英雄は帰還する

まんぼ

序章

遠くに怒号を耳にする。それはいずれ近づき、この部屋の扉を開ける事だろう。

王城の中核、大理石と金細工と天鵞絨で築かれし謁見室。

静かなるその部屋の、据え置かれし黄金の玉座に深く座りし若き王は、着実に這い寄りつつある戦禍の音に目を閉じて、手にする剣を確かめた。手中の柄を弄びながら静かに一人、過去を想う。

――それは、屈辱と、苦悩と、青春の日々。

だが、彼は同時に感謝する。

『それ』があったからこそ、今の自分がある。あの狂おしい程の怒り、身に燻る暗い炎こそが己が歩んできた王道を根ざしている。

そして、今こそそれを断ち切る時がきた。間もなくやってくる過去からの使者を討ち果たし、追いかけてくる往時と決別するのだ。

王は柄を握り締めた。その手に汗がじわりと滲む。

己が掌の脆弱を知った時、指先の震えにも気が付いた。

怯えている?

この私が?

数多の戦場で戦い勝利を得てきたこの、私が?

統一王と呼ばれたこの私が?

平和を夢見る人々の宿願であったカリナーン連合王国の統一までをも果たし、歴史に名を遺すだろう偉業を成し遂げた、この、英雄王が?

「……いや、そうなので、あろう」

低く髭の合間から漏らす声。

王は、認めた。

彼は長い、永い戦いの中で王たる己を御する術を身に付けた。

それは、孤独なる王道と名付けられし道を歩む為に必要な業だった。そう、踏み越えて来た永き道こそが今の彼を支える礎であり、誇りであり、尊厳であり、武器だった。

手の震えが、止まる。

彼は自信を包む恐れもまた、やってくる使者が教えてくれたものだと思い起こした。だから恐れを否定する事を止めた、それすらも己が剣の鋭きに変わるだろうと確信した。震えの止まった手が、汗ばむのを止めた掌がそれを雄弁に教えてくれた。

玉座からは立たぬ。王とは常を持ち、立ち上がる事の理由が必要なのだ。

主要の近衛は全て応戦に出してある。今、この薄暗い謁見室には彼しかいない。

この場で始まり、そして終わるのだろうこの永かった物語の、終焉の瞬間に立つ事は、王とあの男だけにしか許されないからだ。

王は、使者もまた一人で此処を訪れるだろうと予見していた。

遠くに、否、いよいよ耳にはっきりと響く戦士の断末魔すら、空気の流れが如く王の耳には響かない。この玉座の間は、王の在処は静謐なるままであった。

近づく使者の顔を思い浮かべる。

簡単な事だ。

彼を知り、彼を殺そうと決意したその日から、その顔を一度たりとて忘れた事はない。

「どれほどを、過ごしたのか」

答える者はない。答えられても仕方がない。

或いは己の辿った報われぬ日々を同情する者や謳う者がいたのかもしれないが、今となってはそれも、もはやどうでもいいことだ。

今この王座には彼一人だけが在り、その王道には彼一人だけが立つ。

その隣には誰もいない。しかしその真正面に対峙する者がいる、それだけのこと。己が言葉遊びに忍び笑い、やがて王は静かに真正面の両扉を見据える。

来た。

扉の向こうに、いる。

感じるのだ。その存在感、威圧感を。

王は眼を見開き、その来訪に心をざわめかす。その湧き出る感情に名を付ける事ができない。怒りでもない、恐れでもない、高揚に似ているが、絶望にも似ていた。

死の神の来訪と言えば良いのかもしれぬ。それすら聞こえの良い響きがあるのを王は苦笑する。そして――。

「私は、恐れ、怯み、震える者。しかし奮い、勇み、打ち克つ王也。入って来い、闇からの使途よ、我が道を阻む者よ。決着をつけようぞ、この英雄王の剣をみるがいい」

朗々と詠いあげた。

その声の終わるを待ち、両扉が軋んだ重い音と共に開いていく。

ゆるりと開かれる視界の先、謁見の間へと続く赤い絨毯の続く長い回廊が見えてくる。その扉に立つ者はひとり。その回廊の絨毯をより赤く染め上げるなきがらは、数多。


 使者は、其処に立っていた。


 嗚呼、見忘れる事の無かった姿、剣鉈、顔、そして、眼。王が一度たりとも王である事を認めさせる事のできなかった男。

全身を返り血に染めた野伏りの容姿は懐かしき記憶のそのままに、山吹色の髪も血で染め上がってはいたが変わらず乱れたざんばらのまま。そして、その下にある王を常に悩ませた玄妙にして不敵なる表情すらも、何一つ、変わっていない。

彼は王の思いの通り、たった一人で其処に立っていた。

王は玉座のままで使者を見据えた。

「久しいな。以前にこうやって話した事を思うには、どれ程の時を遡らねばならぬのか」

重く問う。

使者は語らない。

「お前は何も変わっていない……いつだってそうだった。全てを語らず、全てを得たような眼で私を見る。私は、その眼が嫌いだった……」

使者は歩み始める。

王座へと真っ直ぐに伸びる道を革の靴が音も無く進む。手は腰帯の剣鉈を引き抜いて、鋼の歯軋りと共に血に濡れた刀身を露わにする。

彼の歩みは確かで、淀みなく、滑らかだった。

「言葉すらも無いのか。私が、お前の訪れるまでにどれほどの思いを抱き、それを受け入れていったか教えてやろうか」

 足は止まらない。

「何故、語らぬ」

私を前にしてすら音も無く、情も無いのか。

「お前は、私をただ殺すだけなのか、この英雄王を。人々の称賛受け、神々の加護を得たこの王を見て何も思わぬのか。もし私が此処で倒れれば、我が崩御はあまねくこの国土に知れ渡り、国は荒れ、政は死に、商は澱み、人々は窮するのだぞ。お前は、お前には、王への、いや、あまねく大地への愛すらもないのか!」

使者の歩みが玉座に至る階段の前にして、止まる。

「おお」

王が安堵の息を漏らし、使者はそこでようやく口を開く。

「立て、そして抜け。それとも首を洗う時間が欲しいのか」

 その声。忘れた事のないこの声、響き、赦し難さ。

「き、さま。王に向ってその不敬か。この英雄王に向かって」

「英雄王? 俺の目の前にいるのは、唯の犬だ。我が儘な犬が欲と贅とで築いた椅子に座って威張っているようにしか見えないぜ」

 下卑た言葉だった。何年も耳にした事すら無い程の。

「程度の低さも変わらぬままか」

 王の尊厳を護ったままで返す事ができた。王は、戦うその時まで王でなくてはならぬ。

「高い所から見降ろす癖は治ってないな、犬。俺はお前を殺す為に来た只の狩人だ。それ以外の何者でもない。犬よ、お前の望む宴の時はもう終わったんだ」

 王は立ち上がる。

「なめ、嘗めるな、下郎! 私を誰だと思っている、この英雄王を目の前にしてなんたる不遜! なんたる侮蔑! 許さぬぞ、見せてやる。この剣を、この力を!」

剣を抜く、抜き放たれた白刃が、自ら光を発して暗い王の間を光で満たす。

燦然と輝くこの威光こそ王の権威、力そのもの。玉座から立ったとはいえこの高みは未だ王だけのものだ。

「犬よ、犬、俺は只の狩人だ。お前を狩りにきたものだ。お前の食らってきた物など知った事か。俺はこの鉈で人の味を憶えちまった犬をただ屠るだけだ」

王は激怒した。

「黙れ! 黙れ! 貴様と少しでもこの思いを、この時間を共有したのだと信じた自分が愚かであった、浅はかであった! 私の記憶の全てから去れ、消え失せるがいい!」

対する使者は、初めて薄く笑い、感情を表した。

「それでいいんだ、犬。そうでなくてはわざわざ此処まで出向いた意味がない――来いよ、泣き虫の英雄王。俺達の共有した時間とは、まさにこの瞬間だけだ」

そして剣鉈を逆手に持ち、腰を低くする。

王はその姿勢を見て、やっと一つだけ救われた。あの姿勢は、あの構えは、奴が本気で敵と相対する時の構え。王は使者からそれを引き出す事はできていたのだ。

無敗王、英雄王と呼ばれたモノが、たった一つ、それだけで合点ができた。

構えた剣を振り上げる。剣の煌めきが二人の戦士を照らし出す。

王の間に入りこむ陽光は随分と赤くなっていた。

「私は王だ、しかし、お前を憎み蔑む事だけは変えない!」

「戦いに赦しを請うなよ」

会話の終わりと同時に王は跳ぶ。全体重と渾身の力を以てして剣を振り降ろす。受ければ防御ごと断ち切り、避けるならば、王の威に臆した事を笑ってくれよう。

 使者は眼前にあった。

 飛び斬りかかる王の正面へと跳躍した使者、両者は中空で相対した。

「おおっ!」

 同時に吠える。互いに放つ渾身の一撃が閃いて、輝く長剣と血濡れの剣鉈が交わった。魔狼の長の遥かな咆哮が如き鋼の悲鳴は鳴り渡り、二人の戦士は地に落ちた。

「くっ」

「……ッ」

 王は構える、使者は走る。

体勢を立て直すよりも早く、使者の連撃が襲いかかった。

「く、あっ!」

縦横無尽に閃く剣鉈を、次々受ける王の光刃。光は血濡れの鋼を受ける度に燃え上がり、使者の剣鉈を削り血濡れの刃を傷つけた。

しめた、これが続けば彼奴の剣の方が先に限界を迎えるだろう。魔剣を嘗めたか!

 思った瞬間、床に転がった。殴られた、と気付いたのは数瞬の間を要した。そうだ、奴にはこれがある。忘れていた訳ではない、警戒をしてもあの左手の“くせ”の悪さはどうにもならぬ。

王はすぐさま未だ手の中にしっかりと握られる光剣を振りかざして追撃を封じた。

走り寄る使者の身体が飛び退る。後もう一つの刹那遅れていれば首と胴体は別たれていた事だろう。それがあの男の業だ。王は身体が恐怖に震え、同時に高揚に悶えるのを憶えた。

これぞ、闘争。手の中の光剣が光を強める。

己の死を覚悟して戦わねば、真の強者と相対できぬと、そう教えてくれたのも目の前の使者であったのを頬の鈍い痛みの中で思い出す。

「少しだが、楽しくなって来た」

使者は笑った。返り血に濡れる山吹色の髪が、僅かに口の端を歪める表情が、赤黒く染まる顔に爛と燃ゆる蒼い眼が、王の野性を呼び起こす。

「なれば、もっと楽しませてやろう」

魔剣を構える。剣は主の意思を読み、光を一際強くした。茜色だった筈の王の間に、太陽が勝敗の行方を伺いに訪れたようであった。

「いいぞ――。それでこそ、俺の獲物に相応しい」

「――っ」

嗚呼。名を呼ばれる事が、こんなにも、うれしいなんて。

王の心にあるのは怒り、それは間違いない。狂おしい程の憤怒が彼を今まで生かして来たのだ。嫉妬、侮蔑、屈辱、全て憤怒の中に織り込んできた。だがどうだ、それほどの怒りであろうとも、この歓喜を消す事はできないではないか。

「わ、私は……」

 だが、使者は笑ったままで王の言葉を止める。

「言うな、言ったところで剣は鈍らない、死はどちらかに訪れる」

 その言の葉が全てだった。

「だが、それでは……余りに悲しいじゃないか!」

 使者が間合いを詰めた。剣の導きに応え、王は光刃を薙ぎ払う。光の軌跡が走った其処に使者の姿を捉えられなかった。視界からいきなり消える時、ヤツは背後か真下にいる、ならば、こうする!

振り切る前の光剣に地を擦らせ、背後へと刃を駆けさせる。

左腿に激痛が走った。しかし剣を止める事はない。刃の振り切ったその先、玉座への階段で使者は立ち、剣鉈についた血を払う。

「剣を止めなかったか」

 見下ろされる。しかし怒りは最早湧かなかった。

「止めたら、終わっていた、そうだろう」

「ああ、そうだな」

 使者の身を包む革の服の、胸元が裂けていた。先の攻防で剣先が絡んだか。脚はまだ深手ではない、攻めろ! 攻めろ!

 数歩、一気に間合いを詰めて突きを撃つ。

使者は思った通り、突きを見切って紙一重、間隙からの斬撃。

王は使者の位置に向け、腕を無理に動かし光剣を薙いだ。

「ぐっ」

 手応え! そう思った瞬間腹を切られた。しかし、浅い。魔銀の帷子を掠めただけだ。深追いせずに数歩下がる。使者は右肩を抑えて階段をさらに数歩上がっていた。

 肩が無理な運動で傷んでいる。今の動きをもう一度やるのは無理そうだ。

「やれやれ、癖の悪い剣も憶えたという訳か」

「お前を見ていると思い出せるのだ」

 二人は笑った……笑い合えた。

 王は剣を構えなおす。

 応え、使者が再び剣鉈を後手にして腰を溜める。

「私は……ずっとこうして見上げていたんだ」

「まだ言うか? 本当にお前は我儘を変えないな」

 使者は苦笑した。

 はっきり悟る。なんだ、この男は、私と同じ気持ちなのか、と。そして私は、またしても始め方を間違えてしまったのだ、とも。

「来い」

 王は剣を構える。

そうだ、この男へと語るのならば先のようにしてはいけなかったんだ。

 使者は容赦なく駆ける。逆手に持った剣鉈、左手に何か仕込んでいるか。

 剣が交わる。鋼が再び悲鳴を上げる。刀身が重なり合ったその瞬間、王は使者の動きよりも早く剣に身体を預ける。

「チッ」

 舌打ちが聞こえた。王は更に剣へと体重と、力を籠める。使者は、左手も使って抑えなくては此方の渾身を止められなくなった。

「さあ、これで話ができそうだな?」

 呟きかける。使者は、薄く笑っていた。

「付き合って貰うぞ、私の我儘に」

 例えその代金が命になろうとも。

「王って生き物は体の半分が我儘で出来ている、か。いいぜ、少しなら、聞いてやる」

 使者は瞳の蒼を焔立たすがままに王を見た。

 視線が重なる。そのほむらを見ていたら何故か、涙が毀れそうになった。

 王は……やがてゆっくりと口を開く。

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