プロローグ

「いやあ、いいものだねえ」

「何がです?マスター」

 早朝の清清しいほど白く爽やかな日差しが差し込む、淡い色の壁紙に覆われた、上品な内装が施された部屋の中で。

 一冊の本を開いて、悦に入ったような声を上げる若い娘に、気のない声で男が尋ねる。

「これだよ、これ」


 そう言って、若い娘は手にしていた本の表紙を男に見せる。

 若い娘は、ようやく少女の域を脱したばかりに見える。

 深みのある紅茶のような色の長い髪を簡素に結い上げ、髪の色が鮮やかに引きたつ明るい水色のドレスに身を包んでいる。

 上品に整った小作りの顔の中で、悪戯好きの猫のように輝く明るい褐色の瞳が、男をまっすぐに見据える。


 若い娘も、女性にしては背が高いが男の方はさらに背が高い。

 細身の長身をラウンジスーツに身を包み、短くまとめられた癖のない黒髪に囲まれた中高の顔はそっけないほどの無表情をたたえている。切れ長の目の中に宿る蒼い瞳が無表情に本のタイトルと著者名を眺める。


「なんですそれ……。ええと『緑の柳と日本昔話』。著者はグレイ・ジェイムズ……。また、新しい本を仕入れたんですか?」

「そう!そうなんだよ。極東の島国の御伽噺を集めた本なんだ!今年出たばかりの本なんだ!」


 褐色の瞳を楽しそうに煌めかせてしゃべる娘に、男はため息をついた。

 先ほど、『マスター』と呼んだことから、この男女は一種の主従関係にあるらしいが、その割には男の態度は恭しさに欠けており、娘の方もそれを咎めようともしない。


「その本の何がそんなにお気に召したんです?」

「全部さ!」

 胸をはって言う娘に、男は辟易したような様子をにじませて再度ため息をついた。


「でもその中でも特にお気に入りの部分があるんだ!」

 相手の様子を気にせず、少年のような口調でしゃべりながら娘は本をめくって男に見せる。

「ほら、これを見たまえ!」

 男は辟易とした感情を視線にもにじませつつ、それでも娘がめくった本を見る。

「……これは?」


 娘が見せたのは、挿絵が描かれたページだった。

 無数の石ころが転がる荒涼とした平野の中で。

東洋風の薄紅色の衣装をまとい、黒い髪を結いあげた若く美しい娘が、二つに割れた岩の中から現れている。

 そして娘の視線の先には、黒い服を纏う禿頭の男が座り込んでおり、絵の中央にはアザミの花が数輪咲いている。

 けぶるように淡く、優しい色合いで描かれた、幻想的で異国風の雰囲気が漂う独特の挿絵だ。


 遠い異国の御伽噺のワンシーンを描いたそれを男はしげしげと眺める。


「『狐の姫、玉藻の前』……。日本の御伽噺ですか」

「そう、そうなんだよ!」


 満面に喜色を浮かべて娘が語る、極東の島国の御伽噺の内容を聞きながら男は適当に相槌を打つ。

「随分お気に召したんですね、その物語が」

「そりゃあもう、曇りなき玉のような美貌と博識なんて、私の所にきてほしかったと思う位さ」

「マスターは権力者ではありませんし、そもそも男性でもありませんから来てはくれないと思いますが」

「……そういえば、そうだった」

 がっくりと肩を落とす娘の姿を眺め

(前々から思っていたけれど、実はこの人ただのアホなのでは)

 などと、男は主人への尊敬とは縁もゆかりもない思いを抱く。

「……君、今すごく失敬な事を考えただろう。何となく分かるぞ」

「いいえ、そんな滅相もない」

 白々しくも慇懃無礼な口調で答える男に、娘はしばしじっとりとした視線を注いでいたが。


「まあ、それはさておきそろそろお店を始めようか」

「はい」

 気持ちを即座に切り替えて溌溂とした笑顔を取り戻した娘に、男は頷いた。



 20世紀初頭の、英国の静かな田舎町に佇む、自分達の店を男は眺める。

『魔女の貸本屋』

 看板に刻まれた、貸本屋の名を眺めながら男は

「今更ですが……」

「なんだい?」

「そのまま過ぎると思いませんか?」

「シンプルな名前が一番さ。それに今じゃ……1910年の英国では、魔女なんて実在しないと思われている。だからそのままでもいいのさ」

 飄然とした口調で言い放つと、娘は男を見つめる。

「それより、君。口調には気を付けてくれよ。表向きは君が店主で、私の亭主という設定なんだから」

「口調に気を付けるなら、貴方もでしょう。そもそも、なんでそんな設定にしたんです?」

「表向きは、妻帯者の男性の方が店主としては体裁がいいからね。少なくとも、使い魔を連れている魔女よりは」


 しかめっ面で問いかける男に対して、悪戯っぽい笑みを含んだ声で答える。

「……まあそうでしょうね」

(少なくとも、若い夫婦のうち妻の方は実は魔女で、夫の方は人間に化けているだけの使い魔ですなんて信じる人間なんて、今の時代にはいないか)

 などと男が考えているうちに娘は店に入り、上品なレースが施された白いエプロンを水色のドレスの上から身につける。


 店内はさほど広くはないが、狭くもない。きちんと整理整頓され、本棚に並べられた無数の本。部屋を隙なく覆う淡い象牙色の壁紙に、部屋の片隅にさりげなく飾られた花。派手ではないが上品な内装が、落ち着いた雰囲気を醸し出している。

 店内を軽く掃除しながら、来客を待っているとほどなくドアベルが軽やかな音を立てる。


「いらっしゃいませ」

 先ほどまで男に向けていた少年のような口調とは打って変わって、娘は丁寧な口調で挨拶して、上品な微笑を来客に向ける。

「こんにちは!」

 幼く甲高い声で挨拶がされる。

 親より一足早く来店した、明るい水色のドレスの上に白いエプロンを重ねた、小綺麗で可愛らしい服装の、10歳にも満たぬ幼い子供。金髪の愛らしい少女は、きちんと挨拶をしつつも店内にずらりと並ぶ本を見て小さな顔を輝かせている。

 遅れて入ってきた両親も挨拶をしてくる。この親子はなじみの客だ。


 常連客は、さほど少なくない。かのチャールズ・エドワード・ミューディーが始めた大手貸本屋のような高額な会費もないことから、それなりに人気だ。

 時には本にさほど興味はなく、若い夫婦だけで営む貸本屋を珍しがって訪れるだけの野次馬もいる。

 夫婦ともに若く、容姿が端麗なことも野次馬が集まりやすい理由の一つだろう。

 中には

「アンタらみたいに、若い二人だけでやっていけてるのかい?」

 などとじろじろと眺めながら尋ねてくるぶしつけな連中もいるにはいるが、表向きは店主兼亭主の男が

(仕事の邪魔するならどっかよそに行けよ、暇な野次馬どもが)

 などと毒づきたくなるのをぐっと堪えて

「おかげさまで、何とかやっております」

 と愛想のよい笑顔を作りながら軽くあしらうと、程なく去っていく。


「ねえ、最近はどんな本が入ってきたの?」

 と大きな碧眼を輝かせながら問いかける少女に対して、娘はどんな本を紹介しようか悩む。

(数年前は、ビアトリクス・ポターという女性が書いた『ピーターラビットのおはなし』やケイト・グリーナウェイの絵本を読み聞かせてきたが、今はどんな本を紹介すべきか……やはり、最近出たばかりの『緑の柳と日本昔話』にするか……いや、まてよ?)

 何度か店に訪れることで分かった、目の前の少女の嗜好を考える。


 彼女はややおませな子で、彼女の年齢ではまだ難しそうな本を好む癖があった。

 1893年に一度終了したものの、1903年に再開したシャーロック・ホームズシリーズを読み聞かせてほしいと頼まれた時は、驚いた。

 人死にが出る話を聞かせて大丈夫かと思い保護者に尋ねてみたが、両親は苦笑交じりに了承を出してくれたので、なるべく子供にも理解できるようにかみ砕いた説明を交えながら、読み聞かせたものだ。

 そんなことを思い出していた脳裏に、ふと一冊の本のことが浮かんだ。


「ああ、ちょっと待っていてくださいね」

「マ……いや、何を紹介する気なんだ。子供に向かない本はやめてくれよ」

「ええ、分かっています。あなた」


 ついいつもの呼称が口をついて出かけ、慌てて若い夫としての口調で話す男に、娘はにっこりと笑いかけて、若い妻の口調で答える。


「どんな本?」

 娘が抱えている銀の装飾が散らされた黒い表紙の本を見て、少女が問いかける。

 (彼女は今、数年前に読み聞かせしていた本を自力で読めるようになったが、まだこの本を読むことはできないだろうな)

 と思う。

 この少女はまだ自分で読めない本でも、この店内で娘に紹介されて読み聞かせてもらい、気に入った本は、家で両親にも読み聞かせてもらう。その時間を心から大切にしているのが分かる。


「怖くて悲しい、フェアリー・テイルですよ」

「フェアリー・テイル?」

 と小首をかしげる幼い客に、娘は頷く。

「読みましょうか?」

「うん!」

 迷いなく頷く幼い客に対して、娘は優しい笑みを向ける。

「いつもすみません」

「いえいえ。私が好きでやっていることですので」

 苦笑交じりに軽く詫びる両親に首を振り、朗々とよく響く声で唄うように告げる。


 「昔々……と言えるほど昔ではありませんが、一匹の妖精の話を始めましょう。

 え?妖精なんてかわいらしい存在だから、怖くもなんともない?とんでもない。

 『妖精』といえば、昆虫のような羽をはやした、小さくてかわいらしい少女の姿を思い浮かべる少女の姿を思い浮かべる人も多いでしょう。

 ですが、かわいらしいどころか、奇怪で不気味な姿をしたものや、人をさらうもの、時には人を食らうものもいるのです。

 それでは始めましょう」

 

 そう言って魔女はページを開き、読み聞かせを始めた。

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