改心ごっこ

ぶざますぎる

改心ごっこ

斧ははや樹の根に置かる。されば凡て善き果を結ばぬ樹は、伐られて火に投げ入れらるべし。(マタイ傳福音書3:10)


[1]

 パチンコで6万を失った。冗談無く一切の誇張も抜きにして、私は泣いた。貸玉の金も尽きて、最早何もすることが出来ない台を前に、私はハンドルを強く握りしめたまま暫時、動けなかった。


[2]

 先般、私は2年間務めた2号警備員の職を辞し、無職になった。曩時から、私は仕事が長続きしなかった。私は生来からの骨惜しみで、堪え性が皆無だった。就職しては辞めを繰り返して来た。とにかく働くことが厭で仕方がなかった。

 それでも、今回は2年間も同じ場所で働いたのだ。これまでは長くても1年、ほぼを半年足らず、悪ければ半日で辞めて来た私にしては頑張った、否、頑張りすぎた程である。だが畢竟、身の裡に潜ませていた無精が顔を出し、後先を考えずに職から逃げた。

 さて、退職したとは言い条、私には次の職の当てなぞ無かった。猿だって跳ぶ先の枝を定めてから跳躍する。転職先を決めずに退職した私は、その意味で猿以下であった。跳ぶ先に何も無ければ、地面へと叩きつけられて死んで了う。最早若くない手前の年齢と、散々に汚れ切った職歴のことを考えれば、そもそも退職すべきではなかった。

 生来より無計画で、少しでも厭なことがあれば逃げ出す質の私は、後先のことなぞ考えずに遁走ばかりして来た。凡そ理性というものを欠き、ただ外部の刺激に反応するだけの様は、虫としか形容の仕様が無い。

 それに、こうしたウジ虫野郎には有りがちなことだが、私はまったく根拠を欠いた自信というか、自分には何か秘めたる可能性があり、取り合えずは死なずに居れば、いつか棚から牡丹餅式の幸福が手に入り、これまでの生活を一発逆転する様な奇貨が恵えられるハズだと、信じ込んで居たのである。

 そうした糞馬鹿なオプティミズムが、気狂い染みた行き腰の姿勢を生み、度重なる退職に対しても病疾めいた自己正当化をさせ、今回も仕事からの逃げを決め込ませたのだ。

 併し、もう辞めて了たのだから、逡巡した処で詮無いのである。私には将来への漠とした不安があったが、一方では仕事を辞めた際に特有の、何とも言えぬ解放感を味わっていた。明日からは、現場に出て神経をすり減らす必要なぞ無いのだ。 

 幸い多少の貯金は有ったから、奢侈な暮らしこそ望めぬものの、暫くの糊口には困らないだろうと私は見当をつけた。だから今の裡は、この解放感に身を任せ、自由に生活して心の洗濯をしようと決めたのである。

 ――人生なるようになるさ、どうせ直ぐに死ぬ訳ではないのだ。その裡に何とかなるだろう。おれは大丈夫だ。……私は何らの根拠も無く楽観していた。

 とりあえず、パチンコでも打ってみるか。もう仕事のことを考えずに済むのだから、思う存分に遊技へと集中出来るだろう。私は近所のホールへと向かった。


[3] 

 生活ではロクな目を見ない。所期は裏切られる。やってられない。すべては徒労で、身の裡は常に救いを求める祈りで充ち、双眸から溢れ出る涙が食事の代わりとなる程だ。

 そもそも、現のパチンコ業界の様子を鑑みれば、勝率よりも敗率が遥か上回ることなぞ、容易に理解ることだ。それに、1万円を使って掠りもしないのであれば、今日はツキが無いと判断して勝負を切り上げるべきである。私とて、最近になってパチンコを始めたド素人ではないのだから、その位の勝負塩梅は得心していた。

 だが愚かにも、私は退職の解放感に由り躁めいた気分になっており、ひょっとしたらもう千円を使えば当たるのでは、否、当たるはずだ、というインセインな行き腰を身の裡に滾らせていた。もう千円、もう千円、もう一万……。当たれば取り返せるのだからと次々に札を突っ込んだ結果が、6万の損失であった。

 6万という数字だけを観れば、正直言って大したダメージではない。この程度の負けは、これまでに幾度も経験していたのである。

 私に落涙をさせたのは、敗北に由り身の裡で生じた、己が生活能力と運の欠如に対する自覚であった。仕事は直ぐ辞める。そのくせ呑気にパチンコを打ち、挙句は負ける。社会適合能力なぞ無く、それを補うだけの運も才能も無く、パチンコ台に映り込んだ顔は不細工としか評しようがない。

 愛嬌でもあらば拾う神にでも出遭えようが、私は生来の狷介さに加え性根が腐り切っていたから、その希みは薄く、復、そのゲスさに由って沢山の人々に愛想を尽かされ畢竟、私には友も恋人も居ないので、いざという時の頼りの当ても無い。それは換言すれば、守るべきものを持たないということでもある。

 私はもういい歳であり、社会通念に沿って言えば、それなりの年齢の子どもが居ても不思議では無かった。併し、実際の私は独りで、自身のぶざまな孤独を十全にすぎる程、理解していた。そして今回の敗北に由り、その理解が痛みを伴い始めていた。どうしようも無かった。

 ――この先、おれは生きて往けるのか……? ……不安と恐怖が身の裡に充ちた。

 而して私は泣いたまま動けなくなり、次第に流れ出る涙の量は増していったのである。

 私には、なにも無かった。


[4]

 暫時そうして居た処、恐らく不審がったのだろう、店員に「大丈夫ですか」と声を掛けられた。私は「大丈夫です」と言って、席を立った。物悲しさは依然、身の裡から消えず、今では新たに含羞も生じていた。

 ――大丈夫じゃねぇよ、バカヤロー。いい歳こいた男がパチンコ打って泣いてんだぞ。異常そのものじゃねぇか、コノヤロー。惨めだよぅ、ぶざまだよぅ、汚らしいよぅ、見苦しいよぅ。バカヤローが。死んだ方が好いんじゃねぇのか。……なぞと私は心中で毒づいた。

 私は顔を洗おうと思って洗面所へ行った。洗面台に向かう。ひどい顔だ。泣いた後だというのもあるが、それにしたって覇気が無い。造形は仕方が無いにしても、何と言うか、卑屈な性根が長い時を経て顔面に滲み出て来たような、凄惨言語に絶す表情を、鏡の中の私はしていた。それに恰好も薄汚い。好い所なぞひとつも無かった。

 バシャバシャと水で顔を洗う。水の冷たさが気持ち好い。その冷たさが体の輪郭を自覚させ、どこか離人症めいた気分にさせた。その御蔭で、私の精神は多少の落ち着きを取り戻した。

 ハンカチを取り出し、顔を拭く。改めて鏡を見る。一瞬、ギョッとした。手前の顔の裡に、とっくの昔に死別した父親の面影を見出したのである。親子なのだから、多少見てくれが似るのは当たり前だ。だが、このシュチュエーションが、私に特別な感慨を抱かせた。鏡の中で、まるで父が泣いているかの様に錯覚したのである。

 鏡の中で、父は目を真っ赤にしていた。息子である私の体たらくを見て、あまりにも悲しくて泣いているのだ。自分の生活を捧げて育て上げた息子が、この様なのだ。泣きたくもなるだろう。私は父に対して申し訳無い気持ちになった。そして復、涙がポロポロと流れ出た。それに伴って、鏡の裡の父も涙を零した。

 ――どこで人生を間違ったのだろう。

 こんな感傷が赦される程、私は若くなかった。散々泣いておいて何だが、最早涙が似合う年齢ではなかったのだ。己はグっと涙をこらえ、歯を食いしばって次世代のために汗水を流すべき、そういった歳に私はなっていたハズだった。私はすっかり自分が情けなくなった。

 ――変わろう。

 私は鏡の中の自分、そして父を見て独り言ちた。今日から、生まれ変わるぞ。直ぐに投げ出す癖をどうにかして、まともに社会人として振舞うのだ。生き直すんだ。そして天に居る親を安心させよう。私は決起した。

 見てくれの結果が敗北であったとしても、乃至は信念を貫き通した結果が、心や身の壊滅的様相であったとしても、それでも、身の裡には決して折れない何かがあったんだ、という話は、実話か創作かに関係なく感動的だ。

 私の場合、その敗北は見てくれではなく、身の裡の芯を貫く程の徹底的な打ちのめされ様であったし、何ら信念も糞も持ち合わせず、ただ妥協と骨惜しみと逃げが生活の実際であった。

 私は自らが、完全な敗北者であることを自覚していた。だが負けたとは言い条、敗北の裡でも、せめて多少なりともマシな終わり方をしたかった。朝に道を聞かば夕べに死すとも可なり、とも言うではないか。

 そのためには、無為徒食の荏苒たる日々を繰り返している場合ではない。ちゃんと正規の職に就き、向後は直ぐに辞めたりせず、真面目に働こう。

 私は明日の朝一番でハローワークへ行くことにした。


[5]

「要するに、君は責任と義務から逃げ続けてる訳だね。おぉ、情け無い、情け無い」

 翌日、ハローワークへ行くと、見た目50過ぎ、痩身の女が私の担当職員になった。

 職員は顔を合わせたハナから、非常に態度が悪かった。まるで、この世のすべての人間を見下しているが如くに、椅子へ踏ん反り返っていた。そして、私が昨晩、急ぎで書き上げた履歴書と職務経歴書に目を通すと、その傲岸不遜な態度は程度を増した。

「汚い職歴だなぁ。グチャグチャじゃん。おぉ、みっともない、みっともない」職員は言った。

「はぁ、どうも、恐縮です」私は返した。殴ってやろうかと思ったが、我慢した。私は生まれ変わるのだ。

「君、自分のことを客観的に観れてないでしょ。今はねぇ、いい大学を出た新卒の子だって、就職に苦労してるんだよ。それをさぁ、君みたいに能力は無い、耐え性は無い、職歴はグチャグチャな人間をさぁ、好き好んで雇う会社なんて無いよ」

 職員は履歴書と職務経歴書、それから、私が呈出した求人票をペラペラといじくりながら言った。

「君、自分を客観的に観なきゃ駄目だよ。この求人はねえ、君には高望みだよ」職員は鼻で嗤った。

 私は先般から、頭の裡でこの職員のことを何度も殺していた。私は生来より臆病な性格であるものの、一方では病的な癇癪持ちであった。というのも、臆病で弱く復、自分に自信が無いからこそ、自分への攻撃に対して異常な程に敏感で、傷つけられることへの、これ復、異常なまでの危機感があった。だから、他人様から少しでもマウントを取られそうになると、その都度にパニックめいた怒りを爆発させ、何とかして自己防衛を試みるのだった。

 だから、ハナから高圧的な態度で私を甚振って来たこの職員に対しても――言い方と態度が悪いにせよ、その内容自体はぐうの音も出ない程の正論であることは理解しつつ――従前の私であれば、叫び声を上げながら殴りかかっていた処である。

 私に我慢をさせていたのは、ひとえに、パチンコ屋のトイレで鏡の裡に見出した父の涙であった。生前は孝行のひとつも出来ず、親不孝者であった私だが、今こそ心機一転生まれ変わり、天に居る父を安心させるのだ。そう思えばこそ、私は怒りをグっとこらえて、何が何でも就職へと繫げる必要があった。


[6]

「資格の勉強もしてない訳でしょ。普段は何をしてるの。時間を無駄にしてるの」

 職員が訊ねた。

「……読書をしたり、映画を観たりしています……」私は答えた。

 ハッ、と職員は馬鹿にする様に言ってから続けた。

「本を読んだり映画を観たりした処でねぇ、なーんにも人生に役立てられてないじゃん。そもそもさぁ、そういうのは社会人としてまともに過ごせる様になってから楽しみなさいよ。作家になる訳じゃあるまいし」

「あの、一応、ネットで小説を投稿しています」特に考えの無い、ほぼ反射的返答であったが、これは悪手だった。

 職員はフンッと鼻で嗤った。

「ああそうですか、ご立派な作家先生でいらしたんですねぇ。いやいや、ハローワークで職探しをする人が、そんな大層な肩書をお持ちだとは存じませんでしたよ。おぉ、すごい、すごい」

「あ、いえ、あくまで趣味のレベルでして」

「君のは趣味じゃなくて、現実逃避なんじゃないの? なーんにも人生で努力をしない君が、何かをやったってアピールと言い訳をしたいがために、そんなことをしてるんでしょ。それも実際は、小説なんて表現するのも烏滸がましい様な、誰にも読まれやしない駄文を公開して、一端の作家ぶってるんでしょ。居るんだよな、君みたいなのって。おぉ、ぶざま、ぶざま」

 職員は続けた。

「それとも、何か一発逆転でも夢見てるのかな? 適当に書いた小説がヒットして、小説家にでもなれれば人生一発逆転だってね。あのねえ、逆転なんて無いんだよ。成功した人は、長い時間コツコツと努力を積み重ねて来てるの。それにさあ、""栴檀は双葉より芳し"" って言葉を識ってる? 才能がある人って言うのはね、若い頃から何かしらで目立っているものなんだよ。君にそういうものがひとつでもあった? 今までにそういう気配が無かったのなら、これからだって何にもありはしないの。君がやるべきなのはね、夢を見たり現実逃避をすることじゃなくて、まともに生きることなの」

 ――黙れ、バカヤロー。帰ったら、てめぇのことを惨殺する小説でも書いてやるからな。理解るか、コノヤロー、、だぞ、。……私は身の裡で卑屈に毒づいた。


[7]

 些か我慢に限界が見えていた。併しながら、私は忍耐をした。そう、忍耐だ。これまでの生活に足りなかったのは、そして私の生活をここまで愚昧なものへと変えたのは、正に忍耐の欠如であった。取り合えず、私は職員の毒舌へ下手な反論をせず、ギュッと口を結び、身の裡にフツフツと生じている怒りと殺意を抑えることに集中した。

「……」

「はっきり言うけどね、君は屑なんだよなぁ。堪え性が無いんでしょ。だから仕事が長く続かずに、直ぐ辞めちゃうんだよねぇ。そんな感じでフラフラ生きて来て、気付いたらそんなに歳をとっちゃったんでしょ。大人の階段っていうのはねぇ、昇るのはとっても楽チンなんだよ。何も考えずにダラダラしてる屑でも昇れるんだよ。でもねぇ、そんな階段の昇り方をした人間は空っぽなんだよ。他の皆が一所懸命に勉強したり、人生を満喫したりしてるなか、君はダラダラしてただけなんだよ。おぉ、だらしない、だらしない」

「……」

「ポケモンのことは識ってるよね。ポケモンは懸命に戦うことで、レベルが上がって強くなるでしょ。戦いは痛いけど、戦いと痛みを重ねる度に、痛みに対する耐性の閾値も上がるから、その痛みを乗り越えれば、最終的に強くなれるんだよ。だけどね、君は一度も戦わなかったんだよ。逃げるだけ。ポケモンも逃げてばかりだと弱いままでしょ? だからねぇ、君はそんなに歳をとってるけど、レベル1なんだよ。おぉ、弱い、弱い」

「……」

「レベル1で何のスキルもない、怠惰に歳を重ねただけの人間なんてねぇ、どこの会社も雇ってくれないんだよ。何にも社会へ貢献出来ない、無駄にプライドだけ肥大した無能なんてね。おぉ、見苦しい、見苦しい」

「……」

 ――おれが今、性悪なてめえの首をへし折らず、緘黙の裡にジッと我慢して居るのは、十分な社会貢献じゃねえのか? コノヤロー。そうでなくとも、てめぇ自身は、おれに殺されずに済んでいることを感謝するのが筋なんじゃねぇのか? バカヤローが。 ……なぞと私は思ったが、引き続き黙っておいた。

「だったら死ぬしかないよねぇ? でもさぁ、そんな度胸は君には無いんでしょ。死ぬのは怖いし、馬鹿みたいだけど人生にも未練があるんでしょ。馬鹿みたい、じゃないな、馬鹿そのものだね。君は、こんな人生にも逆転の可能性があるんじゃないかって期待してるんだよ。無意味に待ってるんだよ。宝くじみたいにね、ある日すべてをひっくり返して、幸福にしてくれる何かが出てくるのを。そんなもの無いのにねぇ。当たり前だよねぇ、努力もしない堪え性も無い屑に、チャンスなんてやって来ないんだよ。役に立たないくせに不平不満と愚痴だけは一丁前に吐く。生活改善のための行動を何もしないくせに、何も起こらない人生に腹を立てる。さっきも言ったけど屑だよねぇ。能力も低ければ性格も悪い、そんな屑と一緒に働きたいと思う? 厭だよねえ。社会の人たちも、そんな感じで、君を雇いたくないんだよ。おぉ、みじめ、みじめ」


[8]

 私は職員に由る讒言の連続爆撃を耐えた。畢竟、職員の方でも私を甚振ることに飽きたらしく、「まぁ、一応企業さんには連絡するけど」と言って電話を掛け始めた。

 電話する職員を見つめながら、私は我慢して好かったと思った。未だ就職が決まった訳ではないが、とりあえず一歩前進だ。もうひと踏ん張り頑張ろう。

「面接してもらえるってよ。明日の9時15分、企業さんの処へ行ってください」

 面接のアポイントメントを得、僅かながらも達成感と心の余裕が生れた私は、最前より恵えられ続けた職員からの罵詈雑言に対して、少しだけ反論めいたことを口にしたくなった。

「私は、本気で変わりたいと思っているんです。真人間になりたいんです。改心したんです」私は言った。

「これまでずっと駄目だった人間が、そう簡単に変われるとは思えないけどね」職員はフンッと鼻で嗤った。どうもそれは彼女の癖らしかった「くれぐれも遅刻や、ドタキャンはしないでくださいよ。こちらにも迷惑が掛かりますから」

 ――黙れ、外道のカスが、バカヤロー。今でこそ黙って居てやるが、てめぇを合法的に殺害できる手段が生じようものなら、おれは躊躇無く実行して、てめぇの死体の上で陽気に踊ってやるからな。覚悟しやがれ。コノヤロー。……なぞと私は思いもしたが、やはりギュッと口を結んで忍耐をし、その忍耐に対して自己満足というか、ナルシスティックに陶然としたのであった。


[9]

 而して一歩前進を――実際は一歩たりとも進んでいなかったが――果たした私は、まだ面接すら受けていないにも関わらず、さも大層なことを成し遂げたかの様な、自己陶酔めいた心持で居た。だから、職員との面談を終えてから立ち寄ったトイレの鏡に、私はまたぞろ父の面影を観たのだが、その父の顔が安心した様な満足した様な、つまりは息子の改心と再出発を悦んでいる様に見えたのである。

 

[10]

 さて、私が利用したハローワークは、私の住居から8駅ほど離れた土地に在った。そこは、広大な敷地を持つ大学が中心に居座っている学生街で、私がハローワークの建物を出た頃には、授業終わりの学生であろう若い男女が多数ウロウロしていた。

 私という人間は、稟性がどこまでもねじ曲がっており復、異常な程に被害妄想癖が強かった。だから、学生と思わしき若い連中の間を縫って歩く時も、何だか自分のことを嘲笑されている様な心持がした。実際、可能性と輝かしい未来に満ちている学生たちと比べて、可能性や未来どころか職も無く、見すぼらしい風体をした私は、惨めとしか評し様が無かった。

 そもそも、私は大学生というものが好かなかった。特に人文系学生というものに対して、敵愾心とも呼べるものを身の裡に抱えていた。どうも曩時から、私は人文系連中特有――これは学生に限らず――の鼻持ちならないスカし加減へ、生理的な嫌悪感を催しがちだった。SNS上で散見される、その手の連中、特に親の脛かじりの文学坊ちゃん厭世家なぞは、ぶち殺してやりたくて仕方がなかった。

 併し殺人すれば、私は一生を棒に振って了う。だから私は『六号室』『哲学者パーカー・アダソン』等の、悟りすましたインテリ野郎の化けの皮が剥がれて、結句は破滅する筋の小説を読むことで、溜飲を下げて来た。

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 ……斯様に支離滅裂で――手前でも叙していて訳が理解らぬ――気狂いじみた文句と偏見と決めつけを、私は眼前の学生たちを眺めつつ、まるで身の裡の澱を煮込んで料理するが如くに抱えて居たのである。併し、これはどこまで往っても偏見と決めつけでしかなく、そうした憎悪や厭悪を増すにつれて、自らの惨めさ、ぶざまさも度を増して往くのであった。

 そして悪感情をさも大した理由ありげに述べ重ねたものの、その根底にあるのは若さと未来と居場所のある人間への単なる嫉妬――私は生来の狷介さと、度外れの性格の悪さに由り、どこにも居場所を作れなかった――と、過日にSNS上で人文系アカウント相手に論戦を仕掛け、見るも無残にボコボコにされたが故の逆恨みであった。

 私はどこまでも、ぶざまだったのである。


[11]

 さて、そうした言い掛かり的な憎悪を学生たちへ向け、結果として自らにも自爆めいた不快感を生じさせて了たものの、私は改心を決起した昨日から、躁めいた高揚感の裡にあった。復、取りあえずは面接の約束を取り付けたこと、そしてその段階に於いて、ハローワーク職員からの罵詈雑言へ癇癪を起さず、無抵抗主義が如くにしっかりと忍耐出来たこと、そういった諸々の裡に己が成長を感じて、たいへんな自己満足的陶酔をしていた。

 だからこそ平生なれば、学生の一群に対して舌打ちのひとつでもしてやった処であったが、その日は身の裡で悪態を吐くに留まったのである。

 気分が好く、その好調にも自覚的な部分が多かったので、浮ついた気分でありながら、このまま自宅へ真っ直ぐ帰るのも何だか勿体ない気がした。

 辺りには学生をターゲットにした居酒屋が沢山あり、いずれも店内に多くの客が居るのが外から伺えた。

 ――明日の面接に向けて、気勢上げに少し飲んでいこうかしら。……私はそんなことを思いつき、近くにあった居酒屋へと入った。


[12]

 ""よってらっしゃいみてらっしゃい""、という些かスベった感のある店名を掲げたその店は、カウンター席と立席と座敷があり、広々としていた。カウンター席と座敷に挟まれる形で立席が幾つか置かれていたのだが、私はその裡のひとつに案内された。

 店は盛況していた。そして客の殆どが、学生と思わしき若い連中だった。私はどことなく場違いな感じもしたが、まあ、酒を呷ればそんな気恥ずかしさも消え去るだろうと楽観した。

 誂えたホッピーセットと数点の肴を口にしながら、私は何の気無しに学生たちの会話を聴いていた。皆、口吻から見た目から何から何まで明るく希望に満ちている様だった。学友たちと楽しい一時を過ごし、その楽しい時間は未来に於いて大変な財産となって彼らを支えるのだろう。

 とつおいつそんなことを考えていると、学生たちと対象的に、友も居らず恋人も居らず、職も無く、希望も未来も無く、独り落莫と呑んで居る自分がひどく惨めに思えた。その惨めさを打ち消そうとして、私は無理があるペースで酒を呑み、さすがに店

員も訝しがるレベルで、大量の酒を注文し、次々に喉へぶち込んでいった。

 ――なぁに、たといえらく酔った処で、2リットルペットの麦茶でも飲んで内臓を洗っちまえば、明日の面接だって問題ねえや。……私は曩に述べた様な糞馬鹿なオプティミズムを炸裂させていた。

 正直言って、この辺りから記憶は曖昧なのである。私は無理な量のアルコールを摂取していた。


[13]

 私は生来の狷介さを抱え、おまけに低能糞馬鹿の分際で異常にプライドが高く、少しでも傷つけられると癇癪を起こす、砂利じみた人間であった。そのくせ愛情乞食的、友情乞食的な側面があり、一度でも優しくされればその人へ纏わり付き、少しでも拒否をされようものなら暴言を吐き、果ては愛想を尽かされ縁を切られるのであった。

 曩時には、私にも友と呼べる存在が居た。ところが畢竟、私の歪み切った性根を因とする、これまた歪み切った言動の所為で、絶縁状を叩きつけられて了たのである。

 そのあらすじだけを述べると、ある日、我が友は結婚した。その報告を受けて私は、何ら嘘偽りの無い心底からの祝福をした。併し、男が家庭を持てば、当然に自分の時間は減る。友はそれまで通りの時間を私に割けなくなった。それが私には気に食わなかった。

 私は生来より度外れに独占欲が強く復、他人様の事情を慮ることをしない、度外れに酷く自己中心的な人間であった。次第に友への憤懣めいた気持ちが身の裡で強まり、復それ以上に、私から友を奪った――と私は思っていた――その奥方に対して、ほぼ殺意に近い感情を抱き始めていた。有り体に言えば、私は奥方に嫉妬していたのだ。

 結句、ある日に催された私と友と奥方、ほか数名を含む酒宴にて、私は奥方に対して罵詈雑言の限りを浴びせて了たのである。友は怒り狂い、これまで私に向けたことの無い恐ろしい目つきで以て睥睨し、これまで私に対して言ったことの無い罵声の数々を吐いた。

 ハナ私は、己が失態と、それによって引き起こされた友の逆鱗に絶望的な身の裡となり、友からの讒謗を無抵抗に受けていた。だがその裡に、最早取返しが付かないのだという開き直りと、元はと言えば友人であるおれを裏切って――と私は思っていた――女に現を抜かした貴様が悪いのだと言う、一切の筋を欠いた逆切れに由って、私は友に対して怒鳴り散らしながら彼の顔面を張り倒すという、腐れ外道としか評しようのない乱行に出たのであった。

 畢竟に、私は友を失ったばかりか、同席していた全員からの顰蹙を買い、また彼らがこの出来事を四方八方で広めたことにより、大変な数の人間から見限られ、その土地に居ることすら出来なくなったのである。

 而して、私は孤独な現況を迎えたのだが、今でもロクな反省をせず、やれ「人生の虚無」だの「人間関係の面倒」だのと求められもせぬ屁理屈のために顎をまわし、所謂、酸っぱい葡萄の理屈で以て、実際、寂しさは塗炭の苦しみでありながらも、自らの孤独を見てみぬフリしていた。

 やはり、私には、なにも無かったのである。


[14]

 さて閑話休題、確か右隣に居た男女2人組の会話が実にスノッブじみたもので、完全に出来上がっていた私には、えらい不愉快なものに感じられた。

 そしてある瞬間、男の方が酒を溢し、それが私の脚に掛かったのである。そいつは、私に液体の一部が引掛かったことに気付かぬ様子だった。同席の女に「ごめん、ごめん」と言い、店員を呼んで布巾を要求し、またぞろ衒学めいた会話を再開した。

 酒をぶっかけられたとは言い条、それは飛沫の裡のホンの少しが掛った程度だったから、男が気付かぬとも仕方が無かった。併しながら、タイミングが最悪だったのである。

 私はハローワーク職員の口撃に由って相当な憤懣が溜まって居た。そして、そもそもが学生というものを蛇蝎視し、嫉妬から来る憎悪を向けていた。糅てて加えて、この居酒屋では己の孤独な現況を自覚させられ、自棄気味の大量飲酒をした挙句に、元からの人文系エリート嫌いを刺激する様なスノビッシュ・トークを聞かされ、果ては唾の混入した飲みかけの酒を脚に引っ掛けられたのである。その上、謝罪は無かった。

 私はひどく侮辱された様に感じた。

「てめえ、バカヤロー、ぶっ殺すぞ!!!」私は怒鳴っていた。

 それに由って周りは静まり返った。あの時の店内の静寂、私はこれを叙しながらそれを思い出し、身顫いする。


[15] 

 酒を溢した男は一瞬キョトンとして、それから、何やら理解らぬが隣の狂人は自分に対して怒っている様だと気付いたらしく、「失礼しました」とペコり、頭を下げた。

 その物理解りの好すぎる態度に、何故だか私はより一層の怒りを生じたのである。これで男が怒り返してくれていれば、根が小心に出来ている私は、直ぐに己が癇癪を詫び、迅速に和平協定を結んでいたかもしれない。

 併し、私の理不尽としか言い様の無い怒りに対して、生意気にも――と私は思っていた――男が変に良識めいた対応をしたがために、私は人としての器という評価軸に於いて、えらい大敗をした気がしたし、自らの怒声に由って生じた店内の静寂が、私の惨めな敗北者としての姿を、多数のオーディエンスが目撃したことを物語っていた。

 その辺りから、元の癇癪に含羞が加わったことで更に気が動転し、また己が怒声に由りパニックの度が増す始末で結句、私は最早、精神異常大錯乱の体で以て、より一層声を張り上げて学生を罵った。

「みくびるなぁぁぁ! おれだってなぁぁぁ、頑張ってるんだよぉぉぉ! 生きてるんだよぉぉぉ! バカヤローぉぉぉ! 魂があるんだよぉぉぉ! 寂しいんだよぉぉぉ! 傷付くんだよぉぉぉ! クソ共がぁぁぁ! おれを大切にしろぉぉぉ! クソヤローぉぉぉ! おれを愛してくれぇぇぇ!」

 暫くすると店主らしき、見た目50程の男が数名の屈強な店員を従えてやって来て、私に向かって何ごとかを大きい声で言った気がする。その辺りが曖昧なのは、恐らくは自らの惨めさを必死で忘れようとする、我が脳の防衛反応なのだと思う。

「あのねえ、おれは若い人たちに楽しんでもらいたいんだよ」ただ曖昧とは言い条、店主が放ったこの台詞はクッキリと記憶している「あんた、いい歳だろ。怒鳴ったりして、自分が情けなくならねえのか? もう出てってくれ」 

 私は学生バイトと思わしき逞しい体躯の店員たちに首根っこを掴まれて――私は「すみませんでしたぁぁぁ、痛いですぅぅぅ、離してくださいぃぃぃ、もうしませんんんん、死んじゃうぅぅぅ」と哭泣していたが、店員たちは一顧だにしなかった――店外へ放り出されたのだった。


[16]

 私が店から追い出される様を、多くの通行人が目撃していた。露骨な嘲りこそ無かったものの、彼らの小声で何かをヒソヒソ言い合ったり、店前でへたり込む私のことを、わざわざ歩みを止めてジッと眺める様子からして、ぶざまなピエロたる私を、内心で面白がっているのは明らかだった。

 ――バカヤロー。なにが ""よってらっしゃいみてらっしゃい"" だ。馬鹿みてえな店名ぶら下げやがって。ロクに店の目利きも出来ねぇ馬鹿学生の御蔭で成り立ってる様な糞店の分際で偉ぶりやがって。てめえらなんぞなぁ、何かの拍子で不幸の坂道を転げ落ちて、糞みてえな状況で野垂れ死ねば好いんだ、バカヤローが。ネットのレビューで最低評価を付けてやるからな、覚悟しとけ、コノヤロー。……なぞと私は身の裡で毒づいたが、見るも無残に店外へ叩き出され、挙句はそのぶざまな一部始終を少なからぬ人間に目撃された以上、蓋しこれはどこまで行っても、敗者の虚しい捨て台詞に過ぎぬのであった。

 あまりにも惨めだった。凄惨過ぎて、言語に絶していた。一目散に逃げ帰ろうかとも思ったが、この惨めさを抱えたまま独り薄汚い室へと戻れば、下手をすればそのまま自殺をして了うかもしれない。そうでなくとも、何かしらでこの惨めさを払拭しなければ、明日の面接を最悪な精神状態で受けなければならない。

 こういう時は淫購だ。私は思った。金さえ払えば、優しさの造花を購められるのである。学生たちの日向的な姿を見せつけられた後に、金に物を言わせて人の温もりを得ようとするのは誠に情けない話ではあったが、私には他に仕様が無かった。

 この辺りは学生街だから、風俗とは言わないまでも、ガールズバーの類すら無い。まだ19時をまわったばかりだった。やれ、少し電車に乗れば繁華街に着く。そこで少しばかり気分転換をすれば好い。明日の面接は9時15分。面接会場である企業は、私の家から1時間程の距離にあった。朝もそれ程、きつくはない。

 ――大丈夫だ、おれは大丈夫だ。改心したんだから。少し躓いただけだ。この程度の失敗は、大丈夫だ。大丈夫なんだ。……なぞと自分に言い聞かせて、私は立ち上がった。

 ようし、挽回をしに往きますか。そう意気込んだ処で、私の記憶は途絶えている。

 

[17]

 どこぞの公衆便所で目が覚めた。私は個室で引っくり返っていた。頭の横に汚い便器があった。起き上がって便器の中を見ると、吐瀉物があった。吐いたらしい。個室の中を見回す。床のタイルには糞がこびり付いている。汚いにも程がある。ちゃんと掃除をしているのか? こんな処で横臥していたのだと思うと、何だか気色悪くなって、またぞろ吐きそうになる。昨晩の記憶が曖昧だ。

 頭痛がした。その痛みの発生と同時であった。私は自らの破滅を直感した。唸りながら腕時計を見る。10時20分。

 携帯を取り出す。ハローワーク、恐らくはあの女職員から、何件もの電話が入っていた。私は茫然としながら、電話を掛け直した。

 男の職員が出た。私が自らの名を告げ、女職員への引継ぎを願うと、何か含みを感じさせる間を置いてから「少々お待ちください」と言って、電話を保留にした。保留中の音楽を聴きながら、やはり私は茫然として居た。

 ぶつり、と保留中の音楽が途切れ、例の女職員が出た。そして何かを言った。私に対する文句、罵詈雑言だということは理解ったが、それは耳に入るだけで脳には届かず、私には内容が伝わらなかった。暫時それを聞き流していたのだが、その裡に、何だか蚊の羽音を延々と聞かされているような鬱陶しさを感じた。

「うるせえ!!! バカヤロー!!!その口閉じねえと、ぶっ殺すぞ!!! 」私は怒鳴った。

「逆切れですか。改心とか言ってたけど、結局は形だけの、ごっこ遊びだったんだね。おぉ、ぶざま、ぶざま」職員は嘲る様に言った「君、死んだ方が好いんじゃないの? 」

「黙れ、腐れ外道のサタンが!!! バカヤロー!!!」私は支離滅裂な一喝をカマし、それでいて何ら反駁も出来ず、怒りに任せて電話を切った。

 そこで気付いた。手の甲に血が付いている。何処かにぶつけたのか? 反対の手を見る。そちらにも血が付いている。両手に傷が出来ていた。ただ血の付き方とその量からして、どうも私以外の血も付いているようだった。誰かを殴ったらしい。返り血だ。喧嘩でもしたか?

 個室から出て、手洗い場で手を洗おうとする。鏡を見た。凝とした。顔面がえらいことになっていた。至る所がドス黒く変色し、これまた至る所が腫れあがっている。まるで化け物だ。

 ――おれは四谷怪談のお岩か? バカヤロー、冗談じゃないぞ。おれはどれ程の暴力を浴びたんだ? おれは一体、何をやらかしたんだ?

 必死になって頭を働かせようとする。喧嘩の勝敗はどうでも好かった。相手が誰かというのが問題だ。悪筋が相手だった場合、後日に襲われるか、拉致をされるかもしれない。記憶がハッキリとせず、漠とした不安が身の裡に生じていた。それに形を与えて多少の安心をしたかった。

 併し、幾ら考えても何ら手がかりは無かった。最早どうしようと詮無い。事は既に起き、過去へと移動してしまった。

 何が起きようと何をされようと、どうせ遠からぬ裡に独り寂しく死んで往く、惨めな個体の錯乱じみたタコ踊りなのだ。

 ――おれが何をして何の結果で死のうと、誰に識れたことではない……。

 そんな開き直りをしながら、鏡に映る己が顔面を眺めていて、違和感があった。何だろう……。少間を考えてから、気付いた。父が居なかった。パチンコ屋のトイレの鏡で息子の生活を悲しんだ父、ハローワークのトイレの鏡で息子の改心と再出発を悦んだ父。その父が、今の私の顔には見当たらなかった。

 父親の面影は消え失せていた。父ですらも愛想を尽かして去って了たのか……。そうとなれば、ここには一匹の屑が居るだけだった。

 ――違う。……私は思った。

 凡てが、理不尽である。何故、自分は今、こんなに辛苦せねばならぬのか。自分が屑だからか? 自業自得か? 違う。凡て、生活上の辛苦、その凡ては謂われ無き迫害である。

 ――おれとて、生まれ落ちた時からだったのではない。曩時からの生活環境が、おれの様な人間を作り上げたのだ。そうと思えば、そうした環境の裡、大きなウエイトを占めている父親にだって責はあるだろう。製造責任、教育責任だ。バカヤロー、何が息子の生活を悲しむ、だ。何が息子の再出発と改心を悦ぶ、だ。他人事めいた態度をとるんじゃねぇ! クソヤロー。父親だけじゃねぇ、おれの周りに居た人間、そいつら全員の責任だろ? 何で、どいつもこいつも責任をとらねぇんだ? バカヤロー。おれは屑にんだ。悪くねぇ。……私は本心、心底から被害者意識を持ち始めていた。

袋小路じゃねえかよぉぉぉ! ぶっ殺すぞぉぉぉ! どいつもこいつもよぉぉぉ! バカヤロぉぉぉ! 」私は號呼した。併し、そのエコーは薄汚い便所の裡に於いて、どこまでも虚しいものであった。無論、レスポンスなぞ無い。

 そして、私は袋小路に入ったのでは無かった。実際は袋小路には居らず、広々とした道路にて、間抜けな屑が、自縄自縛をして喚いているだけだった。元始はじめからそうだったのだ。

 無性に、得も言われぬ寂しさが身の裡より出来し、暫くして、それに耐えられなくなると、私は涙を流し始め、挙句には頽れ、ガキが如くに顔をクシャり、「厭だぁ、厭だぁ……」と独り言ちてから、声を上げて、ぶざまに泣き始めた。

 度外れの低能で、それ故の糞馬鹿オプティミズムを持つ私にも、この現況が、如何なる意味を持つのか、十全に理解出来たのだ。

 私には、なにも無かった。

 本当に、なにも無かった。

 

 屑、屑、屑。

 屑の一語に尽きるのである。

 屑、屑、屑。

 屑の他に評も無い、希望も無い。

 屑、屑、屑なのである。


 屑のつら

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改心ごっこ ぶざますぎる @buzamasugiru

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