気づいた瞬間
蜜柑桜
気づいた瞬間
「ねぇっ! そこ危ないから……ちょっと、待って……」
背伸びしたつま先に当たる面が圧で傾く。椅子の上に積み上げた本は、いくら細身といっても十七になる少女の体重を支えるには覚束ない。
立ち姿勢に一番重要な箇所がこの状態なので、足の裏からじわじわ不安が広がってくるようだ。意識を逸らそうと、少女は伸ばしていた手がさらに上へ届くよう指先へ神経を集中させた。その先では小鳥が巣の中で縮こまっている。怪我をしているらしいのだ。
どうして自分は王宮でこんなことになっているのだろう。図書室と繋がる露台など、行政には関わらないから放っておかれたのか。他の場所で鳥の巣など作り始められていたら、誰かが早めに別のところへ移してあげていただろうに。
恐らく何もなければ少女も気がつかなかったに違いない。たまたま部屋の中に風を入れながら本を読んでいたら、いやに強い風が吹いてきたので閉めようと思ったのだ。そうして外に出たら、心細そうに鳴く鳥の啼き声が耳に入ったのである。
強風のせいか、鳥の巣は実に不安定な格好になっている。さっきのような風が何度も繰り返されたら落ちてしまうかもしれない。咄嗟に思いつくまま、手近にあったものを積み上げてみたのだが。
「もう、ちょっと、座高、高いのを使うべきだったかな」
高い棚の本を取る踏み台の上に椅子を置き、その上に分厚い辞典を五冊ほど重ねてみたのだが、それでも露台の上に設けられた屋根も少女の頭の遥かに上にある。王宮だからって室内の天井がやたら高いせいだと、少女は自分の住居の無駄な豪華さを呪った。
先程から一時も休まず足裏が揺れ続ける。腕と連動して首も可能な限り伸ばしているせいか喉もひくついてきた。
しかし正直、下を見たくない。
――こんなこと……前にもあったわね。
体を端から支配していく痺れが現状に対する思考を鈍らせ、逆に遠い過去を探り始める。あれはいつだったか。
小鳥は巣の中でいまにも飛び出せる姿勢になり、こちらをじっと見ている。少女の救済を頼るか頼らざるか迷っているようだった。怪我といっても全く動けないわけではないらしい。それが分かって、少女の中にも活力が蘇る。
もう少しで指が巣に届きそうだ。あとわずかだけ背伸びが出来れば。
少女は足先の神経に意識を集中し、親指の腹に力を込めた。勢いづいて上体が持ち上がり、中指の先端が巣の壁を突く。
その弾みに小鳥が巣から転げ出て少女の手が柔らかな羽毛の感触を覚えた。
「やたっ」――そう叫んだのとほぼ同時か。
急に体の角度が変わった。足が辞典の上を滑り、軽い摩擦の刺激が走った直後に支点を失う。
「きゃ……」
傾いだ身体が空気抵抗を覚えた瞬間、記憶の奥にあった感覚が鮮烈に蘇る。
いまと似たように春の暖かな日で、でもあの時は城の庭に生えた樫の木の下で。
***
「ラピス様! だから言ったのに!」
下からいまにも泣き出しそうな従者の叫びが聞こえてくるのだが、少女――ラピスは首も動かせなかった。目の前では枝の上で子猫が怯えた目をして硬直している。きっといまの自分も同じような表情をしているのだろう。
「だってクエルクスが言ったんじゃないのぉ。この子が『降りられない』って言ってるって」
「僕は脚立か何か探してくるから待つようにと!」
そう言われてもラピスには木登りくらい簡単に思えたし、実際、十歳の小さい体では木の枝も大して揺れずにするする昇ってこられたのだ。
まさか――まさか高い枝がこんなに不安定で、降りるのがこんなに難しくて怖いなどとは思わなかった。
木の周りを右往左往している少年の黒髪が視界の端に入る。ただ、脚立どころか踏み台も見えない。近場になくて引き返して来たのか。少年の背丈もラピスと大して変わらないのだし、要するに現状、八方塞がりである。
「クエル……」
下瞼に熱いものを感じたら、視界が滲んだ。立っている枝に足の裏が半分も触っていないのに、掴めるものも手近に無い。ぐらつきを防ぐためには幹に上半身をぴったりつけるしかない。ただ、これでは手が伸ばせず、子猫を助けてやれない。
「いま誰か呼んできますから、しっかり掴まっててくださいね!」
従者の言葉はどこか遠いところにあるようで、ラピスの耳にまともに入って来なかった。幹に当てた手のひらは汗ばんでくるし、膝もずっと緊張させていて今にもしゃがみ込んでしまいそうなのだ。
こんなに怖い想いをするなら、せめて猫だけでも助かってくれないと怖がり損になってしまう。
「ね、ちょっとだけ、頑張ってみない? こっちに飛び移れる?」
なんとか引き攣った笑顔を作って呼びかけてみる。ラピスの気持ちが通じたのか、微動だにしなかった子猫が、前足をつつ、とずらした。
「うん、いい子ね、その調子で、こっちおいで」
ごわついた木の肌からそっと右手を離し、猫の方へ差し出す。それに勇気づけられたのか、猫が枝の上を一歩後退したと思った次のとき、小さい体がラピス目掛けて飛翔した――しかし。
「うそっ」と叫んだのは自分か。猫の跳躍で木枝が揺れ、幹についたラピスの左手が滑り、猫が胸にぶつかったと思った瞬間、ラピスの体が宙に浮いた。
***
「ラピス様っ!」
記憶の中の叫びと重なってよく知る声が耳に飛び込んでくる。同時に若葉をつけ始めた木々が目に入った。背中に浮遊感を覚えたのは一瞬。ラピスは目を瞑り視界から全てを遮断した。
「もうあなたは……何をなさっているんです」
鼓膜に妙な圧がかかり、次に聞いたのはドサバサと落ちる紙の音と重たいものが床を打つ鈍い響き。そして一呼吸の後に呆れた声がすぐ上から降ってきた。
派手な音が起きたのとは対照的に、強い衝撃は皆無だった。代わりにラピスが感じたのは、自分の体を抱くがしりとした何かと温かな体温。
「どこか怪我は? 立てますか」
瞑ってしまった瞼を開けると、自分の手が自分のものではない黒い布地の上に当てられ、触れたところから規則的な振動が伝わってくる。
まだよく働かない思考のまま顔を上げてみたら、黒鳶色の瞳と目が合った。
「大丈夫ですか? どこか痛みが……」
至近距離にある顔に不安が浮かぶ。その表情はよく知るものだったのだが。
「ラピス様?」
いま全身に触れている感覚は。体を包み込む安定感は。
「クエル」
こんなの知らない。
七年前のあの時は違った。この黒髪の従者は落ちてきたラピスと猫にぶつかって、もろとも草むらの上で無様に転がったのだった。すぐさま大人たちが駆けつけ、あちこち作った傷の手当てをしてもらっている間じゅう、揃って宰相に散々怒られたのである。でも今はどうだ。
「……ひどいわ」
「なんです?」
こんな従者は知らない。後ろに倒れもせず、自分の身をしっかりと支えている体は昔の彼とは違う。ラピスと大して変わらぬ細い腕と、ラピスの下敷きになったあの時の薄い胴はどこにいったのか。
指先からくる振動音より、自分の鼓動が大きくなってくる。自分を見下ろすほど、いつの間に背まで伸びてしまったのか。
「ずるいわ」
「は?」
一番よく知る人間のはずなのに、全く知らない人を前にしているみたいだ。
「だって……クエルだけこんなっ……」
恥ずかしさと悔しさがないまぜになる。どうしてこんなに変わってしまったのか。なぜか怒りすら覚え、ラピスは従者の胸に当てた手に力を入れた。
「男の人みたいにかっこよくなってるんだものっ」
しかし吐き出すように言った直後、ラピスの上体が再び大きく揺れた。
「うきゃあ」と情けなく叫んだ時には、クエルクスと不安定な格好で床に崩れていた。
「ちょっとなんでいきなり……」
落下直後にはなかった鈍い痛みに耐えつつ身を起こすと、なんとか上体を起こした従者が手のひらで顔を覆っている。そして指の隙間から除いた口から、大仰なため息が吐き出された。
「クエル? だいじょうぶ? ごめん、もしかして怪我とか」
あまりに長く同じ姿勢で息を吐かれるものだから流石に心配になったラピスだが、クエルクスはいやいやと首を振った。しかし手はいまだに顔に当てられたままである。
「あなたって人は……またもう……いきなりそういうことを、言うから……」
「どういうことよ」
むくれて詰問しても、やはりため息が返ってくるだけである。
昔はなんでも答えてくれたと思ったのに、一体この従者はどうしてしまったのだろう。知らない間に体だけでなく心も別の人になってしまったのだろうか。
なぜこんなに自分の気持ちが落ち着かないのか、理由もわからずますます混乱する。広げた手だって自分の手よりも妙に大きくて、繋いで走った頃とは違って見える。
無事に降り立った小鳥が二人を見比べ首を傾げ、小さく鳴いた。
上空に雲が棚引き、風に揺れる木の葉がさわさわと優しく鳴る。ラピスは身動きしない従者を放って立ち上がり、小鳥をそっと撫でてやった。
従者が目一杯広げた手のひらで隠した顔が真っ赤になっていたことに、ラピスは気づいていなかった。
――完
こちらは長編ファンタジー「楽園の果実」のスピンオフになります。
https://kakuyomu.jp/users/Mican-Sakura/collections/16816452219399474161
二人の波瀾万丈(?)の冒険は本編でどうぞ。
気づいた瞬間 蜜柑桜 @Mican-Sakura
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