中編
ーー夜の神が奏でる音を柚月は覚えている。夜の神は、柚月の通っていたピアノ教室の先輩だった。小さい頃、目の前で、人生を変えるような『月光』を聞かせてもらった。今日に至るまで、彼に出会ったのはその一度きりだ。
だから夜の神は柚月の音を聞いたことがない。
意外なほど饒舌な夜の神は、突然現れて柚月のピアノを所望する。
「……最近は仕事が忙しくて、あまり弾けてないんですが」
一人暮らしの部屋には電子ピアノが置いてある。ピアノを弾くのは好きだが、一年前に高校時代の先輩と共同でデザイン事務所を設立して以来、鍵盤蓋を開ける機会が少なくなっていた。指のストレッチだけは欠かさずにやっていたが、果たして期待に添えるかどうか。
「活躍しているからね。こっちでも君の写真はよく見るよ。君の写真は音に溢れている。君自身が感じ取った、写真の中の人の音。よくここまで撮れていると思うよ。だけど、こんな音のない夜には君だけの音を僕は聞きたいね」
ぼろぼろのブランコに腰を掛けた夜の神は、優雅に足を組んだ。男の柚月から見ても、一瞬だけ見惚れるほどの美しさがある。
幻のピアノはベーゼンドルファーだった。少しだけ高揚する。ヤマハでもカワイでもないピアノなんて、通っていたピアノ教室の発表会以外で触れたことがない。鍵盤蓋を開き、椅子を引いて座ってみる。実態がある幻だ。手を伸ばせば、夜の神にも触れられるのかもしれない。
「ご所望の曲は?」
「なんでも。でも、「月光」と「月の光」は嫌だな」
つまりは、生前に得意としていた曲は遠慮願いたいということか。
椅子の高さを合わせる。冷え切った指をこすりながら温め、ストレッチをしながら柚月は考える。ーーいま弾くべきものは何か。柔らかく微笑む夜の神ーー音無月読が、一体何を望んでいるのか。
頭の中のレパートリーを漁る。柚月が知る彼の得意曲は二曲。先ほど彼自身が言っていた月を冠した曲。それ以外はどうだろう。彼の名前は「月読」。古事記にも登場する夜を司る神。勝手な想像だが、ショパンのノクターンも得意の気がする。ノクターンは「夜想曲」だから。
ベートーヴェンは古典派からロマン派。ドビュッシーは印象派。抒情的で美しい曲を得意とするなら、ラヴェルの「亡き王女へのパヴァーヌ」や、サン=サーンスの「白鳥」も避けたい。それならばソルの「月光」をピアノで弾くのはどうか? ……右手で旋律しか追えないものを弾いても、彼は満足しないだろう。
時代を逆行させてみよう。バッハ。ヘンデル。バッハは好きだが少し疎遠な存在だった。バロック以前。霞がかかっている。それは今日で言われる「西洋音楽」ではない。神の讃歌と古楽だ。五線譜ではなく四線譜は、死語となったラテン語と同じ部類のものだ。
神の讃歌という単語が頭の片隅に光ったところで、一つの曲が呼び起こされる。
彼はこの世の存在ではない。街は、死者の棺になったように沈んでいる。
もし、闇に沈んだ街が、神の恩寵を願っているのなら。
目の前で優雅に微笑む夜の神が死を恐れていたのなら。
息をつき、ストレッチをやめる。
鍵盤に指を添える。
高校生の頃、中断していたピアノを再開させた際、とにかく指の勘を取り戻したくてモーツアルトばかりを弾いていた時期があった。再会した恩師に「きらきら星変奏曲」を最初に渡されたのもきっかけだった。運輸、指の動き、一つ一つの音の粒。何一つごまかしが効かないのがモーツアルトだ。
暫くして曲の幅を広げたいと思った矢先、見つけたのがこの曲だった。
柚月が思うに、モーツアルトは、ただ弾くだけならば特別の技術は必要がない。音の動きは単純なものも少なくはない。だが美しく弾くのは困難である。音の幅には限りがある。澱みなく流れる有限の洪水に中に、無限の美を灯す。
ーーこの一音こそ神の恩寵であると確固たる意志を持ったファのシャープから始まる。テンポはそこまで早くはない。だからこそ、一つ一つの響きが重要になる。「月光」を引いた時のような鮮烈な光ではない。教会の中で柔らかく反響し、全てを包み込むような恩寵を感じさせなければならない。
その音ではないと、死にゆく人に安らぎを与えられないから。
……柚月がわずかに思いを巡らせて紡ぎ始めた旋律に、夜の神が眉根を顰める。
ヴォルフガング・アマデウス・モーツアルト作曲。フランツ・リスト編曲の「アヴェ・ヴェルム・コルプス」。
澄み切った音がベースになるその曲は、モーツアルトが死の半年前に作曲した教会音楽である。
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