第1話
19世紀も末の頃、ある静かなところに古めかしくも壮麗な屋敷に住まう一家がいた。
その家の一人娘は体が弱く中々外に出られないのもあって、友達を作ることができず。だが、不思議と寂しがる様子もない。
時折、親も使用人もいない一人っきりの部屋で、楽しそうにしゃべり、楽しそうな笑い声を上げるのだ。
ええ、そうね、ありがとう。
くすくす、くすくす、と。
まるで家の中に棲む、人以外の何かと仲良くしているかのように。
「誰としゃべっているのかしら」
「薄気味の悪い子」
親も使用人も、眉をひそめて異質なものを見る目で、ひそひそささやいた。
娘が話していた相手は、ホブゴブリンだ。
ホブゴブリンとは家事妖精、あるいは家憑き妖精(ハウスホールド・フェアリース)と呼ばれる存在の一種だ。
茶色の襤褸を纏った小柄なブラウニーや、絹のドレスを纏った女性の姿で現れるシルキーのように、家事を手伝ってくれる妖精である。
ただし、悪戯や悪ふざけが大好きで、時折片付いているはずの部屋をわざと散らかしたりもする。
妖精は普通の人には見えないだが、その家の一人娘は見えていたらしい。
上半身は毛むくじゃらの小柄な若い男だが、下半身はヤギ、そして頭にもヤギのごとき二本の角がはえた姿を。
「いつも、ありがとう」
ある夜、音をたてぬよう静かに掃除をしていたホブゴブリンに、娘は声をかけた。
シルキーのように美しいわけではなく、ドイツのコボルトのように醜いわけでもない、どこか奇妙な愛嬌のある姿をまっすぐに見つめて。
その瞳は、菫の花弁のような青みを帯びた深い紫色だった。
びくり、と一瞬震え。
「僕が見えるの?」
おそるおそるホブゴブリンは問いかける。
「ええ、見えるわ」
彼女は微笑み
「私と少し、おしゃべりしてくれる?」
「……」
しばし、迷い沈黙するホブゴブリン。
何せ、こんなことは生まれて初めてだったからだ。
昔は、妖精を見たり感じたりする人間もたまにいたが、不用意に声をかける者はいない。まして今や、妖精はおとぎ話の中にしかいないと信じられている時代だ。
「……うん、いいよ」
ためらいがちに返事をすると、娘の顔はぱっと輝く。
娘は十代前半ほど。あまり日差しを浴びていないせいか、蝋でこしらえたように青白い顔。
それを囲む髪も色素が乏しく、銀色に近い。あまりに色が白すぎるせいか、病的で弱々しい姿に見える。
それが今は、花がほころぶように、瑞々しくも明るい笑みに満ちている。
蝋のように青白かった頬を、嬉しそうにほのかに赤く染めながら。
それを目にした時、ホブゴブリンは奇妙な感覚を覚えた。
春の日差しを浴びたように、身体がほんのりと心地よい、淡い熱に包まれていく感覚。
この感覚は何だろう、とホブゴブリンは疑問に思った。
娘は体が弱く、一日のほとんどを部屋の中で本を読んで過ごした。
マザーグースや、『赤ずきん』や『長靴をはいた猫』などの話を集めたシャルル・ペローの童話集、『ラプンツェル』『ヘンゼルとグレーテル』などのドイツの昔話を集めたグリム童話集などの子供向けの本も多かったが、シャーロット・ブロンテの『ジェーン・エア』やチャールズ・ジョン・ハファム・ディケンズの『クリスマス・キャロル』、ジョゼフ・ラドヤード・キップリング の『ジャングル・ブック』やエドガー・アラン・ポーの詩集や『モルグ街の殺人』等もあった。
時々、ホブゴブリンにそれらを読み聞かせをしてくれることもあった。
特にお気に入りなのは、ルイス・キャロルの『不思議の国のアリス』と『鏡の国のアリス』らしい。
「何故?」
とホブゴブリンが尋ねると、
「お話が面白いのもあるけど……そうね、主人公の名前が私と同じだからかな」
と娘ははにかむような笑顔で答えた。
「そういえば、貴方の名前は?」
娘……アリスから問われてホブゴブリンは
「ないよ」
と率直に答えた。
「え……名前がないの?どうして?」
「必要がないから。妖精は普通の人に認識されることはないし、妖精同士で群れたりすることはほとんどないから」
「そう」
とアリスは呟き、しばし考えこむ。
「だったら、私があなたの名前をつけてもいい?」
「え?」
思いもよらなかった提案を聞いて、ホブゴブリンは目を丸くする。
「……ダメ?」
しばらく無言でいると、アリスは表情を雲らせて問いかける。
それがなんだか嫌で、ホブゴブリンは返事をした。
「いいよ」
とたんに、曇っていた表情が晴れやかに輝く。
菫色の瞳が、気恥ずかしくも嬉しそうな笑みに細められる。
「じゃあ、貴方の名前はね……」
あれから、どれほどの時がたったのだろう。
そうホブゴブリンは思いながら部屋の中で座り込む。
待っているからだ、アリスのことを。
名前を付けてもらって、部屋の中で楽しく遊んで。
しばらくたって、珍しく体調がよかった日に、思い切って外へ出てみると言って、アリスは、外へ出た。
もちろん、親の了承は得たし、使用人と一緒だ。それでも心配で、ホブゴブリンはこっそり後を追う。と言っても、アリス以外の人間には見えていないが。
その日は良く晴れていた。
空は勿忘草色の花弁を溶かしたように、淡く優しい色合いの青に彩られていた。
地は柔らかな萌葱色の絨毯に覆われ、そこかしこに薄紅や薄青や淡い紫色、明るい黄色や橙色の花を咲かせていた。
瑞々しくも鮮やかな彩りに満ちた、のどかで美しい光景だった。
アリスは、しばらく外の空気と景色を楽しみながら散歩していたところ、いきなり子供から石を投げられた。
曰く、彼女の蝋のように白い肌と、銀に近いほど色素の薄い髪、珍しい紫色の瞳が薄気味悪く感じられ、御伽噺の魔女のように見えたのだそうだ。
石を投げた子供は、まもなく顔を青ざめさせた家族と共に謝罪に訪れた。
最も本気で謝っている様子はなく、親に激しく叱られて仕方なくやっている様子だったが。
アリスはしばらくふさぎこみ、部屋の中で過ごしていた。石をぶつけられた右腕は、きちんと治療が施されている。
「気にすることないよ。僕は君を初めて見た時、綺麗な子だと思ったよ」
ホブゴブリンがそう言うと、アリスは淡く笑みを見せ
「ありがとう。体が治ったら今度はあなたと二人で遊びに行きましょうね」
だがアリスは怪我が治ったら、熱を出し始めた。
元々虚弱な体質ではあったが、ここまで激しい熱は初めてだ。
ホブゴブリンが慌てふためいていると、使用人たちが医者を呼んだ。見知らぬ人が大量に出入りすることに、ホブゴブリンは怯え、彼女の部屋をいったん離れた。
ほかの部屋や廊下を掃除しながら、彼女はいつ良くなるのだろうと考えた。
庭の草むしりもやろうといったん外へ出ると、菫の花を見かけた。うっすらと青みを帯びた紫色の花弁を纏ってひそやかに佇む花。その色を見ていると、やはりアリスの瞳の色に似ているなと思った。一本だけ摘み取り、アリスに見せようと思った。
だが部屋に戻ると、彼女はベッドに横たわって瞼を閉じていた。
両親が顔をゆがめて、目から水滴をこぼしている。
うめく様な声も出しているにも関わらず、彼女は目を覚ます様子がない。
よほど深く眠っているのだなと思っていると、使用人たちがあわただしく動いている。
彼らが何をやっているのか、ホブゴブリンには分からなかったが、気が付くと、アリスは大きな箱の中に入れられていた。
大きくな長方形の、黒光りする箱。その中に入れられたアリスはやはり身じろぎ一つせず、眠り続けている。
彼女を入れた後、その箱は土の中に埋められ始める。
何をやっているんだ、とホブゴブリンは慌てるが、両親も使用人も止めようとしない。
彼らは何をやっているのだろう、とホブゴブリンは呆然と思った。
いや、理性では理解していた。だが、アリスと接しているうちに芽生えた何かが、その理解を受け入れることを拒んでいた。
だから、理性に蓋をしてしまいこみ、ひたすら呆然としていた。
しばらくは、家事の手伝いも悪戯もせず、呆然と過ごしていた。
どのくらい、時間がたったのか分からない。
だが、気づけば屋敷の中は誰もいない。
アリスの両親も、使用人たちも。
住まう人たちの活気が欠け落ちた、墓場のように虚ろな静寂が屋敷の中を満たしていた。
「ねえ、ずっとここにいないで、どこか別の家を探したら?貴方がどんなに家事を手伝ったり悪戯をしたりしても、それに喜んだり驚いたりしてくれる人たちは、もういなくなってしまったのよ」
呆然としていると、どこかの妖精がふわりと現れて言った。
おそらくはシルキーだろう。若く美しい人間の女のような姿をしている。ほっそりした身体を上等そうな絹の白いドレスに包み、長い金髪をまっすぐに垂らしている。
返事もせずにいると、その妖精は憐れむように目を伏せて去っていく。
もういない。
「そんなはずはない」
気づけば、否定の言葉が口をついて出た。
そんなはずはない。だって、彼女は言ったんだ。
「体が治ったら今度はあなたと二人で遊びに行きましょうね」
と。
だったら、彼女は戻ってきてくれる。その約束を果たしに。
その日のために、家の中を綺麗にしなくちゃ。
そう思って、急いでがらんどうの屋敷を掃除し始めた。
家の中は埃一つ残らぬよう、綺麗に掃いて拭き清めた。
それにしても、どうして家具がほとんど残っていないのだろう、とホブゴブリンは疑問に思った。
食料や飲み物に至っては全くない。これでは、アリスがまた戻ってきたときに困るだろう。
「仕方ない。調達してこよう」
そう言ってホブゴブリンは家を出た。
周りの風景は、燃えるような茜色の光に満たされている。どうやら、夕暮れ時らしい。
木々が纏う緑も。咲き誇る野の花が纏う白や紫、青も。
すべてが濃い紅茶のように、色鮮やかだが透明感のある茜色に染まっている。
一枚の風景画のように美しい光景だ。
やがて漂い始めた蒼い薄闇と茜色の光が溶け合い混ざり合い、菫の花の如き紫が空を染めていく。アリスの瞳のような色だ。
これをアリスと一緒に見ることができればよかったのに。
そんなことを思いながら、ホブゴブリンがぼんやりと周りの光景を眺めていると、ふと目に入ったのは、人間の姿。
素朴な田園風景の中で、何人が遊びまわっている子供たちがいる。
「あれ、あいつは……」
その中の一人に見覚えがあった。
確か、アリスに石をぶつけた少年だ。赤みがかった茶色の髪と、灰色の瞳。
屋敷に謝りに来た時に見たから間違いない。
ひょっとして、あの悪ガキのせいでアリスはいまだに家に帰ってこれないのだろうか。
ホブゴブリンはそう思った。
「だったら」
気づけば身体が動いていた。少年の細い腕をひっつかみ、ねじ伏せる。
少年は悲鳴を上げるが、こちらの様子は見えていないようだ。
恐怖と狼狽、焦燥が入り混じり歪む顔。それがなんだか滑稽に見えて、ホブゴブリンはつい笑ってしまった。
周りの少年たちが、訝しそうに見ている。やがて、何人かが助け起こそうとするが邪魔だ。
その少年たちもまとめてねじ伏せて。それから……
その後の記憶が、ホブゴブリンには無い。気づけば、少年たちの姿はどこにもなく、とっぷりと日が暮れていた。
少年たちの姿はどこにも無い。おそらく怯えて逃げ帰ったのだろう。
そう思って、ホブゴブリンは一度家に帰ることにした。食料の調達は明日にしよう。
そう思って踵を返すホブゴブリンは、地面にわだかまる赤黒い泥濘のような『何か』に気づくことはなかった。
近所で行方不明になった子供たちがいる。
それを聞いても、少年は大して気にしなかった。行方不明になった子供たちはいじめっ子たちの集まりで、彼自身もよくいじめられたからだ。
「ざまあみろ」
大人が聞けばたしなめられるような感想を、口に出しながら、少年は気の合う友人数人と、探検ごっこに出かけていた。
目的地は、誰も住んでいない屋敷。
かつては裕福な一家が住んでいたらしいが、一人娘が死んでからは、両親は屋敷を手放し、使用人たちとどこかへ引っ越してしまったらしい。
買い手は誰もおらず、廃墟と化している。
そこへこっそりと忍び込む。
もちろんやってはいけないことだと、理解はしている。
だがやってはいけないことほど、強い誘惑と興奮が伴うものだ。
数日前に下見で訪れた時、表玄関はしっかりと施錠されていたが、裏口の方は、何故かされていない。不用心だと思いつつも、自分たちの冒険にはうってつけだと喜んだ。
「あれ?」
だが、その屋敷に実際に足を踏み入れると、その喜びと興奮は薄らいだ。
屋敷の中は、塵一つ、埃一つ、転がっていないのだ。
まるで、今も誰かが毎日欠かすことなく掃除しているように、清潔そのものだ。
「なあ、なんでこんなにきれいなんだろう?」
「さあ?」
訝しく思いつつも、歩みは止めない。
仲間たちとおしゃべりしつつあちこちを見て回る。どの部屋もきれいに掃除されている。
「あれ、一人足りなくないか?」
言われて、慌てて顔ぶれを確かめると、確かに一人足りない。
もしや、置き去りにしてしまったのかもしれないと前の部屋に戻る。
「あれ?」
部屋に戻っても、いなくなった少年はいない。
その代わり、窓の近くにカーテンがつけてあった。
「さっき、来た時、こんなのあったか?」
「い、いや、なかったと思うけど」
答える少年の声と顔が、若干引きつっている。とにかく、この部屋にはいないようだ。別の部屋を探そうと踵を返すが
「あ……」
小さな声を聞きとがめ、振り返る。
仲間の一人が、カーテンに引きずり込まれていく。
否、正確にはカーテンから伸びる腕に。
人間の腕ではない。なぜなら、どす黒い毛並みに覆われ、鋭利な爪を備えていたから。
理解が追い付かず呆然とする間に、仲間はカーテンの中に引きづりこまれ
「あっ……あがあああっ! 」
悲鳴が上がった。
と同時に、じゃぐり。ぐちゃぐちゃ。ぐちゃぐちゃ。ごくり。
と何か音がした。何かを歯で引きちぎり、よく咀嚼して、喉の奥へ飲み込み、流し込む音。
悲鳴はなおも続く。
いや、もはや悲鳴と言うよりただの音に近い。
苦痛と恐怖に耐えきれず、精神が歪み崩れて壊れていく音。
肉体と共に精神が無惨に破壊されていく音は、どんとんかすれてか細くなっていく。
やがてそれが途絶えて、室内を時が止まったような静寂が塗りつぶしていく。
静寂に意識を凍らせたように何も考えられず、一人残った少年はその場で立ち尽くしていた。
やがて――思い出したように、カーテンがもぞりと動き中にいる『何か』がはい出てこようとする。
「ひっ! 」
背筋を、研いだ刃物でするりとなでられるような悪寒が走る。
氷漬けにされたように動かぬ肉体と精神の硬直が解け、一人残った少年はようやくこの場から一刻も早く逃げ出そうと、ドアへ向かって駆け出す。
がしり、と足首をつかまれて転倒する。
「あっ! 」
起き上がることもできず、視線だけを後ろに転ずると、先ほど目にした毛むくじゃらの腕が足首をとらえていた。
「あ……」
もはや、悲鳴すら出せぬ少年の前に姿を現した腕の主は、ゆっくりと口を開ける。
鉄さびめいた異臭が漂う、赤黒い洞窟のような大きな口内に、少年の身体が引きずり込まれていった。
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