蒼い瞳は震え、少女の煌めく翠の瞳から逃げられなくなっていた。
「狩人さん、ありがとうございます」
「……っ、い、いいから、退けよっ」
身体を隠していた毛布は何処かに落ちていて、陶磁の如き白い肌が、膨らむ二つの膨らみが、唇の色より微かに赤いものが、露わになって少年の視界に飛び込んだ。
セロで見慣れている筈なのに、少年の鼓動は高鳴りを抑えられない。視線を外す事が出来ない。見てはいけないものを見ている甘い罪悪感が少年を苛み、擽った。
「でも、御礼が……」
「いらないって、言ってるだろう」
少女は困った顔になる。少年も困った顔になる。
互いに瞳を離さない、離せないまま、しばらく無言で見つめあい――やがて、ディアドラは花のような笑顔を見せた。対するファランはいよいよ混乱した顔を見せた。
「狩人さん、困ってます」
「あのなあ……」
このやりとりが、何故か不快なものじゃない事に気付き始めていた。しかし、いつまでも遊んでいるわけにはいかない。心中の冷静な自分は随分小さい声で、忠告していた。
「では、次に会う時までに御礼を考えておいて下さい。私、待っています」
ディアドラの身体が離れていく。
安堵の息を漏らして立ち上がった。
「ク・ファランだ」
「え?」
「俺の名前だよ。だから、狩人さんと呼ぶな」
「はい、ファラン」
ディアドラの笑顔が、もっと嬉しそうに、もっと華やかになる。こんな素直に嬉しげにする笑顔を見るのは初めてだ。今時、どんな餓鬼だって笑顔の裏に何か隠すものだ。
「ク、とは旧い言葉、豺の事ですね。旧き時代の勇猛な戦士に赦された称号のひとつ……とても、お似合いです」
微笑みのままにディアドラは語る。
そして……足元のなきがらを改めて見下ろし「彼の魂よ、ドゥラハンの導きあれ。コシュカの嘶きに脅える事無きよう」と囁き、首を垂れる。
何か居心地を悪くしつつ、いつのまにか取り落としていた剣鉈を毛布の上から拾い上げ、なきがらへと近づきその首を一撃で切り離した。
少女は黙ったまま、視線を逸らす事無くそれを見届ける。
多少驚く。気絶くらいするかと、意地悪な気持ちがあったのだ。
「俺は行く」
驚きは隠す。背中を向けたままそう告げて、剣鉈を腰帯に収めてから寝台にある上質の毛布で生首を包み、背負う。
「はい、ファラン。またお会いしましょう」
「出来ない約束はしない事にしている。じゃあな」
ドアから廊下の気配を読み、外に誰もいない事を判断して開く。廊下には赤い絨毯が敷かれ壁には規則正しく燭台の炎が灯っていた。
人の気配はない、打ち合わせ通りにセロの待つ部屋へ向かおうと、身体を動かそうとするのだが……その足が、未練に止められた。
「なあ、あんた」
「ディアドラと、名をお呼び下さいませ。ファラン」
振り向いて声をかけるとそんな風に応えられた。僅かに開けたドアを閉じ、身体を向ける。
「――ディアドラ」
「はい、ファラン」
少女が浮かべる純粋な笑み。少年の赤らむ苦い顔。
「さっき唄っていた歌。旅鳥は最後にどうなったんだ」
歌の紡ぎ手は微笑んだままで応える。
「旅鳥は、仲間を追って崖から飛び出しました。でも、後悔はしませんでした。魂となって群れを追いかけていく事を決めたのです」
「死んでまで、飛びたがったのかよ」
「歌は、鳥が死んだとは語っていませんよ、ファラン。鳥は、飛んだのです」
ディアドラは変わらず深緑の翠をファランにまっすぐ向けていた。
「……またな、ディアドラ」
今までで一番嬉しそうに笑った少女は、亡骸の傍で死と生を司っていた。
「はい! ファラン……またな、です」
ファランは、今度こそ振り向かずに部屋を出て行った。
「首尾はどうか」
セロとの待ち合わせの場、厨房の隣に設えられた下男下女の休憩所にセロともう一人、口髭を生やした神経質そうな男が待っていた。鼬に似ているな、と思う。
「イーガンス様、彼は私達の中で最も腕の立つ刺客です。仕留め損なう事などけしてありません……ファラン、この方がイーガンス様よ」
会釈だけして背負っていた首を差し出す。イーガンスは差し出されたものを包む毛布を少し調べ、それから顔を顰めて後退った。
「み、見事だ、ファランとやら。今から脱出するのだろう? 手引きの者は用意した、従うがいい。それからな、ルディアンめに「約束を違えるな」と、そう伝えよ」
鼻息一つでそれを聞き流すと、横のセロが「畏まりました。必ずお伝えいたします」と慌てて続ける。イーガンスはファランを不満気に見下ろし、背を向けた。
「あの部屋で、首無し将軍と一緒に娘があんたを待ってるぜ」
戸に手をかける背に言葉を投げる。
「娘も何か役に立ったのなら、それに越した事はない」
背中で答えたイーガンスが出て行った後、セロが床に唾を吐いた。
「最っ低のゲス野郎だな」
「セロ、着換えろ。その格好で戻るわけじゃないんだろ」
嫌味に応えず腕を組む。
例えばセロがここで裸になったとしても、動じない自信がある。
だが、なんであの娘の身体に、あんなに狼狽してしまったのだろう?
自分で自分が良く解らなかった。
「あたしは戻らないわよ。ルディアンの作戦には続きがあるからね」
「そうか、じゃあな」
「ちょ、ちょっと」
さっさと扉を出ようとすると、その腕を掴まれる。
「なんだ? 急いで帰らねぇと」
「解ってるわよ……ねえ、あの子と会った?」
深緑の翠を思い出し、胸が少しだけ高鳴った。
別に焦る必要は無いのに、何故か焦っている自分がいる。表面だけはとり繕うと、いたく単純に応えてやる。
「ああ、いた」
「……助けられた?」
セロが珍しく不安そうな顔を見せていた。
そんなに仲良くなったのだろうか。
「助けるつもりなんてない。俺の受けた命令はこの首だけだ」
「いいから、あの子は……その、手つかずのまま?」
聞きにくそうに問うてきた。
だが、ファランには、その言葉の真意が分からない。
「手つかずって、なんだ」
「裸にされてた?」
「多少破れてはいたかな」
思い出しながら答えると、突然足を蹴ってきた。
「痛ぇ! なにしやがる!」
「馬鹿! 何でもっと早く始末しないのよ!」
二人は狭い室内で睨みあうが……やがてセロが嘆息し、目線を逸らした。
「もういいわ、詳しくは後で自分で聞くから。ほら、さっさと帰りな」
「ったく、意味の解らねぇ……まあ、元気そうではあったぜ」
セロが驚いた顔になる。
「へえ、あんた、話をしたの」
「あぁ」
ファランは頷くや部屋を出る。更に何か聞かれるのから逃げるように。
「ちょ、ファラン!」
背中にかかる声に振り向かず裏口から外へ。
間抜けに番を続ける護衛達をやり過ごし、柵を再び超えて屋敷を背にして裏路地へ。首を担ぐ少年はそこで一度だけ振り返る。
「またな、か……」
不思議な女だった。少年の少ない語彙では到底説明はできない。二度と会う事はなかろうが……もしも、もしも許されるならば、あの歌をもう一度聞きたかった。
少年の心に生まれた言葉にする事も出来ない小さな想い。暗闇へと身を溶かしていきながら、彼は勇敢な旅鳥の魂に祝福というものを、生まれて初めて祈ったのだった。
朝を待つ深夜、山犬隊の陣に歓声が巻き起こる。
狩人の帰りを待っていた者と夜営に起きていた兵達のものだ。
山犬隊の陣中央、篝火の横に肥えた生首が置かれ、戦士達がそれを肴に祝杯を挙げる。
「これが帝国武将の首か。角でも生えてるのかと思ってたぜ」
「ばっかお前、魔法を使う時だけ生えてくるんだよ」
「ウチのギャリックに似てね?」
「デブなら何でもあれにすんなよ」
「しかしスケベそうなツラだなあ、ファラン、女を囲ってる時にブチ殺したんだって?」
「ああ」
「はっ、身体の方を持って来た方が笑えたろうにな? 確か勃ったまま死ぬと萎えないんだろ、アレって」
兵達は笑いながら酒を飲む。簡素にではあるが祝っておこうと少量の酒をルディアンが許したのだ。起きていた連中にしてみれば急な役得に、功労者であるファランへの労いも一入だった。もっとも当人は、絡んでくる連中の多さに辟易していたのだが。
「野郎ども、そこそこにして寝ておけよ、明日から忙しくなるぞ。街中に一番乗りした野郎には金貨一枚をくれてやると、戦士長のお達しだ」
山犬隊幹部、気障男のスファーダが放つ声に更なる歓声が巻き起こる。
そんな戦士達の歓声を聞きつつ、ファランは一人、仲間達の輪を抜けて、篝火から少し離れた場所まで離れて座り果物に齧りつく。
ルディアンは此処に居ない。報告を聞いてすぐに本陣へと向かったのだ。
「ファラン、いつもながら苦労だったな」
そんなファランの横に並んで来たのは大男、アルワッドだった。鎖帷子を盛り上がらせる筋肉を惜しげも無く見せ佇む大男。太腿の太さがファランの腰と同じくらいだった。
「言われた事を言われた通りにやっただけだ」
「だが、お前にしかできない事だ」
「……フン」
この隊において、ルディアン以外に頭の上がらないのがこの男だ。付き合いも長い。飼い主が不在の時でも、この頭傷持つ大男が放つ命令だけは聞く事にしている。
「気乗りしない風だな。何かあったのか?」
アルワッドはしかも慧眼も持ち合わせていて、ファランの様子を読み取るや何かと気にかけてくるのだ。嬉しくもあり厄介でもあると、そう思っている。
「なあ、アルワッド。あんた、守れない約束をする事はあるか」
「ん? んー……あるな」
大男は愛用の大斧を傍らに置いてファランの横に座った。
「死んで行く戦友にはいつだって嘘をつく」
「いや、そういうんじゃなくてさ」
続きを言おうとして、言葉を濁す。
上手く言葉が紡げずに口を尖らせた。
「……そういうの、なのかな」
「良く解らんが、お前がそれを後悔しているというなら今からでも遅くはないだろう、約束とやらを、追いかけてみたらどうだ?」
追いかける……。脳裏にまた、あの少女が浮かぶ。
「まあ、できたら、そうするよ」
「そうするといい……ん、山犬の御大将が帰って来たぞ」
篝火の下にルディアンの姿が現れた。その顔が上機嫌に笑っている。
「どうやら、俺達の被害は少ないままで済みそうだな」
大男は立ち上がり、ファランの背を一度強く叩いて戦士長の隣へと歩んでいった。
座ったまま、歓声と称賛に包まれる円陣を眩しそうに見つめる。
豺は、戦士達に囲まれ笑っている飼い主を見て人知れずまま満足そうに微笑むのだった。
三日後。
朝靄の中、陽の光が世界の始まりを告げる。
丘の上の闇達が光の侵略に撤退していき、そこに転がっている勇敢であった躯達を照らしていく。
彼等は今、魂となって楽園を愉しんでいる事だろう。
カリナーンと呼ばれるこの大陸の戦士達に伝わる伝承である。戦士達は皆、楽園を目指して勇敢に死んでいくのだ。
ファランは再び見張り櫓の人となっていた。
朝の冷え込みはもう充分に冬だった。躯達の身体も凍りついているのを見降ろす事が出来る。毛布に身を包ませたまま櫓の縁に乗り、下に転がる死体に当たらないよう、狙いを定めて立小便をする。
武将オズボーン暗殺成功の朗報が兵団に知れ渡り、勢いに乗る兵団の中、山犬隊はと言えば兵団の補給と援護を中心に、糧秣の確保、簡易的な移動小舎の建築等と戦場の目立たぬ所で忙しなく動き回っていた。
しかし狩りが生業であるところの豺の少年は、そのどれもやる気にならず見張り番をする事にしたのである。
一見楽に見える仕事だが、この櫓は丘の中腹にありコルドアの射手から見ても充分に矢の威力が届くと見えるのだろう、既に数人の怪我人と一人の死者を出していた。
ファランが自ら手を挙げたその志願は、山犬の連中には実にありがたいものだった。
もっとも当の本人にしてみれば、ぎりぎり届く矢先の如きなにも恐れるものでなく、楽というより退屈な仕事、つまりは怠けの口実だったのだが。
「くぁ……」
櫓上の豺は小便をし終え、大きな欠伸を一つしながら矢を避ける……流石に三日寝ずの番は辛い、何度も目を瞬かせた。何度寝ぼけまなこを擦っても、なかなか交代はやってこなかった。
「糞、まさか忘れられてるんじゃねえだろうな」
文句を言いつつも持ち場を離れないのがこの少年の誠実である。
それにしてもこのままでは櫓の上で眠る事になりかねない。仕方なく一度降りようかと、コルドアを何気なく見たその時だった。
コルドアの壁の向こうに火の手が上がっているのを見た。
「動いたぞ!」
ファランは櫓下に叫びかけ、櫓にかけてあった角笛を吹き鳴らす。
太く、腹の底に響く笛の音が丘に響き渡っていった。
俄かに丘の向こうが騒がしくなる。
先からコルドアから降ってくる矢の数が減っていた。これぞ好機。手早く身体の装具を点検し、革靴の紐を結び直した。
腰の剣鉈の具合を確かめ終える頃、丘の上にアルワッドが現れる。
「アルワッド! 火だ!」
大男に見えるようにコルドアに上がる煙火を指さす。それは、朝靄に紛れるようにして空へ昇っていた。
「おお! セロめ、やったな!」
アルワッドに伝わったのならもう此処にいる事は無い。ファランはさっきまでの眠気を吹き飛ばして櫓から飛び降りた。着地、そして矢雨の中へと奔り行く。
目指すは、コルドア壁上通路。
先陣を切って射手どもを蹴散らせば、進軍の助けになるだろう。
ファランが走り出すのにやや遅れ、山犬の戦士達が丘の上から続々と現れた。楯を頭上に掲げ、降り注ぐ矢の中を真っ直ぐに走り丘を降りてくる。
彼等は援護活動に従事しながら、もう一つの目的を達成していた。
山犬隊の一陣が後ろ、丘の頂、戦士達の槍先が穂波の如く煌めき現れていく。
それは一、十、百……千へとその数を変えていき、そして――突撃の喇叭は吹き鳴らされる。転がる躯達を踏み超えながら、戦士達の行進が始まった。
おおおおおーっ
地震と思わせる程の騒乱、狂喜、雄叫びが矢の雨の中を邁進する。
誰かが斃れる度、更なる戦士がその上を越えていく。
全軍の動きを迅速にする事、山犬の戦士達は各部隊の援護をしつつ情報を細かく伝えあっていたのだ。
角笛から僅かの間でフィオナ兵団の主力は動き出していた。
背に雄々しい轟きを聞きながら、ファランは先日の手をもう一度使う事にした。ヴァラヤの槍が未だ壁に刺さったままだったからだ。飛び、捕まり、駆け上がる。途中一度矢が頬を掠めるが、血の流れるをそのままに壁の上へと踊り込む。
石壁の上の歩道、射手達の立ち並ぶ敵兵の群れの真っ只中に豺は舞い降りた。
「て、敵だーっ」
叫んだ男を一番初めの獲物とした。剣を抜かせる間もなく首を薙ぎ、その身体の陰に隠れて矢先を向けてきた数名への楯にする。
剣鉈を構え、雄叫びあげて無尽の敵へと襲いかかった。
未だ矢に頼り番えようとする間抜けの首を撥ね、勢い隣にいた兵の腕を斬り飛ばす。
背後から襲いかかってきた一撃を、避けざま剣鉈を脇腹へ埋め込んだ。
剣鉈を引き抜けば、正面に剣を抜いた多少の心得あるものが立ちはだかる。一撃を合わせると同時に左手の仕込み刃で首筋を貫いた。苦悶し蹲る身体を刃で引っかけたまま、迫っていた数名へと投げ飛ばし、その死骸へ追い打ちの蹴りを打つ。
巻き込まれた幾人かが壁の上から落ちて行くのを見つつ、体勢を崩している一人を蹴り落とす。
更に迫って来た一人と数合刃を打ち合わせてから仕込み刃で顔面に穴を作る。
噴き上がった血飛沫をまともに浴びて、ファランの顔に暗い赤が走った。
断末魔を上げ崩れる獲物の身体を壁の外へと蹴り落とし、石畳の上で苦悶する者達へ慈悲〈とどめ〉の一撃を与えながら、牙を剥きだし周囲を見やった。
「次は、誰だ!」
威嚇に屈せず更に近づいてくる勇気ある愚か者どもはまだいた。蒼い焔が軌跡を描く度、それらを躯へと変えていった。
ファランが壁に上がってきて数分、其処には既に二十を超える躯が転がっていた。
「ひ、ひいーっ」
遂に兵達が背を向けだした。血塗れの豺はなおも向かってくる獲物はいないかと周囲を見回し、やがて、戦禍は城壁ではなくなっている事に気が付いた。
見下ろすと、フィオナ兵団の誇る騎兵隊がコルドアの大通りを駆けていた。
その騎士達の中、見慣れぬ旗を掲げて帝国兵と戦う戦士の一団を見る。恐らくあれが話に聞いたコルドア正規兵達だろう。
セロの働きだ。
武将オズボーンの消息が知れぬとの流言飛語でコルドアの中に混乱と、奮起の風を呼び起こす。策は見事に成功したという事だ。死よりも恐ろしいのは消える事、不明になる事だとルディアンの言葉を思い出す。
「……ふう」
敵の真紅に染まりあがったまま、剣鉈を腰帯に収めて背伸びした。
躯の群れが転がる壁上。動く敵は、もういない。
見降ろす街もまた、血煙りと朝日の赤に彩られ、染まっていた。
壁端に座って、眼前に広がる美しき景観に、つまらなそうな息を吐く。
口から、自然に歌が流れだした。
屍骸の群中に流れゆく、勇敢なる旅鳥の歌。
だが少年はこの歌を最後まで聞いていない。
歌は、旅鳥が崖から仲間達を見上げる場面までを何度も繰り返す。
何度も、何度も。
「こら、サボってるんじゃねえぞ」
ルディアンだった。血濡れの剣と、矢を沢山生やした楯を持ち、コルドアを見下ろしながら血溜まりの中を歩み寄って来る。
「俺の役目はもう終わった」
「ん……まあ、そうだな」
答えに頷き、隣に座る。
「……いいのかよ? 御偉方の所に行かないで」
「お前はどうなんだよ。戦士どもが探していたぜ? 軍勢の前で壁を跳び登って一番槍を取ったはしっこい勇者をよ」
質問に質問で応えられ、ファランは口を尖らせ言い捨てる。
「行かねえよ、面倒くせえ」
「じゃあ、俺も面倒くせえ!」
ルディアンは笑いながらざんばら髪をわしゃわしゃとやって来る。擽ったそうに逃げながら、ファランは街を見下ろした。
「お……めでとう、騎士に、なれるんだろ」
それは、ルディアンの願いの筈だった。
「おう、だが、これからだ」
鋭い鷹の眼が、街ではない、遥かな空を見上げていた。
しばしその横顔を見つめていると、ルディアンは空を見上げたままで呟く。
「旅鳥はな、仲間の影を追って走り出したんだ、地上をな。二度と飛べないもげた、いびつな翼を羽ばたかせて、必死になって走り続けたのさ……その内海にぶつかって、溺れ死ぬその時までな」
「……それは、俺の知る終わりと違うぜ」
驚きながら呟いた。
「それは、そうさ。この歌ァ結末がいくつも用意された、吟ずる奴が終わりを選べる歌だからな……ファラン、お前ならどんな終わりを望むんだ?」
ルディアンの眼が此方を向く。
……答えられなかった。
俯くファランは、また髪を撫でてくるごつい手を避ける事もできない。
「人は、いつか決めるもんだ」
「いいよ、俺は……あんたの豺(いぬ)で、それでいい」
ルディアンは応えなかった。だが、撫でる手は優しいままだった。
やがて凱歌が聞こえてくるだろうその街を見下ろしながら、ファランはふと、銀の髪の少女を思い出していた――。
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