夜の神のコラール

神山雪

前編


 夜にみる白昼夢をなんというのだろう。


「君は本当に、夜によく歩くね」


 静かに驚きながら、遠野柚月は隣に座る幻の言葉に耳を傾ける。

「君の本性は、一枚の画を読み取るのではなく、音を感じ取り描き出す方向だと思うけれどね」

「……何でですか」


 君は夜によく歩くからだよ、と幻は語りかける。


「夜、歩いて、歩いて歩いた果てに我らがルードヴィヒが『月光』を作曲しただろう? この曲がノクターンのはしりとも言われている。夜に歩いてであうものは、誰かとの運命的な出会いだけではない。自分を変え、魂をゆさぶるほどの、美しい旋律だ」


 それは出会いというより、気づきに近い。夜想曲の先達はルードヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェンの『月光』ではなく、イギリスの作曲家ジョン・フィールドの『ノクターン』ではないだろうか。隣で話す幻に柚月はそう伝えてみたかった。しかし、自信満々に話す口ぶりや身の毛がよだつほどの美しさを持つ彼の前では、そんな気持ちも霧散してしまうのだった。

 闇が落ちた街中。柚月は街中にポツンと設置された公園にいる。滑り台と、ブランコと、砂場しかない小さな公園だ。明かりは一つきりで、その街灯も点滅している。電光が切れかけているな、とぼんやりと眺めながら柚月は口を開く。


「音無さんは」


 幻は柚月の言葉を遮って、月読でいいよ、と柔らかく笑った。


「あなたも、こうして歩いて歩いて、月光を弾こうと思ったんですか?」


 どうだろう、となぜだか幻はぼかしてくる。


「月を冠した曲は多い。『月光』、『月の光』、『ムーンライト・セレナーデ』。ソルも『月光』を作曲したね。……どれもこれも抒情的で美しい。僕の名前には月があるから、やっぱりそれに惹かれたんだろうね。……さあ、柚月くん」


 これは夢で、だから幻にも会えたのだろうと思う。隣に座る男は、とんでもなく美しく、金色の瞳と、夜を司る神の名前を持っている。寂れた公園の中心にはあるはずのないピアノが厳かに佇んでいる。それもこの幻が生み出したものだろう。


「君の音を聞かせておくれ。こうして出会えたのも、何かの縁だろう」


 街灯がプツンと点滅をやめる。暗闇に包まれたかと思ったら、幻の鍵盤が白く光っていた。



 *


 

 目を開くと暗い天井が視界いっぱいに広がった。瞬きを何度かしても再び眠れる気がしなかったので、入眠を諦めて遠野柚月はベッドから身を起こした。

 窓の外は新月で、星が飛び散っていた。寝ている間じゅう、一人暮らしの部屋の暖房をつける気はなかった。布団から出ると刺すような寒さが身を襲ってくる。

 息を吐いてーー昔を思い出す。高校生の頃、自分を変えるほどの美しい何かに出会いたくて、無くなってしまった自分の音を再び取り戻すために深夜を彷徨い歩いた。


 結果として自分の求めていたものは幻影で、戻ってきて欲しいものを手のひらに納めることができた。もう充分歩き尽くしたと思い、深夜を歩くのをやめたのだが。


 ……柚月はスウェットからTシャツとジーンズに着替え、ダウンを着込んで一歩外に飛び出た。ダウンの色は暗く、夜は深い。自分もこの色の中に溶け込んでしまうような感覚を覚えながら、歩き出した。


 星の明かりは頼りなく、点在する街灯も効果を発揮しているとは言い難い。住宅街は静まり返っていて、犬を飼っている家庭もないようだ。遠吠えも生活音も、何も聞こえてこない。静かな災害が降り注いで、実は皆亡くなっていて、その屍骸だけが夜の海のなかを横たわっているような錯覚を覚えた。


 一定のリズム、一定の間隔で歩く。特に目的も用意していなかった。昔の懐かしさだけが頼りだった。渇望するものもなく、健康のためでもなく。ただ歩くべき夜があったが故に、足を動かす。久方ぶりの夜の散歩を、意外にすんなりと受け入れられた。


 死体を美しく飾れる場所を探していた。その場所は昼ではなく、深夜にこそ現れる瞬間があるのだと。夜に歩く理由は、それだけで充分だった。本当に昔の自分は一体何を考えていたのかと自嘲したくなりつつ、あれはあれで豊かな時間だったのだと開き直れる己もいる。


 何か自分の中で音を再生させようか。歩きながら、音を聞くのが好きだった。犬の遠吠え。暗い川の囁き。最終列車が通る音。静かに車が通り、アスファルトにブレーキ音が響く。それらを聞きながら、その時に「適切である」曲を頭に再生させる。ある時はショパンの遺作の「ノクターン」、ある時はサン=サーンスの「白鳥」。


 しかしーー。

 今日は本当に、何も聞こえてこなかった。


 無音の中歩くのは、なんとも寂しいものかと改めながら、座る場所を探す。家を出てからそれなりに時間が経ち、足は疲労を覚えていた。スマートフォンを取り出してアプリで検索。そう思い立ったところで、ダウンのポケットにそれらしい感触がない。文字通り身ひとつで外に出てしまった。


 さてどうしようかとぐるりと首を回す。

 一歩、二歩、歩いたところで、前方に街灯が一つきりの公園がある。柚月の足はそこに向かって動き始める。


 遊具はブランコと滑り台と、狭い砂場。敷地内には薄く砂が敷かれていて月面を想起させた。ブランコに腰を掛けると、留め具や椅子が軋んだ音を立てた。それがこの夜、柚月が自分の足音以外に初めて聞いた音だった。ブランコのチェーンは外気よりも冷たい。


 心地よい疲労に身を任せると、冷たさから眠気を感じ始める。ぼやけ始める思考から、どうしてカメラを持ってこなかったのかと後悔する。スマートフォンも何も持っていなかったのも迂闊だった。光も何もなく、闇に沈んだ街並み。この様子を撮りたいと渇望している。……求めるものが何もないと思っていたのに。いざ歩き始めると、一枚に収めるべきものが生まれる。


 

「いい夜だね。君以外、みんな死んだみたいだ」


 

 全く唐突に、甘い声が響く。柚月は横に顔を向け、思わず目を見張った。


 どうしてこの人が、己の隣で薄く笑っているのか。この世にいるべき人ではないのに。

 

「こんにちわ。初めまして? それとも、久しぶり、と言った方が正しい? 僕のことを覚えていて光栄だよ」

 

 君って割と素直なんだねと嘯いた。


 透き通るほどの白い肌。高い鼻筋に、柔らかく引き締まった唇。柚月が知っている姿よりも八ほど歳をとっているが、間違いようがない。


 鮮烈な金の光。


 美しい夜の神がそこにいる。そして、何故なのか。

 公園の中心部に、黒いボディのグランドピアノが出現していた。




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