後編


「……君は音を通しての嫌味がものすごく得意なのかな?」


 夜の神が、柚月の三分半に拍手を贈る。

 三分半の演奏は、それなりに神経が減らされた。指が転ばない代わりに、もたついているところを気付かされては意味がない。旋律はシンプル。しかし要所要所でリストらしい技巧と和音がある。八度よりも広い和音には苦労をする。

 それでも夜の神が難色を示さなかったので、多少は聞ける演奏だったのだろう。ところどころ自分でも納得できる音を出せた。光を称えた聖水のような、聖書の言葉のような音。それにしても、夜の神といい、彼の義理の妹といい、どうしてこの兄妹の前で弾くとき自分の指はなまりきっているのだろうか。


 ダウンの中の背中はじっとりと汗ばんでいる。コーヒーが飲みたいな、と思う。いい音を出した後、いい写真が撮れた後のコーヒーは、カフェインが心地よく臓腑に染み渡る。なまりきっているなりに自分の演奏に満足している。


「この曲はキリストの聖体に対する感謝の歌です。歌詞の最後はですね」


 夜の神は知っているかもしれないが、柚月は「アヴェ・ヴェルム・コルプス」の最後の一節を誦じる。


 我らの臨終の試練をあらかじめ知らせたまえ。


 その一節を聞いて、夜の神が目を細めた。


「ラテン語で書かれた曲に、あなたの名前の「月読」。音のない夜には、なかなかいい組み合わせでしょう?」


 ラテン語は、今ではキリスト教の典礼以外には使われていないはずだ。会話のために実用されず、言語としての発展はないだろう。そして無音は死を連想させる。静まり返った空間に祝福を与えることは、予め死の試練を教えることに似ている。モーツアルトは後世に救いの曲を残した。

 あなたも死ぬのは怖かったのですか、恐れていても大丈夫ですよ……とは口に出しては言わないが。


「それを皮肉って言うんじゃないかな?」


 君は意外と性格が悪いねと、柚月の意図を的確に読み取った夜の神は苦く笑った。生きている間、このような苦笑を誰かに見せたことはあるのだろうか。


「リストは得意でしたか?」


 あまり、と自嘲気味に夜の神が笑う。


「エステ荘の噴水は好きだけど、ラ・カンパネラは得意じゃなかったな」

「さらりと次元の違うことを言わないでください」


 それこそ嫌味なのではないか。流石に音大に通っていただけのことはある。こちらは3ページ程度の「アヴェ・ヴェルム・コルプス」で苦戦していたというのに。


「いい音だった。静けさも死の恐怖を忘れられる、美しい音だった。今際の際で聞くにはちょうどいい」

「お褒めに預かりそれは光栄です」

「練習不足みたいだけどね」


 もっと練習した方がいいよ、と一言加えてくる。最高の賛辞の後に、笑いながら駄目だしを忘れない。


「ああそれからさ」


 言うのを忘れていた、というていで夜の神が振り向いた。

 東の向こう側の空が少しずつ白さを生み出していた。柚月の足元に黒いものが生まれる。にっこりと極上の微笑みを讃える夜の神の足元に、影はなかった。

 別れの気配を感じる。名残惜しくと思う己が意外だった。もっとこの夜の神と話してみたかった、とも。


「たまにはあの子に連絡してあげて。知らない仲じゃないでしょ?」


 もしかしたらそれを言うために目の前に現れたのかもしれない、と柚月は思った。


 

 ……陽の光を浴びながら公園内を見返すと、夜の神は音もなく消えていた。幻のピアノも同じように消失している。

 何もなかったように元通りの公園に、夢なのか、それとも現実の中で幻を見たのか、それすらもよくわからなくなる。


 静まり返った夜が明けて、音が戻ってくる。

 暗く死に絶えたはずの街に、いのちの光が戻ってくる。


 また夜に歩けば、一枚に収めたいと思う何かに出会えるかもしれない。棺になった街の暗さのように。

 また夜に歩けば、思いがけない音が出せるのかもしれない。死を恐れている人に、清らかな音で安らぎを与えられるように。


 柚月はダウンのポケットに手を入れた。冷え切った指をポケットの内部が溶かしていくーーと、固い何かに触れた。何かを入れた記憶はなかった。身一つで歩いたはずなのにと訝しみながら柚月はそれを取り出した。


 月を模ったペンダントだった。それは柚月の手のひらの中で、極彩色の輝きを宿していた。

 

 

                        (了)

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夜の神のコラール 神山雪 @chiyokoraito

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