沼らせ男と沼らせ女の古典的というか古代的ラブストーリー
@2321umoyukaku_2319
第1話
部族の成人男性全員による投票の結果は有罪だったが、被告人の沼らせ男は絶望しなかった。
自分を支持する女性層が判決を覆してくれると信じていたからだ。
沼らせ男が属する古代の部族は特殊な形式の二審制裁判を採用している。
沼らせ男と沼らせ女のラブストーリーに関わるので、この部族社会の裁判について簡単に触れておく。
まず成人男性全員が有罪か無罪か、どちらかの一票を投票することから裁判が始まる。多い方が評決となるのだ。同数の場合は決着するまで投票が繰り返される。そのうち投票用の葉っぱ二種類(大小二枚)が破れることがあるけれど、森の中なので補充は容易だ。発酵した果実酒を飲みながら投票が続くので、最後には全員が酔っ払い、誰も葉っぱを数えられなくなったら無罪という素朴なルールもある。
成人男性による裁判が終わると、その評決を受けて成人女性全員による裁判が行われる。こちらは投票ではなく話し合いで、出席した成人女性全員が同じ意見になるまで、延々と井戸端会議が続く。腹を減らした子供が泣き喚いて話が続けられなくなる頃が評決の潮時だ。
成人女性全員による裁判も男性と同じ評決を出したら、それが最終的な判決だ。異なった場合は女性裁判の評決が優先される。この部族は女性上位なのだ。
沼らせ男は、これに賭けていた。
部族の女性全員が自分の味方だと彼は思い込んでいる。成人であろうと未成年であろうとも未婚者だろうが人妻だろうが構わず、美醜なんてことも一切お構いなしに、いつもやさしい言葉をかけ続けてきたのだ。ちやほやされた女たちは皆、とても喜んでいた。沼らせ男の甘いセリフは、どんな女でも美しき
しかし沼らせ男は考えが甘すぎた。女性陣による裁判の評決も有罪だった。しかも懲罰が格段と重くなっていた。男性裁判の罰は彼に部族の野営地から離れた場所での寝泊まりを命じるだけだったが、女性裁判では群れからの永久追放である。
鋭い爪も牙も無い類人猿の沼らせ男にとって、狂暴な肉食獣の暮らす森の中での単身生活は死を意味した。
どうして自分が、こんな酷い目に遭わないといけないのか……と、沼らせ男はオイオイ泣いた。
彼を告発したのは女房に言い寄らせた亭主たち数名だった――が、それ以外にも彼を憎悪する人間が多くいた。熟れた果実の如く甘い囁きで女心を散々かき乱しておきながら、女がいざ真剣な関係になろうとするとのらりくらりと交わす優柔不断な沼らせ男を、殺したいほど憎む女性たちだ。彼女たちがいる限り無罪放免はありえなかった。その一方、永久追放は当然のようにありえた。
そんなこんな書いているうちに、追放の日が来た。近くに留まっていると投石されるので仲間の群れから離れる。自分を愛してくれる女が一緒に来てくれるのではないかと期待したが、誰も後を追ってこない。とても悲しくなり川の縁に座って泣きじゃくっていたら、ワニに襲われた。必死に逃げる。何とか逃げ延びた沼らせ男は自分が<沼>の近くにいると気付く。
気が付いた瞬間、完全な直立歩行に至っていない膝頭が震えた。
この<沼>に近づいてはならないとする言い伝えが部族にあったためである。
その理由は分からないけれど、禁忌事項を破ると大抵の場合は災いが来ることを知るだけの頭脳を、類人猿の沼らせ男は持っている。恐ろしい肉食獣の住処あるいは、死をもたらす
引き返そう。そう思って振り返りかけたとき、視界の端に二つの膨らみが見えた。どうしようもなく惹き付けられ、そちらに顔を向ける。女の乳房があった。乳房だけではなく、女の素肌も見えた。体毛が生えていないから、地肌が覗いている。類人猿の女は毛むくじゃらが普通だ。肌が見えるのは普通ではない。顔も群れの女たちとは違った。笑顔が最高に素敵なのだ。沼らせ男は釣られて思わず微笑み返しをする。
仲間の女とは違う。何者だろう? と彼は思った……と書いたが、その頭が考え事をした時間は短い。見慣れぬ女の、見慣れぬ体が、沼らせ男を強く刺激した。女が微笑み、彼を手招きする。女が立っているのは<沼>の対岸だから水辺に添って歩くのだ――と理性は命じたが、そこは類人猿のことなので、直線的な行動を促す本能の指示に従い沼らせ男は異臭を漂わせる濁った<沼>へ飛び込んだ。
速攻で後悔する。泥水は臭く、しかも粘々していて、泳ぎにくいなんてものじゃなかった。このままでは溺れ死ぬ! と彼は思った。引き返そうとする。そのときである。<沼>の対岸に立つ全裸の女が、剥き出しの乳房を両手で揉みしだいて叫ぶ。
「私が欲しくないの? 私は、あなたが欲しい! お願い、早く来て! そして私を、思いっきり抱き締めて!」
それなら、おまえがこっちへ来たらいいだろ――とは、類人猿でも人類でも男ならまず言えない。沼らせ男は、底の見えない<沼>の対岸で自分を待つ沼らせ女に、もはや心を奪われてしまった。死ぬ気で<沼>を泳ぎ渡る。疲れ切って対岸に上がると、女はいない。彼は岸辺に膝を突いた。体力の限界に達している彼を、激しい嘔気が襲う。何度も何度も嘔吐する。そのうち彼は自らの吐瀉物の中に突っ伏して倒れ、そのまま意識を失った。目覚めたら、顔の上に女の乳房がぶら下がっていた。自分が女の膝枕で寝ていることに気付くまで、結構な時間が必要だった。女に言われるまで、自分の体毛のほとんどが抜けてしまっていることに気付かなかった。
「ちょ、ちょっと、これ、なに? どういうこと? この話って、沼らせ男と沼らせ女のラブストーリーじゃないの? なんで脱毛の話になっているんだ?」
そんな沼らせ男のすべすべした頬を指先で撫でながら、沼らせ女は言った。
「甘い言葉で男の心を奪い、時に天性の自由奔放さで男を振り回すものの、なぜか憎めない女、それが私」
「いや、そんな話を聞いているんじゃない。どうして<沼>から出たら具合が悪くなって毛が抜けたかって質問をしてんの」
「いやねえ、頭の毛はフサフサだって。それに、脇の下の毛もボーボー。胸毛もすね毛もあるし、ここも」
沼らせ女は手を伸ばした。その手に大事なところを握り潰されそうになって、沼らせ男は「ぎゃっ!」と悲鳴を上げた。
「あら、ごめんなさい。私って、天性の自由奔放女だから」
そして沼らせ女は男を優しくマッサージした。
「あなたは大胆な女を、どう思う? 好きな男になら、何だってするの。それに何だって許してあげる。でも、そういうのが嫌いな男もいるよね。あなたは、どちら?」
男の目の上にユラユラ揺れる脂肪の膨らみを垂らしながら、そのセリフである。
限度があるだろ――とは、類人猿でも人類でも男なら(以下略)。
なんやかんやあって、いつしか沼らせ男は体毛の無い生活に慣れた。体毛があるとノミやシラミを取るための毛づくろいで一日中が終わる。空いた時間で沼らせ女と沼らせ男の夫婦は幾つかの武器や便利な道具を作った。石器や木の槍そしてブーメランといった武器は小型の動物の狩猟に役立つのは勿論のこと大型の肉食獣から身を守るのにも重宝した。植物を編んで作った籠は植物を採集する際に有効だった。沼らせ男の毛をほとんど失わせた<沼>の腐敗した水の底から採取した泥炭は素晴らしい燃料となった。乾燥させた泥炭を燃料にすることによって、火起こしの方法を習得していなかった二人は野火を保存することが可能となり、その火で食材の加熱が簡便になると食物の種類が一気に増えた。栄養状態が良くなった沼らせ男は、かつて属していた部族の男たちより逞しくなった。この体格で部族に戻ったら、女たちが放っておかないだろう。だが彼は沼らせ女以外の女に興味が無くなっていた。ある日、彼は沼らせ女に聞いてみた。
「おまえが好きだ。心の底から愛している。これからも、ずっと愛し続ける。おまえはどうだ? 俺をずっと愛してくれるか? そして出来ることなら、俺の子供を宿して欲しい」
「好きよ。でも……私は、あなたとずっと一緒にいられないの」
沼らせ男が受けた衝撃は、部族を追放されたときのそれを遥かに凌駕した。
「どうしてだ! どうして俺を捨てるんだ!」
沼らせ女は、自分は人類を進化させる女神だと名乗り、寂しげに微笑んだ。
「あなたは、この時代の類人猿として十分な進化を遂げたわ。私は、別の時代へ行って、他の人類の先祖を進化させないといけないの?」
「なにを言っているんだ? おまえは、なにを言っているんだよ……」
「ごめんなさい。それが私の使命なの。そして、あなたにも使命があるわ。いい、私の言うことをよく聞いてね」
自分を追放した部族に戻り、仲間を<沼>へ引き連れてくる。<沼>の水で体毛を無くした仲間を、毛皮の無い生活に慣れさせる。
「そこまでやれば、それであなたの使命は終わるわ」
そう言うと、沼らせ女の体が半透明になった。
「ちょ、ちょっと待ってよ! なんで急に体が消えかかっているんだよ!」
「あなたたちの子孫がすっかり毛皮を無くし、汗をかきやすい体質になった頃、地球の乾燥化が始まる。この森は消えるのよ。楽園を追放されたあなたたちの子孫は乾燥したサバンナで生きていかなければならなくなるわ。私は、あなたたちの子孫にサバンナで生き抜くサバイバル術を教えに行く。あなたの子供の、そのまた子供の、その子供くらいかしら……私の子供じゃないのが、本当に悲しい。本当につらい。どうか、それだけは分かって」
「聞いていることに答えろよ! 俺たちは愛し合っているんだろう!」
「愛し合っていても、別れなきゃならないことがあるの。お願い、私を許して。もう時間が無いわ。さようなら」
そう言い残して沼らせ女は消えた。沼らせ男は
沼らせ男と沼らせ女の古典的というか古代的ラブストーリー @2321umoyukaku_2319
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます